..



I have filled it up.
But it was not a treasure by any means. You shoot for a rainbow a far-off distance.
Why do you look for such a thing? You may cry and be hurt.


「わかりました」
 机に取り付けられた照明装置には、数枚のレントゲン写真が差し込まれ、右肩の骨と、それに巣食った病魔の黒い影が、ひっそりと浮かび上がっていた。小さな個室には弁慶と、女と、写真の被写体である少年しかいない。弁慶の背後からは、カーテンによってやわらげられた午前の光が、まるで恩寵のように室内を照らしていた。
 弁慶の言葉に、女は弾かれたように顔を上げた。若干やつれている頬のラインと、誤魔化しきれない隈の影が、両眼の下に落ちていた。鬼気迫る母親の横で、最も事の当事者である子供だけが、どことなく寄る辺ない風情を醸し出している。微かに緊張した趣きで、丸椅子にちょこんと腰掛け、彼は弁慶のことを仰ぎ見た。それに小さく笑みを返して、弁慶は女に視線を戻す。
「紹介状を書きましょう。フランスに留学をしていた信頼のおける方です」
 彼は安心させるための言葉を紡ぐと、カルテにその旨を書き込む。座ったまま腰を折り曲げて深く陳謝する母親に、弁慶は「気にすることはありませんよ」と、その点に関してのみ軽い口調で言った。彼女の求めたことは、普及されていないというだけで正当な権利だった。
 窓の外から、小さく鳥の鳴き声が届いた。ほんの数週間前、この親子が初めて弁慶のもとへ訪れたときには、いまだ日本に渡って来ていなかった夏鳥の歌声だ。全身検査のために子供が入院してから三日後、初めて姿を見せた小鳥は、今が盛りと喉を震わせている。弁慶は、レントゲン写真を照らしているシャウカステンの蛍光灯を落とすと、病理組織の診断書を手に取った。すでに幾度となく読み直した内容で、文面に何の変化があるわけでもないのだが、彼とて確認することをやめられなかったのだ。無機質なものたちが明示する病の全貌は、子供の身体が抱えるとするなら、無慈悲以外の何者でもなかった。
 子供の指がすっと伸びて、弁慶の白衣の裾を取った。行動は子供らしい無作法なものであるのに、引っ張る仕草が遠慮がちで、彼も戸惑っているのだと知れた。弁慶は少年の手を取ると、微笑むことで先を促す。主治医の見慣れた表情に後押しされ、子供はやっと両肩から力を抜いた。椅子の座高が合っておらず、彼のつま先は、床表面から僅かに浮いていた。
「先生が、診てくれるんじゃないの?」
 不思議そうに瞬く少年の眼には、弁慶に向ける十分な愛着があった。簡単な語彙での説明とはいえ、手術をするのだということは彼も分かっていたはずであるから、変化した状況に不安を覚えたのだろう。少年は、落ち着きなさげに足を揺らすと、弁慶の親指と人差し指を握る。小さな手のひらは温かく、その肌の下に凶暴な疾患を抱えているなどというのは、悪い冗談にも聞こえた。
 そらされない眼差しに答え、弁慶は前かがみになると、?まれていない方の手で、子供の指を覆った。そして、ゆっくりと噛んで含める。
「僕だけの考えだと、本当に、君の身体にとって一番いいことなのかどうか、わからないでしょう? だから、違う人にも、君の病気を診察してもらうんです」
「……そうなの?」
 その問は、彼の母親に向けられたものだ。母親はぎこちなく笑みを浮かべ、「そうよ」と答えると、一人息子の背中を撫でた。子供に対する愛情だけで疲労感を抑えつけているのだろう女の姿に、弁慶の眼が痛ましげな色を宿す。親子は短く会話を交わす。そして、子供は一つ頷くと、母親の腰に抱きついた。
 様子を見守っていた弁慶に、患者と、患者の家族が向き直った。
「新しい先生は、僕よりもずっと優しいですよ。怖がることはありません」
 子供にしてみれば、弁慶とて十分優しかったのだが、彼の言葉はまるで催眠術かのように、少年の心を安心感で満たした。元々、それを意図したものであったから、少年が笑顔を浮かべると、彼は視線を上げ母親を見る。事務的な説明は数多くあった。しかし、重要なことは一つだった。
「ただ、なるべく早く診察を受けてください。もし、また全身検査をするとなれば、どうしても時間が掛かります」
 細胞が若ければ若いほど、この病気の進行は早い。
 何度も頷く姿が哀れで、二人が診察室から出て行った後も、弁慶は暫く気重な感情を振り払うことができなかった。彼は、誰もいない個室に小さなため息を一つ残すと、椅子から立ち上がった。



「ついて来なさい」
 常に言葉数の少ない彼女の「先生」は、望美をそういって呼び寄せた。
 特に珍しいことではなかった。彼は教育熱心な人物であったし、望美も学習意欲の高い生徒である。システム上の、指導担当と補佐という期間を脱しても、二人の関係は教師とその教え子であり続けており、一部で囁かれている「手塩にかけて」という表現は、二人を表わす実に的を射た言葉であった。
「はい、先生」
 彼女は一つ頷き、まとめたばかりであるリハビリの中間報告をクリップで留める。ついで、机の引き出しにそれを納めると、いささか慌ただしく立ち上がった。
「急がなくて良い。ちゃんとファイリングしなさい」
 開いた扉を支えながら、淡々とした調子で男が言う。ちなみに、彼は怒っているわけでも叱っているわけでもない。制止をかけられ、望美は言葉通り、資料の形に報告書を綴じ直した。そして、にっこりと微笑んで師を仰ぎ見る。率直に表される敬愛を受け、男も目元を和らげた。
 彼は、つい先ほど運動室からスタッフルームへ戻ったばかりで、対して、望美は報告書を作成してしまえば休憩時間であった。彼女の時間に合わせられたのは明白で、そういった気遣いの一つ一つが、気付いた望美にとってこそばゆい。
 室外に出ると、男は左右に伸びる廊下のうち、右の方角へ真っ直ぐに進んだ。望美もそれに従い、暫く前進する。病棟二階、ほぼ中心に、二台のエレベーターが設置されており、またその目の前にナースセンターがあった。ガラス張りの窓口の中に、親友の姿を見つけて、望美は小さく手を振る。自身へ向けられている視線に気付いたのか、朔も頭を上げ周囲を見回すと、壁一枚隔てて歩き去っていく望美へ笑い返した。
 ナースセンターを通り過ぎると、途端に人影も疎らになる。特殊病室や診察室が並ぶからで、一般の入院患者にはほとんど用向きがないのだ。診察室といっても、来院棟にあるような代物ではない。長期入院やリハビリテーション科への通院など、治療過程の確認に使われる小さなものである。六つほど並んだそれらのうちの一室に、男は望美を招き入れた。
「先生、遅ぇよ」
 唐突であったので、望美は若干驚いた。かけられた声に、不機嫌の色が滲んでいたのも原因の一つだった。室内の丸椅子に、彼女にとって見慣れない青年が一人座っている。白い看護服をまとっており、病院関係者だということは知れたが、それ以上のことは読み取れなかった。彼は足を組み、突いていた頬杖を戻しながら、微かに目を眇めて望美たちを見ていた。
「すまなかった」
 詰る台詞に対して、少々薄すぎるリアクションだ。青年の後ろには診療台があり、もう二つ丸椅子が並んでいる。その内の一つを手に、男は望美へ振り返ると「座りなさい」と促した。そういった反応を心得ているのか、青年は「おい」と調子だけは低く声を発する。そして、ため息をつくと、首を左右にゆるく振った。最初の文句は、彼にしてみれば挨拶のようなものらしい。
 青年は、望美の様子をほんの一瞬観察すると、そのまま興味をなくしたように男の方へ茶封筒を差し出した。彼の目的はそれだけであったから、早々に立ち上がり、室外へと向かう。
「まあいいや。どうせ、ついでみたいなもんだったしさ」
 ぶっきらぼうな口振りだが、全体的に刺々しさはなかった。彼は、彼自身の頭部に右手をやり、前髪をかき上げた。使い走りのようなことをさせられて、ほんの少し面白くなかっただけなのだろう。
 望美の横を通り過ぎると、青年は比較的丁寧に扉を開いた。思わず見送ってしまい、彼女は、受け取った茶封筒の中身を照明装置に差し込んでいる師に問いかける。診察机の前に置かれた先の丸椅子に腰掛け、望美はすでに閉じられたドアを振り返った。
「先生、今の人は?」
「診療放射線技師だ」
「えっ」
 望美の瞳の中で、驚きと好奇心という光が踊る。
 喜色を含んだ声に視線をやり、彼女の輝いた双眸を見つけると、男は苦笑の代わりのように眦を緩めた。
 診療放射線技師というのは、多くの場合、レントゲン技師という名称で知られている。彼らは、画像を使う検査のほとんどにおいて、専門的知識を持つ技術者だ。実際の管轄はX線に止まらず、CT検査や核医学検査も領分の一つに含まれる。とどのつまり、放射線の強弱、種類といったものを幅広く扱える資格取得者というのが正しい。X線を用いることが許可されているのは、放射線技師のほかには医師と歯科医師しかおらず、特殊性という点において、彼は望美の興味を多いに引いた。
「今度、見かけたら話しかけてみなさい」
 彼は空になった茶封筒を机の脇に寄せると、先ほどまで青年が座っていた椅子に腰を下ろした。言葉を受け、望美は閉じた膝の上に両手を重ねると、大きく頷く。その途端、愛娘でも相手にするかのような眼差しを向けられ、彼女は自身が子供っぽい仕草をしたことに今更気付いた。事実、夕食の席の団欒めいた空気が流れていたのだが、望美にとって意図したものではなかっただけに、彼女は気恥ずかしさを覚えた。
 シャウカステンの電源が入れられる。写真はレントゲンとCT検査の断面図で、全面にびっしりと写し出されている。日付は新しい。十日も経ってはいなかった。
 すっと、男の眼差しが細められる。場に、一本の琴の糸が張られたのだ。それはきりきりと引き絞られていて、望美が弾いても、男が弾いても高い音を奏でる。
「これは、二周間前から検査入院している弁慶の患者だ」
「藤原先生の……」
「見なさい」
 彼は万年筆を取り出すと、そのキャップの部分でレントゲン写真を指してみせた。真っ黒な背景の中に、右脚の大腿から膝下まで、骨が写り込んでいた。白く映し出された影はある程度の太さを持ち、少なくとも、成人のそれであることがわかる。
 望美が呼吸を止めた。明らかに、そぐわない部位があった。彼女の緊張を見て取り、男は高低のない静かな声音で問う。
「思った通りに、病名を言ってみなさい」
 写真の中、膝の関節部分が奇妙なほどに出っ張っていた。それは、骨と同じように真っ白な色で浮かび上がっている。しかし、まるで膝の骨を食い破ろうとするかのように膨れており、多分、実際の患者の足は、骨折をしたときのように熱を持って腫れているだろう。
 腫瘍だった。骨から出る肉腫はユーイング肉腫、軟骨肉腫などがあげられるが、骨を形成しているというのならば骨肉腫という種類にあたる。それら良性・悪性の判断は、望美にはまだ、写真だけで下すことができない。しかし、患者の右脚の細胞は、確かに正常の機能を失っている。
「……骨腫瘍です」
「そう。これは骨肉腫だ」
 望美の表情が翳った。
 骨の組織が壊れているのであるから、病的骨折を起こさなかった分、それは不幸中の幸いであったかもしれない。しかし、どちらにしろ写真から推察できるのは、病の進行がすでに十分進んでいるということである。骨肉腫は、腫瘍が成長し周囲を圧迫し始めて、ようやっと痛みが表出する。であるから、多くの場合、発見が遅れるのだ。
 そもそも、腫瘍というものがなぜできるのかといえば、それは細胞の問題である。細胞は、人間の身体の中で常に生まれ、そして死んでいくが、それらは遺伝子という設計図によって、どのような形を取りどのような機能を果たすか決められている。しかし、周囲と調和の取れない異常細胞が発生すると、それらは一つに固まり周囲を押し広げ、悪性であれば血液やリンパの流れに乗って転移を起こしてしまう。骨肉腫は悪性腫瘍である。そして、この患者の場合、肉腫の発生した場所が悪い。
 骨肉腫における治療は、現在、手術と化学療法によっている。腫瘍に侵された骨は摘出しなければならず、このとき、細胞が患部付近に散らばっていることを危惧して、周囲の筋肉も同じく取り除く必要がある。骨という器官は、そのすぐ傍を血管や神経が通っていることが多い。加えて、手足に繋がる血流は体内の中でも数が少なく、ほぼ関節下部に発症した今回のような腫瘍を手術するとなると、十中八九、そこから下へ向かう血の流れが障害を起こし、壊死するだろう。では、どうするのか。
「術後の担当療法士として、私とお前を含む三人が、作業を分担することになる」
 男は、僅かに椅子を回転させ、断面図の方へ視線を動かす。そこにはレントゲン写真よりもなお複雑に、患者の体内が写っている。彼は、内臓への転移はないと、望美のことを慰めるように言った。
 望美は再度、凄惨なレントゲン写真を、僅かに眉根を寄せ凝視した。「術後」というのは、つまり切断後ということだ。骨肉腫の成長スピードは速く、二週間から四週間で倍の大きさになった症例もあり、転移先は骨のみならず肺や肝臓など内臓が含まれる。悪性腫瘍の恐ろしさは転移だ。
「先生」
 微かに躊躇うように、彼女はそう呼びかけたまま、口を噤んだ。望美の柳眉は眉間に深い皴を作り出していて、逡巡する唇が噛み締められる。そのまま視線を落としてしまった望美を、彼女の師は暫くの間見つめた。
 診察室の小さな窓を通して、午後の光が望美のことを暖めていた。白いカーテンの向こうでは、僅かに涼しくなった空気に誘われ、時折、トンボが飛行術を披露していた。細長く透明な翅の震えに呼応でもしたのか、上空はもう秋風を吹かせている。窓ガラスに触れれば、それは覚めるように冷たい。
「言ってみなさい」
 望美の中の色々な感情が、一度小さな治まりを見せた頃を見計らって、男が促す。望美は細い指先を握りこみ、そしてほどくと、真っ直ぐに視線を上げた。
「切断するしか、ないと思うんです」
「私も同じ意見だ」
「早く。転移する前に早く切断手術をしなくちゃ、内蔵にまで広がってしまいますっ」
 転移というのは、すぐに発症するとは限らない。二年もの潜伏期間を経て、摘出手術の繰り返しが起こることもある。また、化学療法を併用しても、約四割から三割の存率であるのが現実で、それを理解していればこそ、腫瘍への対策は時間が惜しいのだ。病名がはっきりと明示されているにも関わらず、いまだ手術の行われない現在の状況は、患者の首を絞めているのも同然だった。
 望美の見解は正しい。僅かに身を乗り出して訴える教え子の姿に、彼もまた頷いて同意を示す。入院当初から、すでに大きく育っていた腫瘍を見れば、明日にでも手術に踏み切りたいのはこの場にいない弁慶とて同じだろう。
 しかし、それを決定できるのは、彼女らではないのである。
「少し落ち着きなさい」
 力んだ肩を抑えられ、望美は一度身を震わせると、前のめりになっていた背筋を伸ばした。彼女の頬は僅かに紅潮しており、視線は男から反れた下方に向けられた。彼女の抱えるその感情は、ある意味で癇癪のようなものに過ぎなかった。だからこそ、まるで甘えてばかりの自身を、望美は疎み、恥じた。
 切断をするということは、義手や義足といった人工的手足を必要とするということだ。加えて、切断後の患者に掛かるストレスや精神的圧迫は強く、幻肢痛や薬による副作用も十分想定されるべきであり、短慮に決定していい物事ではない。何より、それ以上に現実的な問題として、金銭面というものがある。義足というのは決して安くはないのだ。社会保険や障害者手帳の申請によって、いくらかの援助は行われるが、さしあたっての工面は当人と家族に重く圧し掛かる。
 目の前にあり、触れることのできる片足を失うということに加え、それら無視のできない障害へと目を向けてみれば、患者が切断手術に対して尻込みをするのも、十分理解できることだった。
「手術の決定権は患者にある。私たちは患者に対する提示と説明、そして説得の義務はあるが、強制することはできない。術後の患者の生活をなるべく早く以前の社会レベルに戻すこと。それが仕事だ」
 常の通りに、望美を教え導くための、厳しくも優しい言葉だった。男はシャウカステンの電源を落とすと、写真を茶封筒へ戻していく。望美が俯いていた頭を持ち上げ、そして謝罪を口にした。すると、彼はゆっくり頭を振り、再び口を開く。
「だが、そのために知らなければいけないこと、学んでおくべきことは、山ほどあるだろう」
 肩を落とし、小さく頷く彼女の姿に、男の双眸が細められた。彼の声音はさらに穏やかなものになり、目を合わせた望美へ、微かに笑んでみせる。
「お前の道は、まだ遠い」
「はい」
 一語一語が望美の中に入り込み、そして重みを持った。
「よく、考えてみなさい」
「……はい」
 与えられた言葉を飲み込み、望美はやっと、ほんの少しだけ笑い返すことが出来た。

next.
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