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You grasped my hand, and you start running and looking back.
"That is all right. You can arrive even a rainbow."
You fly up away.


 薄い黄土色に染まった広葉樹の葉が一枚、望美の足元を通り過ぎていった。十日に一度程度の割合であった肌寒い朝は、その間隔を段々と狭めており、日に日に空が遠くなる。中庭の景色はゆっくりと、しかし確実に秋の気配を含み始めていた。もうしばらくもすれば、彼女は休憩時間の過ごし場所を、どこか室内に移さなければならなくなるだろう。望美の髪を揺らす風は僅かに冷たく、悪戯に木々と遊ぶ。
 それだけ、時間が過ぎているということだった。トンボの姿は、もう珍しいものでもなんでもなく、反対に、残暑という言葉の響きが、まるで乾いた空気に触れて枯れてしまったかのように遠退いているのだ。
 望美は小さくため息を吐いた。紙パックのココアを一口含み、彼女は手に持つプリントを睨みつける。義足パーツの一覧だった。
 義肢というのは、各自の寸法に合わせて作られる完全なオーダーメードだ。実際の手足の代わりとなるように意図されたものなのだから、それは当たり前のことだろう。患者当人や、装具士といわれる専門家と、逐一機能・素材を吟味し、段々と設計図を起こしていく。例えば、義手の中には、装飾用義手や作業用義手といわれるものがある。前者は完全に五指を象っていて、遠目には作り物とわからない。反対に、後者はクレーンタイプからフックタイプまで、用途別に種々様々だ。切断位置での補助具も異なるから、自然、綿密な打ち合わせが必要となる。
 弁慶と帰途についた晩から、数日と時を置かず、望美は患者本人と対面する機会を得た。術後のリハビリテーションと義足の説明に関して、須釜のベッド脇へと呼ばれたのだ。須釜は四十代も半ばの男性で、望美の父親と同年代である。黒髪には僅かな霜が降りており、目じりや口元の皴が、歳若い彼女に愛想よく笑った。
 義肢の装着には、患者本人が考えるよりも、長い時間をかけなければいけない。まず、断端は放っておくと膨れて広がってしまうから、人為的に先端が丸くなるよう整えてやる必要がある。その間に、利き足の訓練をし、残存肢の感覚過敏など、術後の諸問題を鎮め、ようやっと、一月から三月、仮義足での練習を行う。だが、化学療法中は義肢の訓練も休む必要があるので、どうしても上達は遅れがちとなるのが普通だ。
 こういった多くの事実は、患者が把握すべき重要な点であるのだが、それによって、義肢への期待感まで萎んでしまうことがあった。望美にとっての懸念事項はそれであり、しかも、若干心配したとおりの結果となってしまっていることが、彼女を焦らせていた。
 木製のベンチの背もたれへ、望美は体重を預けた。ついで、瞼を閉じる。暗闇になった彼女の視界の中で、残像がちかちかと好き勝手に瞬いた。
「こんにちは」
 この声の主に、思えば望美はもう随分慣れてしまった。彼女が閉じていた瞳を開けると、弁慶は、僅かに眉根を寄せて、望美のことを見ていた。白衣の裾が小さくはためく。望美は、なぜ弁慶が表情を曇らせるのかわからず、小さく首を傾げた。
「藤原先生」
 返事をしながら、望美がほんの十数センチ、ベンチの中を横へ移動する。彼も心得たもので「失礼します」と一声かけると、彼女の隣に腰を下ろした。品のいい男は、依然、まるで腹立たしい思いでもしているのかのように、もしくは哀しそうに望美を見つめて、両手の指を絡め握った。
「顔色が悪いですよ」
「え、そんなことありません」
「そこを否定されても……」
 望美の小さい面には、うっすらと隈のあとがある。秋風に吹かれ、少しずつ、彼女の体温は奪われたのだろう。いつもならばうっすらとほの赤い頬は、病的とはいえないまでも、血色を失っていた。方向性を間違えた否定は愛らしかったが、弁慶は一つ苦笑を零すと、それ以上のことを口にしなかった。
 譲歩したような男の態度に、望美は一瞬黙り込んだ。そして左隣へと視線を上げると、微かに笑って言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます」
「はい?」
「心配してもらったんですよね? 私」
 「だから」と続け、望美は無邪気に笑んだ。弁慶は、ほんの少し驚いてしまって、望美のことをまじまじと見つめ返すと、やはり微笑を浮かべた。
 望美が、須釜との会話の機会を持ったということを、彼の担当医である弁慶が知らないはずはなかった。弁慶の意図のありかは、望美にもわかっている。彼は、結果が芳しくなかったのだということを、わざわざ確かめるような趣味の悪い男ではない。
 問題は、つまるところ資金面にあったのだ。
 義肢が、なぜ高値であるのかといえば、それは関節部位が精巧な作りをしているからである。特に、義足ならば膝の部分だけで、百万から二百万の値が張るのだ。膝の関節は、足首といったほかの部分に比べて、格段に関節運動が多く、また歩くときの歩幅調整やクッションの役割など、機能性も高い。
 膝腫瘍であれば、大腿での切断となるから、義足はほぼ片足分必要となる。患者の年齢を考慮に入れるなら、望美は推奨する義足の機能を落とすわけにはいかないのだ。程度を下げた簡易の義肢では、仕事や私生活に支障を来たすのが、目に見えている。
「保険や、保障制度を使っても、苦しいことには変わりないって言われました」
「お子さんがいらっしゃるようですからね。検査入院をお願いしたときも、まずは入院費を聞かれましたよ」
 弁慶の言葉に覇気がなかった。珍しいことだ。慈善事業に近くあらねばならない医療機関が、患者に金銭の苦痛を強いるというのは、やはり彼にとっても不本意極まりなかったからだった。
 三ヶ月近い入院期間と、転移検査や義足訓練のための通院を続けては、働くこともままならない。そうなれば、とてもではないが、家計が回らないという話だった。患者の三人の子供は、全員がいまだ学生である。須釜にとって、疎かにできる話題ではないだろう。しかし、だからといって望美たちも、これ以上手をこまねくわけにはいかなかった。状況は切迫していて、それであるのに、皆進退窮まっている。
「須釜さん、ほんの少しですけど、諦めたような顔をしてました」
 彼女の小さな言葉は、弁慶だけでなく、言った本人の望美にすら鋭い爪を立てた。
 精神的なバックアップを必要とするのは、病を抱えた多くの患者すべてにいえることである。大きな疾患や、闘病が苦しくなることを担当医が見越した場合、精神科医とタッグを組ませる病院も存在する。患者が弱気になるというのは、それだけ厄介なことだった。先端の医療を取り入れている場所で、いまだ「病は気から」などといわれるのは、そのためである。悪性腫瘍の発覚と切断手術という矢継ぎ早に与えられた圧迫感が、患者の中で膨れ上がりすぎているのだ。
 医師や看護婦といった医療関係者は、微笑まないといけない。それは、コミュニケーションの役割のほかにも、一つの暗示めいた効果がある。患者の前で顔を伏せてもいけないし、諦観を覗かせた相手には、殊更気を使う必要があった。それが、最終的には、医師と患者の間の信頼感につながる。
 有り体に言えば、今、須釜は望美や弁慶のことを、いまひとつ信用していないのだろう。多分、中身を広げればもっと複雑な作りをしているだろうそれは、しかし答えだけ取り出すならそういうことだった。
 彼は、弁慶の口から、違う言葉が聞かされることを期待している。わかっていながら、それでも弁慶に応えることはできない。須釜の足は切断しなければならず、そうなれば、義足が必要なのだ。それは変わらない事実だった。だが、患者はそれを突きつけられるたびに絶望する。悪循環だ。
 弁慶の秀異な頭脳は、そのことをちゃんと理解している。言い方をどんなに変えようと、弁慶の提示する手術と術後の対策は、須釜の意に適うものにはなりえないのだ。彼の思考は正常で、当を得ていた。しかし、そうであればこそ、その正常さにきりきりと食い込むものは、苦悩や焦心であったはずだ。弁慶の整った面差しには変化ない。生来の気質としても、彼はそんなに感情表現が豊かなわけではなかったし、職業柄それに磨きが掛かった。それでも確実に、彼の受ける辛苦は和らぐことなく、突き刺さっている。
 弁慶は、常の通りであるその苦痛を静かに飲み込んだ。ふと、彼が見るともなしに病棟へ目をやると、そこは太陽に温められている。飴蜜を溶かし込んだような、金色の陽射しだった。それは、中庭に入り込み、壁のみならず、木々や、歩道に吸収され、柔らかな色を広げている。彼の横で、望美が僅かに顔を上げた。なんてことはない仕草だったが、場に充満していた空気を動かすものであったから、まるで違和感のような雰囲気を持った。
 彼女は、その眼差しをひたと前方に向ける。望美の視線は、暗鬱さよりも不可解、不理解よりも疑問をより多く含む。二人の職員が、白い野バラを囲んでいた。初夏の頃、見事に花開いたそれは、今は沈黙し冬に備えている。
「あれ、何をしてるんでしょう」
「接ぎ木ですね」
 弁慶は望美の視線を追い、そして彼女と同じものを見つけると、そう返した。視力の問題で、決して詳細が窺えたわけではなかったが、バラの木を僅かに掘り返し、その根元で作業をしているというのは彼にもわかった。
「接ぎ木って、木を伐らなくてもできるんだ」
 望美は、小さく驚いた声を上げる。そして、それをじっと見つめた。
 樹皮を浅く開いて、そこに異なる品種の芽を挿し込んでいるのだ。芽接ぎといわれる手法である。一般的に知られている接ぎ木は切り接ぎといわれ、林檎や桃の木といった果樹に用いられることが多い。望美が知っていたのもこちらだ。切り接ぎは、根となる台木を根元近くで横断し、皮部と材質の間へ接ぎ穂の枝を挿して固定する。切り継ぎ手法も、ボタンやバラに使われるが、芽接ぎの方が早くに花を楽しめる可能性が高く、また容易である。白バラの苗はすでにいくつか中庭に点在しているから、違う色を増やすつもりなのだろう。
 彼女の何が、そんなにも接ぎ木を興味深くさせるのか、弁慶にはよくわからなかった。望美の瞳は、芽接ぎの作業を見ているというよりも、むしろ思案気で、加えて表情にも特筆するような色がない。弁慶が、怪訝に思ったまま、望美へと声をかけようとしたときだ。望美が、唐突に立ち上がった。
「先生っ、須釜さんの足首を調べましょう!」
 弁慶は、当たり前のことながら目を丸くした。ベンチでなければ、多分望美は立ち上がった勢いで、椅子を後方に倒していた。急な展開に、さすがについていけなかった弁慶の手を望美が握った。彼女は、まるで子供のように彼の右手を引っ張ると、弁慶を立たせようと必死である。
 いまだ座ったままの彼を覗き込んだ望美の瞳は、秋の陽光を受けたように照りきらめいていた。彼女は笑い、彼の手を捉えて離さない。
「ちょっ……待ってください、どうしたんですか?」
 今にも走り出しそうな望美の手を、弁慶はやんわりと抑えて押し止める。ぐいぐいと掴まれ、すっかり彼女の右手に取られてしまった片腕を、弁慶が僅かに引き寄せると、望美は、今度は両手での手を奪った。そして、ひどく興奮した声色で、まるで叫ぶように言う。
「足首の関節を、膝関節の代わりにするんですっ」
 突拍子もなかった。ついでにいえば、言葉も足りない。
 しかし、一瞬の驚愕が通り過ぎると、弁慶の思考回路は、望美の意図したことを正確に読み取った。そして首肯を返す。彼女のそれは、この上ない妙案だ。
 もし、足首関節部位から腫瘍細胞の反応が見られないのなら、切断した大腿に移植をすることができる。つまり、脹脛から下の足部を、前後逆にして断端部分と繋げあわせるのだ。足首は、膝関節よりも関節運動領域が狭い。しかし、歩行や椅子に腰掛けるという動作ならば、十分に可能となる。切り接ぎだった。少なくとも、義肢は下腿義足だけですむだろう。加えて、神経や血管は患者自身の足首に繋げ直す形になるから、自分で動かすという感覚を失わずにいられる。
 弁慶がベンチから立ち上がると、望美は今度こそ彼の手を引いて、小走りのようなスピードで病棟へと向かった。彼女は、幼子と同じ懸命さで、弁慶の手をしっかりと取っている。
 望美の表情を彩る笑みが、陽射しを受けた蜂蜜のように、金色と透明に輝いた。それは、きらきらと美しく、弁慶にはひどく眩しい。いつだって、望美は弁慶にとって、眩しいものでできている。

 再度の病理組織診断の結果を待って、患者への提案は迅速になされた。時間に関していえば、まったく余裕はなかったし、これ以上の選択の余地も、すでに存在しなかっただろう。
 突然の手術案に対して、難色を示したのは須釜の長女だった。外見的な問題である。前後反転した足首が、太もものすぐ下に生えるというのは、確かにグロテスクなことこの上ない。だが、選り好みのできる状況でないことを、須釜当人は、ちゃんと理解したようだった。
「決断を先延ばしにする時間は、もうないんです」
 それが、どのような返答であったとしても、弁慶は須釜から、何らかの答えを得なければいけなかった。
 弁慶の通告めいた言葉を受け、患者の眼差しが、じっと彼のことを見つめた。弁慶の質実さを、確かめでもしているかのような沈黙で、須釜の表情は動くことなく、瞬きだけが幾度か繰り返された。
 六人部屋の病室だ。カーテンでベッドの周囲を囲ってしまえば、昼間であるのに、少々薄暗いくらいだった。窓際から、一番遠い廊下側のベッドに、屋外の雑音は届かずにいる。須釜の隣は空いていて、向かいから、テレビの音が漏れている。
 彼は、ベッドの上に上半身を起こし、右手に座る弁慶の話を、僅かに背を丸めて聞いていた。反対側のベッド横のパイプ椅子には、彼の妻と、学校帰りらしい制服の少女が座っている。
 できることなら、弁慶は頷いてもらいたかっただろう。須釜の身体は、すでに悲鳴を上げていて、いまだ腫瘍に侵されていない足首も、予断を許さない状態なのだ。彼の双眸に乗った色は、須釜のことを急かせはしなかったが、どこまでも実体で切実だ。
 患者が、手術の内容や、術後に関する事項を、ただ飲み込み反芻するだけならば、それは長すぎる静止だった。弁慶は待っている。須釜の唇が薄く開き、長い呼気が漏れた。
 ひたと主治医に当てられていた彼の眼は、僅かな時間前方へ向けられ、しばらくすると、再び弁慶の元へ帰った。彼は、変わらずその視線に応える。すると、須釜は小さく笑って、今までの駄々を一言詫びてみせた。奇妙なほど、どこか無造作な笑みだ。弁慶にしてみれば、受け取り方のわからない表情だったろう。戸惑った空気を察したわけではなかったが、須釜はおもむろに言葉を紡いだ。多分、それは一つの手順のようなもので、踏まえること自体が目的の行為に近かった。
「先生、私はね、人間尊敬できる人っていうのは、一人は持っとかないといけないと思ってるんです」
 突然の話題に、しかし沈黙が保たれると、彼は僅かに顔をしかめて「与太話なんですけどね」と自ら断りを入れた。多分、彼にも言うつもりはなかったのだ。弁慶は、小さく笑んで首を傾げ、それを促す合図にした。穏やかな仕草だった。
 須釜は、右手を握り、そしてほどくという行為を二回ほど繰り返すと、再び口を開いた。
「そういうのは、仏さんでも神さんでもなんでもよくて、私には三人いるんです。ご先祖さんと、氏神さんと、あと弘法大師さん」
 彼は、微かに気恥ずかしげな色を乗せ目元を和らげると、それでも淀みなく言い切った。それは、信仰というよりも、須釜本人のいうとおり単純な敬意の相手だ。口を挟む必要も見当たらず、弁慶はただ黙し、耳を傾けた。須釜とて、別段彼の意見を欲しているわけではない。話すことが、弁慶によって疎んじられなかったから、彼は溜め込んだものを吐き出している。今、弁慶は受け皿になっている。
「先生が、切断手術しかないって言ったとき、私は本当にショックでね、この三人に祈りました。誰でもいいし、夢でもいいから、手術を受けるべきかそうでないか、どうか教えてくださいって、一生懸命お祈りしました」
 しかし、その祈りの結果は、いつまでたっても届かなかったのだ。その点については、弁慶にも予想がついた。望美の見た須釜の諦観は、もしかしたら、彼ら三人からの何らかの返事を、諦めた表情だったのかもしれない。
 彼は、まるで探しものでもするかのように、ゆっくりと主治医の目を覗き込んだ。須釜の目じりの皴はさらに深くなって、そこで初めて、弁慶は微かに困ったようにした。須釜はもう一度「すみませんでした」と謝罪した。そして、首を大きく上下に振る。
「さっき、先生の目を見て、これは、弘法大師さんの目だって、思ったんですよ」
 弁慶は、まるで何か幽霊でもみたかのように目をしばたかせて、須釜を見返した。
 上手く返事を繰ることもできずに、ただ、彼が手術の承諾したのだと、それだけは弁慶の冷静な部分が、水を飲むように感じ取っていた。多分、彼に去来したものがあまりに大きくて、弁慶は、ひどく驚いていたのだ。段々と衝撃が身体に馴染み、そして、波のように指先まで広がったそれを認めると、須釜の言葉は、まるで雷のように弁慶の胸を打った。彼は、思わず口元を手で覆う。
「先生に、命を預けさせてもらいます」
 須釜が、深く頭を垂れた。僅かな時間だったが、真実呆然として、弁慶は返事のための声が震えるのではないかと懸念しなければならなかった。
「……よろしくお願いします」
「こちらこそ、お願いします」
 微笑むことも忘れ、弁慶は頭を下げた。
 手術の日取りを決め、病室をあとにすると、彼は長く息を吐いた。そして、望美の名前を呼びたいと、心底思っている彼自身に気付く。弁慶は苦笑した。まるで、それが彼のよすがにでもなってしまったかのようだった。ただ、そればかりを求めて、しかたがなかった。

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