Thanks 10000 Hit!

10000Hitお礼の1つ目です。
ありすさまから、「にょなり+はじめて物語+春」というリクエストで頂きました。
ぬるい感じですが、性的表現が含まれますので、申し訳ありませんが自己判断をお願いいたします。
それでは、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。




春宵奇譚・前
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 過去、たったの一度だけだったが、元就に向かい「嫁に来い」と言ったことがある。
 その頃の毛利は、呪いでも受けたかのような家中の騒動が、立て続けに起こっていて、元就の兄さんである興元さんが死んだあと、その忘れ形見の幸松丸まで早死にし、元就本人が頭領の立場に立つも、何が気に入らなかったのか、今度は彼の異腹の弟である元綱が謀反に走るというひどい状態だった。
 長曾我部と毛利は、一つ二つも前の代から、不可侵というよりも盟友に近い関係を保っている。それこそ、「松寿丸」と「弥三郎」と呼び合うような年の頃から、元就との付き合いは始まっていたし、相手に惚れているのだと自覚するまでは、無二の友人だとも思っていた。
 元就が、自ら元綱の首を検めたと聞いてすぐ、安芸の城へと船を急がせた。他家のことだと、口出しをするなと、散々元就本人に言い含められていたのだが、さすがに我慢も限界で、顔見知りだという免罪符が、通じないような態度のまま元就の居城に乗り込んだのは、四年も前の春の夜だ。
 殴りこみかというような足音を立てれば、常なら「騒がしい」と、一言以上の文句が飛んでくる。しかし、その日に限って、元就はこちらを振り返ることすらせずに、見ようによっては、ひどく落ち着いた凪の雰囲気をまとって、白い月明かりを浴びていた。
 元就の室の前には、今も昔も、春の花が咲く内庭がある。そこはかとなく香る木蓮の馥気は、過ぎ去った過去のそれと同じように、山からの微風に運ばれて、室内へと優しく吹き込んでいた。元就は、珍しく縁側に腰を下ろし、半円から数日過ぎた月と、それに照らされる庭を見ていたようだった。その表情には、ほんの一つの揺らぎもなく、朝の湖面のような静淑さがあった。
 彼の腰掛けた場所から数歩離れたところで、思わず歩みを止めた自身に、相手が、「何用ぞ」と、呟くように言ったのを覚えている。その声音には、常と変わったところなど、何一つとしてなかったように思う。
 いつものように、その声は平坦で、その姿は端然としていて、ただただ、雰囲気は静かで、それこそ、彼は己のよく見知っている「毛利元就」の表情をしていた。すっと伸びた背筋や、僅かに首を傾げる相手の仕草を、自身はひどく好んでいるが、しかし、あのときばかりは、何もおかしなところがない相手に、打ちのめされたような気分になったものだ。
 思い切り叱り付けたいと感じる反面、とても重いものを含まされたような居心地の悪さがあって、最後に、たった一人で春の庭を見る元就に、物悲しい気持ちになった。
 庭や、花や、元就の頬を、しっとりと濡らすように、春の夜の光が降っていたのだ。今年も巡った春の中に、なんの変わりもないと座る元就が憐れで、思わず、その台詞が口を突いたのだろう。元々、その頃には、自身が持つ相手への恋慕を知っていたが、告げるつもりも、まだ薄かった。だというのに、相手があんまりにも独りでいるから、思わず、手を伸ばしたくなったのだ。
 『叱りに来たか、怒りに来たかと思ったのに、呆けて黙るな。追い出すぞ』。
 一言一句忘れずにいる自身に、苦笑いがこぼれる。元就の発する言葉には、多かれ少なかれ、常にわざわざ選んだ匂いをまとう辛辣さがあるが、それも、癖のようなものなのだろう。くっと、喉で声を殺すような笑みをこぼして、元就は、彼の手前に立つこちらを、じっと見ていた。
 ほんの四歩ほどの距離をゆっくりと歩んで、一度しゃがみこみ、眼を覗いた。こちらのすることを予想していたのか、元就の両目は、それこそ何の含みも持たない色を乗せていて、大した面だと舌を巻いたほどだった。知られたくないのだとわかったので、そのまま一つ息を吐くと、相手の隣に胡坐をかいた。その瞬間、元就の身体は僅かに震えたが、それにも、気付かぬふりをした。
 沈黙していた時間は、そう長いものではなかったと思う。ただ、その間に、元就が受けていたのと同じ風が、自身の髪を、幾度か撫でていった。澄ました相手が被っている面を、あまり見ていたい気分でもなかったので、庭の池に映る月影へと視線を投げ、僅かに揺らぐ水面を眺めた。冷たい夜風に震える水の中では、何食わぬ顔の白い月も、不安定にその形を乱していて、それが、やけに印象的だった。
「なァ、元就。嫁に来い」
 毛利の当主であり、また男である元就に、我ながら何を言っているのだとは思った。ただ、あんまりにも元就が、頭領として当然のことをしたのだと、何も後悔はないと、そんな振る舞いを意図的にしていることがわかったので、攫ってしまいたくなったのだ。
 風の吹く夜だったが、木々を渡り、若い葉を揺らしたのは、嵐めいた昼の暴風ではなかった。ただ、ひっそりと何かを悼むように、白木蓮の香りを、人に運んでは去っていく優しい東風だ。白い木の花は、まるで幾重にも灯された灯篭のように、枝の先々で膨らんでいた。しかし、その厚みのある六枚の花弁は開ききらぬまま、宵の中にあって、天を仰ぐ。
 ちらりと、横目で元就を見た。元就は、こちらの言葉を、理解するまでに時間がかかったのか、いくらかの間呆然として、次の瞬間に、僅かに顔を歪ませた。
 不快だとか、怒りだとか、そういったものよりも、ずっと苦しそうに息をついたあと、今にも泣き出しそうに顔を顰められて、自身も、ひどく狼狽したものだ。何が、そんなにも相手の琴線に触れてしまったのかわからず、思わずその頬を撫でて慰めようとすると、拳で胸を叩かれた。どんどんと、続けざまに二度三度殴られて、痛みこそ少なかったものの、その手のひらの小ささに、不謹慎にもどきりとした。
 『……っ何を』と、詰るつもりだったのだろう言葉を一度切って、元就は困惑したように顔を俯かせた。しかし、すぐにこちらを睨むと、もう一度口を開こうとする。
 回らぬ舌を、必死に動かしているのか、その唇はぎこちなく、しかし、微かに紅潮し、眉根が寄った表情の中で、双眸に初めて動揺が映った。元就に、苦しんで欲しいわけではなかったが、相手が、何かを吐き出そうとしているのが嬉しくて、だから、それを助けるために、痩躯を抱き込んだ。暴れる四肢を囲い、小さな頭を肩口に押し付けて、すっかり冷えてしまった細い頭髪へと鼻を埋めた。
 優しく穏やかなだけの月の光と、甘く香る木蓮の気配からすらも、元就を隠してしまうように、腕の中に閉じ込めて、線の細い背中を撫でた。そうするうちに、相手の強張った肩が緩み、指先がこちらの腕を掻いた。
「何を、馬鹿なことを」
 四年も前の、春の夜のことだ。
 囁くように呟いて、沈黙した元就が憐れで、相手の着物に焚き込まれた香の香りを、ゆっくりと吸い込んだ。抱き込んだ相手の身体は、思った以上に小さくて、やはり、攫ってしまいたくなったが、それでも、甘く儚い花の匂いだけは、どこか遠くへと追いやられた気がした。
 その日の晩、特に、何をするでもなかった。ただ、耳元に吹き込まれたあの声音だけは、まるで何かの楔のように、胸の内に穿たれ続けている。



 宵に浮かぶ月が美しかったので、そのままぼんやりと見上げていると、元就が酌をしてきた。珍しいこともあるものだと、そのまま機嫌よく杯を空ければ、また、冷酒が注ぎ足される。
 毛利の家が、中国を呑んだ夜だった。
 陶を厳島の海に返して、元就が出雲の尼子攻めを始めたのは、去年の夏も過ぎた頃だったが、すでに、季節は木蓮の花を咲かせており、とんとんと進んでいたように思えた尼子攻めも、やはり冬を挟んだのは手痛かったのだと、勝ち戦の余裕もあいまって、今更ながらに感慨深くなった。
 元就は、長曾我部に対して援軍を請うた事など、ほんの二、三度しかなかったが、その三度目が今回の尼子攻めだった。元々、重機やいくつかのからくりを貸してはいたのだが、面と向かって海を渡ってくれと頼まれたのは初めてのことであったので、随分と驚いたものだ。
 好いた相手が、渋々といった雰囲気をまといつつも頼ってくれたのが嬉しくて、年が明けてすぐに陸へと上がり、そのまま春になってしまった。四国は、もう随分と平穏な国になっていたが、そろそろ耳に痛い書がいくつも届いていて、国に戻れば仕事しか残っていないことに、少しだけ気が重くなる。
 戦の事後処理に追われていた元就の室へ、酒を片手に入り込んだのは、数刻ほども前のことだ。始めこそ、邪魔だ何だと口うるさかったが、さすがに、今晩ばかりは羽目を外す気になったらしい。呑むというよりも、舐めるというほうが正しいが、常なら見向きもしない猪口を両手で持って、元就も、ちびちびと冷酒を口に運んでいる。
 小さな白い器の中では、ほんのりと色づいた液体が揺れている。自身が、大陸の方から仕入れてきた果実酒だが、随分と甘ったるくて、己にしてみれば飲めたものではない。しかし、元々そんなに酒に強くない元就は、随分とそれが気に入ったらしい。
 こちらの晩酌に付き合って欲しくて、事あるごとに与えたものだったが、米から作られていないそれは酒だという認識も薄いらしく、元就は、残り少なくなった液体を、僅かに顎を持ち上げて飲み干す。
 中空へと登った春の月の光が、室の中にも差し込んでいた。内庭への障子は開けられているので、咲き綻んだ花の香りが、ふんわりと漂ってくる。甘い匂いがした。酒のものではなく、木蓮の香りだった。闇の中で、白い光を放つように、白木蓮が空へ向かって咲いている。
 顔色こそ変わらないが、元々呑まない性質である相手は、今日に限って杯を重ねていた。翌日まで引きずって、酒嫌いがひどくなるのも困るので、そろそろ潮時と思うのだが、それに反して、白い指先は猪口を差し出す。
 満たせと、そう言っているのだ。元就の杯に、酒を注ぐか注ぐまいか、少しだけ悩むも、酔っていなければ、酒を催促するはずもない相手なので、まずいことをしたと内心で溜め息を吐く。
「やめとけ、朝に響くぞ」
 一応、始めは言葉で制止する。しかし、元就から杯を取り上げようとするのに対して、自身はまだ唇を濡らしているから、あまり本気に取られなかったようだ。むしろ、折角上機嫌だった元就の表情が、ほんの一瞬顰められる。
「禁酒しているが、呑めぬわけではない」
「飲み慣れてねぇのは確かだろう。お前の好きなご来光が、拝めなくなる」
 諭すような口調が気に入らなかったのか、相手は、つんとそっぽを向く。なんとも子供っぽい仕草だ。素面のときに比べて、あまりにも行動が異なるので、これは本格的にまずいと猪口を取り上げた。
「何をする」
「呑みすぎだ、もうやめとけ」
「付き合えといったのは貴様だろう」
 確かにその通りなので、鋭い返しに言葉が詰まった。それでも、銚子からそのまま酒を飲むなどという行儀の悪い真似は思いつきもしないのか、元就は、自身が奪ってしまった器を恨めしげに見つめるばかりだ。
「自覚はねぇだろうが、お前、随分酒が回ってるんだよ。今晩は、もうやめとけ」
 言ったところで聞かないだろうとは思いつつも、一応嗜めるように続ける。元就は、やはりこちらの言に眉根を寄せると、つまらなげに視線をそらしたまま、すっと立ち上がった。
 へそを曲げたかなと、足を崩したままで様子を窺う。しかし、元就は縁側まで歩みを進めると、視線だけで、ちらりとこちらを振り返った。そのまま、脇に差している扇を開き、危なげない仕草で、一歩目の歩調を取る。
 元就は、更に一歩、足音もなく板張りの上を歩む。二歩目で舞う。ひいらりと手首を返し、呼吸をするような運びを続け、すうっと、月明かりの下に出る。白い春の月が照らす半身と、闇に濡れた影を宿す半身が、室の奥からでも、十分艶めいて見えた。緩慢な仕草は、蝶の羽ばたきか、もしくは、風に踊る桜の花弁のようで、霞のように掴みどころがない。そうして、また一歩、衣擦れの音を残し、春の舞は続く。
 語り手がいるならば、天女が羽衣を取り戻して、喜びながら踊る舞なのだ。それを思えば、もうちょっと、その仏頂面をどうにかできないかというのが正直な感想だが、しかし、あばたもえくぼとはよく言ったもので、そんな表情も、自身にしてみれば上等だった。
 僅かに吹く季節の風と、皓々と輝く月の光を受けて、松原の春を元就が歌う。相手の意図こそ読めなくとも、ひどく心地いい気持ちにしてもらっているので、おとなしく相手が扇を閉じるのを待った。ほんの一節である。そうそう、時間のかかるものでもない。
 扇に払われた夜気の余韻が、木蓮と酒の馥気に色を乗せた。そうして、天女から人に戻った相手が、歌の終わりを告げる。元就は、ぱちんと一つ、高い音を鳴らして、扇を閉ざした。そして、それの先を口元にやると、楽しげな顔をして視線を返す。
「これでも、我が酒精に囚われていると?」
 僅かに笑みを乗せて、元就は尋ねる。そういう表情のまま踊れば良いのにと思うが、苦笑を浮かべるに留めた。
 元就は、扇を落とすなんて無様はしなかった。加えて、寄越される眼差し一つを取っても、外れたものなどなかっただろう。しかし、そもそも唐突に舞を踊るという行為自体が、酔っ払いのそれなのだと、どう伝えたものか悩む。意外と絡み酒の性質なのかと、返事を考え込んでいたのだが、それが拒否に見えたらしい。
「なんだ、疑り深い」
「そういうわけじゃねェけど」
 つまらなげに呟いた相手に、穏便に事を進めたいだけなのだと内心で息をつく。ただ、経験上、酔った人間と言葉の応酬をするのは、まったくもって無意味な行為だとも知っているので、やれやれと立ち上がり、自身も縁側まで足を進めた。
「お前に惚れてるからなァ。翌朝ひどいことになるってわかってんのに、放っておくこともできねぇだろう」
 こちらが近づくのを、その場に立ったまま見守っていた元就は、そういって頬に手を伸ばしても、厭うような反応を返さなかった。ふんわりと、風が吹く。若葉のささめきと一緒に、白木蓮の香りが届いた。猫のように、ほんの少し双眸を細めた元就は、検分するようにこちらを見上げる。
「そなたの『惚れた』という言葉は、それこそ、飽きるほど聞いたわ」
「そうかい。だが、俺はまだ言い飽きねぇな」
 つれないことだと、また笑ってみせる。そうすると、不可解だと相手は眉をひそめる。そんなやり取りが、すでに四年は続いている。存外、自分も我慢強いものだと思うが、正直なところ、あまり忍耐を強いられている気もしない。多分、元就にとっての自身が、他者よりもいくらか優位な場所にいるのだと、知っているせいだ。
「……次は、世継だと思っておる」
「あん?」
「駒を進める」
 こちらに告げる機を、ずっと見計らっていたかのような声音だった。
 元就は、淡々と言い終えると、常と同じく沈黙した。ただ、それは伺いを立てるというよりも、相手の反応を試す類のもので、与えられた空隙の間に、自身は、「まぁ、妥当だろうな」と返した。それが、面白いかどうかは、別として。
 大内は内から崩れた。陶は波に呑まれた。そして、尼子は春の歌を歌えなかった。
 元就は、その歳にしてはどうかと思うのだが、側室の一人も持っていない。本妻がいるのかと言えばそうでもなく、多分、今まで元就のそういった身辺について家臣が物を言わなかったのは、政局がそれどころじゃなかったせいだろう。
 ただ、落ち着けば、「毛利」は中国の大大名である。跡継ぎがいなければ要らぬ火種が起こるし、何より、元就は彼の妹の子供を、何人か謀略に使っているから、そちらとの折り合いもあるに違いなかった。
 ちなみに、こちらはすでに、側室が三人ほどいる。少ないほうだと思うのだが、湊に囲っている他の女を入れて数えろと、先日政宗に罵声を浴びせられた。ただ、どうしても正室を娶る気にならないのは、元就のせいだ。女を可愛いと思うくらいの甲斐性はあるが、惚れているのが一人きりなので、こんなことになる。
「どこの家の姫さんを娶るんだ?」
 多分、「毛利」が書を送れば、大抵の家は是と答えるだろう。元就に対する独占欲はあるが、言っても何も始まらないのも確かで、そうであれば聞き返した。内心で、元就のところに嫁ぐ女が、可愛い部類ならいいとも思う。少なくとも、攻撃的な気分にならずにすむ。
 元就は、こちらの言葉を聞くと、ほんの一瞬顔を歪めて、妙な表情をした。しかし、すぐにいつもの不機嫌な眼差しにその色を隠して、言葉を選ぶように間を空ける。小さな頭の中には、それこそ他家のことについて知りえる限りの情報が、ぎっしり詰まっているのだろうから、考え込むのは道理かもしれない。ただ、こちらとしては話していても面白い話題ではないので、この沈黙は少々、息が詰まる。
「そなたは」
「俺?」
 こちらのことを聞いて、何か利があるとは思えなかったので、思わず聞き返す。そもそも、側室を迎えた三回とも、元就は祝いの品を寄越していたのだから、知らないはずもない。
「言っとくが、うちの姫さんらは、さすがに嫁げる歳じゃねぇぞ?」
 元就にならば、一人は嫁がせたい気もするが、世継を欲しがっている相手の意には、まかり間違っても添うことが出来ない。ただ、そういうと今度こそ、元就はその細い眉を、見事に跳ね上げてみせた。なぜこうも相手を怒らせるのか理由がわからないので、対応の仕様もないのだが、やはりいつもよりも感情の起伏が激しい相手に、酔っているのだなと妙に冷静な判断をしてしまう。
「いい加減にせよ、のらりくらりと言い逃れを……っ」
「待て、本当に話が読めねぇ」
 刀を持て、と今にも言い出しそうな相手の雰囲気に押され、何が悪かったのかと考える。ただ、その間にも、一歩こちらに進み出た元就が、双眸に宿す苛立ちを隠しもせずに、ぎりぎりと睨み上げてきた。
 思わず、自身よりもずっと細い肩を押える。すると、着物の下で、それが僅かに震えているのが分かった。なんだと、首を傾げる。
「娶ることのできる身体ならば、どんなに良かったか!」
 白い両手が、こちらの右手を奪うようにして掴んだ。そして、そのまま元就自身の胸元へと引き寄せる。分厚い着物の袂の中に手のひらを抱え込まれ、さすがにぎょっとしたが、それ以上に、乱れた合わせの中にある柔らかい肉に硬直する。
「知っての通り、女の身よっ。姫など娶っても、何の足しにもならぬわ!」
 確かに、女の身で世継が欲しいといっているのに、どこの女を抱くのだと返されれば、からかわれていると思うのも道理だろう。ただ、正直なところ、「知っての通り」と言われても困る。今の今まで、こちらは知らなかったのだ。



 いまだ、僅かに冷たさの残る夜風に吹かれる。多少は落ち着きを取り戻したのか、元就は自ら開いた胸元を直して、それでも、疑わしげな視線のまま、変わらずこちらを睨んでいる。
 「知らなかった」と素直に言えば、一瞬、呆けたような顔をされた。そのあとは、嘘をつけと一方的に決め付けられており、なぜか肩身の狭い思いをしている。というよりも、こちらとしては、気付いていなかった自分自身に驚きたいところだ。なんというか、思い込みとは恐ろしい。それこそ、二十年近く、元就は男だと信じて疑わなかったのだ。
 色々と衝撃が激しかったので、一度深く息を吐く。縁側に並んで座ると、元就は、細い両足をちゃんと畳み、正座のまま春の庭を見た。自身は、足を崩して、月を見上げる。
 ちらりと、こちらを窺う視線を感じる。それに、先のような棘がないのを悟ると、やはり眼差しだけで答えた。なんだと促せば、元就は僅かに顔を伏せ、逡巡する。ようやっと、こちらが嘘や冗談で、先ほどの応対をしたのではないとわかったのだろうか。
「あんまり、惚れた惚れたと申すから、すっかりばれているのだと思っていた」
 「そなた、まことに衆道の気だったのか」と続けられて、さらに疲れたような気分になった。何を聞いていたのかとも思うし、他に言い様があるだろうと胸中でこぼす。ただ、男だと思っていた元就に惚れていたのだから、我ながら何を言っても無駄と分かるので、口は閉ざしたままだ。そもそも、口喧嘩で元就に勝てた試しなど、一度としてないのである。
 落ち込んでいるのは、単純に、昔から一緒にいた相手の基本的な部分を知らずにいたからだ。男だ女だという問題ではなく、教えてくれなかった相手に、僅かに拗ねるような気持ちもある。相手に惚れているなら、尚更だろう。
 酒の酔いも、随分なことが立て続けに起こったせいで、すっかり醒めてしまい、だからといって飲み直す気分にもならない。正座した膝の上に乗せられている相手の手の甲を見ると、その小ささに、さらに胸の内が沈んだ。
 ふと、思い出したのだ。元就が、弟の首を検めたのは、四年も前の春のことだった。
 柔らかいばかりの甘い気配が、すうっと首筋を撫でる。逝った者ばかりの屋敷の中で、彼女はたった一人、春の薄い闇を眺めていた。白木蓮の白い灯篭が灯る枝と、皓々と輝く空の月と、芽吹いたばかりの葉を揺らす風と、弄ばれてゆらゆらと揺らぐ池の水面を、元就は、一人で見ていたのだ。
「だが」
 妙に既視感を覚えて、あのとき含まされた鉛のようなものが蘇る。そして、四年前と同じように、元就のことが憐れで仕方なくなった。「女の身で」というよりも、こんな目にあった「元就」が、可哀相なのだ。
「だがこれで、元綱が離反した理由もわかろう」
 嘆息するように呟く元就を眺めながら、出かけた言葉を、腹に戻す。言ったところでどうしようもないことであるし、そもそも、自身は元就に惚れていたから、あまり、彼女を悲しませたくはなかった。
 自身の記憶にある元綱は、元就のことを好いていた。随分と懐かしい記憶になってしまうが、決して間違ってはいない。元就は随分と、彼女自身の実兄に懐いていたが、その弟である元綱は、どちらかといえば元就について回ることが多くて、そんなだから、毛利の家の兄妹は、揃っていないことの方が珍しかった。中国を尋ねた折は、常に、そんな三人の中に混じって遊んだので、「松寿丸、松寿丸」と、わかりやすい態度のこちらを、元綱が、僅かに煙たく思っていたことも、幼いながらに、自身はちゃんと勘付いていたものだ。
 元就が、次男ではなく長女だということを、元綱は知っていただろう。そうであれば、多分彼は、「女」である元就の身を、案じたに違いなかった。男の持つ悪い癖だと思うが、どうしたところで、男は女を守りたがる。それが、愛しい相手であれば尚のことで、元綱は、確かに「姉」として元就のことを慕っていたから、事の顛末は、簡単に予想がついた。
 元就には、才覚があったのだ。しかし、元綱は姉思いの弟だった。元就を捕らえて、監禁とは名ばかりの「姫」の扱いをするつもりだったのだろうが、しかし、すでに当主である元就は、それを許すことが出来なかった。
「不思議なものだ。あの日ほど、男に生まれたいと思ったことはなかったが、同じように、あんなにも女として揺れたことはなかった」
 「厭うか」と、元就が小さくこぼす。小さく首を傾げ、尋ねてくる相手に、ひどく苛々とした。馬鹿を言うなと怒鳴りつけたくなったが、その前に、相手の髪を梳いて、頬を撫でる。そうして、両腕に囲い込む。足を乱し、ぴんと張っていた背筋を丸め、元就が、こちらの腕の中で呼吸をする。
「厭わぬのか」
「お前な、今まで何聞いてたんだ。俺は、もう四年も同じことを言ってるぞ」
 それこそ、聞き飽きたと言ったのはどこのどいつだと、思わず恨みがましい口調になる。裾のめくれた着物の下から、足袋をはいた足と脹脛までが覗いていた。そういったものを眺めながら、肩を抱き、頭を幾度か撫でてやる。そして、睦言を吐く。
「俺が、お前に惚れてんのも、大事にしてやりてぇと思うのも、男だからってわけじゃねぇし、女だからってわけでもねぇよ」
 室の中へと風が吹き込む。奥には、二人分の酒器が置かれたままになっていて、その隅に、自身が脱いだ上着が放られていた。
 元就は、言葉を飲み込む僅かな時間、沈黙していた。抱いた身体は、嗜んだ酒のせいか、四年前のものよりも幾分、温かかったと思う。
「……我だからか」
 元就は、ぽつりと、呟くように言った。いまだ、酔いの醒めないような表情をして、彼女は、僅かに驚いたように、ぼんやりとこちらを見上げていた。
 小さな彼女を見つめ、一度息をつく。今の言葉で理解できないようなら、くびり殺してやりたいと思うほど惚れている女だ。ただ、それだけ好いてしまっているので、彼女が自身の腕の中にさえいれば、大体のことは許せるだろうとも思った。悪癖だと、自覚している。
 くっと、鳥のように元就が笑った。そして、元々は、子種を得られれば御の字と思っていたなどと、まったくつまらないことを言う。どちらにせよ、中四国間の親密は諸国に知れ渡るほどだったが、情に厚いこちらは、自身の子供の治めるだろう国を、いくらか無茶をしてでも甘やかすに違いないと、彼女は、しっかり打算も働かせていたのだそうだ。
 胸元に呼気があたる。笑みを喉で殺して、それでも、元就は微かに、肩を震わせる。腕に囲われて、着物の帯をいじられていることに気付いているのだろうが、彼女はされるがまま抱かれている。そして笑う。何がそんなに楽しいのだと尋ねると、「気分がいい」と返された。
「そうか、……我だからか」
 再度、可愛い言葉をつむいだので、その口を塞いだ。そして腰を支える。衣擦れのささやかな音を立てながら、帯はゆっくりと滑り落ちていく。相手の口腔に舌を入れ、上あごを舐めた。そうすると、ひくりと震える相手に興奮する。
 かりかりと、爪がこちらの着物を掻く。そして、見つけた合わせを乱暴に広げる。元就ほど、厚着をしているわけでもないので、女の手のひらが素肌を這うまで、そう時間は掛からなかった。ひんやりとした小さな左手が、自身の胸板と腹を撫でる。
「お前は? 俺だからか」
 口を離し、耳元で尋ねた。元就の手のひらを捕まえて、乱された着物に苦笑する。
 元就は、返事をする前に、やはり逡巡した。捕まった手首をちらりと眺め、何を考えているのか、僅かに目を伏せる。脱ぐためのものなっている着物に、いまだ腕を通したまま、それでも、彼女はうっすらと笑う。
「男ならば、他にもいるゆえな」
 ひどい言葉を口にすると思うが、彼女なりの睦言であることに変わりはないので、もう一度口付けた。すると、元就は舌を絡めてくる。先ほど、身体を愛撫されたので、初心ではないのかと思ったのだが、舌先の動きは、ひどくまどろっこしかった。悟られたくないのだと気付くが、行為が初めてだとするなら、どうせ、足の間に何よりの証拠がある。
 元就の強がりは、あまり意味のあるものには思えなかった。しかし、男に優しくしてやろうという気を起こさせるには、十分だっただろう。



→後編


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