『Secret Evolution』
サボったのなんて、どれくらいぶりだろう。 品行方正・成績優秀で、全校生徒から尊敬と畏怖の念を一身に集めている生徒会長様は、屋上で独り風に吹かれていた。 七月に入ったからか、校舎に照り付ける日差しは夏を思わせる。 それでいて、爽やかに通り抜けていく風が心地よい。 たまに訪れる此処は、アーサーのお気に入りの場所だ。 時間さえ考えて来れば、誰にも邪魔されない(誰かと鉢合わせになっても、大抵の生徒は怖がって生徒会長に場所を明け渡す)。 とは言っても、今この屋上にアーサーしか居ないのは、昼休みの終わりを告げるチャイムがとうの昔に鳴ったからで。 「どうしたもんかな…」 俺らしくもねえ。 最近では、気付けばぼーっと物思いに耽っていることが多くなっていた。 ずっと胸の奥がもやもやとして、拭えない。 いつもは余裕を持って着実にこなしていく書類も、なかなか進まず期日がすぐそこまで迫っていた。 そんな状態でまともに授業など受けられる筈もなく。 …というより、教室に戻ろうと思ったら、ムカつく髭野郎が女の子の額にキスを贈る現場に鉢合わせしてしまい。 何故だか妙に苛々して、気持ちがちっとも落ち着かないから、踵を返してきたのだった。 「はぁ…」 俺には全然関係のないことなのに、どうしたというのだろう。 別に、授業は受けなくてもどうにかなるから良い。 ただ、収まらないこの感情はどうしたらいい? 「…チッ」 どうしても、何を考えても、この感情が何なのか分からない。 自分では到底処理し切れないことのように思えて、思わず舌打ちした。 俺がいつまでもこんな風では生徒に示しがつかないし、いつもサボってばかりの髭副会長に文句の一つも言ってやれない。 制服のポケットから煙草を取り出して、火をつける。 先を咥えて、肺いっぱいに吸い込む。 苦い煙を一気に吐き出すと、少しだけ胸の奥が楽になった気がした。 大体、最近の自分はおかしいのだ。 今日。普段は軽口を言い合って、他愛もない喧嘩をし合う仲である副会長――フランシスと碌に目も合わせられなかった。 大体、書類だって、奴がちゃんとやっていれば俺が少しくらい遅れたって何とかなるんだ。 授業中も、あいつのことばかり考えてもやもやして。 今日こんなに苛々しているのだって、昼休みにあいつがあんな人目につく場所で…。 よく分からないけれど、これは全部、 「あいつが悪いんじゃねえか…」 「何の話〜?」 「ひあッ」 「んーイイ声」 背後から甘い低めの声がしたと同時に、尻が何かに包まれる感覚。 そのままふにふにと揉みしだかれて、背筋をぞわぞわと不快感が駈け登った。 「てめっ…こ、の」 一気に振り返ると、ニヤニヤとだらしない笑みを浮かべた髭面の男が視界に入る。 それを脳が認識するのが早いか、右足を大きく振り上げたのが早いか。 そいつの首に、渾身の力で体重を乗せた蹴りを浴びせた。 ぐぎっという嫌な音を立てて男が地面に倒れたが、アーサーの知ったことではない。 「…っ痛ッてえー!!!ちょっ、アーサー!!これ、お兄さんじゃなかったら確実に入院だから!!!」 「お前じゃなかったら手加減してたよ、この変態髭野郎」 ふん、と鼻を鳴らして、涙目で抗議してくるフランシスを見下ろす。 寧ろ、見下すと言った方が適切か。 「何か元気ないお前を励まそうっていう、お兄さんなりの気遣いでしょ!察しろよ!!」 「そんな気遣い、丸めて潰して海に捨てるわバカ!!」 無茶苦茶な言い分を展開するフランシスについつい乗せられてしまうのは、最早身体に染み付いた癖なのかもしれない。 勢いに任せて怒鳴ったアーサーは、今が授業中だということをすっかり失念していた。 「…ちょっとは調子戻ったみたいだな」 「…あ……」 確実に怒鳴り返してくると思ったのに。 首を押さえたままのフランシスが驚くほど優しい笑みを浮かべるものだから、今まで自分が悶々と悩んでいたことをまざまざと思い出してしまった。 どうしてだか頬が熱くなるのが分かって、思わずフランシスから顔を逸らした。 後ろで立ち上がる気配がする。 「天下の生徒会長様が、こんなトコでサボってて良いんですかー?」 「…生徒会長だからこそ、いいんだよ。それを言うなら、お前だって副会長じゃねえか」 「ほら、俺はいつものことじゃん?気にしない気にしない」 それが問題なんだ、といつもなら説教を垂れるところだけれど、何だかそういう気分でなくて無言を返す。 ゆっくり呼吸をすると苦い味が体内を満たして、気分が落ち着いた。 「しかも、それ」 「んだよ」 フランシスが、アーサーの口元を指差す。 また一筋、煙が立ち昇った。 「良いのかよ」 「…あ?良くはねぇだろ」 「じゃあ、ちょーだい」 そう言うと同時に咥えていた煙草が奪い取られ、フランシスの唇の間に収まる。 アーサーが吸って少し短くなったそれを人差し指と中指で挟んで、灰色の煙を吐き出した。 「ちょ、バカ!おまっ」 「何?」 「いや……別に、何でもない」 吸い掛けだから何だと言うのだ。 別に、今更気にする相手でも間柄でもない。 分かっている。分かっているのに、心臓がばくばくと忙しなく早鐘を打って、顔がどうしようもなく熱くて。 一体自分はどうしてしまったのかと戸惑う心と、フランシスには自分の状態を悟られまいと思う焦燥感がせめぎ合う。 お前が吸うのだって問題なんだ、といういつもなら言うであろう言葉は頭から抜け落ちていた。 「てかマジでさ、お前何かあった?最近様子おかしいけど」 「…そんなにおかしかったか?」 「何年お前と一緒に居ると思ってんの」 それもそうだ。 良くも悪くも、自分達はずっと幼馴染みで腐れ縁で喧嘩友達をやってきたのだから。 そりゃあ俺だって、お前の異変には誰よりも早く気付ける自信はあるけど。 …別にあったところで、嬉しくも何ともないけど。 「そうか」 「そ。お兄さんに話してみ」 だからって、今こいつに相談することなんて出来る訳がない。 まさに今お前のことで悩んでいただなんて言えるものか。 死んでも言えない。というか言うくらいなら死ぬ。 でも、あの女のことがどうしても気になってしまうのは事実で。 もしかしたら、遊び相手などではなくて、ただ単にフェミニストな彼自身の性質を発揮していただけなのかもしれないけれど。 それでも。 「あの、さ」 「ん?」 「……」 口を開くと、穏やかな碧が見つめてくる。 先を促すことをせず、自分から話し出すのを待ってくれるのが、何だかくすぐったい。 「…いや、やっぱ良い」 「何それ」 「また今度話す」 今度、がいつ来るのかは分からない。 いつでも自分のプライドが邪魔をするから。 それに、訊いてしまったら何かが壊れてしまうような、そんな得体の知れない不安が身体に浸食してきて。 今は、もう少し自分と向き合って悩んでみてもいいんじゃないかと思えた。 胸につかえる苦しさは、まだ暫く取れそうにないけれど。 フランシスは、アーサーに話す意志がないと分かると、小さく溜め息を吐いた。 透き通った空を仰ぐ。 手を伸ばしても届かなくて、まるで目の前の気高いこの人みたいだ。 お前がすべての女と手を切れと言ったら、俺は 「全部捨てても構わないのに…」 「…何か言ったか?」 「いーや、お兄さんの独り言」 まだ、この距離は埋まらないままで。 END |