光を見ない生活だった。太陽の光を見ないだとか、電球の明かりを見たことがないというわけではない。人生の希望という名の光を見るこ とのない日々を送っていた。幸せに暮らしていたはずだった。裕福でも貧乏でもない日々を、家族幸せに暮らしていたはずだ。だけど、そ の生活を幸せだと感じる前に、閉ざされた。隠れて生活する日々。両親はいつもいつも震えて暮らし、私もわけがわからないまま恐怖を 感じておびえていた。何がこわいのかなんてわからなかったけれど、ただ、漠然と、恐ろしいものが私たちの敵なんだということだけは 理解していた。


そんな生活を、私は最悪なものだと感じていた。もとの暮らしと比較して、今の生活を最悪だと貶める。しかし、私は勘違いをしていた。 もっと暗い暗い生活が、私には待っていた。見つかった。見つかった。恐怖を感じている暇なんてない。つれられて、車中で私はただ ただ母に手を握られて泣き出しそうな自分の弱さを責めて責めて、どうかこれが夢でありますようにと願った。汽車をおりると、父と弟と 離れさせられ、母にがっしりとしがみついて震える足を動かした。何が、起きているのかわからない。こんな日がいつか来るだなんて、 誰が想像できただろうか。ただおびえる日々に、終わりがあると思っていたのに。終わるどころか、もっと深いところへ、落とされる。
いつ死んでもおかしくない日々が、繰り返される。強制労働の日々は、むしろ幸せだったのかもしれない。容赦なく収容所へつれられて、 ガスで殺される人も少なくなかった。自分の番を待つ日々は、なんてむなしいものだろう。明日自分の名前が呼ばれるかもしれない。 呼ばれずこうして土を掘り返す日々は、ある意味幸せなのかもしれない。明日はここを出られるかもしれないという希望は、ここへ来て 三日目で忘れた。希望という光は、もうまったく見えない。


朝の点呼。看守が昨晩に脱走者が出たことを告げられた瞬間、私たちは血の気が引く。毎日死んだような顔をしている人たちが、こんなと きほど生きた人の顔をするのだ。恐怖を感じておびえる、最も人間らしい人間の顔をするのだ。脱走者が出ると、看守は見せしめに私たち の何人かを殺す。選ばれれば、もう、運命は決まってしまう。看守が数人の名を呼び、その中に、自分の名前がふくまれていた。母がはっ と息を呑む声が聞こえて、私は、もう恐怖もなにも感じていなかった。ただ頭にあったのは、コルベ神父のことだ。こんなときほど、 コルベ神父がどれだけすばらしい人間だったかを改めて考えさせられる。少ししか行けなかった、学校へ通っていたとき、コルベ神父のこ とを習った。コルベ神父は私たちと同じ、無実の囚人だったのだ。そしてこのとき、脱走者への見せしめとして殺される人々の名前が 呼ばれたとき、自分は呼ばれなかったにもかかわらず、ある一人の男の変わりに名乗り出たとてもすばらしい人間だ。今さらだけど、彼が どれだけ勇気ある、勇敢な人間だったのかを思い知らされる。ここで、私が泣けば、誰か名乗り出てくれるだろうか。ありえない。わざ わざ見ず知らずの少女のために、誰が代わりに殺されてくれるというのだ。そんな勇気ある行動、普通の人間には無理だ。それは当たり前 のことであり、責められるべきことではない。そう思えば思うほど、コルベ神父の偉大さや、寛大さや、その奇跡を信じずにはいられな い。私は列の先頭に、踊り出る。


「これは、わざわざこんなところへ!」


看守があわてたように敬礼した相手は、看守を一瞥するとこちらを見据えた。たぶん、えらい人だ。階級とか、名前とか、何にもわからな いけれど、あのいやみな看守が敬礼してぴくりとも動かなくなっているんだ。きっと、えらい人がこんなところまで何の用だろうか。何に してもありがたいとしか言いようがない。少しだけ、生きていられる時間が増えたのだから。


「何してるの?」
「はっ!脱走者が出たため、見せしめを行おうかと」


ふうん、と興味なさげにそういって、私たちの前を闊歩する。私の顔をじとりとみて、足を止めた。切れ長な冷たい瞳が、私を刺している ようで気分が悪い。どうせ殺されるのなら、ここで唾でも吐きかけてみようか。実際はそんなことをする勇気も度胸もなく、だからといっ て震えるわけでもなく、めんどくさそうにその瞳を見つめ返すことしかできなかった。できるだけここにとどまっていてはくれないだろう か。そうすれば、私はもう少し長く生きられるのかもしれない。えらい御仁の気まぐれで、死を免れることはないのだろうか。ない、か。 そう思って、そっと瞳を伏せて小さく小さく息をついた。そのとたん、あごをがっとつかまれて上を向かされる。あまりに強い力に、あご が外れてしまうかと思った。


「汚い面だ」
「そう思うなら放して」
「口の利き方も知らないらしい」


おもしろそうに細められた瞳はやっぱり冷たくて、あがった口角の意味を、私は知らない。罰が下るだろうか。罪になるだろうか。これ 以上の罪を着せられるのだろうか。そもそも、私たちの罪とはなんだったのだ。私たちは何にもしていない。人を殺したわけでも、物を 盗んだわけでも、いけないことをしたわけでもない。じゃあどうして私たちは、こんなふうに罪を着せられて、罪人よりもひどい目にあわ されているんだろうか。私たちに人権なんてあろうはずもない。私は、誰だ。気に入った。いやに楽しそうな声を弾ませて、私の目を 食い入るようにみつめる。


「選ばせてあげよう。このまま大人しくガスで殺されるか、生き地獄を味わうか」
「今だって十分生き地獄だけれど」
「これ以上の地獄を見せてやるといっているんだ」
「生きている以上、ここは地獄なんかじゃない。天国より残酷で、地獄よりも優良な、現実。死んで地獄に行くよりも、生きているほうが よっぽど幸せだわ」
「奇麗事を並べるのが好きなのかい?」
「非現実的なことを言い並べるのが趣味なのかしら?」


挑発的にいうと、乱暴にあごをつかまれていた手をはなされて、私はその反動で転んでしまう。それを見てくつくつ笑い、私を見下ろして また目を細める。敬礼したままの看守が、驚いたように私とえらい人を見比べている。今の状況は、誰一人として理解できていない。えら い人というのはとっても気まぐれで、人を人とも思わずもてあそぶのが趣味なのだろうか。つまり、私はこの人のことを好意的に思われ ないということだ。この人は、私のコルベ神父なんかじゃない。やはり現実。あんなにすばらしい人は、そうそう簡単には現れやしないの だ。


「僕の妻にしてやろう」
「生き地獄だわ」
「地獄よりはましなんだろう?」
「とんだ物好きもいたものね」
「ありがたくは思えないのかい?」
「私を妻にしたいなら、条件を呑んでもらわなくちゃ」
「とんだ怖いもの知らずだ。どんなわがままを言う気だい?」
「ここのみんなを自由にして、こんな馬鹿げた収容所こわしなさい」
「それで君が、手に入るというのなら」


「馬鹿ね、できるはずなんてないのに」
「なぜ君がそんなことを言える?」
「ここをつくった大馬鹿者は、あんたなんかに頼まれたくらいじゃ動かないわ」
「君に頼まれたら、動くかもしれないじゃないか」
「意味がわからない」
「動いてあげるよ、僕は君に興味を持った」
「馬鹿みたいね」
「僕をそんなふうに言った女ははじめてだよ」
「よっぽどかわいそうな人ね、あなた」
「愚かな女、君の名前は」
「人に名乗るときは、自分から名乗るのが礼儀というものよ」
「僕に礼儀なんて必要ない。だけど、まあ、いいだろう」
「気分屋は嫌い」
「僕の名前は雲雀恭弥。君の大嫌いな、 気分屋 さ」



雲雀恭弥。忘れもしない、征服者の名前。






Mr. Kolbe



20070620 ( ちょっとだけ続き )