見慣れた町並みが近付いて来た。街の小さな駅に、何とかぎりぎり入る大きな列車が滑り込んだ。

この国には夏が無い。気象は安定していて、気温も常に、多少肌寒いくらいだ。日もそんなに長くはない。午後四時となると、日は沈みかけている。

「「疲れた…。」」

プラットホームで二人同時にそうつぶやいたのは、多分偶然だ。こんなにピッタリ、同じタイミングで、仲の悪い二人が同じ言葉を声にして発するなんて、偶然、いや、奇跡以外の何物でも無かろう。神が存在するなら、そのお導きだ。何のための導きなのかは、置いておいて、だが。

かばんを二つと、白っぽい紙袋と、クラフト紙の可愛い紙袋とを両手から下げたアルムヒルドにこそ、「疲れた」と言う台詞は相応しかったと思う。「見た目」がそう思わせるのだ。荷物をしこたま持っている姿は、アルムヒルドに荷物を全て持たせて身軽なエイシェルとは正反対で、対極する神父の姿が、赤髪の吸血鬼の姿を更に哀れに際立たせる。

「さ、行くぞ。」

涼しい顔してエイシェルは、いかにも疲れているアルムヒルドに、そう言い放った。

「お前な…自分の分のかばんくらい持てよな…。」

「嫌だな、私は疲れてるんだ。体力が私の百倍くらい有るんだから、それくらい持て。」

「俺だって疲れてるっつーの。それに、百倍も…有るわけ無いだろ。それに、お前これはちょっと理不尽なんじゃねぇ?」

「うるさい。黙って持て。」

余りの扱いの悪さに、訴えようとしたアルムヒルドに、神父らしからぬ身勝手さでエイシェルは言った。

酷い、酷過ぎる。と心の奥で苦情を叫ぶが、神父の耳には届きはしない。まあ、それも良い。何を思っているのかエイシェルに解かる様な、そんな以心伝心は気持ちが悪い。だが、一度か二度は、そんな事が有った様な気がしないでもない。エイシェルの背に無言で語りかけ、何故が神父が振り返る、とか。吸血鬼との交戦時には妙に気が合う事も有る。

(何だかなぁ…。微妙だよなぁ…俺とエイシェルの関係って…。)

神父と吸血鬼と言う、対極した関係と、供に戦う戦友の様な関係。または、神父と、過ちを犯したただの人間、と言う関係も有る。余りにも二人を繋げる要素が、多種多様で、そこから生まれる人間関係も固定されない。それ故か、なかなか親しくなれない。アルムヒルドが元人間であると言う事が、余計に事態をややこしくしているのだろう。

いつもの街が夕暮れ色に染まる中、二つの人影が妙に距離を置きながら歩いて行く。

 

「お帰りなさい、二人とも。」

坂を登りきり、高台の教会の門前に、その老神父はいて、二人を迎えた。「聖職者」をそのまま絵にした様な優しげな笑顔はいつもと変わらない。

「爺さん!」

人懐こい少年の様な顔で、アルムヒルドはケセドに走り寄った。白い紙袋からケセド用の菓子折りを取り出す。

「はい、コレ。お土産。」

「ああ…どうもすいませんねぇ、レノヴァトールさん。」

ケセドは受け取りながら優しくアルムヒルドに対応する。エイシェルもケセドに会釈した。

「ただ今戻りました。教会は変わり無かったですか?」

「ええ、お気遣い無く。何も有りませんでしたよ。それより、お土産ありがとうございますね。」

「いや、気持ちだけなんで。それより、貴方の分はアルムヒルドが選んだ物ですから。こいつに言ってやって下さい。」

「そうでしたねぇ。ありがとうございます。」

そう言って優しげな顔に微笑を浮かべて、ケセドはアルムヒルドの方を見直した。照れ臭くて、アルムヒルドも笑う。

「さ、暗くなるから、中に入ろう、アルムヒルド。ケセド神父も。」

険悪へと簡単に変化する二人の関係には、ケセドの笑顔が効く、と言うのは確定している様だ。アルムヒルドの重い荷物が、少し軽くなった様な気がした…。

 

一日ぶりに着る僧衣は、少し堅く感じられた。生地が厚いのも有るのだろう。

午後六時。

教会では既に夕食の時間である。食事が終われば、食後と就寝前の祈りが待っている。それからは特別な用事さえ無ければ、八時には睡眠を摂る事になる。

エイシェルは食堂へと向かうために部屋を出て行こうとする。

「部屋でおとなしくしてろよ、アルムヒルド。」

アルムヒルドに一食分の血液製剤と水の入ったコップを与えて、エイシェルはそう言った。何も言わずにアルムヒルドはそれを受け取って、うなずく。これが二人の食生活である。二人が一緒に食事を摂ったのは、聖都で泊まったあの時が、実は初めてだったのだ。

アルムヒルドはコップの中で波打つ水をしばし眺めた。血液製剤の錠剤を入れる。発泡して溶けていく赤。コップの表面にわずかに浮かぶ、血の赤い泡。鼻を突く血臭。

それに食欲をそそられる自分が嫌いだ。

背に腹は代えられないとはまさにこの事で、アルムヒルドはいつもそうしている様に一気にそれを飲み干そうとした。

―――…ゴクッ…ゴクッ……

静かに響く音。一人しかいない部屋に響く、自分が発する音。続いて、深いため息。赤く汚れた唇を、手の甲で拭ってアルムヒルドはそれを眺めた。手の甲を汚した血。それはすぐに乾いて、えび茶色に変色する。コレがコップ一杯分も自身の胃袋に入ったのだと思うと、我ながらぞっとした。

暗い気分になってしまってはいけない、とアルムヒルドは頭を振り、赤い髪を乱す。クラフト紙の可愛らしい紙袋を無造作に掴んで座っている自分の膝に置く。中を探り、取り出したのはピンクや赤の花模様が描かれたラベルが貼ってある小さな苺ジャムの瓶だ。見るからに甘ったるそうだが、甘い物を食べたい衝動に駆られて買い物かごに入れた物である。「食えるかな…大丈夫だよな、ゲル状って感じだし。固体じゃないから。」

そう言いながら、自分の私物が山程入っているクローゼットに行って膝を付いてその一角を探った。何処から取り出したのか、立ち上がった時には手に小振りのスプーンが握られている。たぶんこの部屋での生活のに教会の食堂から一揃い借りている物の一つだ。

アルムヒルドは部屋の簡素な椅子に座り直して、ジャムの瓶のふたを開けた。甘ったるい香気が漂う。手に持ったスプーンは、何気なくその瓶の中に入れられた。すくったジャムはつややかに部屋の照明を跳ね返していた。それを口に入れる。

ここまで甘いと吐き気がしてくる。な、とアルムヒルドは思った。

瞬間、猛烈な吐き気が彼を襲う。吐き気の原因は異常な程の甘さだけではなかった様だ。

(体が拒絶してやがる…。)

ここ六十年か七十年くらい、甘い物など口にしなかったせいだろうか。それとも吸血鬼には必要以上の糖分を口内に含んだせいだったのか。とにかく、体は早くそれを吐き出させようとする。それでも、彼は耐えた。肺から一気に押し出される空気を必死で押さえて、何とかジャムを飲み込もうとする。何とか呑み下したゲル状の物体の味など、解かるはずも無かった。

果敢にももう一度挑戦し、また咳き込んだ時、いつも早食いのエイシェルが部屋に戻って来た。アルムヒルドの咳が大きく、また酷い物であったので、少し驚いたのか神父は彼に歩み寄って声をかけた。

「大丈夫か…?」

そう言って背中をさすってやる。

「だ…いじょ…ぶ。たぶん。」

また何とかジャムを呑み下して。涙目になった琥珀の瞳をエイシェルに向けた。

「ああ…ジャムか。これしきの事で…、お前と言う奴は…。心配をかけさせるな。咳き込むなんて柄じゃないだろう。本当に…驚かせるな。」

床に転がって中身の半分程こぼれたジャムの瓶を眺めながら、エイシェルは眉をしかめた。

「ん…悪ぃ…。」

「まったく…。」

安堵、と思えなくもないため息を吐いて、エイシェルはアルムヒルドから離れた。

「無理をするな。吸血鬼の体になってしまっている以上、人間の物が食べれるわけが無い。」

「やっぱり…そうかな…。頼むよエイシェル…そんな希望の欠片も無い事なんて言わないでくれ…。本当に…お願いだからさ…。」

先程の咳のせいだのだろうか。否、違う。アルムヒルドの琥珀を思わせる両の瞳は、軽く潤んでいた。かつて食む事の出来た物が、呑み込むのもままならないと言う現状が悔しかったのだろう。七十余年前の自分とは根本的に違う存在になってしまっている。

アルムヒルドは涙が出ない様に二、三回、目を瞬かせてから立ち上がった。

「ちょっと俺、爺さんの所行ってくるよ…。」

こうやってアルムヒルドは、泣きたくなるとケセド老神父の所に行く様になった。もう二、三週間程前からこの調子なので、エイシェルも承知の上だ。優しく微笑むとエイシェルはアルムヒルドを見送ってやる。いつもの様に、小一時間程で戻って来る事だろう。

「行って来い。」

簡潔なその言葉を聞いて、アルムヒルドは部屋を出た。

 

「また来たんですか、レノヴァトールさん。」

ノック音に呼ばれて扉を開け、アルムヒルドを見たケセド神父は優しく微笑んで彼を迎え入れた。

「今日はどうしました?」

アルムヒルドは声を発さない。声が出ないのだ。涙が出そうで、のどの奥が苦しく、熱い。

「また、泣きに来たんですね。良いですよ、お泣きなさい。」

そう言ってアルムヒルドを椅子に座らせる。

「…エイシェルの事で来たんだ…。」

ケセド神父は少し意外な気がした。大概アルムヒルドはエイシェルだけの話はしなかった。エイシェルと喧嘩した時に言われた言葉も言いはしたが、その他の事もしたたか愚痴った。

「ほう、これはまた。エイシェル神父の事ですか。一体、どうしました?また撃たれました?」

「聞きたいんだ。エイシェルが聖都で言った言葉が解からなくて。変な言葉だったんだ。」

「彼は何と言いました?」

「何だっけ…。エト、何とかクイ シルム何とかコントリなんとかコントリスタートル何とかかんとかってやつで。」

「…エト サテイヌ クイ シルム メカム コントリスタートル メクシヴイ インヴエニ…。」

正確に覚えてはいなかったが、その響きは聞き覚えが有る様な気がする。アルムヒルドは大振りにうなずいた。

「そう、それ!何て意味なんだ、爺さん?」

「彼はまだこんな事を言ってるんですね。」

「まだ、ってどう言う事だよ爺さん。意味は?そんなじらさないでくれよ。」

「彼が貴方に言ったのはとても哀しい言葉です。とても淋しい言葉です。聞くんですか?」

「気になるんだよ、爺さん。何か馬鹿にされているみたいで悔しいんだ。」

ケセド老は何故か小さなため息を吐き、重々しい口調でこう言った。

「…我と供に哀しむ者は無く、我を慰むる者、見付からじ…。」

「は?」

「私と一緒に哀しんでくれる人なんていない、私を慰める人なんて見付からない。そんな意味です。貴方がそうである様に、彼…いや、あの子も孤独の中にいるんですよ。」

「ちょっと爺さん、“彼”って言うのを言い直すって事はあいつ男じゃないってのか?そんな…悪い冗談は…。冗談は…。」

「あの子がそこまで貴方に言ったのは、きっと貴方に理解して欲しかったからでしょう…。お教えしますよ。あの子は男性ではありません。かと言って、女性でもないんです…。」

 

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