vocalise ‐1st‐音が鳴った。ただ、鳴った。 旋律を奏でても、その先に見えるものなど何もなかった。 なにも、なかった。 「遅かったわね、信綱」 「…こんな時間に急に呼び出しておいてそれはないでしょう…姉さん」 出迎えて早々そう言い放った自身の姉の冴子に、直江は呆れた。こういう姉だと分かってはいるのだが、久々に合う弟にこの態度はないだろうと思うとため息しか出ない。 「それで、何の用なんですか?」 「あんたが実家にも全然顔を出さないって母さんが嘆いていたわ」 「…またその話ですか…。忙しいんですよ、それなりに」 「それは分かってるわよ。個人とは言え病院の院長さまだものね」 言葉に刺がある。直江は眉を寄せて息を吐き出した。 「ここじゃ、生徒も通るから奥へ来てちょうだい」 冴子に促され、そのまま後を付いて奥へと進んだ。 直江の姉、橘冴子はこの辺りでは少し大きなピアノ教室をやっている。左右を見れば今も何人かの生徒らしき子供がピアノに向かっていた。確かに個人的な話ならば、こんな入り口でする話ではないだろう。 「あんたがここに来なくなって随分経つわね」 「…まぁ、そうですね」 もともとこのピアノ教室は直江たちの母が経営していた。それを今は娘の冴子が引き継いでいるという訳だ。だから、昔から直江はこのピアノ教室に遊びに来ていたし、嬉々としてピアノに没頭していた時期もあった。けれど、家族と疎遠になってから、直江はこのピアノ教室にも顔を出すことはなくなってしまった。忙しかった、というのが理由だ。しかし、それだけではないのもまた事実だった。 直江は過去の自分に想いを馳せていたが、苦々しく顔を歪めてその思いを振り切る。今ここで思い出すべきことではない。 「…今日、あんたを呼んだのには理由があるの」 「だから、それはなんですか?」 先ほどからそればかりで、一向にその理由を話そうとはしない。直江は眉を寄せた。 それから黙ることしばらく、二人は一番奥の練習室の前にやってきた。その練習室は他の教室と違い、明かりが点けられていなかった。だから部屋の中は薄暗く、誰かがいるとは思っていなかった。しかし、大きな窓ガラスから差し込む僅かな光が、中に誰かがいる、ということを辛うじて教えていた。 部屋の中にいたのは、一人の少年だった。 「あんたを呼んだ理由はあの子よ」 冴子は静かに言った。教室の中を見つめながら。 防音である練習室は音が決して外に洩れない。そして、中に居る少年はこちらに背を向けていた。だから冴子と直江の存在に気づかないのだろう。直江は顔も分からない、少し頼りなさげな背中をじっと見つめた。 「引き取ったのよ、あの子を」 「え?」 唐突な姉の言葉に直江は一瞬呆けた。突然の告白は直江を固まらせるには十分で、しかし冴子は気にせずにその先を続けた。 「彼の名前は、仰木高耶」 「…おう、ぎ…? どこかで聞いた名前ですね…」 「そうよ。彼は世界的に有名なバイオリニスト、仰木佐和子の息子よ」 「な…、」 音楽を嗜む直江にとって、その名前に聴き覚えが無いはずがなかった。自身も彼女のアルバムCDを何枚か所持しているくらいだ。直江は驚愕でしばらく声を出すことが出来なかった。 しかし、ふとあることを思い出す。たしか彼女は…。 「あんたが思ってるとおり、彼女は1年前に事故死したわ。居眠り運転をしていたトラックと衝突して…」 酷い事故だったことを覚えている。確か彼女は海外の演奏会に発つ前だったのだ。家族揃って、空港に向かっている最中に起きた事故だった。だが、息子がいるという情報は今まで無かったはずだ。彼女が何らかの理由で隠していたということなのだろうか。 「その事故のときたった一人生き残ったのが高耶くんよ。でも彼には他に身寄りが居なくて…。あの子の母親って実は私の大学の先輩だったのよ。仲もすごく良くてね。だから、どうしてもほおって置けなくて…」 初耳だった。そもそも直江が実家に帰ること自体殆どないのだからそういう話を知らなくて当然なのかもしれない。聞けば、冴子が大学1年の時仰木佐和子は大学4年生だったそうだ。たまたま入ったサークルに彼女が居て、気が合ってよく話をしたのだと。音大に通っていて、すでに多くのコンクールで優勝していた佐和子の存在を知らないということはなかった。けれど雲の上の存在だと思っていた。だからその時の驚きは今でも忘れないと冴子は言った。 「彼女が高耶くんを産んだのは19の時でね、2年遅らせて音大に入学したの。だから私は大学で佐和子さんに会うことができた…。仲良くなってからは何度か彼女の家に行って遊んだりしていてね、高耶くんとも何度も会ったわ。だから一人になった高耶くんを放って置けなかった…。お母さんには全部話して、承知の上で引き取ることを許してくれたわ。もちろん、うちの旦那にもね」 「そう…だんったんですか…」 「あんた、家に全然連絡してこないから言うの遅くなっちゃったけど」 「…すみません…」 「今更だけど、あんたは反対する?」 いつもの姉とは正反対に、少しばかり殊勝なことを言う。それにクスリと笑った直江は小さく首を振った。 「姉さんが決めたことに、俺は反対なんてしませんよ」 「…ありがとう」 「それで?今日俺を呼んだのは、あの子のことを話すためだけじゃないんでしょう?」 「そうね、どちらかといえばこっちの方が重要だったのよ。…高耶くんもバイオリンを弾くんだけど、その1年前の事故で左腕を負傷したの」 「それは…」 「その左腕を無理に使うから、腱鞘炎が酷いみたいでね。それであんたに診て貰おうかと思って、呼んだのよ」 ついてきて、と言った姉に従って直江は冴子の後を追った。向かうは練習室で、どうやらあの少年と直江を合わせる気で居るらしい。そして徐に、冴子がその練習室のドアを開けた。ふとその瞬間、音が聞こえてきた。 聴こえてきた音に、直江は驚いて目を見開く。なんという音だろう。音の洪水が、直江に押し寄せてくる、そんな印象だった。胸がざわめく。そんな彼の音をもっと聴いていたくて、知らずに直江は足を止めていた。しかし冴子はそんな直江の心情に気づかぬまま、直江を促して中へ進んだ。 彼は二人の存在に気づかずにバイオリンを弾いていた。外に面した大きな窓ガラスには夜の帳が下りようとしている空が映っている。そんな、明かりも点けない薄暗い場所で、彼はひたすら弓を滑らせていた。 綺麗な音だと、思った。しかしどこか頼りなく、寂しい音だった。なぜそう思ったのか直江には良く分からなかった。けれど、今初めて聞いたはずの彼の音がとても心地よく、それでいてどうしてか胸が締め付けられた。知らずに直江は胸元の服を握り締めていた。そしてそう思うと同時に彼の顔を見てみたいと、なぜかそう思った。彼は直江たちに背を向け、これから訪れる夜に曲を捧げている。何を思って、何を感じて、バイオリンを弾いているのだろう。どんな顔をして、どんな瞳で、弓を滑らせているのだろう。湧き上がる得体の知れない彼に対しての興味。今まで他者に興味を持つことなど無かった直江は、自分自身の感情に驚いていた。 そんな時、突如として部屋の明かりが灯された。電気を点けたのは冴子だ。それにハッとなったのは直江だけでなく、バイオリンを弾いていた彼も同じのようで、我に返ったように身体を震わせた。バイオリンを弾いていた少年はゆっくりとバイオリンを下ろすと、そのまま出入り口のドアを振り向いた。 直江は息を呑んだ。振り向いた少年はすでに少年の域ではなく、青年と呼ぶに相応しい容貌をしていた。しかし、直江が驚いたのはそのことではない。瞳が、彼の瞳が印象的だったからだ。深い、漆黒の鋭い瞳は切れ長で、自身の領域を侵された獣のようにギラギラと光っていた。その瞳に捕らえられれば金縛りに掛かったように引き込まれ身動きが取れなくなる。 そう、一瞬にして、彼の瞳は直江を捕らえたのだ。 心音が一際ドキリと、高鳴った。 >> 2 →BACK |