世間ではまだ気も狂うような暑さが残る9月中旬。

 我妻邸の自室で国枝はお気に入りの服に袖を通し、チャームポイントであるポニーテールを頭の高い位置で結ぶ。
 身支度を整えると、手土産に持った水羊羹をかごに突っ込みながら愛車の自転車にまたがり、勢い勇んで自宅を出発した。

 自宅から染谷邸までは僅か7、8分の距離であるが、この通いなれた道を通るのも久しい気がして、国枝はこのおよそ3週間にわたるジレンマを思い出していた。

 幼少の頃から親しくしていたレンが、事故によって面会謝絶状態にあると知らされた夜。
 半狂乱になりかけた国枝と染谷家、その他動揺する親族に、当主武永から直々に命令が下された。

 決して事故の追求をしないこと。
 レンが完治するまで、彼の病室へ見舞いには行かないこと。
 彼が染谷邸に戻るまでに、この件を忘れること。

 親族が集う藤代の里で、楔姫に次いで重宝される狗の男児が負傷したとあれば、話のネタはそれで持ち切りだったが、みな武永の命に逆らうわけには行かず、表立って口にするものはいなかった。

 レンと普段柄仲のいい国枝から何か聞きだそうとする者もいたが、彼女の口の堅さに皆諦めて帰っていく。
 本当に何も知らないと繰り返すのにも疲れて、次第に口封じのお達しを持ち出しては野次馬を追い払うようになった彼女は、心の片隅では、本当に何も知らない自分を情けなく感じていた。

――レン……今行くからね……!

 逸る心のままにペダルを漕ぎ、最短時間で染谷邸に到着した国枝は、自転車を殆ど乗り捨てるような形で勝手知ったる染谷邸の玄関口をくぐった。

「誰かいますかー? 我妻の国枝です! レンー?」

 そうやって声を張り上げながら家人を探しつつ二階にあるレンの自室へ向かい、階段を上っていく。そして長い廊下を真っ直ぐ渡って突き当たり右手にある部屋をノックもせずに開いた。

「レン! いる!?」
「わ、びっくりしたぁ」

 広い和室の中央で、座っていた白髪の少年が飛び上がる。
 ずれた分厚い眼鏡をかけ直して彼女を出迎えたのは幼馴染の少年だった。

「……ハク?」
「こ、こんにちは、国枝さん」

 おどおどと会釈しながら、コンプレックスらしい白髪を隠すためかすかさず帽子をかぶる彼は、阿久津家の狗、ハクだ。
 レンと同じ年に生まれ、同じ狗のさだめを受けてきた彼だが、常にビクビクと他人の顔を伺っているせいでレンよりも大分幼稚な印象を国枝は抱いている。

 しかし国枝が注目したのはその横に我が物顔で座り、テレビを眺めている女性だ。

「宝良(たから)様……?」

 呼ばれて、久々宮宝良が振り返る。

 はっきりとした目鼻立ちと、派手にカラーされた金髪の長い髪を背中に垂らした彼女は、アイスキャンディーを頬張ったままモゴモゴと何か挨拶らしき言葉を発して、また視線をテレビに戻した。

 10歳のレンやハクや12歳の国枝と比べ、今年で16になる宝良は里の子供らのお姉さん的存在であるが、国枝に限ってみれば手ひどくいじめられた記憶しかない強敵である。
 今も薄手のキャミソールにお尻の見えそうな短パンという悩殺的な出で立ちでレンの部屋を占拠しているわけだから、当然国枝の心中は穏やかではなかった。

「…………宝良様、ここで何してるんですか」

 棘のある国枝の声に興味を示したのか、宝良は飽きが来たアイスキャンディーをハクに押し付け、にやりと口の端を持ち上げる。

「べつにぃ。暇だったからレンのお見舞いきただけ。そしたらハクが付いてきたの」
「ぼ、僕が言いだしっぺだよ!」
「ああ? そうだっけ?」

 ギロリと睨まれて縮こまったハクがプルプルと首を左右に振る。

「……た、宝良ちゃんに付いて来た」
「良く出来ました。さすが私の忠犬」

 にこっと微笑んだ宝良に頭を撫でられると、尻尾でも振り出しそうな勢いでハクの目が輝く。
 その様子を呆れ顔で眺めていた国枝は、部屋の主を探しに再び階段へ向かう。

「レンならいないよ」

 きびすを返す国枝の背中に、テレビを見たままの姿勢で宝良がそう告げる。

「リハビリで外を歩くって。藤代の姫も一緒だったよ」







 背の高い木々に囲まれた散歩道は、青く揺れる枝葉が日陰を隙間無く作り出してくれる。
 まだ茹だるように暑い夏の日中だというのに、手入れされた森の中を歩く二人の間には涼しい風が時折吹いた。

 レンは片方の松葉杖を器用に使ってひょいひょいと低い段差を越えていく。一緒に歩いていても、先に息が上がるのは必ずといっていいほど華絵のほうだった。

「……レン、疲れたよ、休憩しようよぉ」

 またですか? と言う表情を一瞬見せたものの、華絵がへたり込むと少年は諦めてもう片方の手に持っていたバスケットを地面に置いた。
 華絵はその中からレジャーシートを取り出し、一際大きな木陰の根元に広げると、女中が用意してくれた水筒とサンドイッチを取り出す。

「ねぇねぇ、ご飯にしよう。お腹すいちゃったよ」
「そうですね」

 素直に従い、少年は少女の左横に腰を下ろす。

「暑くないですか?」

 少しだけ額に汗を浮かべている華絵の顔を覗き込んで、レンがさりげなくそう尋ねても華絵はニコニコと笑ったまま手元の水筒から視線をはずさない。少年は悔しそうに一瞬唇を噛んだ後、顔を華絵の耳元に寄せてもう一度同じセリフを言った。

「うん、暑くないよ」

 顔を上げた華絵が頷くと、レンも微笑み、彼はもう一度杖を使って立ち上がると今度は少女の右横に腰を下ろした。

「……あ」

 その気遣いを察した華絵が、申し訳なさそうに表情を曇らせる。

「ごめんね、私、何か無視した……?」
「いえ、ただ、こっちのが聞き取りやすいと思って」
「……ありがと」

 あの事件の爪跡は、レンだけでなく、華絵にも色濃く残っている。
 武永に殴られた際に鼓膜が破裂し、彼女は左耳の聴力を60%も失った。運が悪いことに鼓膜の穿孔が広範囲であったため、完全なる自然完治は望めず、それどころか慢性的に鼓膜の欠損を引き起こす可能性があった。

「ねぇねぇ、レンの怪我って、本当に歩いてた方が早く治るの?」
「そうです。代謝を高めれば治癒の速度もあがります」
「へぇ〜。私は怪我した時とか、風邪引いた時は、部屋で寝てくださいって言われるけどなぁ」
「狗は普通の人間よりも頑丈なので」
「ふーん」

 そういうものなのかと納得しながら、華絵は具のたっぷり挟まったサンドイッチを頬張る。

 あの日、躾の間から連れ出されていくレンの壮絶な姿を、ついに華絵が見ることは無かった。
 レンに見るなと言われていたし、部屋に戻ってきたマキに開口一番「そのまま目を瞑っていなさい」と命令され、華絵は一人部屋の隅で怯え続けた。

 だから搬送された病院でたくさんの機械に繋がれ、全身を包帯で巻かれてベッドに横たわる彼を見て、華絵ははじめてその凄惨さを目の当たりにした。
 あの場所でどれだけレンが自分の体を痛めつけたのか、それこそ蜂の巣になるまで刃を己の身に突き立て続けたのか、想像して少女はまた泣いた。泣いても泣いても涙が枯れることはなかったし、どんなに詫びても、許されることは無いのだと自分を責めた。

 それでも、彼が「狗」という人とは異なる力を持った生き物であることに、今は感謝している。その力が、瀕死の彼を救ってくれたのだから。

「……早く、鬼火が使えるようになるといいね。そしたら、傷すぐ治るよね?」

 両手でサンドイッチを持ちながら、少女がぽつりと呟く。

「さぁ。当分は使えません」
「でも、マキはそろそろ使えるはずだって言ってたよ」
「そうですか」

 さらっと答えて、レンは冷たい麦茶のカップに口を付けた。
 そうして唇を封ずることで、そっけない回答を誤魔化す。

――レンは、わざと治さないんだ……

 華絵はそう確信していた。
 決して鬼火を使うなと告げた武永の躾は、レンの中でまだ続いている。
 彼は今でもあの命令に縛られいる。

 当の武永は仕事のためにとっくに里を再び後にしたのだし、誰が監視しているわけでもないのだから、治してしまえばいいのにと思う。杖がないとまともに歩けないほどの不自由さは、さぞストレスに違いない。

 それに。

「レン、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「え?」

 きょとんと、こちらを見下ろす青い瞳に、華絵は頷いてみせる。

「今また、私の耳のことを考えてたでしょう」
「……」

 それに、聴力の一部を失った本人が不憫に思うほどに、レンの痛ましい気遣いを感じる。
 一緒にいる間、彼はベッドに寝たきりの状態であったときから、華絵の容態ばかりを気遣っていた。それを言葉や態度に出すわけではないが、何となく、そんな気配を華絵は察していた。

「どうしてそう思うんですか」
「何でだか分からないけど、そんな気がした」
「……」
「私はもう大丈夫だから、レンも早く元気になって」

 そう言って華絵がサンドイッチを頬張る。

――レンは色んなことをいつも考えてる。顔には出さないで、心の中で考えてる……
   どうして私、今まで気づかなかったんだろう……

 昔からの知り合いだけれど、あまり表情を変えないクールな男の子だと思っていた。

 綺麗な顔立ちはいつだって完璧で、物怖じしなさそうなところが大人っぽくて素敵だと思っていた。
 でも違った。彼はとても心配性で、休みなくグルグルと何か考えをめぐらせている。少し前までは絶対に読み取れなかったそれが、今はクリアに伝わる。

「……楔姫と狗の肉体は個体差はありますけど、影響を与え合うそうです」
「こたい、さ?」
「俺がもっと強くなって、もっと免疫力を上げれば、楔姫様の聴力も戻るかもしれない」
「ねぇレン、こたいさってなに?」
「個体の差ってことです。……えっと、俺とハクの違いみたいな」
「……なるほどぉ」

 明らかにピンときてない少女の様子を見て、レンが口の端を持ち上げる。

「まぁ、そんな感じです」
「レンは頭がいいんだね。もしかして、学校って所にも行った事あるの?」
「狗は、我妻養成所で公立学校と同じカリキュラムをこなしますから」
「かり、きゅら?」

 聞きなれない単語に、華絵の混乱はますます深まる。

 家の女中の子供たちは華絵の前で難しい話をしないし、それは大人たちも同様だった。
 唯一、姉の雪絵だけが対等に接してくれるものの、妹のあまりの出来の悪さに匙を投げ出すのも早い。

「学校、行ってみたいなぁ」
「そうですか」
「トウキョウって所にも行って見たい。お姉ちゃんが教えてくれたの。色んなお洋服が売ってるんだって」

 以前雪絵が見せてくれたファッション誌を思い出し、華絵がうっとりと宙を眺める。色とりどりの服が並んで、人形のように綺麗な女の人の写真がたくさん載っていた。

「いつか、行ってみたいなぁ……」

 夢見るような表情を浮かべている華絵の髪を、いたずらな風がさらってまぶたの上に散らせる。
 レンはその乱れた一筋を指ですくい、彼女の小さな白い耳にかけた。

「いつか連れて行きます。楔姫の願いを叶えるのが狗の務めですから」
「……ほんと? そうなの?」
「はい」

 風は今度はレンの額を撫でて、少年の穏やかで優しい笑みを露にする。その青い瞳に心を奪われてしまいそうになるのは昔からだけど、今はもうそれだけじゃない。言葉に出来ない複雑な何かを華絵は感じていた。

「なんでも言うこと聞いてくれるの?」

 美しい面立ちの彼と真っ直ぐに見つめ合い少しだけ気恥ずかしくなった華絵が、茶化すような声色で相手をからかう。

「で、……出来ることなら」

 やや身構えたように難しい顔をするレンがおかしくて、華絵は無理難題を浮かべた。

「そうだなー。じゃあ、私の代わりに毎日宿題してね。あとー、家の人はダメって言うけど、私テレビって見てみたい!」
「いいですよ」
「え! んー、んー」

 無茶なお願いをして困らせたいのに、レンは何を言ってもあっさり頷いてしまいそうで、華絵は頭をひねる。

「じゃあね、……レ、レンは大人になったら私をお嫁さんにする! ……とか……」
「いいですよ」
「えええ?」

 とっておきの無理難題まであっさり受諾されて、思わず華絵がきょとんと目を丸くする。

「レンてば、そういうのは簡単にうんって言っちゃいけないんだよ」
「俺にとっては簡単なことです」
「そ、そうなの……? うそだよレン、ごめんね。無理にうんって言わなくていいんだよ」

 望みを叶えるのが狗の仕事なら、こんなことは冗談でも言っちゃいけなかった。
 そう思った華絵が、真っ赤になった頬を隠すように俯いて膝を抱える。

「嘘じゃないですよ」

 木々の枝葉が揺れる。
 そのざわめきでレンの声は遮られた。聞き取れずに顔を上げた華絵の頬を掠めるようにして、少年の唇が撫でていく。
 瞬きも忘れた華絵は、その大きな黒い瞳で目の前の相手を見つめた。レンは笑っていなかった。だから華絵は、彼がふざけているわけではないことを知った。

 胸の鼓動は速度を増して、ただでさえ赤らんでいた頬がさらに熱を持つ。

「……私、レンにお願い事、もうしてた……覚えてる?」

 恥ずかしさで口ごもりながら何とか華絵がそう言うと、少年は少しだけ躊躇った後、薄い唇を開き、それを少女の左耳に寄せる。


「華絵」


 傷ついたはずの鼓膜から、そうやって名を呼ぶ彼の声がはっきりと伝わった。

 ポーカーフェイスの彼の頬に、僅かな赤みが差す。
 少女は、花のような笑みを浮かべた。