夜の闇に浮かぶ月明かりは真実だけを照らし出す。

 人の面の皮を被っていても、人の振る舞いを真似ていても、月明かりは容赦なくその本質を暴いてしまう。

 今男の目の前に立つそれは、人の猿真似をしている鬼だ。
 そう直感した。

 青白く発光する不思議なオーラも、口元から覗く鋭利な牙も、その全てが人外の証。

 それにしてもなんて美しい鬼なのだろう。
 風が吹くたびに長い頭髪が揺れるその様や、獰猛そうな青い瞳の煌めきたるや、夢のように神々しい。決して人では到達し得ない、異端の美貌。

 そして思う。今自分と対峙するあの鬼に、己のこの姿は一体どう映っているのだろう。
 醜く変形した肉体。歪んだ魂。すでに亡者と成り果てた己を見て、鬼は何を思うのだろう。

「……ァ、グゥ、ウ、ガ……」

 助けてくれ、と言った声は、肥えた獣の唸り声となって静寂に響く。
 鬼がわずかに瞳を細めるのを見た。まるでこちらを、憐れむように。

 やがて追い詰められたこの身に一迅の刃が振り上げられる。

 肉体は、記憶は、魂は、そこで事切れる。この世界に別れを告げる。
 今生の終わりに見たものは、切った刃で返る鮮血を浴びる鬼の瞳だった。
 それはやはり美しく、今際の際を飾るには十分すぎるほどだった。



『――……良くやった。下がって衛生員の指示を待て』

 耳にはめた通信機から告げられた声を聞いて青年は一歩下がった。
 足元に転がる切って捨てた肉塊は、すぐさま駆けつけてきた防護服姿の衛生員たちの手によってブルーシートにくるまれ、慎重に搬送されていく。それを遠目に眺めてる青年の衣服を、分厚い手袋をした衛生員は慣れた手つきで脱がし始めた。

 代わりに差し出された薄緑色のローブを着ると、青年は待機していた黒いライトバンの中に乗り込む。
 車中は二次感染を防ぐために特殊な改造が施されており、運転席と助手席が後方部分と完全に仕切られている。
 後部座席を全て取っ払った車内には、透明な硝子板で囲まれたスペースがあり、向かい合うようにして簡素なベンチが2つ置かれている。青年はその1つに腰を掛け、衛生員が隔離スペースに鍵をかけるのを確認しながら、用意されてあったタオルで顔の血飛沫を拭った。

『滅菌作業と検査がある。このまま病院に向かうぞ』

 運転席から告げられた声が、隔離スペースに設置されたスピーカーと、耳にはめ込んだ通信機の両方から流れる。
 青年は通信機を取り外すと、それを床に投げ捨てた。


 車は深夜の高速を駆け抜け1時間半後に目的地である病院に到着した。

 久々宮(くぐみや)私立病院は、深夜三時もすぎた来客を快く迎え、来訪者を裏口から通す。青年は衛生員や看護師に指示されるがまま滅菌室、検査室、診察室と順に進む。

 老齢の久々宮医師が彼に施す診察はいつも決まっている。
 まずは15センチ程も伸びた青年の鉤爪を鼻歌交じりに切っていき、やっと使い物になる指先で1メートルは伸びたであろう髪を1つに縛るように指示する。
 言われたとおりに青年が髪を括ると、最後にちらっと心拍数を見て、それで終わりだ。
 早く髪を切ってもらいなさい、と去り際に告げるのも同じ。3日前も、彼は同じ言葉を残して鼻歌交じりに去っていった。

「終わったか」

 診察室を後にした久々宮医師と入れ違うようにして、鳥の巣頭の中年男性がドアを叩き、部屋を覗きこむ。
 片手に青年のカルテを抱えていた男は、久々宮医師の席に腰を下ろすと、あろうことか病院内でタバコを取り出し、清々と火をつけた。

「ここでタバコ吸ったらまた嫌味言われますよ、阿久津(あくつ)さん」

 肺の奥まで深く吸い込んで白い煙を吐き出す相手を見て、青年が呆れたように告げる。
 知るかよ、と強気に返す阿久津宗一郎(そういちろう)は、くわえタバコのままカルテを机に広げ、青年にも見るようにと視線で促した。

「だいぶ鬼火が弱ってきてるな。検査でも、免疫機能がかなり低下してるのが分かる」
「はい」
「さっき現場で思ったんだが、感染者の首を斬る瞬間、太刀筋が一瞬詰まったように見えた。覚えてるか」
「はい。わずかですけど」
「お前の鬼火が錆びてる証拠だろう。分かってるとは思うが、なまくらでは首は切れん」
「分かってます」

 人事のように淡々と頷く青年を前に、阿久津はうーんと唸って、指先でペンを弄ぶ。

「……とりあえず薬増やしてみるか。アンフェタミン、忌避剤……抗SI剤あたりだな。それで改善しないようなら、……研究所に話を上げて応相談になるが」
「はい」
「お前に限っては重々承知だろうが、忌避剤を増量すればまた推定余命が縮む。異存はないな?」
「はい」
「……よし。じゃあ、今日は帰るか。疲れただろうから髪は明日でいいよな。お互い帰って休もう」

 車を回してくる、と言い残した阿久津を見送って、青年はぼんやりと診察室の天井を眺めた。
 太刀筋が一瞬ぐらついたことに、気づかれていたのは意外だった。ほんの僅かなブレではあったけど、やはり阿久津の目は誤魔化せないらしい。

 わずかに開いたカーテンの隙間から、窓ガラスに映った自身の姿が見える。
 簡素な椅子に座りながら、虚ろな瞳でこちらを見ている化け物。
 青年はそれを視界から追い出すようにして深い青の目を閉じた。

――助けてくれ

 異形の者が、そう言って涙を流す。
 どうしてやることも出来ない。せめて一息に葬ってやることしか。今はそれも、満足にこなせなくなってきている。

 あと何年この体は使い物になるのだろうか。
 一年でも長く生き延びたいと思う反面、今すぐ事切れたいとも思う。そうすれば面倒なこの世の全てと縁を切ることが出来るのに。


――「ねぇレン」 

 過去がまた青年の名を呼ぶ。鮮やかに蘇る笑顔は、どれだけ時が過ぎても色褪せることはない。

――「どうしてレンは、私のこと楔姫様って呼ぶの?」

 何も知らない幼い少女が黒い瞳で覗きこめば、彼は一歩も動けなくなる。
 楔は、あの世の異端をこの世に繋ぐ。
 いつだってとても固く、無情なほどにとても強く。


 ほんの少し自暴自棄になることすら、許してはくれない。