「デイリー新報(しんぽう)」は、発行部数わずか1万部程度の地方紙だ。
 全国紙含め約70ほど存在する新聞紙の中で、デイリー新報の発行部数は創刊時から常に最下位。
 いつ休刊に追い込まれてもおかしくない弱小新聞だった。

 目玉となる記事には共同通信や時事通信などから提供されたネタを取り扱い、それ以外は地方紙にありがちな地域密着のささやかなニュースを取り上げる。取材網も経費も貧弱な編集部にはすでに報道機関としての熱意もなく、ただ日がな一日決められたルーチンワークをこなすのみ。

 矢村亜紀(やむらあき)は今年デイリー新報編集部に配属された新米記者だったが、わずか3ヶ月足らずのうちに転職を考える程度には職場に漂う怠惰(たいだ)な雰囲気に辟易していた。

 それでも朝一番に出社し、書類が積み上げられた各々のデスクを簡単に拭き掃除する。加湿器の水を取り替え、鉢植えの観葉植物に水をやる。それから丁寧にフロアに掃除機をかけおえると、自分専用のマグカップに熱いコーヒーを注ぎ、それをすすりながら昨晩届いたメールにざっと目を通す。
 どれもこれも取り立てて急ぐような内容ではなかったが、その中に一通無題のメールを見つけて首を傾げた。見慣れないアドレスだ。

 どんなに急いでいても企業の代表として連絡を取り合うのであれば大抵は何らかのタイトルを入れるものだが、よほど慌てていたのか、単なるミスか。どちらにせよ受け取った側の心象は良くはない。

――私も気をつけなきゃ。

 そんなふうに自戒しながら、マウスのボタンをクリックしてメールを開く。

「デイリー新報様」

 本文は、そんな書き出しで始まっていた。



 大河原右近(おおがわらうこん)が出社したのは、新人の矢村亜紀よりも3時間ほど過ぎた昼時だった。
 彼はトレードマークと言えるボロボロの革のショルダーバッグを肩にかけながら、突っ掛けサンダルで編集部の扉を開く。昨晩は徹夜で麻雀をしていたため、目の下には大きな隈が浮かんでいる。

「大河原さん! おはようございますっ!」

 気怠い様子の大河原がデスクに座るより先に、コピー機の前に立っていた矢村亜紀が大声を上げる。彼女はコピー機から数枚のA4用紙を取り出すと、まだ入り口に立っていた大河原の元へバタバタと駆けよった。

「……なんだよぉ。朝っぱらからうるせぇなぁ」
「これ、見てください!」

 そう言って、矢村は手に持っていた用紙を大河原の目の前に差し出す。

「ああ? なんだこれ」

 寝ぼけ眼の目を細めて書類を見つめる。ミミズがのたくったような文字が並ぶその書面を見て、大河原は眉根を寄せた。彼は初め、読みにくいのは解像度の問題かと思った。文字の体をなしているのに、なかなか頭に入ってこない。

「これ、古文ですよ大河原さん。昔の変体仮名で書かれてます」
「……ああ……それでか」

 読めるわけねぇだろ、と一蹴して大河原はデスクに鞄を置く。そんな彼の後をぴったりとくっついて矢村亜紀は口早に伝えた。

「今朝メールで送られてきたんです。PDFファイルが添付されていて、その中身がこれだったんです」
「そうかい。おい矢村、コーヒー入れてくれ」
「もう! 大河原さんてばっ! ちゃんと聞いてくださいっ。これ藤代の古文書です!!」

 途端に目を見開いた大河原が勢い良く振り返る。
 それから矢村の握る書類と、ガランとした室内を交互に見やった。
 自分たち以外まだ誰も出社していないことを確認して、大河原は慎重に口を開く。

「……どういうことだ、矢村」
「分かりません。朝私のパソコンにメールが届いていたんです。うちの社内宛なのは間違いありませんが、差出人の名前はどこにも書いてありませんでした。それから、短いメッセージが書いてあって……」
「どけっ!」

 まだ言い終わらないうちに矢村を押しのけると、大河原は急ぎ足で彼女のデスクに駆け寄りメールソフトを立ち上げる。

「――――デイリー新報様。

突然ではありますが「藤代記録」を送ります。どうぞご覧になってください。
日記には、長年あなた方が追いかけていた真相のいくつかが記録されていることでしょう。

そしてもしあなた方が全ての真相を暴きたいとお考えになるのなら、
その時は本家藤代の孫娘にあたる人物をお訪ねください。
私の知る限り、彼女こそが鬼の伝承を暴くたった一つの鍵なのです――――」

 短い文面を、大河原は何度も何度も読み返した。
 このメールが本当は誰に宛てられたものなのか、大河原は知っていた。

「これいたずらですかね。でも藤代って、昔大河原さんが追ってたネタですよね……? その、前の編集部で……」

 言いづらそうにして口ごもる矢村の言葉に、画面に注視したまま頷く。

「藤代記録なら知ってるさ。そいつが本物とは限らないがな。昔それを探しに何度も静岡山梨くんだりまで出向いたが、…………あの私有地には虫一匹近寄れなかったもんだ」
「じゃあやっぱりこれは……大河原さんに宛てたメール、ですかね」

 かつて全国紙で名を轟かせた敏腕記者が、ある大物政治家の薄暗いルーツに目をつけ、そのネタを追いかけたために記者生命まで絶たれかけたのは業界では有名な話だ。

「鬼の伝承……って藤代武永議員の、生家に関する噂ですよね。かなり、その、オカルトレベルの」
「……ただの与太話だよ」

 そう言いながら大河原は鞄に入れていたUSB付きの外部記憶媒体を取り出し、それをパソコンに繋げるとメールと添付されたファイルを保存し始める。その作業が終わると、今度は矢村のメールソフトに残っていた受信データを念入りに消去し始めた。

「ちょっと大河原さん、何するんですか!」
「このファイル、まさか社内のサーバーに上げてないよな?」
「……上げてません。ただのいたずらかもしれないし、まずは大河原さんに聞いてみようと思って」
「良い判断だ。この件くれぐれも口外するなよ。命が惜しけりゃな」

 そう言って大河原はさっき脱いだコートを羽織り、下ろしたばかりの鞄を肩にかけ直した。
 呆気にとられている矢村の手からプリントした書類を全て奪い取ると「今日は戻らないぞ」と早口で告げて颯爽と編集部を出て行ってしまう。

「な、なんなの……」

 我に返った矢村が、しんと静まった編集部でボソリと呟く。
 せめてもう少し説明してくれてもいいのに、相変わらずぶっきらぼうで自己中なオヤジだ。

「私が教えてあげたんだから、礼くらいしろっての」

 そう悪態をつきながら、デスクトップに無造作に並べられたフォルダを開く。先ほど新規に作成したばかりのフォルダだ。タイトルは「大河原さんへ」と付けられている。矢村が咄嗟に付けたタイトルだ。彼が出社したら、フォルダごと大河原のパソコンに転送しようと考え、メールの本文と添付ファイルを別途保存していた。

 そのフォルダをダブルクリックで開き、PDFファイルを読み込む。

 古文は苦手だが日本語には違いない。
 5ページで綴られた変体仮名の文章をしばし眺め、いっちょやってみるかと矢村亜紀は腕まくりをした。