今を遡ること10数年。当時30代半ばに差し掛かろうとしていた大河原右近記者は、そのフットワークの軽さと多方面に渡るコネクションの太さ、強引とも言える交渉術を武器に記者街道を突き進んでいた。
大手全国紙に載るその日のビックニュースは大抵が彼が拾ってきたネタで、このまま行けば時期編集長の席も間近だろう。
編集部ではそんな声が囁かれ始めていた。
彼が得意とするのは主に政治に関するネタだった。政界には大学時代から彼とつるんでいた新進気鋭の議員が数名存在していたし、彼自身、学生時代から政治情勢に関しては常にアンテナを張り巡らし、独自の持論を掲げていたりもした。
つまり大河原右近とは、根っからの政治オタクだったのだ。
そんな彼が、その出馬から注目していたのが藤代武永議員だった。
その時点で65歳だった武永は、当時の国会議員の平均年齢が50歳前後だったことを考えれば、それが初出馬であることも相まって余計に目立っていた。
ましてや彼は藤代財閥の社長であり、大手富士白製薬の役員も兼任している。政界に足を踏み入れる際に家業の全てを娘婿に譲ったというが、世間的に名が認知されていたのはあくまで武永であり、娘婿などは所詮お飾りにすぎないことを世間の誰もが知っていたように思う。
日本の重鎮がついに政界に鳴り物入りで参入するとあっては、どんな鈍感な記者でも注目せざるを得ない。そんな世の流れもあって、大河原は普段の仕事の合間を見ては武永なる人物について調べ始めた。
今振り返って見れば、あれはただのポーズでしか無かった。
周りの記者が嗅ぎまわっているから、自分だけ何もしないのは落ち着かないという、そんな些細なプライドから始めたポーズだけの取材活動だった。
錚々(そうそう)たる武永の経歴ではあったが、今更調べたところで目新しい情報には行き着かない。分かりきっていたことだ。藤代武永は用心深い男で、過去をどれほど掘り起こしてもスネの傷ひとつ出てきやしないのだ。この様子なら、他紙の記者も大したネタは出せないだろう。そんな風に安堵していた矢先、大河原はある人物に出会う。
あれは雪の降りしきる凍えるような冬の夜だった。
厳しいスケジュールの中無事校了を終えた編集部で、上司に誘われた大河原は夜の街へ繰り出した。
根っからの風俗好きであった当時の編集長の強い希望で断りきれず、当時新婚であった大河原はしぶしぶその手の店にお伴する。
狭い個室に通された大河原を待っていたのは、透けた下着を身にまとった20代半ばの女で、「ひな」と名乗った。
ひなでもニワトリでも何でもいい、頼むから俺に触れてくれるなと懇願する大河原を見て、女が目を丸くする。
奥さんが大事なのねと言って、そういう人は案外多いのよと言って、彼女はどこか嬉しそうに微笑んだ。
店が定めた退出の時刻を迎えるまで、二人は色々な話をした。
話が彼の仕事のことに差し掛かった時、大河原は一瞬ためらったが、結局は自分が記者であることを白状し、重要なネタは零さないように、片手間に調べている藤代武永の話題を口にした。
若い女の子には政治ネタなどつまらない内容だろうと思いながらの軽口だったが、意外なことにひなは神妙な面持ちで耳を傾ける。
「……私、藤代の里の出身なのよ」
大方話し終えると、ひなが重たい口を開いた。
藤代の里なら大河原も知っている。静岡だか山梨だかにある武永出生の地だ。
「私、楔姫(くさびひめ)なの。……って、そんなの知らないよね」
「くさび、ひめ?」
初めて聞くその言葉に、大河原が首を傾げる。
「そうよ。特別な女児をあそこではそう呼ぶの。藤代の里には鬼がいてね、ずーっと昔から、一族でそれを飼っているの。ずぅーっと昔からよ。私たち楔姫は、鬼の飼い主なの」
田舎によくあるオカルトじみた伝承だろうか。わずかに興味を惹かれた大河原は頷きながら続きを促す。
ひなはニコニコと笑いながら語っていたが、むき出しになった二の腕やその肩が隙間なく総毛立っていて、大河原はそれに気付かないふりをした。多分彼女自身も気づいていないだろう。
「誰にも言ってはいけない事なの。だってこれは、お国とお家が決めた内緒の約束だから」
「お国って、それは政府のことかな?」
「そうよ大河原さん。これは誰も知らない本当のお話。でもあなたにだけ教えてあげる」
「……ああ」
「全てビジネスなの。たくさんのお金が動くのよ」
「…………」
「そして、たくさんの血が流れるの……」
――――武永様は怖い人なのよ。
囁くような声でそう言った彼女は、もう微笑んではいなかった。
ひなと言葉を交わしたのは、その時の一度きりだった。
一週間ほど間を空けて再度彼女の話を目当てに店を訪れてはみたが、ひなは既に退店しており、行方は従業員の誰も知らないようだった。店長の話では、彼女の最後の客は大河原であり、翌日からいきなり連絡が取れなくなったという。
消化不良を起こしたような胃のむかつきが続く。
ひなと出会ってから二週間後の月曜日。
ついに彼は取材の名目で出張日程を組んだ。
行き先は静岡と山梨の県境、藤代の里と呼ばれる秘境の地だった。
午後3時。
彼女から指定された場所は、久々宮病院の待ち合い室でにある受付から一番離れた窓際の長椅子だった。
朝一番からこの場所で井戸端会議を繰り返しているであろう老人にまじり、大河原は腕組みしながら過去に思いを馳せていた。
藤代のネタを追い続けて、もう何年になるだろう。
全ては当時風俗嬢であったひなとの出会いから始まったが、あの日とりとめもなく感じたもう二度と彼女に会えないかも知れないという予感は、結局当たっていたのだろう。
――もっと色んな事、聞いときゃ良かったぜ……
あれからずっと、そんなふうに悔やんでいる。
だからこそ、もう二度と放しはしない。奇跡的に掴んだ二度目のチャンスをみすみす棒に振ってたまるかと、胸の奥に強い決意を秘めながら過ごすこと十数分。
ふと、彼の横に誰かが腰を下ろす気配がして、大河原は神経を尖らせた。
驚いて振り向いたり、横目に視線を送ることはしない。
はために見れば、少女が彼の隣に腰掛けた時も、大河原は眉一つ動かさなかったように映るだろう。
肩の下まで伸びた長い黒髪の、色の白い少女だった。
黒っぽいインナーの上に白いセーターを重ね着して、灰色のロングスカートを履いている。スカートの裾から見える足元はベージュのブーツ。若い女性が冬場によく履くムートンブーツと言うやつだ。
横並びに座ったままチラチラと視界の端から覗き見る情報では、装いを確かめるので精一杯だったが、大河原は確信し、じっと息を潜める。
少女はまっすぐに正面を向いたまま微動だにしない。
だから大河原も黙ったまま、用意しておいた茶封筒を二人の間にそっと差し出した。
しばらくしてからA4サイズの封筒を指先で掴むと、彼女はそれを手早く白いセーターと黒いインナーの間の腹に挟みこむ。それからセーターのヨレを直すように裾を引っ張りながら立ち上がり、何事もなかったかのようにして歩き出す。そんな少女の後ろ姿を大河原は視線だけで見送った。
――「そして、たくさんの血が流れるの……」
あの日のひなの言葉が、今も忘れられないでいる。
藤代の全てを暴くその日まで、決して諦めはしない。そんな強い決意の瞳で、彼は小さくなっていく少女の背中をいつまでも見つめていた。
「どちらにいらしたのですか。探しましたよ」
待合室を後にした華絵は、背後からかけられた無機質な看護師の声に振り返る。
本当は飛び上がりそうなほど驚いたが、寸でのところでどうにか堪えた。
「ごめんなさい、待ち合いの自動販売機でこれを買っていたんです」
そう言いながら、右手に持った紙パックのオレンジジュースを掲げてみせる。看護師は少しだけ訝しげに目を細めたが、やがて納得したように頷いた。
「待ち合いには一般の患者さんもいらっしゃいます。二度と立ち入らないように以後気をつけてください。何かご所望の際には私共に声をかけてくださるようお願いしてあるはずです」
「……ごめんなさい。気をつけるわ」
「そうしてください。先生が診察室でお待ちです」
「はい」
厳しい口調で指示されて、華絵は彼女専用の診察室へと通される。
老齢の久々宮医師は、いつのもデスクに座り、ニコニコと笑顔を浮かべて華絵を出迎えた。
「今日は顔色が良いですね。二の姫(にのひめ)様」
彼女を二の姫と呼ぶのは久々宮の家の者の特徴だと、かつて久々宮医師が語ってくれたことがある。
華絵の母親である菖蒲(あやめ)と久々宮家は何かと縁が深く、彼女の娘である雪絵と華絵を、久々宮の家の者は皆自分の娘子のように愛しく思っているからだと、そう聞かされた。
もちろん華絵にはそのように深く愛されていた記憶などないが、その話を聞いた時は素直に嬉しかったのを覚えている。
「一週間ぶりですが体調はどうですか。先週いらっしゃった時はお風邪を引かれていらっしゃった」
「ええ、もうすっかり良くなりました。風邪と言っても……いつもの体調不良だと思います」
「そうですか」
笑みを浮かべたままカルテに走り書きをしながら、久々宮医師が頷く。
こちらへ越してから7年、足繁く通っている医師ではあるが、未だに彼が何の専門医なのかすら華絵は知らない。
彼とのコミュニケーションはいつも、聞かれたことに答えるだけの一方的なものだ。
それでも、愛想のない運転手やロボットのようなコンシェルジュ、能面のような家庭教師よりはよっぽどましではあるが。
「記憶の方はどうですか。何か引っかかるような事はありましたか」
「いえ、特には」
「そうですか」
再び久々宮医師は頷く。
「あのっ……」
ふいに思い立って、華絵は勢い良く口を開いた。
なぜそんなことが出来たのかは分からない。先ほどの記者とのやり取りで、まだ興奮していたせいだろう。
医師は普段人形のように大人しい少女が自分から口火を切ったことに驚いたようで、少しだけ目を丸く見開いて華絵を見やる。
「あのっ……姉のことなんですが……」
「雪絵様のことですか?」
「はい、私たちが誘拐された時のことです。姉は、一体どうやって亡くなったのでしょう。私が目覚めた時にはすでに葬儀も終わっていたので、……私は姉の死因を知らないのです」
少女の質問を聞いて、久々宮医師は笑顔を貼り付けたまましばし静止する。
「……雪絵様は、身代金の交渉の最中に下衆な輩の手によって命を落とされました。直接的な死因は、頭部を強く打たれたことによる脳挫傷と聞いております」
「脳挫傷、ですか」
「はい。それ以上のことは、分家の私どもには聞かされておりません」
そうですか、と呟いて華絵は俯いた。
姉は脳挫傷で死んだ。それもまた、華絵にとっては初めて知る事実だった。
――「誰もあなたから、あなたの人生の一部を奪い取る権利なんてないんですよ」
あの日大河原に言われた言葉が脳裏をよぎる。
どうしてそんなことすら知ろうとしなかったのだろう。こうやって聞けば簡単に答えは返ってくるのに。
たった一人の姉妹が、永遠にこの世を去ったその原因すら、突き詰めようと思ったことはなかった。
――私、本当の意味では知ろうとすらしてなかったんだわ……
失われた記憶を言い訳に、忘れてしまったからと理由をつけて、過去から遠ざかっていたのは自分自身だったのだろうか。
セーターの中に忍ばせた書類を守るように両手を腹の前に回して、華絵はぐっと奥歯を噛みしめる。
人形のように無機質に生きてきたのは、他でもない、自分自身の選択だったのかもしれない。