深夜一時を過ぎた頃。
シルバーの軽自動車で一般道を走りながら、もう一度携帯電話に手を伸ばす。
交通違反は承知の上だがどうしても連絡しなければいけない。
『――……おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない為、掛かりません』
ブチッと勢い良くボタンを押すと、矢村亜紀は苛立たしげに携帯電話を助手席へと投げつけた。
――ったくあのおっさん、どこほっつき歩いてんだか!
急ぐ気持ちとは裏腹に差し掛かる信号はことごとく赤に変わる。
人っ子一人居ない交差点で停車しながら、気付けば指先でトントンとハンドルを叩いていた。
同僚である大河原右近がまだどこかで仕事をしていることはわかっていた。
近頃の彼はとっぷり日も暮れた夕方頃に出勤してくる。
そういう時は大抵美味しいネタを見つけていて、深夜明け方までカメラ片手に張り込んでいるのだ。
――早く伝えなきゃ……
ようやく信号が青に変わる。
気の急くままにアクセルを踏み込んだ矢村の耳に、ガシャンと何かが倒れる金属音が響いた。
「えっ……!?」
思わず声を上げて助手席方向の窓ガラスから外を見やる。
歩道と道路の境目で、自転車ごと倒れこむ幼い少年の姿が見えた。まさか左脇に自転車が並んでいたとは思わなかったから突然の出来事にパニックに陥りかけたが、それを理性で食い止め、一瞬にして自制心を取り戻す。
「大丈夫ですかっ!!」
矢村は声を張り上げながら運転席から飛び降り、まだ倒れこんでいる少年の元へ駆け寄る。
その際に、助手席側のドアの表面に金属で擦ったような一筋の傷が付いているのが見えた。
おそらく停車時からかなり接近していたのだろう。しかし、この際車の傷などどうでもいい。
警察、保険会社……この車は社用車だからすぐに会社にも電話しなければ。
編集部は無人だから編集長の携帯に電話を……。
あらゆる考えが忙しなく浮かんではグルグルと頭の中を逡巡する。
そうしながらも伸ばした腕で少年の体を抱き起こし、もう一方の腕で自転車を歩道の上に乗せる。
「大丈夫です」
矢村に抱き起こされた少年は、事故のショックからやや脱力していたが、しっかりとした声色でそう答えた。
少年はまだ幼く、小学校の低学年程度に見えた。
「怪我はっ、怪我はない!?」
「はい、どこにもありません」
戸惑う矢村に少年がニコッと微笑む。子供ながらにこちらを安心させようとしているのだろうか。
「とにかく、警察を呼ばないと。ボク、ご両親は……」
そこまで言いかけたところでハッと目を見開く。
時刻は深夜一時過ぎ。住宅街からは遠く離れた人気のないこんな道端で、彼は何をしていたのだろう。
なぜ、わざわざ矢村の車の横にピッタリと並んで、信号待ちをしていたのだろう。そもそも、本当に信号待ちをしていたのだろうか。ぶつかるその瞬間まで、矢村は周囲に一切の気配を感じなかった。
「矢村さんですか?」
唐突に、少年が彼女の名を呼んだ。
赤い瞳が夜闇に煌めく。獲物を捉えた獰猛な獣のように、鋭く、強く。
「……なんで、私の名前を……」
言いようのない悪寒が全身を駆け巡る。
それにしても彼の浮世離れした容姿はどうだろう。色素の抜けきった灰色の髪に赤い瞳。
瞳孔は縮まり、針のように細く尖る。猫の瞳孔などによく見られる長円瞳孔だ。丸く開閉する人の瞳孔ではあり得ない形状をした瞳で、少年は真っ直ぐに矢村を見つめていた。
「知っていますよ。だってあなたにメールを送ったの僕ですから」
「…………」
「藤代記録はもう読んでくれました?」
もう一度少年が微笑む。
――……私、逃げないと……
理屈も道理も通り越して、彼女の本能がそう告げていた。
頭の何処かでガンガンと警鐘が鳴り響く。けれど足は石のように固まり、一歩も動くことが出来ない。
「あの人には感謝しているんです」
矢村の動揺など気にも留めない様子の少年が、落ち着いた声色で言う。
「でももっと本気になってもらわないと。それで考えたんです」
「…………た、助け」
「彼には強い動機が必要です。今よりももっともっと強い動機が」
「……っ……」
「藤代記録は読みましたか? それならば、僕が誰なのか、あなたには分かるはずだ」
藤代記録。
――そうだった……
矢村は凍りついた思考の角で思い出していた。
ずっとずっと、あの文章を解読していた。あまりにも突飛すぎる与太話、頭が痛くなりそうな複雑な異体字と、容赦なく使われる専門用語に途中投げ出したりもしたけど、それでもどうにか全部読んだ。
そしてそれを、大河原に伝えなければいけないと思った。
すぐにでも、伝えなければならないと思った。
――「この件くれぐれも口外するなよ。命が惜しけりゃな」
ああ、あの時。彼がくれた忠告に、もっと真剣に。
「さようなら、矢村さん」
視界の向こうで異形の鬼が笑う。
あれはこの世ならざるもの。決して招き入れてはならない。
誰も手招きしてはならない。繋ぎ止めてはならない。
――――そう伝えなければと、思っていたのに。
都心から少し離れた場所に「富士白第二ビル」はある。
全国各所に点在する大企業の自社ビルだ。
一切のテナントを募集せず、ポストすらも設置せず、正面玄関は昼夜問わずにシャッターが降ろされている。
そんな外界と隔てられたビルの様子を見ても、誰かが不審に思うことはない。
近隣住民は「富士白」と銘打たれた看板を見て「あの薬の会社か」と納得するだけだ。
世間に浸透したその名について、今更深く追求するものは居ない。
我妻国枝(わがつまくにえ)は、今日一日をそのビルの中で過ごしていた。
本来ならば大学は試験期間中で、自宅で勉学に勤しむ予定だったのだが、朝一番に上司から呼び出され、それから今の深夜に至るまで、ずっとこのビルに閉じ込められている。
そのせいでストレスが溜まり、彼女は本日15杯目となるコーヒーを持ってビル内をうろついていた。
「ああ国枝さん、ここに居たんですか」
リラクゼーションルームでテレビを見ながらカフェインを過剰摂取している彼女に、入り口から顔を覗かせたニットキャップ帽の青年が声をかける。
「阿久津(あくつ)さん、会議終わったみたいですよ。僕らも第3会議室に集合だそうです」
「……やっとなの?」
刺々しい声でそう答えれば、青年は困ったように曖昧に微笑んで頷く。
彼だって今日一日わけもなくこのビルに閉じ込められていたのだ。同じようなストレスを抱えていてもおかしくないのに。
「ったく。会議終わってから呼べばいいのに。無駄に17時間も過ごしたじゃない」
「阿久津さんはなんでもせっかちですからね」
「……あんたってお人好しね」
「はぁ、そうでしょうか」
冷たい目線を向けられて、ハクは乾いた笑いを零した。
彼は阿久津家の男児で、彼らのリーダーである阿久津宗一郎とは叔父と甥の関係に当たる。
いつだってヘラヘラとしていて、心の読めない奴。それが、国枝がハクに抱く印象だった。
昔は内気で泣き虫で、もうちょっと可愛げがあったものだが。
「あ、そう言えばさ、レンがどこにいるか知らない?」
「召集かかったんで僕も探してるんですよ。午前中は一緒にトレーニングルームに居たんですけど」
「じゃあ今もそこにいるわね」
まさか、と言いかけて、ハクは言葉を止める。
彼ならありえるなと思ってしまったからだ。
二人は急ぎ足でトレーニングルームの扉を開くと 本格的なトレーニング器具が揃ったフロアの隅で、一人黙々と腕立て伏せを繰り返す青年を見つけた。隣に立つハクもさすがに呆れ顔だ。
「……馬鹿なんだから」
そうぼやいて国枝は青年に近寄り、手近にあったスポーツタオルを彼の頭に落とした。
「いい加減おしまいにして。召集よ」
国枝がそう言うと、青年はしばらくそのままの体勢で静止した後、ゆっくりと床に寝そべる。
彼の汗で水たまりが出来そうな辺りの床を見下ろして、国枝はもう一度悪態をついた。
「ほんと馬鹿。トレーニングのし過ぎは筋肉を壊すだけなんだよ。こんなの何の意味もないんだから」
そう強く言い聞かせても、青年は寝そべったままリアクションを見せない。
当たり前だ。17時間もぶっ通しでトレーニングを続けていれば、もう立ち上がることだって困難なはずだ。
「……何の話なんですかね」
やがてくぐもった声が返ってくる。
起き上がる気力はないが、声を発する程度の気力なら残っているらしい。
「さぁね。それを知るために私たち今日一日ここで待機させられてたんだから、くだらない内容だったら阿久津のオヤジぶっ飛ばしてやるわ」
「まぁまぁ国枝さん」
物騒なことを言い出す少女にハクが苦笑いを浮かべる。
ハクにとっては同じ姓を名乗る身内だ。ぶっ飛ばされたら都合が悪いのだろうが、国枝には知ったことではない。
「多分、結構やばい話だと思いますよ。僕さっき表の様子を見たんですけど、いつのまにか久々宮(くぐみや)とか梶ケ谷(かじがや)の車も増えてましたから」
「なにそれ。本家筋大集合ってこと?」
「分かりませんけど、夕方くらいから続々と。国枝さん気付きませんでした?」
「全然。私途中から仮眠室で映画見て寝てたし」
そうですか、と呟いてハクが視線を床に寝そべる青年に向ける。
「レン様」
ハクの呼びかけに、青年が視線だけ持ち上げて見せる。
青い瞳は鋭利な刃物のように煌めき、相変わらず見るものを惑わす程度には美しかったが、僅かな翳(かげ)りを見過ごせるわけもない。「同類」だからこそ、ハクには彼の危うい状態が手に取るように伝わった。
「鬼火がひどく弱まっています。会議室へ向かう前に薬を飲まれたほうがいいと思いますよ。本家の人間が集まっているならなおさらです。……薬、僕持ってきますから」
そう言ってハクは踵を返し、トレーニングルームを後にする。
残された国枝はそんなハクのアドバイスを聞いて、より一層顔をしかめながら青年を見下ろした。
「レン、なんでそんな馬鹿なことばかりするの。自分を痛めつけて、どうするつもり」
「……そんなふうに見えますか」
「そういうふうにしか見えないわよっ」
やや語気を荒らげて少女は彼の頭の上に被せたスポーツタオルを剥ぎ取る。
そうですか、と小さく呟いて、青年は床に手をつき立ち上がる。ぐらついたのはほんの一瞬だった。立ち上がった彼は何事もなかったかのように背筋を伸ばし、汗に濡れたシャツを脱ぎ捨てる。
顕(あらわ)になった青年の白い肌には過去に負った無残な傷がいくつも刻まれていて、それを目にした瞬間国枝は痛みに耐えるようにして眉根を寄せた。
「……もう少し、自分に優しくしてあげて」
それは子供の頃から国枝がレンに言い続けてきた言葉だ。もうお互い聞き飽きただろうが。
「努力はしてます」
レンが答える。その答えもまた、お互いに聞き飽きた言葉だった。