その夜は、出来るだけ普通に過ごそうと決めていた。
動揺したりあたふたしたりせず、いつもと同じように過ごす。
華絵は午後6時から夕食の支度を始め、一人分こしらえた魚の煮付けと胡瓜の酢の物で6時半には夕食を取る。
7時に風呂の支度を始め、8時に風呂を出ると、ベランダの窓を開けて冷たい夜風に当たり涼んだ。
今日大河原と名乗る記者から受け取った茶封筒は、脱いだセーターに包んだままクローゼットに閉まった。
とても自然に出来たと思う。そうであることを祈るばかりだが。
茶封筒から中身の書類を取り出すのは容易に思えた。
冷たい風に当たりすぎて冷えたふりをし、何か羽織るものを探すためにクローゼットを漁ればいい。
上手くすればその時に取り出せるだろう。
問題はどこで目を通すかだ。
薄々気がついてはいたが、この部屋には監視のためのカメラが仕掛けられている。
いくつあるのかは知らない。場所も検討もつかない。もしかしたら盗聴もされているのかもしれない。
それが突飛な妄想とは思えない程度には、彼女の生活は常に家の監視下にある。
長年のその疑惑は、初めて大河原からの手紙が届いたことによって、確信へと変わった。
あの日以来、本が並ぶ棚に、積み上げていた洗濯物に、ベッドの枕の位置にわずかな違和感を感じるようになった。
そして華絵が外出から戻るたびにその違和感は訪れた。だから今日受け取った書類も、いつまでも持ってはいられないだろう。明日は小巻の家で料理教室が行われるから、どうにかして今夜中に目を通さねば。
月夜を見上げながら頭の中で冷静にシュミレーションする。
不思議と怖いとは思わなかった。むしろ、わくわくする。
もしかしたら自分は、自分が思うよりは度胸があるのかも。
そんな風に思いながら少女は窓を閉め、行動に移した。
部屋の中央で身震いすると、華絵はクローゼットに閉まった厚手のストールを引っ張りだす。
そのままそれを羽織り、デスクへ移動すると、毎日綴っている日記帳を開いた。
日記帳が、取り出した書類と同じA4サイズだったのは嬉しい誤算だった。
ほっと息をついて、どうかデスクの上だけは死角でありますようにと祈る。
これは彼女の推測だが、おそらくこの日記帳も定期的に誰かに見られているはずだ。無論見られても何の問題もないようなつまらない文章ではあるが、そのことから察するに、カメラでは日記の内容まで読み取れないのでは、と少女は考える。
監視カメラではデスク上の細部までは見えない。
今はその推測にすがるしかない。
華絵は腹をくくってストールの裏に隠した白いA4用紙を取り出し、それを開いた日記帳の上に重ねた。
パラパラと数えたところ手紙は計十枚に渡り、後ろ五枚は昔の字で書かれたなんだかよく分からない文章だ。
――……何なのかしら……
首を傾げながら、華絵は自分の学の無さを心の中で詫びる。
もしこれを読ませるつもりで渡してきたのなら、それは大河原にとってひどい誤算となるだろう。
とりあえず後ろ五枚については忘れることにして、再び一ページ目に目を通す。
誘拐事件について、と銘打たれた一ページ目には、過去の記録を洗いざらい調べ上げ、ついには警察の記録にまで手を付けてみたが、やはり藤代家が関与するような誘拐事件は過去一度も記録されてない旨がワープロ文字で淡々と書かれていた。
――久々宮先生が言っていたこととは違うわ
疑心暗鬼に陥りながらも、ページを捲る。
次の瞬間、大河原の手書きによる文字が視界に飛び込むようにして広がり、少女は目を見開いた。
熱を持った文字でびっしりと書き連ねられているその紙面を見て、思わずゴクリと喉が鳴る。
膨大な量の文字たちに圧倒されてしまったからだ。
読まなくてもすぐに分かった。
ここに彼の積年の思いと探究心が綴られていることは。
――――……以来、「ひな」と名乗る女性に会うことはありませんでした。
それから私は取り憑かれたようにして藤代の鬼の伝承について調べました。
里へも何度か足を運び、伝承を知る地元住民に取材を試みました。いくつかの情報は得られたものの、ひなという女性が与えてくれたもの以上の話を引き出すことは出来ませんでした。伝承は確かに存在しますが、それは不確かで、語り手によって多少色を変えてしまう程度のよくある言い伝えでした。
藤代記録の存在を耳にしたのもこの頃ですが、その所在など当時の私には検討もつきません。
それでも諦めきれずに隙を見ては藤代の伝承を追いかけ続けておりましたが、翌年の秋の事です。
突然、何者かの手によって妻が殺害されました。
居直り強盗による殺害でした。少なくとも警察の見解ではそうでした。
ですが私は、逮捕直前に自害したその強盗が、武永の側近であることを知っています。
当時、出馬前の武永が旧友とゴルフを楽しむ写真を私は入手しておりました。
スキャンダル性が皆無でしたのでその画を使っての記事はお蔵入りとなりましたが、そこに小さく映っていた側近こそが、居直り強盗本人であり、妻を殺害した男だったのです。
当時誰も私の声に耳を傾けようとはしませんでした。私は妻を殺害された哀れな夫です。
皆、私の気が触れたのだと思ったのでしょう。
今思えば、それは遠からず当たっていたのかもしれません。
妻を亡くし、初七日も過ぎぬ内に私は当時在籍しておりました編集部を退社いたしました。
上司が妻を亡くしてからの私の奇行を理由に自主退職を勧めてきましたので、それに従ったのです。
元より私に選択肢などなく、解雇と言って差支えがない程度には一方的な措置でしたが、私は遥か高みからの強い圧力を感じてなりませんでした。
藤代華絵さん、私は今なお藤代の伝承を追っています。
おそらく私は、皆が言うように気の触れた男なのです。
あの里に住む鬼に取り憑かれてしまったのかもしれません。
妻を亡くし、職を失い、それでも諦めきれずにいる自分が、もはや正気かどうかも分からないのです。
ひなは、ビジネスだと言いました。
私はそこになにか言いようのない薄暗いものを感じています。ただの伝承だと一笑に終わらせることが出来ない何かを、今も感じているのです。
上述しましたとおり、件(くだん)のメールには、あなたこそが全ての鍵を握る人物だと書かれておりました。私にとってはそれは到底見過ごせない重要なメッセージです。
藤代華絵さん、どうか、あなたが知っていることを教えて下さい。
どんな些細な事でも構いません。私に全てを聞かせてください。
どうか私を、この歪んだ宿命から――――
――――救いだしてください。文章はそう綴られて終わっていた。
彼の熱量がそのまま込められたような五枚のメッセージを見て、少女は放心したまま宙を見つめる。
鬼も、楔姫も、華絵にとっては初めて聞く言葉だった。
でもそんなことはどうでも良かった。大河原の痛ましい過去に触れ、少女の心が痛烈に痛む。
自分のためではなく、誰かのために過去を取り戻したいと思ったのは初めてだったが、それはずっとずっと強い衝動となって少女の胸に小さな火を灯した。
――私が全てを思い出せば、この人は救われるのかしら……
……到底そうは思えない。
でも、いくらかの慰めにはなるかもしれない。
そんなふうに考えながら、華絵はペン立てから一本のペンを引き抜く。
今度は白紙の日記帳を上にして、大河原からの書類はその下に覆い隠した。
「楔姫」「鬼」「鬼の伝承」「藤代の里」「藤代記録」
書類に何度も出てきた単語をあても無く白紙に綴る。
でも、何度書いてもまったくピンと来ない。
彼女の記憶障害は医者ですら見守るしか術はないと匙を投げたシロモノだ。こんな風にちょっと奮起した程度で劇的に変わるわけがない。
それでも、何とかしてあげたいと思う。
病院の待合室で見た大河原はよくいる中年男性といった風貌だったが、椅子に座って丸めていたあの背中に、どれほどの痛みを背負ってきたのだろうと思えば、悲しくて、焦燥感ばかりが募る。
意味もなくペン先をグリグリと走らせながら、目を閉じてかつて過ごしていたはずの故郷を思い浮かべた。緑に囲まれた穏やかな場所。花は四季ごとに色を変え、艶やかに咲き誇る。
子供たちの遊び場はどこにでもあった。
たくさん遊んだ。たくさんたくさん、遊んだ。
――「雪絵(ゆきえ)も学校に行って見たい」
自分とよく似た声で誰かがそう言った。
目を開けて、華絵は今脳裏をよぎった声を反芻する。
あのセリフをかつて聞いたことがある。
けれど記憶は霧がかかったようにぼやけていて、うまく思い出せない。
ふと、手元に視線を落とした。
いつのまにか強く握られていたペン先が、紙面を削るほどの筆圧でもって往復するようにギザギザの線を描いている。
いつの間にこんなに強く握っていたんだろう。
そう思った時、それが普段家庭教師が使うための真っ赤なボールペンであることに気付いた。
華絵は、ただのシャープペンシルを取ったはずだ。
まばたきも忘れて、今無意識に自分が描いていたものを見下ろす。
黒い線で描かれていたのは着物姿の少女だ。
四肢は力なく伸び、肩まで伸びた髪が散らばる。
もしかしたらこの子は、地面に横たわっているのかもしれない。
そして、その腹を割くようにして赤い線が執拗に引かれている。
乱雑な赤い線は女の子の周りにまで飛び散っていて、強い筆圧のためか紙は所々千切れていた。
華絵の瞳が、驚愕に見開かれる。
――「鬼ごっこをしようよ」
女の子はそう言った。
――「華絵、走って。もっと早く。振り返ってはだめよ」
待ってお姉ちゃん。私はそんなに早く走れない。
――「ほら、もう鬼が来る」
振り返ってはダメよと、女の子は繰り返す。
――「華絵、お願い。どうか―――を守ってあげて」
お願いよ。女の子は最後にそう告げて、悲しそうに微笑んだ。
雪が降っていた。
一面が白銀に染まったその世界で、彼女の鮮血が広がっていくのを見ていた。
どうして忘れていたんだろう。
華絵の瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
姉は死んだのだ。
あの日、白い雪の上で、赤い血を撒き散らしながら死んだのだ。
腹を割かれて、たくさんの血を流して、死んでしまったのだ。
凄惨なその記憶にすでに恐怖はなく、今となって悲しみだけが降り積もる。
あの日、あの里に深々と降り積もった白い雪は、翌日まで降り止むことはなく、里全体を包み込んだ。
そうやってずっとずっと長い間、深い業を覆い隠していたのだ。