緑色の背景に白文字で富士白第二ビルと書かれた看板を見上げながら、大河原は望遠レンズを付けたカメラを構える。
やや離れた位置から自家用車で張り込むこと10時間あまり。
明るかった空はすっかり夜の闇に包まれていたが、苦痛は感じなかった。
矢村のパソコンに届いたあのメールアドレスから、住所を割り出すことには苦労した。
金もかかったし、時間もかかった。いつもそういった仕事を請け負ってくれる業者が、中々首を縦に振ってはくれなかったからだ。付き合いの長いやつらのことだ。信頼関係はあれど、「藤代絡みの仕事をする時の危うい大河原」とは関わりたくなかったのだろう。
その気持も理解は出来たが、なんとか説き伏せ、余計に金を積み、調べさせた。
そして判明した送り先が、この「富士白第二ビル」だ。
こんなところにあの企業の自社ビルが建っているとは知らなかった。
登記簿を調べた所、ビルの責任者の名は「阿久津宗一郎」なる人物で、「阿久津」とはあの藤代の分家に当たる姓であることを知っていた大河原は、ここ数日ほとんど寝る間も惜しんでビルの近くに張り込み続けていた。
そして今、ビルのあたりがにわかに騒がしくなり始め、大河原に緊張が走る。
次々と黒塗りの乗用車がやってきてはビルの駐車場に入り込む。後部座席の窓ガラスは明度の暗いスモークフィルムが貼り付けられていて、車内の様子はよく見えない。
焦点を絞ったレンズの向こうで、東京ナンバーに混じっては山梨、静岡、富士山ナンバーの車両が駐車場に消えていく。
胸が高鳴り、カメラを支える指先はどうしようもなく震えた。
――何が起こるんだ……何が行われているんだ……
8階建てのビルを見上げる。
全ての窓ガラスには分厚いカーテンが引かれているから、中の様子をうかがい知ることは出来ない。今すぐ飛び込んで全てを見聞きしてやりという衝動と、それと押しとどめる理性とのジレンマが、大河原の頭の中で交互に渦巻く。
そんな風にして悶々としながら耐えることさらに数時間。
息を凝らしてビルを見守っていた大河原の目の前で、駐車場の横にある防火扉が開かれた。
彼は即座にカメラを構え、今防火扉から出てきた人物を捉える。
先を歩く小柄な着物姿の女性と、彼女の後を追うようにして出てきた背の高い男。二人はそのままビルの外に出ると、道路向かいにある公園の入口まで来て立ち止まった。
公園沿いの道路脇に停めてあった大河原の車との距離は、10メートル程度だろうか。
大河原は咄嗟に足元で膝を折って身を滑らし、頭をダッシュボードの影に隠した。
それから慎重に小型の集音器を取り出すと、イヤフォンを耳にはめ、豆粒程度のサイズのマイクを窓ガラスの隙間から垂らす。
人気がないのは幸いだった。
『――……と、深呼吸してください』
ノイズに混じって女の声が耳に届く。
その小柄なシルエットからもっと幼い少女かと思いきや、声は成熟した女性のものだった。
『あんな場所であんな殺気を漂わせるなど、言語道断です。レン様の些細な行いで、染谷(そめや)の家は簡単に窮地に追いやられるのですよ』
どうやら相手の男に説教をしているらしい。
――染谷……聞いたことあるな……
確か、分家の1つだったはずだ。
数多く存在する藤代の親類縁者を全て把握しているわけではないが、染谷は阿久津と並んで歴史の深い家だったと記憶している。
『すみませんでした』
静かな男の声が、そう謝罪の言葉を述べる。
若い男の声だ。まずはじめにそう思った。
それからそっとカメラを持ち上げ、公園の前で佇む彼らにレンズを向ける。
風に揺れる前髪の隙間から、青い瞳が見えた。
あれはコンタクトレンズだろうか。
だとしても、人の瞳はあんなに鮮やかに発光するものだろうか。
青年の不思議な青い瞳に焦点を向けたまま、大河原が生唾を飲み込む。
面立ちは美しく、一般人とは少しかけ離れたその容姿を見て、大河原は彼の雰囲気によく似た芸能業界の俳優やモデルを思い浮かべてみた。
しかし、すぐに思い直して一人首を振る。
――……居ない
こんなに美しく、浮世離れをした見目の男は初めて目にする。
白い肌も、寸分の隙もない目鼻立ちも、薄い唇も作り物のように繊密で、まるで人のふりをした人形のようだ。どんなに美しい者も必ずどこかに持ち合わせている人としての粗や生の泥臭さが、あの男には一切見られない。
そしてあの青い瞳だけが、まるで燃え上がる青い炎のように力強い生命力を滾らせて煌めく。
――どうなってんだ……
見れば見るほど、彼が人間とは思えなくなってきている自分に、大河原は薄っすらと冷や汗を浮かべ始めていた。
『鬼火がひどく不安定にゆれています。レン様、これ以上見過ごすわけには参りません。調査員としての任務を遂行するために、休息が必要です』
着物姿の女性が言う。声は真に迫り、その切実さを訴えていた。
『休息してどうにかなるものでもありません』
『ですがこのような状態で強行すれば、いずれは無理が生じます。あなたがあなたの力を使役できないうちは、レン様、あなたは狗として不完全とも言えます。……こんなこと、小巻だって言いたくはありません。でも、……梶ケ谷の件に限らずとも、そのようなお体で鬼を狩り続けるのは、あまりにも危険すぎます』
『俺が里に戻ることを武永様が許すとは思えません』
『……ですが』
『ここで使命を果たしているうちは、染谷の家は安泰です』
『……華絵様はどうなるのですか』
その名に、大河原がはっと息を呑む。
同時に、レンズの向こうで青年の瞳が揺れるのを見た。
『このままあの方を蚊帳の外において、それで終わらすおつもりですか』
『……』
『それがあなたの忠義ですか? それがあなたのっ……』
言いかけて、女性の瞳から大粒の涙が溢れた。
それでも彼女は気丈に歯を食いしばり、目尻の涙を拭い去る。
『……華絵様を囮にするという作戦など、小巻は容認できません。武永様が何をお考えになっているかも、理解したくありません。万が一華絵様の身に何かあれば……』
『そんなことはあり得ません。彼女は藤代の跡目です。決して危険に晒されたりはしない』
そう言い切る青年の顔を、女性が悲しげに見上げる。
『……作戦に、参加されるおつもりなのですね……』
青年は答えずに、けれど伏せていた視線を持ち上げて、雲に陰る月を見上げた。
薄闇の中、青い瞳が獣の眼光のような鋭い光を湛える。
『彼女を、鬼に食わせたりはしません』
空が紫色に染まる。
じきに日は昇り、容赦なくこちらを暴く白い光とともに朝がやってくるだろう。
そうは思っても、大河原は車中からぴくりとも動けずにいた。
公園の前にすでにあの二人の姿はなく、犬の散歩をする老人が、大河原の車の横をのんびりと通り過ぎて行く。
ずっと藤代の伝承を追い続けてきた。
胡散臭いと嘲る人々の失笑をかいながら、それでも追い求め続けてきた。
なぜそうするのかは分からなかった。ひなと名乗るあの風俗嬢が教えてくれた与太話を、それも随分とぼんやりした与太話を、大の男が目の色を変えて追い続ける様は、さぞ滑稽だったろうと思う。
自分の探究心の先にあるものは、ただの妄想かもしれないと、幾度も悩んだ。
それでも、今更引き返すには代償は大きすぎて、身動きがとれなかった。
そして気づいた。
これはすでに、復讐なのだと。
妻を死に追いやった藤代武永と、そして、自分への。
――『そのようなお体で鬼を狩り続けるのは、あまりにも危険すぎます』
――『彼女を、鬼に食わせたりはしません』
彼らの会話を聞く限り、まるでそれが実在しているかのような、そんな印象を受けた。
この現代社会で、文明社会で、あんな真面目な顔で、空想上の化け物の名を呼んで、あの女性は涙まで流していた。
馬鹿みたいだ。大の大人が揃いも揃って、鬼などと。
サイレントモードにしていた携帯電話のディスプレイが、点滅する。
表示されているのは、編集長の電話番号だ。
出なければならない。そう思った。
でも、体は凍りついてしまったかのようにして、指先1つまともに動かせる気がしない。
「……っ……」
目から溢れだす涙が、頬に流れ落ちる。
次から次へと溢れるそれを、拭うことも出来なくて、大河原は窮屈になってきた喉を鳴らした。
鬼は居る。
確かに存在する。それが何なのかは今はまだ分からないが、あの一族の者はそれを知っている。
そして、なんらかの方法でそれを狩り、家業の1つとしている。
わずかだが、見えてきた。
ようやく差してきた一筋の光明に、もう少し浸っていたくて、目を閉じる。
けれど鳴り止まない携帯の気配が煩わしくて、大河原は諦めて手を伸ばすと通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『やっとつながったか。大河原、すぐに社にもどれ』
「編集長すいません、実は今出先でして、一旦自宅に」
『いいから戻れ。矢村が死んだ』
「……は……」
『警察が事情聴取したいそうだ。矢村の携帯からお前の携帯に何度もかけた履歴が残っていて、心当たりがないか聞きたいらしい。いいな、すぐに戻れよ!』
矢村が死んだ……?
通話の切れた携帯電話が、力の抜けた手の平から滑り落ちる。
混乱する頭の片隅で、そう言えば張り込んでいる間何度も彼女からの着信があったことを思い出した。
――『朝私のパソコンにメールが届いていたんです』
あの日、何も知らない彼女が不思議そうに言った姿が脳裏に浮かぶ。
ああ。なんてことだ。
呆然としたまま、ほとんど無意識にエンジンをかけて車を急発進させた。
――『これいたずらですかね。でも藤代って、昔大河原さんが追ってたネタですよね』
――『この件くれぐれも口外するなよ。命が惜しけりゃな』
――――ああ。なんてことだ。