思い出すのは、四季折々に咲く花の鮮やかさだった。

 大切に、育てられていたように思う。
 父や母の顔はやはりぼんやりとしているけれど、世話をしてくれる人はたくさん居た。

 年の近い子供たちも。

 皆仲が良くて、あの里の中でたくさんの大人たちに守られながら、穏やかな日々を過ごしていた。何一つ、不自由な思いをすることもなく。



「――様、華絵様っ?」

 少し強く名前を呼ばれて、華絵は顔を上げる。
 箸を持ったまま停止してしまった少女を、向かってやや斜め左の席に座る小巻が不思議そうな顔で見つめていた。

「え……あ、ごめんなさい」
「いえ。……大丈夫ですか? ずいぶんぼーっとされてましたけど」
「ううん、えと、ちょっと……聞こえなかっただけ」
「あ、すみません」
 
 幼い頃の事件のせいで左耳の聴力を殆ど失ってしまった華絵は、左方向からの声を聞き逃すことが多い。それに気付いた小巻は悲しそうな顔で謝罪すると、椅子をずらして中央へ移動した。

「お鍋が邪魔でつい……。お許し下さい」

 中央にドンと置かれた鍋を脇にずらしながらそんな風に言う相手を見て、華絵は首を振る。

「ううん、ぼーっとしていたせいよ。小巻は悪くないわ」
「お体の具合でも? いつものお薬は飲まれてますか?」
「ええ、大丈夫よ」

 そう言って、少女は微笑みながら嘘をついた。
 主治医から継続して処方されている薬を、最近は飲んでいない。
 理由があってのことだが、そのせいで体がだるいのは事実だった。

「私なんかより、小巻のほうがずっと疲れているみたい」
「え! ……そう、でしょうか?」

 コクコクと頷くと、小巻は小さなため息を付いて箸をおいた。

「……ちょっと仕事のことで、疲れが溜まっているかも知れません」
「お仕事? ……家の会社、だよね?」
「はい」

 確か小巻は、富士白製薬の支店で事務をしていると聞いた。
 出会って間もない頃の話だ。

「お仕事、大変なの?」
「ええ、……いえ! あの、そういうわけではないのですが……ちょっと、問題が起こりまして」
「そうなんだ」

 社会に出たことがない華絵には、会社でのトラブルなど想像もつかない。
 悩みの相談に乗ってあげたい気持ちはあるけれど、頓珍漢なことしか言えないのは目に見えてるから、華絵も口ごもって俯く。

「……華絵様、もし良ければ、今度小巻の気分転換に付き合ってくださいませんか?」

 だから正直あちらから話題を変えてくれたことがありがたくて、華絵は二つ返事で了承した。

「良かった。行きたいところがあるんです」
「え……」
「花咲きの庭という、花園があるんです。一族の梶ケ谷(かじがや)家を覚えてらっしゃいますか? あそこの家がこちらで営んでいる庭園なのです」
「……ええっと、でも、それって、……外にあるんだよね?」
「はい。ですが梶ケ谷の私有地ですし、きっとお家も許して下さいますわ。それに……なんだか無性に花が見たくなってしまって。時期ではありませんけど……花咲の庭ならきっと冬の花が綺麗に咲いてると思います」
「…………」
「藤代の里では、一年中色とりどりの花が咲いていました。……夢のように美しかった」

 故郷に思いを馳せる小巻の前で複雑な心境の華絵がそっと唇を噛む。
 今までならそんな彼女の言葉から、華絵もまた想像上の故郷の光景を思い浮かべていただろう。でも今は違う。美しい花の色と同時に、思い出してしまったことがある。

「ねぇ小巻。お姉ちゃんは、どうして死んでしまったのか、聞いてる?」
「え……」

 うっとりと目を閉じていた小巻が、途端に目を見開いて表情を硬くする。
 以前久々宮医師に同じ質問をした時、彼もこんな風にしてわずかに緊張の色を見せた。それは、辛い過去の出来事に対する単なる条件反射だと思っていた。

「……雪絵様は、誘拐犯に頭を殴られて、それが致命傷になったと聞いております」
「凶器はなんなのかしら。……場所は?」
「さぁ……誘拐されていた場所は、小巻は聞いておりません。警察の方とやりとりしてらっしゃったのは武永様と華絵様のご両親だけです。小巻は、……ただの使用人ですので」
「血は、たくさん出たのかしら」
「華絵様っ?」

 物騒なことを尋ねる少女を、咎めるような声色で小巻が名を呼ぶ。

「……ごめんなさい。ちょっと、気になってしまって」
「なぜですか。記憶が戻られたのですか?」
「ううん。ただ、たった一人の姉の死因くらい、知っておくべきだと思ったのよ」
「…………」
「ごめんなさい。変なことを聞いて」
「……棺の中で見た雪絵様は、とても安らかな顔で眠っていらっしゃいました。ご遺体も、とても綺麗に整えられていました。それ以上のことを、小巻は知りません」
「……そう」

 違う。
 姉は頭を殴られて死んだのではない。
 容赦なく腹を割かれて死んだのだ。

「それよりも、花咲きの庭の予定を立てませんとね。病院がある水曜日は避けて……」

 内蔵は飛び散り、白い絨毯の上にばら撒かれ、顔は恐怖に歪んでいた。

「私はいつでもいいのよ。小巻の予定に合わせるわ」


 到底安らかとはかけ離れた、戦慄の瞳を見開いたままに。 







 その日の夜、華絵は家に戻ると、二度目となる大河原とのやりとりの書類を取り出して、いつものようにデスクへ向かった。

 一度目に受け取った書類は、細切れにした後何日かに分けてトイレに流した。
 後ろ5枚に綴られていた「藤代記録」なる文章はやはり読めないままだったが、持っていれば見つかる危険性があるので、捨てざるをえなかった。

 あの夜から、日記帳にはその日のページに髪の毛を挟むようになった。
 監視されていることはわかっていたが、確証が欲しかったのかもしれない。

 数日後華絵が小巻の家から戻ると、日記に挟んだ髪の毛は消えていた。

 それ見た彼女は、その夜書いた大河原への手紙の最後に「処分するのが大変なので、次からは枚数を減らしてください」と書き添えた。それから、監視されている旨も綴った。

 今回彼から受け取った手紙は、はがきサイズの薄い紙二枚で、封筒にも入れられていなかったから、少しは気が楽だ。カメラを気にしながらA4用紙の紙10枚と同じサイズの封筒をちぎって捨てるのは、中々に骨が折れる作業だったから。

――藤代華絵さん。単刀直入に申し上げます。

あなたの身に危険が迫っていることがわかりました。
くれぐれもご用心ください。それから、前回の手紙に、記憶障害のための薬を服用されていると書いてありましたが、よろしければその薬の名前を教えていただけませんか。
私の知る限り、そのような症状に直接作用する薬は存在しないので、念のためお聞かせください。
疑心暗鬼と思われるかもしれませんが、私は真剣にあなたの身を案じております。

調査の中で、一族と思われる人物から「あなたを囮にする」というフレーズを耳にしました。
それから、鬼という言葉も。まだ詳細は分かりませんが、間違いなくあなたに関することでした。
あなたを世話しているという親戚の女性が、普段と違うようなことを言い出したら、くれぐれも注意してください。
念のため、二枚目に私の自宅の住所を書いておきます。
簡素ですが地図も書いておきましたので、万が一の時はお使いください。

最後に。あなたがお姉さまの記憶を取り戻したこと、私も嬉しく思います。
それがどんなものでも、貴重な人生の一部には変わりありません。

――――大河原右近



 二枚目は彼の言うとおり、彼の自宅の住所と、手書きの地図が添えられていた。
 
 これを病院で受け取ってからもう三日になる。
 監視の目を気にしながら、何度も何度も読み返した。

 あまりにも内容が突飛だったので、彼はちょっと追い詰められているのでは、と心配になったりもした。
 だから、中々返事を書く気にはなれなかった。

 でも先ほどの小巻の様子を見て、疑念の種が芽吹く。
 姉の話をした時の一瞬の間。あの間は、あれは悲しい話に対する反射ではない。
 嘘をつくための心構えをしたのだ。
 久々宮医師がそうしたように、小巻も華絵に嘘をついた。



――「花咲きの庭という、花園があるんです」

 そう言って小巻は微笑んだ。
 この七年間、決められた場所以外への外出を許されたことは一度もない。
 そんな華絵に向かって、気分転換に外へ出掛けようと言った小巻。

 あの時、自分はうまく笑えていただろうか。

 大河原が鳴らす警鐘が、華絵の頭に響き渡る。
 かと言って、彼の話を鵜呑みにしすぎるのも危険だ。
 手放しで信じられる程、彼のことを知っているわけじゃない。
 

――でも……小巻のことだって、よく知らないわ……


 ずっと一緒にいて、会えば楽しく話すけれど。
 何も知らない。
 何も知らなかった。

 彼女が、あんな風に上手に嘘をつくことも。