朝起きた時から、違和感はあった。
元々病弱なたちで、慢性的な偏頭痛、貧血、喘息などの難儀な症状と共に生きてきた少女だったから、どうせまたどこか調子が悪いのだろうと勝手に納得してベッドから降りる。
それでも、洗面所の前でぐらつき、クローゼットの前でめまいを感じた時には、さすがに焦りを感じずにはいられなかった。
――薬を飲んでいないせいだわ……
はっきりと確信できた。
久々宮医師から処方されている常用の薬を全部やめてから今日で一週間。
体は明らかに不調を訴え始めている。
毎週水曜日に通っている病院だったが、今週は大河原との接触ができなかった。
何度言ってもふらふらと一般の待ち合いに行ってしまう華絵に業を煮やした看護師が、彼女にぴったり寄り添うようにして終始張り付き始めたからだ。
会わなくなれば、彼の存在は華絵の頭の中から薄れ始め、もし無駄足を踏ませてしまっているのなら申し訳ないなと思いながらも、彼の言葉の重みは霞んでいく。
処方されている薬に疑念を持っているらしい大河原の言葉が引っかかって服用を控えていたけれど、そろそろ飲んだほうがいいのではないだろうか。
そんな風に迷って薬箱に手を伸ばしかけた時、部屋のインタフーホンが鳴らされる。
「――――お時間です。ご用意ください」
インターホンのスピーカーから流れる硬質なコンシェルジュの声を聞いて、華絵は室内の時計を見上げた。
時刻は午前9時半。
小巻との待ち合わせまでに、あと30分しかない。
「今行きます」
そう言って、デスクの椅子にかけてあった白いコートを羽織る。
体は鉛のように重いけれど、歩けないわけじゃない。
「おはようございます華絵様。なんだか、不思議な感じですね」
きっかり9時に到着すると、すでにマンションの前に立って待っていたらしい小巻がそう微笑んで後部座席に座る少女の隣に腰を下ろす。
こうして外で会うのは初めてだったから、華絵も頷いた。
「お弁当を作ってきたんですよ。着いたらまず食事にいたしましょう」
大きなカゴの箱を膝に抱えて見せる小巻は、純粋に今日一日の行楽を喜んでいるかのように見えた。鼻歌まじりに分厚いスモークガラスの向こうの景色を眺めているさまを見て、華絵は一人混乱の渦に陥る。
全部自分の思い過ごしなのだろうか。
仮に小巻が華絵に嘘をついていたとしても、だから何だというのだろう。
姉の死因は、凄惨で目を背けたくなるようなものだった。
腹割かれて死んだのだ。それに比べたら、後頭部の殴打のほうがいくらか穏やかだろうと彼らは考えたのかもしれない。
精神的に未熟で幼い華絵を思いやっての事なのかもしれない。
――「くれぐれもご用心ください」
それでも、そう警鐘を鳴らす大河原の声は今も頭の片隅で響き続けている。
――何が本当なの……誰を信じたらいいの……
分からない。
それは、ずっと事の本質から目をそらし続けてきた自分の責任だ。
親族が経営するという「花咲きの庭」は、小巻のマンションからさらに郊外へ1時間ほど走らせた場所にあった。
普段は一般客が来園する花園は、冬の間だけは冬期特別スケジュールとなり、決められた日にちにしか営業をしておらず、今日は本来ならば閉園日だという。
「貸し切りですよ華絵様!」
ガランとした駐車場で車を降りた小巻がはしゃぐように言う。
華絵も目新しい景色が新鮮で、そんな小巻と一緒になってきゃあきゃあと声を上げてしまった。
七年ぶりの目新しい景色は少女の憂鬱な懸念など一瞬で吹き飛ばし、眼前に広がる花と樹木の香りは体調不良すらも忘れさせてしまう。
思わず駆け出した華絵は、日本庭園風に作られた広大な敷地内に忙しなく視線を向けて、あちこちに咲き誇る色とりどりの花に指先で触れる。
「ねぇ小巻見て! あっちに池があるわ! 橋がかかってるから渡れるのかしら?」
池を渡る赤い太鼓橋を指さして、華絵が背中に居た小巻に振り返る。
それを見た小巻は一瞬息を呑むようにして目を丸くし、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「……小巻?」
返事をしてくれない彼女を見ながら、華絵が首を傾げる。
「申し訳ありません。ただ少し、昔のことを思い出してしまいました」
「昔のこと?」
「ええ。……あの頃の華絵様はとても快活で、お外で遊ぶのが何よりも大好きなお嬢様で、……一日中、藤代邸の庭を駆け回ってらっしゃった。それこそ、お召し物が泥だらけになるまで」
「そうだったの?」
「そうだったんですよ」
深い慈愛と、ほんの少しの哀愁を微笑みに浮かべて、小巻が頷く。
「時折思うのです。全て夢だったのではないかと」
「……夢」
「でも夢ではない。華絵様はあの頃と何も変わらずに、私たちの側にいてくださる。全て失ってしまったような気持ちで失望していたけれど……そんなことはないんですよね」
小巻の言葉の真意がつかめずに、華絵はますます首を傾げた。
それでも、彼女があんまり悲しそうに言うから迂闊に言葉もかけられなくて、脇に咲いていた白い花の蕾を撫でた。
雪のような、小さな小さな白い蕾だ。
――「ねぇ、女中(じょちゅう)さん。学校ってどこにあるの?」
ああ、そうだ。
あの時も小巻は、今みたいに複雑な顔をして、笑っていたっけ。
切り取られた断片でしかない、過去のやりとりがふいに脳裏に広がる。
あの時の女中の姿と、今目の前にいる小巻の姿が重なる。
幼かった自分と、かつての小巻の日常のカケラ。
「……ずっとそばに居てくれたのは、小巻の方だわ」
白い蕾を撫でながらそう呟いた華絵を、小巻がハッとした表情で見つめる。
「そうよ……なんで忘れていたのかしら。ずっと、そばに居てくれたのに……」
「華絵様……記憶が……?」
震える声でそう尋ねる小巻に振り返り、華絵は曖昧に頷く。
「ただちょっと、思い出しただけ。昔小巻と話したことを」
「……私のことを思い出してくださったのですか」
「あの……そこまでじゃないんだけど、学校ってどこにあるのって私が尋ねて、小巻が顔を真っ青にしたことを思い出しただけ」
「まぁ……」
両手を口元に当てて、小巻が涙ぐむ。
慌てて駆け寄った華絵の前で、彼女はついには膝を折ってしくしくと泣き出してしまった。
「こんなに嬉しいことはありません、こんなに嬉しいことは……」
「こ、小巻ってば。大げさよ」
華絵の慰めも虚しく結局小巻はその後延々と泣き続け、しばらくして鳴り出した華絵の腹の虫を聞いて、やっとのこと小さく吹き出して笑った。
「私は娘時代に染谷の家を離れ、藤代邸に奉公に出ておりました」
庭園内のテーブルに昼食を広げながら、小巻はぽつりぽつりと語る。
どう見ても小学生程度の容姿の彼女が娘時代などと言うのが少しおかしくて、華絵はニコニコしたまま弁当と小巻の顔を交互に見やる。
「華絵様のお世話は殆どが上女中様のお仕事でしたので、私が日頃からお世話させていただくことはありませんでしたが、華絵様のことはいつも見守っておりました」
「へぇー、そうだったの」
美味しそうな唐揚げを前に、早くも集中力が削がれ始めたらしい華絵を見て、小巻がまたクスクスと笑い出す。
「どうぞ召し上がってくださいませ。華絵様の好物をたくさんつめてきましたから」
「ありがとう! 小巻のご飯美味しくて好きよ」
頂きます、と告げて箸を伸ばし、おかずを口に運ぶ。
そんな華絵を一心に見つめがら、嬉しそうな顔をしたり、ふと悲しそうに眉尻を下げたり。
今日の小巻は、ずいぶん情緒不安定な様子に見えた。
物憂げな彼女の視線から逃れるようにして、華絵は広い庭園のあちこちに視線を投げる。
すると先ほどの赤い太鼓橋にぼんやりとした人影が立っていることに気付いて、じっと目を凝らす。
「……ねぇ小巻、誰か居るわ」
箸を休めずに何気なくそう尋ねると、小巻は「はい」と頷いて、ゆっくりとこちらに近づく人物を出迎えるようにして立ち上がった。
「本日私たちの警護にあたる園の従業員です。女二人では、万が一の時に心もとないですからね」
「……そうね」
駐車場で待っている運転手は小巻の頭数には入っていないらしい。
一族の者に監視されることには慣れきっていた華絵は別段興味も示さず弁当の煮物に箸を伸ばす。どれも良く味が染みていて、本当に美味しい。
「華絵様、挨拶をさせて頂いてもよろしいですか」
小巻の声に、食事に集中していた華絵が視線を上げる。
普段は親族の方が華絵との会話を避けるものだから、まさかそんな風に言われるとは思わず、華絵は箸を置き「もちろん」と早口で答える。
慌てて立ち上がった彼女が振り返ると、先ほどの人影はもうすぐそこまで近づいていた。
上下が一体型になったつなぎの作業着は、園の制服だろうか。
薄暗い灰色で、ところどころ土に汚れている。
「お会いできて光栄です。姫様」
そう言った青年の声はとても小さかったのに、なぜか耳に直接響くような錯覚を覚えた。
額にかかるサラサラとした黒い髪に、ガラス玉のような青い瞳。
シャープな印象を受ける顔立ちは、やや鋭い大きな目元のせいだろうか。
それにしてもひどく整った美しさ面立ちだ。
たとえ薄汚れた作業着を身にまとっていても、そんなものはものともせず、強烈な青と黒のコントラストが彼の美貌を際立てている。
「……えっと」
その圧倒的な美の力に、華絵が思わず声を詰まらせた。
こんなに綺麗な男の人を、一度だって見たことがない。
「彼は親族の者ですが、華絵様とはあまり面識がないかもしれませんね」
小巻の説明に絶句したままコクコクと頷く。
「……びっくりしたぁ」
ついに堪えていた息を吐き出すようにして、華絵がそう声を発した。
その言葉が不思議だったのか首を傾げる小巻に少女は振り返り、信じられないと言った目つきで小巻と青年を交互に見やる。
「どうして小巻そんなに冷静なの? 私こんな綺麗な人初めて見たわ!」
「え……」
「あーびっくりした」
よほど衝撃だったのだろう。ふうふう、と息をはいて胸を撫でる華絵を見て、小巻は突然腹を抱えて笑い出した。
青年はビクリとも表情を動かさずに、大声で笑い続ける小巻を冷静に見やる。
「か、華絵様ったら……おやめください、笑い死んでしまいます」
「そうよね、ごめんなさい、失礼だったわね」
ケラケラと笑いながら告げる小巻の言葉にはっとした華絵が、慌てて青年に向いて頭を下げる。
初対面の人の前で、いくら褒めているとはいえ、いきなりその容姿について話しだすなんて失礼にも程がある。
「華絵と申します。どうか失礼をお許し下さい」
そう言って挨拶をする少女の澄み切った声に、青い瞳が細められる。
痛みに呻くような、眩しさから逃れるような、そんな一瞬の機微に少女は気付かない。
「レンと申します。……謝る必要などありません」
7年前と同じセリフを、同じ瞳が告げる。
静かな海の青を、高い空の青を映した瞳の中で、少女は花のように微笑んだ。