「七年も幽閉同然の生活をしてきたわりには、明るいのね」
設置されたモニターを眺めながら、ぽつりと久々宮宝良(くぐみやたから)が零した。
その隣で寄り添うように座っていたハクが頷く。
「花咲きの庭」に設置された従業員用のモニター室には、総勢10名の調査員が待機していた。ここから離れた場所にある駐在員のプレハブにはさらに10名、そのプレハブ小屋の地下に作られた銃火器用の倉庫にはさらに30名の調査員が息を殺して待機している。
調査員の中で、狗と呼ばれる特別傭兵はレンを含めて計4名。
通常の業務へ割り振る人員を最低ラインまで削って、ようやく集めた結果の4名だ。
「富士白第二ビル」が持つ80%の総力が、今日この場に集結している。
「もっと呼び寄せるべきよ。4人ポッチで、不安だわ」
「無理だよ。今居る狗は全国あわせても10名足らずなんだから。今日東京に4人集まってる事自体、ちょっとあり得ないよね」
のんきに言いながら、持参したポットでコーヒーを注ぐ相棒を見て、宝良が深い溜息を零す。
「とにかくもっと狗を増やさないと。そう言えば阿久津の家は春に女の子が生まれるんですって?」
「うん。でも、あまり期待はできないな。僕が生まれてまだ17年だからね。もともとウチは楔姫とは縁がないんだよ。根っから狗の家系なんだ」
「わからないでしょ。染谷だって元々狗ばかり排出してきたけど、楔姫が生まれたことだってないわけじゃないし」
「過度な期待は良くないよ宝良ちゃん。妊婦さんは相当なプレッシャーなんだから」
そっと窘めながらコーヒーカップを手渡す。
宝良は唇を尖らせながらそれを受け取ると、熱い湯気に頬を当てた。
彼女の頬がほんの少し血行を取り戻しほんのりとピンクに染まると、ハクは満足したように頷いて、トレードマークのニット帽を深くかぶり直した。それから、一際大きいモニターの前に座り、煙草をふかしている阿久津をチラリと見やる。
「……きっと上手くいくよ。おじさんが、全部うまくやってくれる」
「そうかしら。かなりピリピリして余裕ないって感じだけど」
吸い殻の山ができている灰皿をチラリと一瞥して宝良が鼻を鳴らす。
一理あるその指摘に苦笑して、ハクはささっと立ち上がり灰皿の中身を片付けてからまた元の位置に戻した。
その間も、阿久津が彼の気配に振り返ることはない。
確かに、相当神経を尖らせているようだ。
「……ほらね」
すごすごと席に戻ってきたハクに向かって、宝良が唇の端を持ち上げる。
「集中してるんだよ」
「余裕が無いってことでしょ」
「…………」
反論する気も沸かないのか、黙りこくってしまったハクの肩にもたれて、宝良が白い息を吐き出す。
「……今更あの二人を会わせること、よく武永様が了承したわね」
「それが今回の作戦の肝だからね」
「七年、狗と離れ離れって、どういう気持なのかしら……」
「華絵様は記憶が無いんだよ。別に、どうということも無いんじゃないかな」
「そうね……」
どうということもない。
きっと、どうということもないだろう。
「ハクは、私と七年会えなくても、平気?」
「僕? そうだなぁ……」
ニット帽の縁からこぼれる白い頭髪を指先でつまみながら、青年は琥珀色の瞳を伏せた。
「分からないよ。きっとすごく辛いと思う。宝良ちゃんのことが心配で、夜も眠れないと思う」
「……そう」
「でも、宝良ちゃんが幸せに笑って暮らしているなら、それは少し救いかもしれない」
「…………」
「ただ……僕は狗だからそれだけじゃ生きていけない。……宝良ちゃんを失ったこの世に、未練なんかないかよ」
そうね。
そう呟いて、宝良は愛しい狗の肩をぎゅっと抱きしめる。
ハクの言うとおりだ。
笑顔は幾らかの慰めになるだろう。でも、それだけだ。
狗はそれだけじゃ生きていけない。
「だって僕は、楔姫に愛されるために生まれてきたんだから……」
楔姫の愛情こそが、彼らの全てなのに。
日が暮れるまで庭園で小巻とはしゃぎ合っていた華絵は、少し休憩すると言って一人ベンチに腰を下ろした。
「何か温かい飲み物をお飲みになりますか?」
小巻の申し出を有難く了承すると、彼女はお茶の入った水筒をとりに荷物を置いたテーブルまで早足で駆けていく。
その後姿を眺めながら、華絵はひっそりと息をついた。
どうしてだろう。
楽しいのに、時間が立てば立つほど具合が悪くなってくる。
頭がひどく痛んで、吐き気までもこみ上げてきた。
「……薬を、飲んでないのですか?」
ふいに声をかけられて、華絵は自分の右横に立つ青年を見上げた。
ずっと影のように距離を保ちながら自分と小巻を見守っていたレンが、いつの間にか側に立っていて、華絵は慌てて笑顔を取り繕う。
「今朝バタバタしていて、飲み忘れたの」
「毎日欠かさずお飲みください」
その言葉にぎくっとして少女の笑顔がこわばる。
ここ数日薬をあえて飲まないでいることを彼が知っているはずもないのだが、なんとなく後ろめたくなって視線をそらした。
彼は決して饒舌な男ではなく、華絵も初対面の男性と気安く会話が出来る質ではないので、沈黙はすぐに訪れてしまう。
ましてや彼は美しい同年代の青年だ。
どうしても意識してしまって、ただでさえ具合が悪い上に気疲れまでするのは不毛だろうと、少女は席を立った。
「……えっと、ごめんなさい、ちょっとお手洗いに……」
歯切れも悪くそう告げると、日中一度だけ使用したトイレに逃げ込む。
さすがにここまではついてこないよなと出入口を確認した後、洗面台の鏡の前で青い顔をした自分を覗き込んだ。
「ひどい顔色……」
寒さで血行が悪くなっているのも相まって、血の気が失せたような色をしている。
――薬、持ってくればよかったな……
疑心暗鬼に陥っていたとはいえ、長年飲み続けた薬をいきなり止めたのはやり過ぎだったかもしれない。
せめて、薬の内容を大河原に調べてもらってからでも遅くはなかった。
「大丈夫ですか?」
俯いていた彼女が、顔を上げる。
今、とても小さな声で何か言われた気がした。
「大丈夫ですか?」
同じように問われて、華絵は硬直したまま目を見開いた。
鏡の中で、子供が笑っている。
少女の背に隠れるようにして立ちながら、鏡の中で視線が交差すると子供は嬉しそうに微笑みを浮かべた。
彼は小さな男の子だった。
灰色の髪は乱雑に切り散らかされ、瞳は血に濡れたようにして赤く煌めいている。
着ている服はボロボロで、もう何年も着古されているような印象を受けた。
「こんにちは、華絵様」
そして、あどけない声で華絵の名前を呼ぶ。
「……だ、れ」
一瞬幽霊かと思ったが、思い違いだ。
でも、何か言いようのない異質さを感じる。
あの赤い瞳のせいだろうか。
「あなたにこうして会える日をずっと夢見てきました」
「……誰、なの」
「それだけのために生きてきたと言っても過言じゃない」
「…………」
なぜだろう。声は幼いのに、表情はあどけないのに、もう彼をただの子供とは思えないでいる。とても恐ろしいものだと、本能が告げている。
「僕は雪絵様の狗。梶ケ谷のゼンと言います」
「……いぬ……?」
「そうです。あなたの狗に楔姫を殺された、哀れな狗です」
「いぬって……何……」
そんな風に尋ねる彼女を、ゼンと名乗る少年は笑い飛ばす。
「華絵様だって狗をお持ちなんですよ。あの青い目の鬼は、あなたの狗なんですから」
「青い目……」
それがレンのことを指していると気付くまでにはやや時間がかかった。
「狗とは、愛する楔のために、躾けられた忠犬のフリをする滑稽な鬼のことです。馬鹿みたいでしょう? でもそれが僕らの幸せなんです。僕らにとっては楔姫がこの世の全て」
「…………」
「……でも僕の楔姫はもう居なくなってしまった。あの青い鬼に殺されてしまったんです」
「……どういう、こと」
「見ていたでしょう? あの鬼が、僕の雪絵様の腹を割いた瞬間を」
「……」
「だから今度は僕が、…………レンから全てを奪い取る番だ」
赤い瞳が鋭い光を滾らす。
獰猛な獣のような異形の煌めきが、少女の怯える黒い瞳を捉えた。