ほんの一瞬のことだったと思う。
白く伸びた彼の鉤爪から、真っ赤な血の色をした炎が燃え上がる。
それは刃のように鋭く尖り、五本の指から伸びた切っ先が華絵の喉元をかすった。
彼女を突き飛ばす強い力がなければ、あの炎の刃に首を切られて死んでいたはずだ。
「きゃあっ……!!」
突き飛ばされた体が洗面台の縁に打ち付けられる。
腰に痛烈な痛みを感じながら倒れこんだ華絵の前で、彼女をかばうようにしてそびえ立つ青い炎に包まれた青年の姿が見えた。
うなじに掛かる程度だった黒髪は腰まで長く伸び、彼女の目の前で風もなく揺れる。
伸びた鉤爪からは、対峙する敵と同じようにして不思議な炎の剣が伸びていた。
「逃げてください」
背中を向けたまま青年が告げる。
声は先ほどと同じ穏やかで静かなものだったのに、地獄の底から発せられたようなおぞましい音圧で響いた。
「早く」
急かされて、華絵は無我夢中のまま立ち上がり、出口に向かって駆け出す。
視界の端に赤い炎を映しながら、必死で走った。
その途中で、彼女と入れ替わるようにして武装した集団がトイレ目掛けて駆けていくのを見たけれど、立ち止まる訳にはいかない。
必死で走る華絵は、前方に小巻の姿を見つけてうめき声のようなものを上げた。
「華絵様っ!!」
「小巻っ!」
抱き合うようにして合流した二人を、すぐさま武装した集団が囲む。
彼らは腕に銃を抱えていて、その銃口を華絵が逃げ出してきた方向へと向けた。
「もう大丈夫ですよっ! 大丈夫ですからね……っ!!」
腕の中でガタガタと震える華絵を、小巻が渾身の力で抱きしめる。
「なん、何なの、何なのあれ……っ」
「大丈夫です、大丈夫なんです」
「な、何が……」
「ただの不審者ですわ。でももう安全ですよ」
そう小巻が微笑んだ時、耳を劈くような爆音が響く。
レンガ造りだったトイレの壁が吹き飛び、そこから赤い炎に包まれた子供が飛び出してきた。そして、彼を追うようにして青い炎と、琥珀色の炎が続く。
「撃てっ!!」
華絵と小巻を囲んでいた武装集団が、その合図と共に銃口を持ち上げ、もみ合う炎たち目掛けて容赦なく発砲する。
思わず悲鳴を上げて耳を塞いだ華絵の横で、小巻は目を凝らして戦況を見守っていた。
「……ダメだわ」
彼女が小さくそう呟いたのが聞こえた。
その絶望的な声色にわけもわからないまま恐怖した華絵が、顔を上げる。
赤い炎に包まれた子供が、その切っ先で琥珀の炎に包まれた青年の腹を容赦なく切り裂くのが見えた。
琥珀の青年の体は甲高い叫び声を上げ、赤い血飛沫を吹き散らしながら宙を舞い、地面に叩きつけられる。
青い炎を身にまとったレンが、鉤爪の先に灯った炎を薙ぎ払うようにして子供目掛けて打ち放つが、それは煉獄の赤い炎の中に溶けて消えてしまう。
「俺も行くわ」
ふと、華絵の前に立っていた武装集団の一人が、そう言って銃を投げ捨てた。
彼は被っていた黒いヘルメットを脱ぐとそれも投げ捨てて、太陽のようなオレンジ色の髪をなびかせながら、それと同じ色の炎を身にまとって駆け出す。
絡み合う赤と青の炎の中、加勢するようにして飛び込んだオレンジの炎が子供の体を薙ぎ倒す。その一瞬をついて、青い剣先が子供の腹に突き立てられ、そのまま首元まで切り裂いた。
「きゃあああああっ……!!」
たまらずに華絵は絶叫する。
幼い子供の体は、今や斜めに2つに切り裂かれ、唯一つながった皮一枚でグラグラと首の上の頭を揺らしながら地面に倒れ込む。
「首を切れっ!!」
オレンジ色の炎に包まれた青年がそう叫ぶ。
追い打ちをかけるような青い炎が子供の首元に切っ先を突き立てると、それを制止するかのように淡青の炎をまとった男がレンの体を拘束する。
「殺すなっ! 任務を忘れたか!!」
淡青の炎をまとう男が、レンを怒鳴りつける。
「生け捕りは無理だ! もう再生しはじめてやがる!!」
オレンジの炎の青年が負けじと怒号する。
ぐらぐらと2つに裂かれかけていた体は赤い炎に包まれ、徐々にその綻びを埋め始めている。
「おいマキ聞いてんのかっ! こいつは鬼火を無尽蔵に使えるんだぞっ! こっちはハクだってもう使い物にならねぇってのに!!」
そんな青年の言葉を無視して、淡青の炎をまとった男が子供に伸し掛かったままのレンに命じる。
「いいかレン。お前の鬼火でゼンを焼き続けろ。意識が飛ぶまでは再生する間も与えるな」
「無理だ。逆に食われる」
「無理でもやれ。キラ、お前もだ。我々の鬼火でこいつを生きたまま閉じ込めるんだ」
赤い炎は今や破裂しそうなほど大きく膨れ上がり、子供の体を包むようにしてレンを飲み込みながら肥大化していく。
その炎の球体の表面を僅かな青とオレンジの炎がチラチラと燃えては揺れた。
「宝良! ハクを叩き起こせ!」
オレンジ色の髪をした青年が叫ぶ。
衣服や肌の表面は赤い炎に焼かれ煤けている。それでも彼らは熱がる素振りを見せずに、ただどうしようもない炎の圧力に弾かれまいと耐えているように見えた。
「……ハク、起きなさい」
小さな涙声だった。
思わず振り返った華絵の視線の先には、やや後方で腕組みをする女性が立っていて、彼女は大粒の涙を拭ってそう告げる。
「起きて戦うのよハク……ゼンを捕らえなさい」
彼女が独り事のように囁いたそれは、すさまじい力のぶつかり合いで轟音がひっきりなしに轟く戦場では、小鳥のさえずり程度のものだったはずだ。
近くにいた華絵でさえ、聞き取るのがやっとだった。
それなのに、彼方に吹き飛ばされ出血したまま倒れこんでいたはずの青年がゆらりと立ち上がる。
表情は華絵からは見えなかったけれど、とても意識があるとは思えないほどの危うい足取りで今なお膨れ上がる赤い炎に近づいていく。
「捕らえるのよ、ハク」
その声を合図に、巨大な琥珀の炎が燃え上がる。
それは一気に赤い炎を包み込み、琥珀の色の中で赤い炎は小さく圧縮されていくようにしぼむ。
「……いい子ね」
悲しそうに、女性が呟いた。
轟々と燃え上がる琥珀の炎は不規則な強弱に揺れ、それ全体を包むようにして青い炎とオレンジの炎が燃え上がる。ひも状に伸びた淡青の炎が、全てを封じ込めるようにしてぐるぐると彼らの火の表面を這うと、ついに赤い炎の子供は諦めたようにして四肢を地面に投げ出した。
「捕獲完了」
武装していた集団の男が、胸元の無線機に向かってそう報告するのが聞こえた。
燃え上がる色とりどりの炎が、少しずつ子供の体内に吸収されるようにして色を無くす。
それでも拘束力は変わらないようで、彼は地面に貼り付けられたようにしてついにびくとも動かなくなった。
「……ハクッ……!!」
そう言って駆け出した女性が華絵の真横を通り過ぎる。
彼女はひどくふらついている様子の白髪の青年の元へ駆け寄ると、その体を思い切り抱きしめた。
華絵と小巻を取り囲んでいた集団も、散り散りに去っていく。
ゼンと名乗ったあの赤い炎の子供は今や力をなくし、抱え上げたレンの腕の中でくたりと目を閉じていて、なぜか華絵はその様子から目が離せないでいた。
「……さぁ華絵様。もう終わりましたよ。もう、恐ろしいことは全て終わりました」
優しい小巻の声が耳に入っては通り抜けていく。
いつの間にか園内に乗り込んでいた無数の車が、次々と武装集団を乗せて引き上げていく。
炎をまとって戦っていた彼らも又、満身創痍の出で立ちのままたった白いバンに乗り込もうとしている。
「…………待って」
震える声でそう呟いたのは誰だろう。
一瞬そう思ったけれど、皆が自分を見ているので、私が言ったんだなと理解する。
周囲の者の視線を一斉に集めながら、華絵は地面に手をついたまま、抱え上げられているゼンを見つめて、もう一度口を開いた。
「……待って……その子を、離して」
すがるような視線を、ゼンを抱いたレンに向ける。
その視線にレンがひどく動揺したしたせいだろうか。炎に焼かれてボロボロの着物を身にまとった黒髪の男性が、レンを守るようにして片腕を宙に突き立て、華絵を睨んだ。
「……二の姫様、何をおっしゃるのです」
彼は誰だったろうか。どこかで見たことがある気がする。
「……お願い……その子を離して」
「姫様……?」
男性の顔が、怪訝そうに歪む。
「レン、……ゼンを逃して」
「だ、ダメだ! 彼に命じるなッ! 調査員! 姫様を連れて行けッ!!」
激しく動揺しながら男がそう叫んでも、伸びてきた無数の腕に肩を掴まれても、華絵は一心にレンの瞳を見つめ続けた。
「……レン」
「…………」
「ゼンを逃しなさい」
その瞬間、子供を閉じ込めていた見えない炎が、音を立てて弾けた。
琥珀の殻も、オレンジの布も、淡青の鎖も全て。
腕の中で身動ぎするようにして目を覚ました子供が、何事かと目を細める。
レンはそんな彼をゆっくりと地面に下ろすと、慎重に一歩下がって、それからまた華絵の瞳を覗きこむ。
「ありがとう、レン」
華絵の言葉に、レンは返事をしなかった。
ただ俯いて、静かにその青い瞳を伏せる。
「……どういう、つもりだ……」
状況を理解しきれずに、ゼンは硬直状態に陥った辺りを見回しながら言う。
「ゼン、逃げて」
それから、そんな風に言う華絵の言葉を聞いて、彼は少しだけ目を開いた。
やがて奇妙に静まり返ったこの状況がおかしくなったのか、クスクスと笑いを零す。赤い炎は再びその温度を上げて彼の周りに漂いはじめ、もう迂闊には手も出せない。
「そうか……華絵様が情けをかけてくれたんですね」
「逃げて。早く」
「……」
言われて、ゼンが再び辺りを見回す。
虚をつかれて呆然と見守っていた周囲の者が再び殺気立ち始めたのを知ると、彼は強く地面をけって駆け出した。
「追えっ! 絶対に逃すな!!」
着物姿の男性の怒号に武装していた集団が駆け出す。
女性を除くその場に居た全員が、ゼンを追うようにして庭園の遥か向こうにある竹林へと消えていく。
取り残されたように戦場で一人立ち尽くしていたレンは、そんな彼らの背中を見つめながら、けれど決して走りだそうとはしなかった。
「……か、華絵様……」
小巻が、少女の名を呼ぶ。
顔を持ち上げる勇気はなくて、華絵は彼方の竹林に視線を向けたまま、ごめんなさいと呟いた。
だって、思い出してしまったから。
あの時上手く聞き取れなかった、あの子の最後の願い。
――華絵、お願い。
――――どうか私の狗を守ってあげて。
雪絵は最後にそう告げて、悲しそうに微笑んだ。
今になってクリアに甦る、――それは彼女のたった一つの遺言。