里に降り積もる白い雪は、往年の業を白く染めた。
そして今、眠り続けた因縁の種が、息を吹き返すようにして再び芽吹き始める。
――「私の狗を守ってあげて」
あの日雪絵はそう言った。
怯える妹の瞳を見据えて、懇願するような声色で。
なんと答えたのか、思い出せない。
何も言えなかったような気もする。
それでも今、はっきりと甦った記憶を反芻するようにして、華絵は目を閉じあの日の過去に思いを馳せる。
「華絵様……」
扉を開けて部屋に戻ってきた小巻が、彼女のために用意した温かい飲み物をそっと差し出した。
会議用の長机とそれを囲むように並べられた椅子しかない殺風景な部屋でぽつんと一人座っていた華絵は、小巻の声に顔を上げ、疲れきった表情を見せる。
「……華絵様。阿久津家の宗一郎様を覚えてらっしゃいますか」
「いいえ」
少女はやや緊張気味の硬い声で答える。
「……そうですか。彼は阿久津家当主の甥に当たりますが、ええと、先ほどの花園での件で、少し華絵様からお話を伺いたいそうです」
「どうぞ……」
おかしな話だと思った。
七年間、小巻を除く誰一人だって華絵と接触したがらなかった親族が、今更彼女に話を聞きたいだなんて。
「富士白第二ビル」と掲げられたこの建物は、おそらく親族が所有するビルなのだろうが、華絵が足を踏み入れるのは当然初めてのことだ。
軍隊のように武装していた集団が、続々とこのビルの中に姿を消していくのを華絵は駐車場の車内から見ていた。
製薬会社のビルに、なぜ銃火器を構えた集団が帰っていくのか。
それに、花園で見たあの奇妙な炎をまとう青年たち。
彼らも武装集団に混じってこのビルに戻ってきている。
「……うちの家業は、製薬会社だったわよね」
温かい湯気を漂わせる湯のみを見下ろしながらポツリと零すと、お盆を抱いたまま俯いていた小巻の肩がビクリと跳ねる。
「え、ええ……そうです」
「……そう」
何よりも理解し難いのは、あの炎をまとう青年たちの異形の姿を見ても、それほど驚かなかった自分だ。
長く伸びた鉤爪。長く伸びた髪。長く伸びた牙。
何の科学的装置もないままに発生した炎が、肌や衣服に絡みついて燃える。
その業火は彼らを熱で痛めつけるどころか、その体を守るようにして轟々と燃え上がる。
一瞬の戸惑いを感じたはものの、どこかで納得してしまった。
生まれてはじめて見たはずなのに、恐怖すらこみ上げない。
だって彼らは「鬼」だから、人と異なるのは当然のことだと思った。
「……華絵様、お顔の色が真っ青です。お薬をお持ちしますから……」
「薬はいらないわ」
きっぱりと撥ね付けて、華絵は膝の上の拳を強く握る。
体は辛かったけれど、今なら無視することが出来る。とても強い怒りが、この心を支配しているうちは。
「……数日前、私の元に手紙が届きました」
静かな声で話しだした少女を見上げて、小巻がはっと息を呑む。
「差出人の名前は伏せます。その方は、私の身に危険が迫っていると教えてくれました。私を囮に利用する何らかの策略を耳にしたと」
「……華絵様、そんな……」
「小巻のことを信じてないわけじゃないけど……でもあの赤い炎の子供は……」
「違います、華絵様、違いますっ」
「あの子供は私を殺しに来たのよ。そしてあなたたちは彼を捕らえたかった。どうしてただの花園に、武装した集団が都合よく待機していたの」
「違いますっ! 話を聞いてください……っ!!」
「また適当な話で誤魔化すのっ!?」
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、華絵は拳を震わせて小巻を睨む。
「ただの不審者だとでも言いたいつもり!? 私が見たあの奇妙な戦いも、全て目の錯覚だと!?」
「……華絵、様……」
椅子の上で硬直してしまった小巻の瞳に薄っすらと涙が浮かび始める。
華絵はそんな小巻の視線から目を逸らすと、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「……手紙を、全部信じたわけじゃないわ。でも彼の言うことは本当だった」
「華絵様……小巻は、華絵様を……お守りしたいのです……」
「ならば嘘をつかないで。小巻のことを疑いたくなんて無い。小巻が嘘を付いているかもなんて……そんなこと思いたくないのにっ……」
小巻はすでに両手で顔を覆い、肩を震わせて泣いている。
そんな姿を見て、彼女を責めたいわけではないと気付いた。
ただ怒っているのだ。
理解し難い出来事に。筋が通らない理不尽に。失った過去に。
何かを知っていたかもしれないのに、何も思い出せない自分自身に。
「あまり小巻をいじめないでやってくれ」
扉にもたれかかっていた男性が、くわえていたタバコを指でつまんでそう言うと、華絵は驚いて振り返り後ずさる。
人がいるとは思ってなかったから、たった今現れた鳥の巣頭の中年男性を前に、少女は警戒を露わにして顔をこわばらせた。
「……はじめまして姫様。阿久津宗一郎と申します。幼いころは年中行事でしょっちゅう顔を合わせたもんですが、大きくなられましたな」
そう言ってボサボサの頭を乱雑にかき上げながら男が笑う。
「それにお美しくなられた。菖蒲様によく似てらっしゃる」
「……お母様に」
母の名前を耳にするのは久しぶりな気がした。
そもそも母の顔も思い出せない華絵は、似ていると言われてもピンと来ないし、他人事のように感じてしまうのだが。
「さて、と……」
そう呟いて、テーブルの上に置いてあったガラスの灰皿を手に取ると、彼は席について吸っていたタバコを消し、新たな一本に火をつける。
「色々とお話をさせてください」
そう言ってから、彼は自分の言葉にふっと笑みをこぼす。
何がおかしいのかと怪訝そうに目を細める華絵に、阿久津はやけに悠長な声色で告げた。
「いつかあなたに、このセリフを言う時が来るだろうとは思ってました」
「…………」
「お話をしましょう華絵様。あなたの疑念や怒りは最もだ。納得の行く説明が、あなたには必要なはずです」
真っ直ぐに見つめてそう言った男の前で、華絵は一瞬ためらった後に頷き、腰を下ろす。
その通りだ。今の自分には、納得の行く説明が必要だ。
嘘や偽りではなく、たった一つの真実が。
――――あれは、我々一族に仕える狗なのです。
彼はそんな風に切り出して、宙を見つめるようにタバコの煙を燻らした。
「見られてしまっては、もう隠しようもありません。またその必要もなくなりました。あなたにだけ当家の秘匿が伏せていたのは、他でもない武永様のご意向でしたが、今回いかんともし難い事情があり、そうも言ってられなくなったのです」
「お祖父様が……」
普段は政務にかかりっきりの祖父だったから、まず彼の名前が出たことに驚いてしまう。
家のことにも、自分のことにも、あまり関心がないのだと思い込んでいた。
「そうです。なんといってもあなたは特別な娘さんだ。我々が抱える古来よりの因縁とは、離れたところに置いておきたかったのでしょう」
「……」
そうなのだろうか。
武永に愛情をかけられた覚えのない華絵が、困惑すように視線を彷徨わせた。
そんな華絵の戸惑いは無視して、阿久津は言葉を続ける。
「狗とは、あなたが先ほど花咲きの庭で見た鬼火を宿す男たちのことです」
「……鬼火?」
「彼らは人のような成りをしておりますが、明確にはまったく別次元の生き物です。あの生き物の発祥はそもそも江戸の時代にまで遡りますが、……今は割愛します。彼らは断続的に藤代の血縁者の中に生まれ、生まれ持った異端の力でお家に仕えてきました」
「…………」
「よく躾けられた従順な鬼を、我々は狗と呼びます」
「狗……」
「そうです。これは、まれに外に生まれてしまう鬼の成り損ないと区別をするためです」
「……外でも、鬼が生まれるの?」
華絵の言葉に、阿久津が深く頷く。
「成り損ないとも言います。もとより鬼とは凶暴で凶悪な生き物です。彼らにはわずかばかりの知性しかありません。この世で初めは人の姿を真似ても、その本性はすぐさま露わとなり、やがて猿真似にも飽きると殺戮の限りを尽くしはじめます」
「…………」
「それを未然に防ぎ、成り損ないの処分を行うのが、藤代の狗の古来よりの務めです」
そこまで言って、阿久津がタバコを灰皿に押し付ける。
鼻につくような煙の香りを嗅ぎながら、華絵はぼんやりと先ほどの子供について考えていた。
灰色の髪に赤い瞳。異形の者が見せる恐ろしい重圧。
「花咲の庭であなたを襲ったのは、かつて私たちが飼っていた狗でした」
「……あの子が……」
「もう狗とも呼べませんがね……。彼はとっくの昔に自我を失い悪鬼となりはて、里を追放されています」
「どうして、そんなことに」
「当然の成り行きとも言えます。我々藤代一族のみが鬼を飼い慣らすことが出来る重要なポイントとして、彼らを常に戒め服従させる楔姫という存在があります。鬼が生まれながらに無条件に固い忠誠を誓う存在。あなたもそうです、華絵様」
楔姫。
そうだ。あのゼンと名乗った子供も言っていた。
狗とは、愛する楔のため、躾けられた忠犬のフリをする鬼なのだと……。
「楔姫もまた藤代の一族にしか生まれません。つまり我々の一族のみが、この世で唯一鬼を飼うことが出来るのです」
「……」
「楔姫を失えば狗は獰猛な獣同然。話も通じないし理性もないただの化け物なのです」
「あの子の楔姫は……お姉ちゃんだったのね」
そうです、と頷いて、阿久津が深い溜息をついた。
「当時は……雪絵様の死についてまだ幼いあなたに事実を告げるわけにも行かず、武永様のご指示もあって、我々は誘拐事件で雪絵様は命を落とされたとあなたに説明しました。それは、あなたを外敵から囲うようにするための都合のいい理由付けともなったからです」
「……でも本当は違うんでしょう? 私、お姉ちゃんが亡くなった時のこと、思い出したわ」
「ええ、違います。雪絵様は、…………」
「お姉ちゃんは、腹を割かれて死んだのよ、私の目の前で」
冷静な自分の声が信じられなかった。
心臓は早鐘を打っているし、握った両手は震えていたのに、やけに淡々とした声が室内に響く。
「……そうです」
観念したように、阿久津が答える。
「……華絵様、雪絵様を殺したのは、あなたの狗でした」
「え……」
「染谷のレンはその後地下に長く幽閉され、彼と引き離すためにあなたはこの地へと送られました」
「……それは、本当なの? だからあの子供は、私を狙ったの……?」
「狗が姫の親しい者に牙を向くのは昔からままあることでした。レンはまだ幼く、あなたへの独占欲を抑えきれなかったのでしょう。その場合は大抵成り損ないとして処分されますが、なんといっても彼は本家跡目である華絵様の狗です。そうそう簡単には捨てられませんでした」
灰色のつなぎを着て、挨拶をしてきたあの美しい青年を思い出す。
それから、異形の姿へと変貌したあの青い瞳も。
今日はじめて出会ったと思っていた。
何一つ疑いもせずに、わずかな引っ掛かりすら覚えずに。
「狗は楔姫なしに生きては行けません。我々はもうずっと、ゼンの死亡を信じて疑わなかった」
「……でも彼は生きていたのね」
「はい。それで、彼を呼び寄せるために、わざとあなたを無防備な状態で外に連れだし、囮にしました。ただひとつ言えるのは、小巻はこの作戦に最後の最後まで反対し、終始あなたの身を案じては怒り続けていました。……どうか彼女を許してやっては下さいませんか」
そう言って、阿久津の視線が小巻に注がれる。
まだ肩を震わせて静かに涙を流している小巻を見て、華絵はそっと頷き、隣に座る彼女の手に自身の手を重ねた。
「……小巻。大きな声で、責めてしまってごめんなさい」
「華絵様……華絵様……申し訳ございません……」
その手に縋りつくようにして、小巻がむせび泣く。
家の事情でどうにも出来なかったであろう彼女の立場を考えれば、先ほどの自分の態度がどんなに酷な振る舞いだったかを思い知り、華絵もまた俯いて謝罪する。
「華絵様……どうか、どうかレン様もお許し下さい。分別の付かない、幼い子どもだったのです。どうか……どうかお許し下さい……」
「小巻……」
怒りも悲しみも沸かなかった。
彼が姉を殺害したと言われても、ピンと来ないせいだろうか。
「……少し、考えさせて。今日はとても……疲れたから……」
激情が鳴りを潜めれば、どっとした疲れと体調不良が華絵を襲う。
頭が痛くて、もう起き上がっているのも辛いほどだ。
阿久津は彼女の警備上の観点から、しばらくビル内の施設に泊まり込むことを提案し、どうせそれもすでに決まっていることなのだろうと察知した華絵が素直に頷く。
「分かりました」
すでに入り口に待機していた白い制服の職員が、立ち上がった彼女をエスコートするように先を歩く。
どこにいても結局、自分は家の監視下にあるのだ。
何を知っても、何を聞いても、全ては一族の手のひらの上。
――許すも許さないもないわ……
阿久津の話を聞きながらそう思った。
全て自分に関わることなのに、そこに華絵の意思などひとつもない。
飼われていたのは、狗だけじゃない。