記されていた住所は、郊外の住宅地にある洋風な造りの一軒家だった。
 表札に彫られた「大河原」の文字を見て、間違いないと華絵が頷く。

「……かなり、非常識な時間帯よね」
 
 そう言いながら呼び鈴の前で躊躇う彼女を見て、黙って見守っていた青年が腕を伸ばし、容赦なく深夜の家屋にブザーを轟かせた。

「……どなたですか……」

 しばらくの間を空けて、怪訝そうな家主の声が返ってくる。
 深夜も二時をとうに過ぎた丑三つ時。当然の反応だろう。
 華絵は慌ててレンを押しのけ、潜めた声で自分の名を告げた。

「華絵さん!?」

 すぐさま開かれた扉の向こうで、寝間着姿の大河原右近が目を丸くする。

 白い着物姿にスリッパという出で立ちの少女と、その後ろに立つ男を交互に見やって、それから周囲を気にしつつ彼らを家の中へと招き入れた。

「えっと、彼は私の親戚で……」
「知ってますよ。以前富士白製薬のビルで見かけたことがある。こんなに目立つ男もそうそう居ませんからね。まぁとにかく、上がってください。玄関では冷えるでしょう」

 いつの間にレンを知っていたのだろう。
 それを不思議に思いながらも、華絵は大河原が案内するリビングへと進む。

 彼は突然の訪問に驚いてはいたようだが、どこか覚悟もしていたようで、一族の監視のもとから逃げてきたと正直に打ち明けた華絵の話に冷静に頷き、自分もリビングのソファに腰掛ける。

「……つまり、逃げるような何かが起こったということですか」

 到底寝起きとは思えない鋭い眼光で大河原が尋ねれば、華絵は素直に頷き、それからゆっくりと深呼吸をした後、昼間「花咲きの庭」で起こった出来事を彼に打ち明ける。

 その話を聞きながら山ほどの疑問を目に浮かべる相手を見て、そのまま阿久津から聞いたばかりの家に纏わる因果な話を、出来うる限りありのまま伝えた。

 一時間近くかけて華絵が全てを話し終えた時、阿久津は黙ったままじっと自分の手元に落としていた視線を持ち上げ、少女の隣にいる青年を見つめた。

「それで……そこにいる彼が、その狗と呼ばれる生き物なのですね?」
「……そうです」

 レンの代わりに華絵が答えると、阿久津は顔面を拭うようにして片方の手を顔に押し付け、深い溜息を零す。

「とても……にわかには信じられません。あまりにも荒唐無稽というか……」
「無理もないと思います」
「……ですが、藤代の伝承には常に鬼の文字がちらついていました。何の比喩だろうと頭を悩ませた時期もありましたが……まさかそのままの意味とは……」
「私も詳しくは知りませんけど、発祥は古く江戸の時代まで遡るとか……」

 華絵がそんな風に呟くと、大河原はハッした様子で目を見開いた。
 
「……なるほど。華絵さん、私が以前あなたに渡した藤代記録を覚えていますか?」
「は、はい」
「古い異体字で書かれたものです。おそらくは江戸中期に書かれた書物だと、知り合いの学者が教えてくれました」
「そうなんですか。すみません……私、内容は読めなくて……」
「お恥ずかしながら私もです。その学者にも、内容はあえて見せませんでした。というのも、……ここ数日前、私と同じように藤代記録を目にした同僚が何者かに殺害されました」
「……え……」

 少女の顔が強張る。

「深夜の一般道で、彼女は信号機の前の停止線に車をおいたまま、そのすぐ脇の歩道で腹を割かれて死にました」
「…………」
「理由は分かりません……なぜ彼女が……そればかりを考えていました。目下捜査中の事件ではありますが、私は、彼女が藤代の伝承に触れたから殺されたのだと考えています。私への戒めに、妻を殺したのと同じように」
「そん、な……」
「それを考えれば私の身も、いつまでも安全とは言い切れません。あなたを匿って差し上げたいのは山々ですが、この家とていつ藤代の魔の手が伸びてくるやら……」
「そんな……そんなこと、絶対にさせません……大河原さんを傷つけるようなことを……」

 言いながら、あの家ならやりかねないと思う自分が居た。
 そして、自分の制止など何の意味もなさないだろうとも思った。

「確かに一族は鬼の秘密を抱えています。でもそれは、人類の脅威となる外の鬼を討つためです。罪のない人を傷つけるようなことは……無いと……思いたい……」
「私もそう願いたいですが、どうでしょうね」
「…………」
「……そろそろ、休まれたほうがよろしいのでは? 顔が真っ青だ」

 もっと話をしたいが、体は限界をとうに過ぎて悲鳴を上げ始めている。
 華絵は疲れきった顔で頷くと、大河原が用意してくれた客間にうつった。

 十畳程度の和室には立派な仏壇が置かれ、その上に飾られた写真立ての中に微笑む女性の姿を見つけると、少女の胸がまたシクシクと痛む。

 どうかこれ以上彼を苦しめないで欲しいと願いながら、敷かれた布団の上で体を休めた。
 






 客間の電灯を落としリビングに戻ってきた大河原は、やや離れた位置からソファに佇む青年を眺める。

 置物のようにビクともしないまま同じ体制で座り続けるさまはなるほど忠犬さながらだ。

「お茶のおかわりでもいかがかな」

 一口も手を付けられていない冷めた湯のみを見ながらそう言うと、青年はゆっくりと首を振って、人外めいた青い瞳を大河原に向ける。

「お構いなく」
「そうもいかんでしょう。あなたも体を休められた方がいい。華絵さんの逃走を手助けしたとなれば、あなたが今複雑な立場に立たされていることは想像に容易い。きちんと休息をとって、明日からの力を蓄えませんとね」
「……」
「それとも、人ならざるあなたにとってわずかばかりの休息などは、なんの意味もないものなのでしょうかね。私にはよく分かりませんが……」

 言いながら大河原は自分のカップにコーヒーを注ぎ足し、青年の正面の位置に腰を下ろす。
 真っ直ぐに対峙して見れば、今更ながらにその美貌を目の当たりにし、密かに慄いてしまう。彼を美しいと思うのは、その繊細な造形が魅せる妖艶さではなく、その身に漂うどうしよもない違和感にあるのだろう。

 まるで現実味のない、あの世とこの世を彷徨うような危うさが彼にはあって、その儚さと強烈な違和感が、この目を惹きつけて離さない。

「……矢村は」

 無理やり視線を剥がして、大河原が口を開く。

「まだ若く、ジャーナリストとしては駆け出しの新人でした」

 彼の言葉を聞いて、青年が不可解そうに眉根を寄せる。

「先日亡くなった私の同僚です。……弱小編集部で、ろくな仕事もない現状に腐ってはいましたが、やる気も根性も……情熱もある若者でありました」

 ああ嫌だ。
 こんな風に彼女のことを語るなんて。
 
 ついこの間まで、時折ふくれっ面を見せながらも真摯に机に向かう矢村の姿を見ていたのに。

「単刀直入に聞きますが、……彼女を殺したのは誰です」

 相手が人だろうとそうではなかろうと関係ない。
 真実さえ語ってくれるのならば、どんなものにだってしがみついてやる。
 
 そんな強い思いを瞳に滾らせて、大河原が目の前の人外を見据える。

「……俺には分かりません」
「彼女は腹を割かれて死んでいたんです。この異常さがお分かりですか? 通常の死に方じゃなかった、この意味が、あなたにはお分かりですよね?」
「……」
「まず間違いなく、彼女は藤代の伝承に触れたがゆえに殺されたのです」
「ならば尚更俺には分かりません」
「……どういう事です」

 大河原が視線で凄んでも、青年の表情に変化は見られない。
 ガラス球のような青い瞳には、何の感情らしきものも見つけられない。

「あれに殺人を犯してまで守るほどの秘匿性はありません。藤代記録の内容を知っている者は一族以外にも多く居ます。それを見たからといって、矢村さんを殺害する理由にはならない」
「…………」
「鬼の存在については、遥か昔より国の知るところです」

 ガツンと頭を殴られたような衝撃を感じ、大河原がその幻痛に顔をしかめる。
 可能性の1つとして考えていたものであるが、こうして突きつけられると思っていたよりもずっと大きな抵抗を感じた。

「……なるほど」

 静かにつぶやいて、冷めてしまったコーヒーのマグを持ち上げる。
 緊張とストレスのせいでカラカラに喉が乾いた。
 口内に含んだ液体のドロリとした感触が、妙に不快だった。

「……ではなぜ、矢村は殺されたのです」
「…………」
「なぜ、殺されなければならなかったのです」
「…………」
「なぜですかっ……」

 苦味のあるカフェインの後味に、血の味が混じる。
 ギリギリと噛み締めた唇から、彼の激情の鮮血が滲んでいた。

 それに青年が同情をしたのかどうかは分からない。
 ただ、目の前の人外の青年はわずかに青の目を細めた後、静かな声で答える。

「藤代記録を盗んだのは、かつて破門された当家の狗でした」
「……」
「彼が当家所有のビルに侵入し、そこからあなた方へメールを送っていたことまでは分かっていました。それ以降の足取りは、……今もつかめていませんが」
「矢村は彼に殺されたと……?」
「分かりません。ただ彼の当初の目的ならば分かります」
「……なんです、目的とは……」

 思わず身を乗り出してそう尋ねると、青年は華絵が眠る客室に視線を向ける。

「……おそらくは、彼女の居所をあなたに捜索させたかったのだと思います」
「…………」
「藤代の跡目である彼女の住まいは、藤代記録などよりもずっと注意をはらって世間の目から隠されてきました。俺たちをどんなに監視しても彼女には繋がりません。それで、独自の情報網を持つあなたに目をつけたのでしょう」
「……私を、利用したってことですか」
「矢村さん殺害の理由は分かりませんが、彼はもとより狗であり、鬼でもあります。理屈で生きているわけではないので、気まぐれに殺した可能性も十分にあります」
「…………」

 気まぐれに、殺した。
 それで、彼女の生涯はあっけなく幕を閉じたというのに。

「気まぐれに……ですか……」

 乾いた笑いを零すと、ふらりと立ち上がってリビングに続くキッチンへ向う。
 ステンレスの冷えたシンクに両手を立てて、じっと俯いた。吐き気がこみ上げてきたような気がしたけれど、いざ構えてみると何も出てくる気がしない。

「……あなたたち化け物から見れば、人の命など虫ケラのようなものでしょうな」

 そう呟いた時、青年が悔しそうに顔を歪めたけれど、銀色のシンクを見下ろしていた大河原は気付かない。ただどうしようもない絶望とひどい脱力感を感じて、そんな自分の体を支えるように突っ張った両の腕に力を込める。

 あの姿は厄介だ。
 ともすれば、人と対話しているような錯覚に陥る。
 でも違う。そのことを常に念頭において置かなければいけない。

 気まぐれに人の命を奪う彼らに、その業の深さを説いた所で、きっと伝わりはしないだろう。

 だから忘れてはならない。
 あれが人の姿をしただけの、冷酷な化け物なのだということを。