薄暗い地下の中で、ただひたすらに耐えていた。
痛みと、苦痛と、この世の全てを掛けあわせてもまだ足りないほどの恐怖と。
思考は鈍り、発する言葉は呻き声にしかならない。
それでも頭の何処かで、鬼はいつだって囁いていた。
この力を持って破壊の限りを尽くせと。
そんなことが望みではないと。
怒り、泣いていた。
目を閉じれば、霧がかった対岸にはいつもあの人が居た。
また鬼が泣いた。だから、もう一度耐えることにした。
ずっとそうやって生きてきたし、生きていく。
目を閉じればあの人は微笑んでいる。
微笑んで、向こう岸から手を伸ばしている。
いつかあの手を取るのだと、狗が啼く。
決して触れるものかと、鬼が泣く。
ずっとそうやって、生きていくしか無いと思った。
閉じられた障子の向こうで、日が昇る。
どれくらい眠っていたかは分からないが、ひどい体の軋みを感じるあたり、相当長く横になっていたのだろう。そう思って華絵は身を起こした。
寝ぼけ眼のまぶたをこすりながら、見慣れない部屋に一瞬戸惑う。
――そうだ……ここは……大河原さんの……
我ながら大胆なことをしたと思う。
一夜明けて冷静になれば、自分がしたことの重大さを思い知り、目覚めたばかりの心臓が早鐘を打つ。
でも、これで良かったのだと無理やり納得させて立ち上がった。
今更後悔しても遅い。もうあの家にはいられないと、決めたのは自分なのだから。
「……おはよう、ございます……」
消え入りそうな声でリビングの扉を開くとすでに人影はなく、ガランとしたリビングのテーブルの上に一枚の書き置きを見つけて華絵は手を伸ばす。
大河原からのメッセージだった。
仕事で家を開けるが、家にあるものは好きに使ってくれていいという旨と、冷蔵庫には食材が入っているので、こちらも遠慮せずに食べてくれと書かれてある。
彼の気遣いに感謝すると同時に、途方も無い面倒を掛けてしまったという罪悪感が胸をよぎった。
――長くお世話になる訳にはいかないわ……
そう決意はしたものの、外へ出て一人で暮らすために一体何をしたらいいのか、検討もつかない。
お金が必要なことは理解できるが、それをどうやって稼ぐのかも知らない。
メモを握ったまま途方に暮れていると、突如玄関から物音が響く。
驚いて振り返った華絵は、片手に大きな荷物を抱えたレンがリビングに戻ってきたのを見て、安堵のあまり腰を抜かしそうになった。
「……すみません」
よほどひどい顔をしていたのだろう。
華絵の顔を見るなりそう謝ったレンは、少女の足元に抱えていた荷物を下ろす。
淡い小花柄の、大きなボストンバッグだ。
見に覚えのないそれを見て、華絵が首を傾げる。
「何かと入り用でしょうから、荷物をまとめてきました」
「えっ!?」
「ご安心ください。荷物をまとめたのは小巻です」
「ええっ!?」
「足りないものがあれば随時おっしゃって下さいとの言付けをあずかりました」
「ちょっ……えっ!?」
「……? ああ、ご心配には及びません。小巻に姫様の居場所は教えていません」
「…………そ、そう」
いつの間に戻ったのだろう。あまりにも無謀だし、危険すぎる。
それに黙って荷物をまとめてくれる小巻の真意もわからない。
「……もしかして、また私をだますつもり?」
「と申しますと」
「私の居場所をほんとは皆知っていて、隠れて監視してるんじゃ……」
すっかり疑心暗鬼に陥っていた華絵が疑惑の目を向ければ、青年は心外だとでも言いたげに目を細め、きっぱりと否定した。
「楔姫様の気が済むまでは、お付き合いいたします。焦らずとも、俺に下される罰は逃げませんので」
「…………」
嫌味のつもりだろうか。
そのわりには大真面目な顔をして言うので、華絵はつい拍子抜けしてしまう。
どちらにせよ寝間着にしていた着物一枚では心許なかったので、素直に礼を告げて、鞄の中身を開く。
自宅で使っていた身の回りの化粧品や、動きやすそうなラフな洋服、暖かそうな寝間着など、細やかな気配りで揃えられた生活必需品がぎっしりつめられた中身は、そのまま小巻の愛情の深さを表しているようで、華絵の胸が締め付けられる。
もう小巻を疑うのはやめよう。どんな立場にあったとしても、彼女が華絵を心配してくれていることは多分本当なのだ。
寝起きの身支度を整え、薄紫のセーターにジーンズというラフな装いに着替えた華絵は、しばらく悩んだ末にどうしても無視できなくなった空腹のため、冷蔵庫に手を付ける。
「いつか、必ず恩返しするわ」
後ろめたさからそんな言葉を口にして、適当な食材を掴み、米を炊き、遅い朝食を作った。
「レンも忘れないで。この恩は必ずお返ししないと」
よほど気になるのか少女は終始そんなふうに呟きながら二人分の食事を並べ、一通り整えると満足したように頷いてダイニングの席につく。
台所はあまり使われていないように感じたが、食材は豊富だった。
おそらく大河原が今朝方用意していってくれたのだろう。
焼き魚に味噌汁という簡素な食事だったが、用意された食材に何でもかんでも手を付けるのは気が引けたから、このくらいでちょうどいい。
「どうぞレンも召し上がって。あっ、えっと、召し上がってって言うか……とにかく、大河原さんに感謝をして……頂きましょう……」
混乱した口元でブツブツと言う華絵が滑稽だったのか、正面に座る青年が口の端を持ち上げる。
「……えっと、狗も人間の食事は食べるのよね?」
彼があまりにも自然な動作でお椀を取ったので、うっかり見過ごしそうになったが、はっと気づいた華絵が慌てて尋ねると、レンは少しだけ視線を横に投げて思案した後、小さく頷いた。
「食べられます。ただ人に比べれば狗は少食だと思います」
「……少食……」
「俺達にとって人の食べるものは……何というか……間食のようなものですね」
「間食、……おやつみたいなものってこと?」
「そうですね、そんなものです。いただきます」
「………………召し上がれ」
知れば知るほど不思議な生き物だが、なんだか自分が大食らいだと言われたような気がして楽しくはない。
彼が人では無いことは十分に承知しているけれど、一見すればただの青年だ。
そんな彼が上品に少しずつ華絵の手料理を口に運んでいる前で、そろそろおかわりしようかなとは中々言い出しづらいものがある。
――この人は狗なんだから……あんまり気にするのも馬鹿みたいよね……
頭ではそう思うのに、行動に移すのは中々難しい。
まして7年間殆ど他者と関わることなく生きてきた華絵だから、年の近い青年と二人きりで食卓を囲むことにひどくストレスを感じてしまうし、こうして穏やかな時に包まれれば、ちょっと緊張してしまう。
もうちょっと凡庸な、こちらを安心させるような見た目でいてくれたら、肩の力も抜けるのにな、なんてことを考えて、チラリとレンの姿を盗み見る。
視線に気付いた青い瞳がそれに答えるようにして瞬きをすると、華絵は慌ててそらして口にご飯を詰め込んだ。
ドギマギと落ち着かな気持ちになるのは、彼が特別に見目麗しいからだ。
だから厄介で、中々目が合わせられずにいる。
「……ねぇレン。一人で生きていくためには、まずどうしたらいいのかしら」
そんな考えから逃げ出すように、華絵は切り出した。
つい口を出た言葉だったが、実際彼女にとっては切実な問題だ。
「さぁ……仕事と、当面の金ですかね」
人外のくせに至極もっともな事を言うんだなと、世間知らずな自分は棚に上げて華絵は感心する。
やはり、ネックはそこにあるらしい。
「そうよね、やっぱりお仕事よね。でも私まともに学校も出ていないのに、使ってくれる会社はあるのかしら」
「聞いた話だと、自宅学習をされていた楔姫様たちには、阿久津家が経営する私立学園の卒業証明書が交付されるそうですよ。ただ親族を通しての交付となるでしょうけど」
「……それじゃ意味ないわ……」
そうですね、と青年が頷く。
「ちゃんと、学校に通いたかったのよ……私……」
お椀を持ちながら、華絵は力の抜けた手のひらをテーブルにおいて呟く。
「お姉ちゃんが教えてくれたの。子供はみんな学校で勉強するんだって」
言いながら、なぜ自分はそんなことを知っているんだろうと思った。
でも今、不満そうに唇を尖らせ、肩の髪を払ってそう言った姉の姿が自然と浮かんだのだ。
少しずつ姉に関する記憶が戻り始めているのが分かる。
「それで私……小巻に聞いたの。学校って何って。……小巻は、すごく困ってたのよ」
「そうですか」
静かなレンの返事を聞いて、華絵はぎゅっと箸を握りしめる。
いつかは聞かなきゃいけないことだ。
だから、思い切って顔を上げた。
「ねぇレン、どうしてお姉ちゃんを殺したの」
真摯な黒い瞳が、真っ直ぐにレンに向けられる。
青年はそんな彼女の視線に囚われたようにしてしばらく静止したままだったが、やがて小さく息を吐いて、箸をおいた。
「……覚えていません」
「思い出せないの? レンは、お姉ちゃんとは仲が悪かったの?」
「よく……覚えていません」
答えたくないんだなと思った。
彼とはまだ薄い縁だけれど、少なくとも何かを尋ねれば、どんな質問にも真面目な顔で答えてくれる人なのだと知っていたから、今過去を曖昧にぼかす彼を見て、答えたくないのだと、そんなふうに思った。
「……ねぇ聞いて。私にはその時の記憶がないの。あなたが殺したと聞かされても実感がわかなくて……本当ならあなたは憎むべき敵(かたき)なんでしょうけど、どうしても……思い出せなくて……」
「…………」
「憎まなきゃいけないのに……何も、思い出せなくて……」
こうして彼と穏やかに食卓を囲むことは、きっと姉への裏切りになるのだろう。
そう頭では分かっていても、感情はさざ波程度に揺らぐだけだ。
「あなたが償えというのなら、償います」
伏せられていた青い瞳が、静かにそう答える。
「命を差し出せというのなら、今すぐにでも。わずかでも姫様の心の慰みになるのなら、俺は何もかも差し出します」
「……そんな……」
「ですが、なぜ俺が雪絵様を殺したのかは言えません」
「…………」
「覚えていないからです」
「……レン、私は本当のことが知りたいだけなのよ。だってそうしなくちゃ、……あなたをどう思っていいのかすら分からない。何も知らないのに、ただ恨めというの……?」
「俺はあなたの実姉である雪絵様を殺しました。恨むには十分すぎる理由かと」
「それが真実ならそうでしょうね」
凛とした少女の声に、青年が表情を硬くする。
「……それが真実なら、……その時はあなたを恨むわ」
欲しいのは真実。
取り戻したいのは人生。
嘘や偽りで偽装されてきた過去には、もう別れを告げるべきなのだ。