思い出したいくつかの記憶の中で、姉の雪絵はいつも不満そうに口をとがらせていて、ポツポツと何かぼやいてはため息を付くような、そんな印象ばかりだった。
 何が不満なのか上手に聞き取れないのは、多分、当時の華絵には理解が出来なかったせいだろう。

 容姿はあまり似ていない気がした。
 雪絵は目鼻立ちがはっきりとしたやや面長の美人で、とくに切れ長の瞳が印象的だった。
 一方で妹の華絵は丸顔で、目も鼻も雪絵に比べると特徴がなく、ぼんやりとした造りだ。
 勝ち気な雪絵と、のんびり屋の華絵をとてもよく体現していたと思う。

 親族はどちらも美人だと褒めてくれたが、似ていると言われたことはなかった気がする。
 少なくとも、思い出す限りでは。

――「だから言ってるでしょ。この家はおかしいって」

 落書きをするための画用紙に目を落としながら、薄っすらと微笑んで雪絵が言った。
 聡い彼女のことだから、幼い頃から気付いていたに違いない。

 藤代の一族が持つ秘密と、それが生み出す歪な生活に。



「……様、姫様」

 名を呼ばれながら肩をゆすられ、寝入っていた華絵が目を覚ます。
 車内は暖房が温かくて、座席のシートに座ったままついつい眠ってしまったらしい。

「あと二駅です。そろそろ目覚められたほうが」
「ご、……ごめんなさい、私ったら」

 緊張感の欠片もない。
 正面に座るレンは別段気にもしてなさそうだが、ばつが悪くてそっと乱れた髪を整える。

「どのくらい経った?」
「1時間経たない程度です」
「……そう。案外近いのね」

 もっとずっと、ずっとずっと遠いのかと思っていた。
 それとも、心の距離がそう思わせるのだろうか。
 故郷と呼ぶにはあまりに薄い縁の里を思い、華絵は窓の外へ視線を投げる。

 その瞬間、耳を劈くようなブレーキ音とともに視界は激しく揺れ、激しい車体の振動を受け、華絵は体ごと正面に居たレンの方へと投げ出される。

「きゃあああっ……!」

 悲鳴を上げた華絵の体をしっかりと受け止めると、レンは即座に立ち上がり、車両の様子を見渡す。
 わずかな乗客たちも同じようにして座席でひっくり返り、何事かと目を白黒させている。
 
「な、なにっ!?」
「急停車したようです」
「急停車!? 新幹線て急停車するの?」
「余程の有事でしょう」
「そうなの!? 何かあったの!?」

 そんなふうにまくし立てても、彼が知る由もないだろうが、混乱してついついすがるように尋ねてしまう。
 ザワザワと騒ぎ出した乗客の声を聞いて余計に焦る華絵を落ち着かせるようにして座らせると、レンは立ち上がったまま席を出た。

「アナウンスがないので車掌室の様子を見てきます。そこから動かないでください」
「……わ、分かったわ」

 言われたとおりに座りなおして、彼から借りたコートの襟をぎゅっと握りしめる。
 乗客たちの声は次第に大きくなり始め、華絵は騒音を聞きながら俯いて足元を見つめた。

 きっと何かの事故に違いないが、さっきの振動で怪我をした人はいなかったのだろうか。
 華絵だってレンが受け止めてくれなければ頭を打っていたに違いない。

 まったくなんて夜だろう。
 ただでさえ問題を抱えているというのに、この上事故など。
 運命が自分たちを足止めしにきたようで、薄ら寒いものを感じる。

 ややあって硬い表情を浮かべたレンが戻ってくると、彼は慎重に辺りを見回し、限界まで抑えた声で「車掌が死んでいる」と華絵に耳打ちをした。

「……え……」
「腹を割かれていました。ゼンの仕業でしょう」
「ど、……どういう……こと」
「彼もこの新幹線に乗っているということです」
「…………」
「人混みに混じって、彼の匂いを見失ったのは俺の方でした。すみません」
「……どうして」
「今すぐ逃げましょう。車内に俺たちが残れば、他の乗客にも危険が及びます」
「わ、……分かった……」

 どうにかそれだけいうと、有無をいわさず伸びてきたレンの手に引かれて席を出る。
 座席に置いたままの荷物が少しずつ小さくなっていくのを遠目に見ながら、どこか現実感にかけた事実に、思考が追いつかないのを感じていた。

 レンは通路まで華絵を引いて走ると、非常用のドアコックを操作して扉を開く。
 途端に冷たい風が吹き込み、華絵は思わず目を閉じた。

「姫様、失礼します」

 そう言って華絵を抱きかかえようとするレンの首にしがみついて、華絵は温かくて明るかった車内から一転、何もない暗闇へと放り出される。

 レンはそのまま砂利の敷き詰められた線路に降り立つと、両脇にそびえ立つ高いブロック塀を飛び越えた。肌を切るような冷たい風が華絵の頬をかすめる。

「どこまで行くの!?」
「こうなったら走るよりほかありません」
「で、でも」

――追いつかれるのでは?

 そんな華絵の疑問に答えるようにして、背後のブロック塀から子供の笑い声のようなものが響いた。

 全身が総毛立ち、心臓が凍りつく。

「レ、レン……今、声が……」
「聞こえてます。このままでは追いつかれます」

 何もない田んぼの上を恐ろしい速度で駆けながら、彼が舌打ちを零す。

「姫様、俺のコートに携帯が入っています」
「え……」
「俺の携帯です。染谷の番号が登録されています。彼らに電話をして、迎えに来てもらってください」
「な、何を言うの」
「ゼンは俺が足止めします。なるべく時間を稼ぎます。言っている意味が分かりますか?」
「……でも、ゼンには敵わないって」

 時間なら稼げます。
 そう言って、彼はひたすらに風を切る。
 わずかでも背後に忍び寄るゼンから引き離そうと、どんどんスピードを上げて駆け抜けるが、笑い声は一定の距離を保ってぴったりとついてきた。

「ダメよ。みすみす殺されに行くような真似は……っ」
「二人とも死ぬよりずっとマシです」
「嫌よっ!!」
「ではどうしろと」

 はっきりとした苛立ちを帯びてきたレンの声を聞いて、華絵が唇を噛みめる。
 どうする。彼の言うとおりこのままでは二人とも殺されてしまうかもしれない。

「……力が、制限されてるって言ったわよね」
「はい」
「じゃ、じゃあ、もしそれがなければ、どっちが強いの?」

 ふと彼の言葉を思い出した華絵がそう聞くと、レンは少し考えこんで、やがて低い声で答える。

「どちらも藤代の姫の狗なので生まれ持った力は殆ど互角でしょう。ただ俺はそれを全て使えないので、圧倒的にこちらが不利です」
「どうして使えないの? 制限てなに?」
「はじめから言っておきますが、あなたにはどうしようもできません」
「言ってみてっ!」
「……制限とは躾のことです。狗としてあり続けるために、俺達は常に鬼の力を制限されています。その制限を超えて力を使えば、自我を失ったただの悪鬼と成り果てます。あなたを守るどころか、殺す可能性も」
「どうして……じゃあ、花咲きの庭でやったように、彼をあの不思議な炎で眠らせるのは!?」
「あれはハクが居たから成功しました。彼が姫の命によって制限を超えた力を使ったからです」
「でもあの人は悪鬼になんてならなかったわ!」
「それが楔姫の力です。狗が狗としての一線を越えても、再びこの世に繋ぐ首輪をかけるのです。あんな真似が出来るのは、一族の中でも特に絆の強いハクとその楔姫だけです」
「…………」
「姫様、俺たちの縁はとても薄い。あなたは鬼となった俺を、決して呼び戻せない」
「……やってみなくちゃ」
「試す価値もない愚策です。あなたを逃し、俺がゼンの足止めとなるほうがよっぽどマシだ」
「……っ……」

 聞き分けのない華絵に苛立ちをぶつけるようにして、レンが早口に注げる言葉を、黙って聞いているしか無い自分が悔しかった。お前は無力なんだと、突きつけられているようで。

 何もなかった田んぼを走りぬけ、今度は右も左も分からないような雑木林を駆ける。
 
「一般道まで出たらあなたはすぐにタクシーを捕まえてください」
「レンも一緒に乗るのよ!」
「この上タクシーの運転手まで犠牲になさるおつもりですか」
「そんなことは言ってない!」
「でもそうなります。新幹線は無理でも、60キロ程度の車には楽に追いつけますから」 
「……レンを、犠牲にしろというの?」
「そうです。ですが罪の意識など感じる必要はありません。俺はあなたの狗です」
「それしかないの?」
「はい」

 はっきりとした声でレンが答える。
 彼はもう、決めているのだと悟った。

「……レン……ごめんなさい……」

 しがみついた首に顔を押し付けて、回す腕に力を込めた。
 
「あなたが謝る必要など、ありませんよ」
「ごめんなさい……私、あなたを利用したわ……」
「良いんです」
「良くない……全然、良くないっ……!!」

 震える声でそう叫んだ時、赤い炎が二人のすぐ側の大木に向かって放たれる。
 一瞬にして燃え上がる炎を回避するようにレンが横へ跳ねると、その着地地点にも炎が飛ばされ、無理な体勢で避けたまま、もつれ合うようにして地面に倒れ込む。

「きゃあああっ……!!」
「姫様!」

 勢い良く地面に転がる華絵にレンが駆け寄るまもなく、ついに笑い声は止み、わずか1メートルもない距離に赤い炎に包まれたゼンが姿を現した。

 木の影からひょっこりと姿をのぞかせた彼は、焦る二人の様子を見てニタニタとした笑みを浮かべている。

「こんばんは、華絵様」
「……ゼン……」

 逃げろ、とレンが叫ぶ。
 足がすくんでしまいそうな恐怖にとらわれながら、華絵はよたよたと立ち上がり、ゼンの立つ場所からジリジリと後ずさる。

「いいシチュエーションだと思いませんか。どうせ殺すなら狗の目の前がいいと、ずっと思っていたんです」

 うっとりとした声色で語るゼンは、不思議な赤い炎に包まれていることを除けばただの子供に見える。
 でも、そうではないことはもう十分に理解している。

「それはきっと、ずっと忘れらない苦しみとなる。何度転生しても、忘れられない記憶になる」

 ずっとずっと忘れられない。
 そんな風にブツブツと呟くゼンの前で、彼の行く手を阻むようにして立ち上がったレンの体が青い炎に包まれる。ざわざわと揺れる木立に共鳴するようにして彼の髪は揺れ、なめらかな黒髪が伸び始めた。

「行ってください姫様」

 背中で告げるレンの変化を見届けながら、華絵は頷いた。
 もう口論する段階ではない。

 自分は、レンを見捨てるのだ。でも、そうまでして生き延びる価値がこの身にあるだろうか。

「早くっ!!」

 考えるまもなく、その怒号が合図となって少女は駆け出した。

――ごめんなさい……ごめんなさい……

 何度も心のなかで呟いて、必死に走る。

 そう言えば、もっとずっと前にも、こうして彼を捨てたことがあるような気がした。


 殆ど真っ白になった脳裏に、かすかに浮かんだのは、寂しそうな狗の青い瞳。 
 あれは、いつのことだっただろうか。