白い雪が降っていた。

――「レンが、殺したの?」

 自分とよく似た幼い少女が言う。
 隣に佇む青い瞳の少年は、ただ呆然と惨劇の爪痕を見つめていた。

 赤い血が、白い雪を染めていく。

 少女はもう一度同じセリフを少年に向けた。
 彼はその言葉を初めて耳にしたようにして目を見開き、驚愕の瞳で少女を見つめる。

 レンが、殺したんでしょ?

 三度問われたその言葉に、やがて彼は頷いた。

 そうではないと、分かっていた。
 あの日、その惨劇を一部始終目の当たりにしていたから、なぜそれが起きたのかも知っていたし、誰がこの血を流させたのかも知っていた。

 白い絨毯の上で着物の袖を広げたまま、雪絵は永遠の眠りについた。
 華絵は、そのすべてを見ていた。

 真相は到底受け入れがたく、たった今行われた殺人を、どうしても認めることが出来なかった。

 ふと気づけば、青い瞳の従者がそこにいた。
 彼は華絵に忠実で、どんな願いも、どんな無理難題も叶えてくれた従者だった。

――「俺が殺しました」

 彼は言った。
 そして少女は気付いた。

 彼は、また華絵の願いを叶えてくれるつもりなのだ。







 水滴が滴るような水音が聞こえた。

 一定のリズムで刻まれるその音に目を開く。
 暗い視界。何も見えない焦りに心臓が早鐘を打つ。

 やがて暗闇に目が慣れると、むき出しの岩肌に囲まれて居ることに気付いた。
 洞窟のような場所だ。
 地面は水気を含み、湿った冷たさが布越しに伝わる。


「――――目が覚めましたか?」

 静かな声だった。
 とても幼い、細くて高い声。それを聞いた途端、絶望が胸をひた走る。

 灰色の髪と赤い瞳をした鬼が、衣服を返り血の赤に染めて微笑んでいる。
 誰の血を浴びたんだろうと考えて、涙がこみ上げてきた。

「焦って逃げるから、崖から転がり落ちるんですよ。もっと気をつけないと」

 鬼がそう言って微笑む。
 真っ赤に腫れ上がった右足と、背中に強烈な痛みを感じて華絵がうめいた。
 それからやっと、全身がずぶ濡れであることに気付く。

 動けないのは恐怖のせいかと思っていたけれど、それだけではないらしい。

「慌てちゃいました。崖下を流れる川は流れも早いし、このまま流されてしまうんじゃないかと」
「…………」
「事故死なんて、つまらない。そうでしょ?」
「……レンは」

 震える声で尋ねる華絵を見て、ゼンがせせら笑う。

「やっかいだったので、切って山中に捨ててきました。でも大丈夫。死んでは居ないはずです」
「…………」
「彼には、無残に切り裂かれたあなたの死体を見てもらわないと」
「……それが、あなたの復讐なの?」

 頬に涙を流しながら、華絵が問えば、ゼンは嬉々として微笑み頷く。

「……ゼン、お願い。私を殺してもいい。……レンは、そっとしておいてあげて」
「今更狗に愛着でも湧きましたか?」

 ずっと忘れてたくせに。
 そう言って、鬼が罵る。

 長く伸びた灰色の髪、その毛先にこびりついた赤い血を見て、華絵は千切れるほどに唇を噛みながら、ゆっくりと顔を左右に振った。

「……思い出したの。全部、お姉ちゃんが死んだあの日、何が起こったか」
「へぇ」

 興味深げに赤い瞳を細めると、ゼンは身を乗り出し、地面に座ったままうなだれている華絵の顔を覗き込む。ギラギラとした長円瞳孔の瞳は、まごうことなき人外の瞳。
 それでも、彼は雪絵の狗だ。
 ただ、雪絵に愛されたかっただけの、可哀想な子供だ。
 
 胸が痛い。誰に対して、この罪を償えばいいのだろう。

「レンは、お姉ちゃんを殺してない」
「…………」
「レンじゃないの……レンじゃなかったのに、私が、レンになすりつけた。あの日の罪を、全部……」
「……嘘だ」

 ゼンの顔からすっと表情が消える。
 華絵はそんな彼から目を離さずに、ただじっと、痛みに耐え続けた。

「彼女の魂に狗の爪痕を感じた。雪絵様は狗に殺されたんだ。僕には分かる」
「……ゼン、お願い、レンじゃないの」
「…………」
「だから私を殺して。私はずっと、あなたを騙してきた。お姉ちゃんを殺したのはレンだって、騙してきたのは私なの……」
「ふざけるなっ!!」

 するどい平手で頬を打ち付けられ、華絵は上体ごと地面に倒れ込む。

「巧妙な命乞いのつもりですか? あなたの狗の仕業でなければ、そもそもあなたを殺す理由などないと、そうお考えですか?」
「違うっ……」
「残念です姫様。あなたがそのような卑しいお方だったなんて」
「違うのっ……」

 再び打ち下ろされた平手が、華絵の頬をはたく。
 鋭い鉤爪がそのたびに肌をひっかき、何筋もの傷跡から赤い血が流れる。
 それでも、痛みは感じなかった。

「どんなに言い繕っても、無駄ですよ。僕の中の鬼は、もうあなたを殺すことでしか救われない。あの狗から楔姫を奪うことでしか、救われないんです」
「ゼン……ごめんなさい……私が、嘘をついたの……あの時……」
「黙れっ! 今更っ……今更そんなデマカセをっ!!」

 華絵が正直に話せば話すほど、ゼンは激昂するように吠えた。
 
「雪絵様を殺したのレンだ。それ以外にありえない。他のどの狗があの方を手に掛ける理由がある!!」
「……それは……」

 言えない。
 どうしても言えない。

 だからレンは華絵の願いを叶えたし、華絵は全てを忘れて里を出た。
 あの日の事実を、無かったことにするために。

「ほら、言えないじゃないか! レンが殺したからだ!!」
「違うの……ゼン」

 ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
 油断すれば口からこぼれてしまいそうな真実を、押しとどめるために。

 彼はきっと、レンが殺したと華絵が認めるまで納得はしないだろう。
 でも、この上レンに濡れ衣を着せる訳にはいかない。

「ゼン……聞いて、私を殺してもいいから、聞いて」


 涙でぼやける視界に、かつての姉の姿が蘇る。
 愛していたし、尊敬もしていた。大好きなお姉ちゃんだった。

「……私が殺したのよ……」
「…………」
「あの日、雪が積もっていると言って、お姉ちゃんを庭に誘い出した。そして、殺したの」
「……嘘をつくな」
「嫌いだったから。私のことを……馬鹿を見るような目で……いつも……いつも……」
「…………」
「私は楔姫で、狗は血統のいい染谷の狗で……お姉ちゃんなんて、狗も持たない出来損ないなのに」
「……貴様っ」
「それなのに、長女ってだけで私よりチヤホヤされて……許せなかったから……」

 まぶたが、燃えるように熱い。
 それとも、もう鬼火で燃やされているのだろうか。

 それでも最後まで告げなければいけない。ゼンの魂が、きちんと救われるように。

「だから殺したの……レンは、私の罪を被ったの。私が、そう命じたからよ」
「…………」
「それで私は、都合良く記憶を消したの。それが……全部、本当のこと」
「……実の姉を、殺したと言うのか」
「そうよ、だって、嫌いだったから……っ!」

 こみ上げる激情で叫べば、鋭い鉤爪が華絵の胸元に一気に突き立てられた。
 肉をえぐられる痛みに少女が絶叫を上げる。

「たったそれだけで、それだけのことで雪絵様を殺したのか!!」
「……ッ……」
「俺の、唯一の楔姫をっ!!」
「……そう、よ……あなたが生まれてくるのが、遅いせいよ……死んでから、生まれてくるなんて……」

 今度は左肩に刃が突き立てられる。
 華絵は再び悲鳴を上げて、痛みに身を捩った。

「……雪絵様……雪絵様……」

 血を滲ませて呻く華絵の体に馬乗りになっていた鬼が、しくしくと啜り泣く。
 その痛ましさを目にすると、この程度の痛みに呻く資格などないように思えた。

「……ごめんなさい……ゼン……」
「あの人に会うためにこの世に生を受けたのに、たったの一目も叶わなかったこの気持が、お前に分かるか……」
「ごめんなさい……」
「あの人が全てだったんだ。あの人が呼ぶから、僕は……生まれたのに……」
「ゼン、……私を殺して……」

 恨みも憎しみも、全て受け止める。
 可哀想なこの鬼のためなら、死んでもいいと思えた。
 ゼンを守ると、雪絵にも約束をした。
 不出来な妹だったけれど、せめて、その願いだけは叶えてあげたい。

「……許さない、決して楽には死なせない」
「そう、して」

 小さく呟いて、華絵は目を閉じた。
 これで良かったのだろうか。あの世で再会した時、雪絵は何を言うだろう。

 分かってないのねと言って、また呆れるだろうか。
 それでもいい。

――お姉ちゃん……お姉ちゃんにも狗はいたんだよ
――もう誰も、お姉ちゃんを傷つけたりしない

――でも……お姉ちゃんはきっと、とっくに気付いていたんだね……


 当たり前でしょ。

 そう言って、勝ち誇ったように微笑む姉の笑顔が見えた。
 今すぐにでも駆け寄って、その胸の中で泣いてしまいたい。

――「華絵様」

 だけど寂しそうな声で、誰かが呼び止める声がする。
 振り返れば幼い日のレンが、雪絵の元へ駆け出そうとする華絵を見つめていた。

 ――――ああ。あの狗にも、可哀想なことをしてしまった。

 罪深いことを、してしまった。

 青い瞳が揺れる。泣いているように見えた。
 行かないで欲しいと、すがっているように見えた。

 何度彼を捨てれば気が済むのだろう。何度傷つければ済むのだろう。
 大事にしたいと思っていたのに。
 大好きな男の子だったのに。

 彼を傷つけてばかりいる。



「……レン…………ごめんね……」

 閉じたまぶたから、さらに一筋の涙がこぼれた。
 鬼火が、業火が、足先から這うようにしてこの身を焼きつくす。

 生と死の際に立たされているのが自分でも分かった。
 最後に口にした言葉が、また彼への謝罪になるなんて。


「謝らなくていいですよ」

 そう。きっとまた、困った顔でそうなふうに言うのだろう。

 そして次の瞬間、ふっとこの身を包む業火の気配が消えたのを感じた。
 熱を持ち焦げた体が、一瞬にして冷えていく。

「姫様、……目を開けてください」
「……ッ……」

 固く閉ざされたまぶたをこじ開ける力なんて、もうどこにも残っていないのに、どこからか告げられた声が、もう一度華絵を呼ぶ。

「あなたがゼンの鬼火で焼かれるはずがない」
「…………」
「目を覚まして」
「……どう、して」

 どうして。
 しゃがれた声でそう呟きながら、華絵が目を開く。
 彼女を抱きかかえるようにしていた青い瞳の鬼が、真っ直ぐにこちらを見下ろしていた。

 瞳には、強い怒りと悲しみの色が漂う。

 ぼんやりとした意識でそれを見つめながら思った。
 彼は怒っている。
 また彼を置いていこうとした華絵に、とても怒っていて、とても悲しんでいる。

 なんで忘れていたのだろう。なんで気づかなかったのだろう。
 レンはいつだって、こんなにも素直な瞳で、いつだってその激情を訴えていたのに。