灰になって、消えていった。
そう表現するよりほかない。
サラサラと砂のようにこぼれ落ちていくゼンの亡骸を眺めながら、華絵は静かに涙を流していた。
まだ動けない彼女を抱きかかえるようにして隣に膝をつくレンも、散っていく灰を黙って見つめている。
こうするしか無かったのだろうかと自分を責めるが、ゼンを燃やし尽くしたレンの前でそんな疑問は口にも出来ない。
こうするしか無かったのだ。
ゼンが華絵を殺そうとすれば、彼はどうあがいてもレンに殺される運命にあった。
ゼンが雪絵の狗で、レンが華絵の狗であれば、どちらも運命からは逃れられない。
それでも思ってしまう。
もっと早く、思い出せていたら。
「…………里へ行かなきゃ……」
消えていくゼンを呆然と見つめながら、華絵はうわ言のように呟いた。
少女の瞳に、また大粒の涙が浮かぶ。
「何を、なさるおつもりですか……」
疲れきったレンの声を聞いて、彼もまた理不尽な運命に打ちのめされているのだと知った。
「全部思い出したのよ……お姉ちゃんのことも、私が、レンに罪をなすりつけたことも」
「…………」
黙りこくってしまったレンの腕から徐々に力が抜けていく。
彼は華絵の体を慎重に離すと、ゆっくりとした動作で地面に横たわり仰向けになった。
改めて見れば、ひどい有様だった。
どこもかしこも傷だらけで、出血はとっくに致死量を超えているように見えた。
白いシャツは赤く染まり、ほとんどが千切られ破けている。
彼の青い鬼火は今だに華絵の体にまとわりつき、全ての力をもって少女の体を癒し続けていたから、自分の傷がいつまで経っても塞がらないのだろう。
「レン、私はもう大丈夫よ、痛くもないから、先に自分の体を治して」
彼は答えない。
そうするんじゃないかなと予感していたから、華絵は小さくため息を付いて、潤んだ瞳をレンに向けた。
「お願い。今瀕死なのはレンの方でしょ」
「……もう少しですから」
「…………」
「治癒が遅れれば、お顔に傷が残ります」
「傷なんて……」
いくらでも残ればいい。馬鹿みたいだ。自分が死にかけているくせに、そんなことを気にするなんて。
「私に優しくしないで……ずっと、ひどいことばかりレンに強いてきた。謝っても、謝りきれないほど……」
「あなたが謝る必要なんてありません」
青い瞳が告げる。
今なら分かる。彼は本気でそう思ってるのだ。
自分は狗で、華絵は楔姫だから。何をしても、華絵は許されるのだと。
「いいえ、許されないわ。私があなたにしたことは絶対に許されない……」
「……姫様」
「私が本当の犯人をかばって罪をあなたになすりつけたから、レンはずっと幽閉されてきた。私が嘘をついていたから、ゼンも本当の敵が誰なのかを知らずに死んでいった。お姉ちゃんの無念だって……ずっと晴らされないまま……」
「……姫様、それは違います。嘘をついたのは俺です。あなたになすりつけられたからじゃない」
「私は、レンならそうしてくれるって分かってた」
「それでも決めたのは俺です」
「……そういうの……もうやめてよ……」
顔を歪めながら、華絵が声を殺して泣いた。
レンの献身が、今は凶器となって弱り果てた心をさらに傷つける。
誰でもいい。どんな言葉でもいいから、罵って欲しいのに。
「……あなたこそ、いい加減にしてください」
浅い呼吸を繰り返し、横たわったまま天井を見上げるレンが言う。
彼らしからぬ言葉に華絵が濡れた瞳を向ければ、悔しそうに唇を噛みしめる異形の青年がいた。
「たかだか数年幽閉されていた程度のことで、俺に罪悪感を抱くような愚かな真似はやめてください」
「……な」
「あなたのためだけに生きているのです。そういう生き物なんだと、いつになったら分かってくれるのですか」
「…………」
「それなのに、また俺を置いていくのですか」
「……レン……」
「ゼンを本当に思うのなら、一日でも早く殺してやるのが彼のためでした。楔姫のいないこの世を漂わせるなど、残酷にもほどがある。姫様は正しいことをなさったのです。俺は欠片も後悔などしていません」
「……殺すのが、正しいことなの」
「楔姫を失った狗に限ってはそうです」
「そんな……」
「どれだけ苦しいか人間には分からない。空虚な一日がどれほど長いか、絶対に……分かりません」
分からないわ、と呟いて、華絵がまた涙を流す。
記憶を失って、レンのことも忘れてしまった華絵を見て、彼は最初何を思ったのだろう。
楔姫を失ったも同然の彼だったからこそ、容赦なくゼンを葬ったのだろうか。
この世で唯一、その気持ちが理解できたから。
「忘れられてもいい。あなたが、……生きてさえいてくれるのなら」
そう言って、従順な青い瞳の狗が目を閉じた。
雪が降り始めていた。
川沿いの洞窟は冷えきり、濡れた髪の先が凍りつく。
不思議と寒さは感じなかった。身にまとわりつくような青い炎のおかげだろうか。
陽だまりの中に佇むような、柔らかい真綿のような感触。
隣で眠るレンを見下ろしていた華絵が彼の胸の上にそっと手を伸ばすと、それを伝うようにして青い光が伝播する。
光は彼を温め、凄惨な傷口を塞いでいく。
彼をもっと癒やしたいと思えば、光はいっそう増幅し、その輝きを増しながらレンの体を這った。
元々はレンの鬼火だった。でも、どう扱えばいいのかはすぐに分かった。
これは彼のものでもあり、華絵のものでもある。
損傷したレンの体が癒えていくのも分かった。
もう大丈夫だろうと思い手を離し、そのまま指先で彼の長い黒髪を撫でる。
青みがかった美しい黒髪は、華絵の指先が触れた途端キラキラと結晶のように青くきらめいた。
記憶よりも早く、自覚よりも早く、何かが目覚めた気がした。
彼のことなら何でも分かる。たとえ青い瞳が閉ざされていても、彼が今深い眠りの中でどんな夢を見ているのかも分かる気がした。
昔から、無表情な男の子だった。
言葉は少ないし、どんな可笑しい事があっても大したリアクションも期待できない、そんな子供だった。
そんな彼はとても大人っぽく見えたし、そんなところがクールで素敵だと思っていた。
だけどある時から彼との距離が縮まり、行動を共にするようになり、寝食を共にするようになり、徐々に心が近づくと、彼の全てを見透かせるようになった。
青い瞳が、本当はとても雄弁だということも知った。
それは彼も同じようで、華絵が何かを口にする前に、レンは華絵の気持ちを先回りで汲み取った。
魂の共有者のような二人だった。
そして事件は起こった。
雪絵は死に、華絵は犯人を目撃した。
それを認めたくなくて、レンはまた、先回りでその身を差し出してしまった。
その罪の意識から逃れるようにして、華絵は眠った。
多分それが、間違いだったのだ。
だから事実は歪み、捻れた偽装が生まれた。
最初に真実を隠したのは、間違いなく華絵だった。
断罪する勇気がなかった、幼い日の自分だった。
もう間違えない。
そう強く決意して、少女は黒い瞳に青い炎を宿す。
「華絵様!!」
白い雪に髪を濡らした小巻が、洞窟の入口からそう叫んで駆け込むのが見えた。
レンの携帯電話で染谷家に連絡してから、ほんの30分程度で彼らは到着した。
一台の乗用車でやって来た彼らは、小巻の他に運転手と、染谷家の家長を乗せていて、老齢の家長は小巻と華絵に支えられて洞窟を出てきた満身創痍の狗の姿を見て、やや悲しそうに目を伏せた。
「楔姫様……お久しぶりでございます」
「レンをお願い」
家長は頷いて、まだ意識の朦朧としたレンを後部座席に座らせる。
華絵もその隣に腰を下ろして、血の気の失せたレンの横顔を不安げに見守った。
「華絵様、ご安心ください。レン様はきっとすぐに良くなりますよ」
華絵の隣でそう勇気づけてくれた小巻を見て頷く。
「分かってるわ。大丈夫よ小巻。もう、分かっているから」
「……華絵様?」
「全部思い出したのよ」
静かな声で告げれば、助手席に座っていた家長がこちらへ振り返る。
運転手も小巻も、同じようにして視線を向け、声を詰まらせる。
「潔白のレンに、長く汚名を着せてしまいました。染谷の方々には、どうお詫びをしたらいいのか分からないほど、迷惑をかけてしまった。だから……私は、それを償わなくちゃ」
「……華絵……様」
「レンのためにも、お姉ちゃんのためにも……そして、ゼンのためにも」
窓の向こうが、雪景色に染まっていく。
あらゆる色を染めて、あらゆる罪も染めて。
でもいずれは溶けていくのだろう。冬を越せば、緑の芽が大地に息吹く。
そうでなければならない。
どんなに雪景色が美しくても、例えばそれが、恋しくても。