深夜、藤代の里についた華絵は、染谷家の尽力で他家に気付かれることなく里の端にある染谷の別邸へと案内された。
すでに深夜の1時を回っていたというのに、大勢の使用人達が玄関に並び、華絵の訪問を神妙な面持ちで出迎える。
「さぁ華絵様、お上がりください。そこのあなた、レン様を寝所にお運びして」
てきぱきと指示をする小巻の横に立ちながら、華絵は濡れた自分の足元を見つめていた。
自分に向けられた染谷家の使用人達の視線は概ね温かく、皆事情を察している様子だ。
「いかがされました、華絵様」
後から玄関に入ってきた家長に問われ、華絵は慌てて首を持ち上げ、わずかに躊躇った後、不思議そうにこちらを見つめていた染谷家の使用人たちへと向き直る。
「……皆様」
弱々しい声でそう切りだすと、華絵はおもむろに玄関に膝をつき、頭を下げた。
「華絵様っ!?」
悲鳴にも似た小巻の声にも答えずに、華絵は地面に額をつける。
「おやめください華絵様!!」
「……いいえ。謝らせてください。ずっと、ずっと、私だけ逃げ続けてきたこと……レンや、染谷家に非情な振る舞いをしてきたこと……染谷の名誉に傷をつけてしまったこと」
「記憶を失くしたのは華絵様のせいではありません、どうかおやめください……っ」
「思い出したのです。染谷の家にはずっと良くしていただいたのに、最後は泥をかけるような真似をして去ってしまったこと、……どうか、どうかお許し下さい」
「……どうか顔をお上げください、楔姫様」
しわがれた声の家長が、頭を下げたままの華絵の肩にそっと手を置いた。
それから彼は優しい手つきで少女の肩を引き、華絵は促されるようにして顔を上げる。
優しく細められた瞳を見て、少女の胸がまたチクリと傷んだ。
「レン様がお生まれになったその日から、我が染谷一族はあなたに忠誠を誓い続けてきました。あなたがどのような道を選んでも、一族ともども付き従う覚悟でおります。許すも許さないもありません。あなたの道は、レン様の道。それは一族の道でもあります」
「……でも、それではあまりにも……」
「多くの狗を生み続けてきた染谷の家だからこそ、分かるのです。楔姫様がどんなに尊い存在か」
「…………」
「どうか我が一族の狗を、愛してやってください」
そう言って彼は華絵を立たせると、彼女の面倒を見るようにと使用人に言いつけ、奥の間へと消えていく。その後姿をぼんやりと眺めていた華絵は、家長の背中が見えなくなると決意したかのように顔を上げ、玄関の上がり框に足を乗せた。
小巻の用意してくれた寝間着の浴衣に着替えた華絵は、食事を勧める彼女の申し出を丁重に断り、レンの寝所を訪れた。
広い座敷に敷かれた布団の上で、彼は綺麗な着物に着替えさせられ、浅い寝息を立てている。
「今夜は眠らずにレンの側にいようと思うの」
「……華絵様もお休みになられたほうが」
「どうせ眠れないから……少しでもレンが早く回復するように、側にいるわ」
小巻は少しだけ躊躇ったものの、やがて納得したようで、くれぐれも無理をしないようにと言い残して静かに襖を閉める。
華絵は二人きりになるとそっと息を殺してレンの布団の側に腰を下ろし、掛け布団の上に載せられていたレンの片方の手をとった。
長い鉤爪の先には、まだ赤い血がこびり付いている。
華絵は小巻が用意していた爪切りを懐から取り出すと、慎重にその爪先に刃を当てた。
パチン、パチン、と刃が噛み合う音だけが室内に響く。
長い鉤爪を切り落とし、爪先の形を全て整えると、華絵は鏡台にあった櫛をとって、枕や畳に散る彼の長い髪を優しく梳いた。
伸びた前髪が目にかからないよう額で二つに分けて、その流れにも櫛を通す。
明日、また新たなる試練が華絵の前に立ちふさがる。
それに立ち向かおうと決めた。きっとまた、心はかき乱されるだろう。
だけど今夜だけは、レンのことを想おうと決めた。
彼のことだけを考えて起きていようと。
彼の背中で下敷きにされている後ろ髪をまとめようと、少しだけ上体を抱え上げて髪を掬いあげると、わずかな身動ぎとともにレンが目を覚ます。
それでも華絵は手を止めずに、ただ黙々と彼の髪を右の肩の上に一房にしてまとめ、畳においていた櫛を握り直した。
「……昔は」
されるがままに、一言も言葉を発さないレンに向かって、華絵もまた独り事のようにして呟く。
「昔はこんなふうに髪を切る必要も、爪を切る必要もなかったわ」
「……はい」
「牙はまだ尖っているの? 少し口をひらける?」
言われたとおりにして、レンが薄い唇を開く。
整った歯並びの中、ほんの少しだけ尖った二本の犬歯を見て、華絵は頷いた。
「歯はもう大丈夫そうね。髪や爪は、元に戻らないの? 昔は、魔法みたいに勝手に元の姿に戻っていったのに」
「……4年ほど前から、狗の姿に戻るのに時間がかかるようになりました」
「そうなの?」
「今はもう、放っておいても戻りません」
「それは……面倒ね」
はい、と答えて青年が華絵の顔を見上げる。
彼は何かを言おうとして口を開いたけれど、華絵の目を見て言葉を飲み込んだ。
多分、何を言われても休むつもりなどないのだと、そう告げる少女の目を見て諦めたのだろう。
「……傷は、痛みませんか」
「私ならもう大丈夫よ。レンは自分の体を治すことに集中して」
そう答える華絵に手を伸ばしたレンは、そっと彼女の前髪をかき分けて、額に薄っすらと残る傷跡に触れる。
「額に傷が……このままでは跡に残ります」
「いいってば。もし傷が残っても平気よ。その時はレンにお嫁さんにしてもらうから」
そう言ってイタズラに微笑んだ華絵を見て、青年が真顔のままに頷く。
昔から変わらないリアクションに、少女が小さく笑った。
「覚えてる? 昔、同じようなことを私が言ったこと。レンが何でも受け入れてしまうから、困らせたくて、色々言ったわ」
「……はい」
「あの時は私、あなたの本質を理解していなかった。あなたに何かを頼む時は、よく考えて言わなくちゃいけないのにね」
「何でも仰ってください」
「ほらね」
また華絵がクスクスと笑う。
けれど、ふと息を止めたようにして少女は押し黙り、笑顔を徐々に強ばらせて青年を見下ろす。
「……ほんとに、思い知ったわ」
「姫様」
「レンがいけないのよ。何でも受け入れてしまうから。私の言うことを、何でも受け入れてしまうからよ。私がどんなに間違っていても、それを教えてくれないからよ……」
「……申し訳ございません」
「ほらそうやって、どうして謝るの。俺は悪くないって言えばいいじゃない。間違えたのは私だって」
「…………」
「……私は……子供だったのよ。何が正しいのかなんて分からなかった。あなたをどれだけ苦しめることになるかなんて、考えられなかったの……どうして、私を止めてくれなかったの……」
震えていた黒い瞳から涙の粒が溢れて零れ出す。
怒りと悲しみと、どうしようない後悔に彼女が打ちのめされているのが分かった。
「……姫様」
伸ばした指先で、レンがその涙を拭う。
「……あなたを、守りたかったのです」
「どうして……」
「あの時の決断が、こんなにもあなたを苦しめると知っていたら、きっと違う道を選んだはずです」
「……っ」
「……俺も子供でした。何が正しいのか、分からなかった」
許してください、と青年が呟く。
たまらずに泣き声を漏らして、華絵はレンの手を握りしめ、自分の頬に押し当てた。
この冷たい手は、ずっとずっと華絵の側にあった。
たとえ触れられなくても、たとえ、その存在を華絵が忘れ去っていても。
「あなたを……守りたかった」
「……知ってるわ」
「お許し下さい」
淡々とした声色で告げられた謝罪の言葉に、華絵は頷いた。
声色に感情がなくとも、青い瞳が揺れなくても、彼が本当はとても傷ついていることが、今ならわかるから。
許すわ、と呟いて、少女が狗の手を強く握りしめる。
私のことも許してほしい、とは言えなかった。
彼はすでに華絵の全てを許しているから、そんな懇願は不毛だと思った。
それはつまり、彼の許しを永遠に得られない事と、ほとんど同義なのだから。