牡丹の柄の黒い着物に、薄紅の帯を巻く。
 花開く鮮やかな牡丹を見て、春の着物だと思った。

 早く春が来ればいいですねと、着付けの時に小巻が呟いていた。
 そうねと頷いた時、ほんの少しの切なさが胸をよぎった。

 白い雪が降り積もる庭の景色は、あの日の雪絵の象徴とも言えたから。

 髪を結い上げたところで、部屋の襖が開かれる。
 黒いスーツを身にまとった青い瞳の従者を見て、華絵が微笑む。

「髪、切ってもらったのね」
「はい」
「残念。縛ってあげようと思って、髪飾りを用意していたのに」

 そう言ってからかえば、彼が怪訝そうに眉根を寄せる。
 冗談よと告げて、華絵は鏡台の前から立ち上がった。

「レン……」
 
 部屋の入口で待機する彼の前に立ち、その端正な顔を見上げる。

「今日だけでもいい、どうか……私を支えて。力になってほしいの」
「命に代えても、あなたをお守りします。永遠に」
 
 静かな彼の言葉を受け止め、それを飲み込むようにして呼吸すると、華絵は真っ直ぐに前を見つめた。

――大丈夫よ、私はもう、小さな子供じゃない……

 決意して部屋を出ると、華絵はレンと玄関先で待ち構えていた小巻を連れて染谷の別邸を後にする。
 それから、懐かしい里の道を歩き、やがて見えてきた庭園の先に佇む荘厳な洋館を見上げた。

 7年前と何一つ変わらないかつての我が家を見上げて、少女が目を細める。
 色とりどりの花が咲き並ぶ庭園。繊細な細工を施された白い壁。アーチ状の玄関口。
 かつてたくさんの使用人達とともに、ここで暮らしていた。

 小巻が玄関口の呼び鈴に手を掛ける前に、重厚なドアが開かれる。
 中から出てきた無表情な女中が、小巻の後ろに立つ華絵の姿を見て、わずかに眉をひそめた。

「何の御用でしょうか」

 そんな女中の言葉を聞いて、小巻が不満気に口を開きかけたが、すかさず華絵が止める。

「お話があって帰ってきました。中へ入れてもらえますか?」
「……お嬢様は東京の別邸にいらっしゃるはず。今回のご帰郷、当主武永様はご存知でいらっしゃいますか」
「……いいえ。誰にも言っていないわ。勝手に帰ってきたのよ」
「…………」

 少し思案するように目を細めて華絵を見つめた女中が、しぶしぶ扉を開く。
 7年ぶりに戻った自宅は、懐かしい花の匂いがした。

「お話とは」

 振り返ってそう尋ねる女中に、華絵が頷く。

「まずはお母様にご挨拶をさせてください」
「……かしこまりました」

 母のいる奥の間に案内する女中の後を歩く。一歩一歩と進むたびに、足取りが重くなるのを感じた。床がきしむたびに、胸が痛む。

 ふと、強い視線を感じて振り返った。
 青い瞳が、心配そうに華絵の背中を見つめていることを知って、少女がぎこちなく微笑む。

「菖蒲(あやめ)様。華絵様がお帰りになられました」

 閉じられた襖の前に膝をついて女中が言うと、「どうぞ」と告げる儚げな母の声が聞こえた。
 思わず息を吸うのも忘れていた華絵は、深く深呼吸をして襖に手を伸ばした。

「失礼します」

 頭を下げながら襖を開けると、座敷に敷かれた布団の上で、ぼんやりと庭を眺めている浴衣姿の母がいた。元々病弱で華奢な体つきの人だったけれど、昔よりもさらにやせ細っていたその姿を見て、華絵が奥歯を噛みしめる。

 艶めく長い黒髪。繊細で愛らしい目元。控えめな唇。白い肌。
 愛されるために生まれてきたような容姿の可憐な母。
 彼女はいつだって少女のような人だった。

「お久しぶりです。お母様」

 そう言って布団の側に膝をついた華絵を見て、菖蒲が柔らかい笑みを浮かべる。
 それは目眩がするような、美しい微笑みだった。

「お帰りなさい、華絵」
 
 菖蒲は娘の顔をまじまじと眺めた後、それから彼女の後ろに座るレンと小巻を見やる。

「染谷の方々ね」
「はい。事情があって、同行してもらいました」
「……何かあったの? あなたってば中々帰ってきてくれないと思ったら、突然連絡もなしに」

 そのセリフを聞いて、華絵が自嘲気味に微笑む。
 追い出されるようにして里を出た身としては、返事のしようがない言葉だ。

「お母様、今日は、お母様にお話があって帰ってきました」
「随分しっかりした話し方をするようになったのね。今年でいくつになったの?」
「……17になりました」
「そう。……もう、そんなになるの」

 はい、と答えて挫けそうになった心を再度奮起する。

「お母様、私は、お母様に聞きたいことがあるのです」
「何かしら」
「……私は……全てを思い出しました」
「…………」
「でも、分からないのです。どうして……お母様が……」
「…………」
「どうしてあの日お姉ちゃんを……雪絵を殺したのですか」

 奇妙な静寂が部屋を包み込む。
 呆けたような表情を浮かべていた菖蒲は、まるで華絵が外国語か何かを話したような、全くその言葉の意味がわからないとでもいうふうにして、困ったように微笑む。

「あの日、お姉ちゃんを殺したのは、お母様、あなたです」
「……華絵、あなた、お薬はちゃんと飲んでいるの?」
「え……」
「お薬はちゃんと飲まないとダメなのよ」

 戸惑う華絵をよそに、菖蒲はパンパンと手を叩いて、背後の小巻に薬を持ってくるよう命ずる。
 しかしそれに小巻が答えないでいると、だんだんと不満を表情に浮かべ、彼女は手元にあった水差しをおもむろに小巻へ投げつけた。

 空の瓶は小巻の足元までは届かず、力なく畳の上に落ちてゴロゴロと転がる。
 その動きを、華絵は放心しながら眺めていた。

「……おかあ、さま?」
「嫌だわ。……ああ、嫌だわ」

 菖蒲はブツブツと呟くと、そのまま布団に潜り込み、頭まで掛け布団をかぶる。

「お母様、ちゃんと聞いてください。なんでお姉ちゃんを殺したのですか」

 毅然と声を張っても、心はもう今にも崩れ落ちそうだった。
 母は、こんなに弱い人だっただろうか。
 いつも黙って微笑んでいる、そんな姿ばかりの思い出しかない。

「……あなたがしたことは……殺人なんですよ、お母様」
「うるさいっ!!」

 突然、声を裏返して怒鳴りながら菖蒲が起き上がる。
 彼女はその勢いのまま華絵に跳びかかり、驚いて身動きが出来なかった娘の頬を力いっぱい叩きつけた。倒れこんだ華絵の体を小巻が支える。そんな二人を守るようにして腕を伸ばしたレンが、そのまま菖蒲を睨みつけた。
 青い瞳の狗と対峙した菖蒲は、思い出したように両手を打ち鳴らし、レンを指さし声を張り上げる。

「こいつよっ!! こいつが雪絵を殺したのよ!!」
「お母様!!」
「華絵だってそう言ったじゃない。ね? 華絵がそう言ってくれたのよね?」
 
 痛む頬に手を当てていた華絵を見て、菖蒲がにじり寄る。
 けれど遮るようにして突き立てられたレンの腕を見て、菖蒲の唇がわなわなと震えた。

「お姉ちゃんを殺したのはレンじゃない。私が、お母様をかばったからよ!」
「何を言うの華絵……お前、実の母親を殺人鬼呼ばわりするつもりなの……?」
「だって私は見たんだもの。お母様が、庭で遊ぶお姉ちゃんを追いかけて……捕まえて……」
「……」
「突然……刃物で……お姉ちゃんを刺したのを……」
「……」
「何度も、何度も……お母さんは、お姉ちゃんが悲鳴を上げても、やめなかった」
「……」
「どうして……あんなことが……あんなひどいことが出来たの……」

 ぽかんと口を開けている母を見て、華絵の瞳に涙が浮かび始める。
 呆け、拗ね、激昂する。こんな幼い母だっただろうか。
 こんな幼い母に、雪絵は殺されたのだろうか。

「……罪を償ってくださいお母様。きちんと、償うべきです」

 華絵がそう言うと、はじけたようにして菖蒲が笑い出す。
 ケラケラと腹を抱え、とんでもなく面白い冗談を聞いたかのように、布団の上で身を捩る。

「ああおかしい……嫌よ。そんなの」
「お母様!!」
「いいのよ雪絵は。元々いらない子なのだから」
「…………」
「もっと早くああするべきだったのよ。いらぬ気をもませて、本当に嫌な子。優秀なあなたとは大違い」
「何をっ……」
「毎日毎日、雪絵のことで悩まされるのは、もううんざりだったのよ」
「……」
「私は楔姫を産んだわ。もう務めは果たしたのだから、放っておいてほしいのよ」
「……」
「なのになぜ私ばかり責めるの……もう嫌よ……私にはマキだけなのに……」

 そう言って、枕を握りしめたまま菖蒲がシクシクと泣き出す。

「マキを呼んでよ……マキがいないと……私はもう……」
「…………」

 すすり泣く母を見下ろしながら、全身が脱力していくのを感じた。

「華絵様……これ以上は……」

 華絵を抱きしめていた小巻がそう呟くを聞いて、華絵が頷く。
 これ以上、この人とまともに話し合うのは不毛だと、彼女はそう言いたいのだ。

 その通りだと思った。







 染谷の別邸に戻った華絵は、小巻の入れてくれたお茶が冷めていくのを見つめながら、ただじっと椅子の上に座って俯いていた。
 
 頭が真っ白で、何も考えられないでいる。
 
「華絵様……大丈夫ですか?」

 そんな彼女を気遣うようにして、正面に腰掛けていた小巻が眉尻を下げる。
 愛想笑いを浮かべる元気もなくてただ機械的に頷くと、小巻は短く息をついて話しだす。

「……ひとつ、思い出したことがあります。」
「え……」
「昔、雪絵様の出生について、あらぬ噂話が女中の間で囁かれておりました」
「お姉ちゃんの出生……?」

 両手で湯のみを包んだまま、小巻が頷く。

「雪絵様の、お父上についてです」
「……」
「マキ様ではないのかと、そんな噂を口にする女中が当時多く居ました。小巻も、何度か耳にしたことがあります」
「何を言うの小巻……マキはお母様の狗よ」
「ええ、それに、今となっては根も葉もないデタラメだと証明されました。皮肉にもゼンの存在が、それを証明してくれたのです」
「どういうこと」
「華絵様。姫と狗の間に生まれるのは、普通の赤子です。それはこの里にいる誰もが知る事実なのです。万が一にも、姫と狗の子が楔姫や鬼の因果を受け継ぐことはありません。ですが、雪絵様にはゼンという狗がいらっしゃいます。ゆえに彼女は楔姫であり、父親はマキ様ではありません」
「…………」
「ですが、雪絵様には長らく狗がおりませんでした。菖蒲様がどんなプレッシャーを感じていらっしゃったかは、……ある程度想像がつきます」
「……お姉ちゃんが楔姫ではなかったから? だから殺したと?」
「真意は小巻には分かりません。ですがひとつ言えるのは、藤代は、代々途切れることなく楔姫を排出してきた名家であります。藤代の姫あってこそ、我ら一族は成り立つのです。新たなる楔姫を産む事こそが、藤代の跡目の大きな役目でもあります……華絵様の前で、このような事を言うのは、小巻も胸が痛むのですが……」
「……いえ、いいのよ」
「菖蒲様とマキ様はいつも仲睦まじく寄り添っていらっしゃったので、当時一族の中には、そんな二人の関係を邪推する者が多く居ました。楔姫と狗が結ばれるのは、あってはならないこと。一族に脈々と受け継がれてきた鬼の血が、途絶えてしまうからです」
「……」
「でも……」

 小巻がそう言いかけた時、染谷の別邸に置かれた電話がけたたましく鳴り響く。
 失礼しますと席を立って受話器をとった小巻が、ややあって華絵に振り返る。
 その蒼白の面持ちを見て、少女が眉をひそめた。

「華絵様……菖蒲様が……」
「え……」
「菖蒲様が、……自害なされました」