再び藤代邸に駆けつけた華絵が見たのは、布団の上で上体を起こし、寄り添うようにして隣に座る男の胸でさめざめと泣いている母の姿だった。

 顎まで切り揃えられた黒髪、透明な淡青の眼差し。
 花咲きの庭でも見た久々宮マキが、楔姫である母の有事に駆けつけ、包帯を巻かれた彼女の細い手首を、悲しそうな瞳で見つめ、愛おしそうに撫でている。

「ご安心ください。マキが間に合って鬼火を使いましたので、彼女はもう大丈夫です」

 そう言って、駆け込んできた華絵に説明してくれたのは、富士白第二ビルにいるはずの阿久津宗一郎だった。おそらく彼も本家藤代からの連絡を受けて帰省したのだろう。

 華絵は少しだけ表情を強ばらせ、阿久津から後ずさるように身を捩る。
 そんな彼女の様子を見て、阿久津が苦笑いを浮かべた。

「こりゃ嫌われたもんだ」
「……何しに来たのですか」

 警戒をあらわにする華絵を見て、阿久津はうーんと唸る。

「あなたが藤代邸に戻ったという知らせを受けて駆けつけたのですが、どうやらそれどころではなさそうで」

 布団の上の菖蒲に視線を投げて彼が言う。

「今は母の回復が優先です」
「そうでしょうね。ただマキとレンは東京に連れて帰りますよ。彼らには仕事をしてもらわないと」

「だめよっ!!」

 華絵が叫ぼうと口を開くより先に、菖蒲がそう声を張り上げた。
 彼女は隣にいるマキの着物の襟を強く握って、阿久津を睨みつけている。

「また私からマキを取り上げるつもりなの!!」
「あ、菖蒲様……そう言われましても……」

 まいったなぁと頭を掻きむしる阿久津に向かって、菖蒲は枕を持ち上げ投げつけた。
 
「もうたくさんよっ!! みんな出て行って!! 出て行ってよ!!」

 ヒステリックに捲し立てられて、その場に居たマキ以外の全員が追い出されるようにして部屋を出る。
 皆が一様に閉じた襖の前で唖然とする中、長い溜息をついた阿久津がふと華絵を見やり、情けなく微笑んだ。

「少し、お話しませんか、華絵様」
「……」
「あなたがお逃げになった理由はなんとなく察しております。それを責める気は毛頭ありません。ですが、私の言い分も聞いていただきたい」
「……あなた達は嘘つきだわ」
「全て忘れたあなたには、言えないことがたくさんありました。ですが、もう違うのでしょう? レンからある程度話は聞きました。もちろん、ゼンのことも」
「……」

 しばらく彼の顔を見つめた後、華絵は慎重に頷く。
 ついてこようとするレンと小巻を阿久津が制した時も、異論は唱えなかった。
 ゼンを失った今、自分をあのビルに囲う必要もないだろう。そう思ったからだ。



「……時々、分からなくなります」

 藤代邸の広い庭園を歩きながら、阿久津がポツリと呟いた。
 外はもう暗く、月明かりが庭の花々を幻想的に照らしだしている。
 美しい庭だと、いつも思う。たとえここが、過去の惨劇の舞台であったとしても。 

「家にとって大事なのが、狗なのか、姫なのか」
「……どういうことですか」

 怪訝そうに問い返す少女に肩をすくめると、彼は胸ポケットからタバコを取り出して、火を付けた。
 吐き出した煙が、寒さに染まる白い吐息と混じって一緒に宙を漂う。

「武永様にとって大事なのは狗です。ですが、その狗たちにとって何よりも大切なのは楔姫です。俺たち調査員は、ときおりその優先順位に迷い、振り回されます」
「……優先順位……」
「調査員の俺たちがその仕事上必要とするのは狗です。正直に申せば、俺にとって姫などはいてもいなくても同じ。それが本音です。あなたを大事に思っていないわけではありませんが、レンの命とあなたの命なら、俺はレンの命を優先するでしょう。レンを守るためなら、俺はいくらでもあなたを見捨てるし、いくらでもあなたを騙します」
「…………」
「でもそのレンが何よりも優先するのはあなたなわけで、それでまた俺たちは戸惑うわけです」
「…………」
「楔姫の扱いについては、長らく家が抱える難題でもありました。ありとあらゆる育て方を、試行錯誤してきました。どうすれば従順な姫が育ち、どうすれば狗を家の手中に収めることが出来るのか」
「従順……?」
「そうですよ。反抗心を持たず、利口であり、でも決して賢すぎず、それから、決して狗と恋仲に落ちない姫を育てるのは、中々に苦労します。理由はお分かりですよね?」
「……狗と、結ばれては困るからでしょう」
「その通りです。これが本当に難しいのです。なんせ奴らは見目の良い男で、無条件の愛情を姫に捧げます。年が離れていればまだ良いのですが、姫と狗は大抵の場合、つがいのように揃って生まれてくるので、なおややこしい。藤代の女児は将来楔姫を産むことが約束されているので、他家の女児よりも余計に慎重に育てられます。菖蒲様も、そのお子様である雪絵様と華絵様も、皆がおっかなびっくり、それこそ手探りで育ててきました」

 阿久津の言葉を聞いて、華絵はふと昔の雪絵と自分を思い出した。
 雪絵は幼い頃から楔姫や狗の伝承を知っていたように思う。おそらく華絵とは違い、跡目としての役割を教えられ、教育を受けてきたのだ。
 一方妹の華絵には何も教えず、最低限の知識だけを与えて、伝承とは引き離し蚊帳の外で育てた。

「姫の育成にはあらゆるパターンを試します。殆ど実験のようなものです。何も教えられず育ったあなたは家に従順で、滅多なことには疑問を抱かず、狗に適度な好意を示しながらも、それに過度な執着心を持たぬ少女でした。武永様はとても満足していたように思います。あなたは、それこそ理想の楔姫だった……あの事件が起こるまでは」

 それが雪絵のことを指しているのはすぐに分かった。
 あの日を境に、華絵の人生はその全ての色を変える。

「あの日、家が重要視したのは雪絵様の死そのものではなく、それを目撃してしまったあなたにありました」
「私に……?」

 問いかける華絵に、タバコを燻らせていた阿久津が振り返り、頷く。

「華絵様、俺はあの日雪絵様を手に掛けた本当の犯人を知っています。小巻を始めとする染谷の家の者も、真相にはすぐ気が付いたはずです。でも重要なのはそこではなかった。重要なのは、あなたがレンを、犯人であると証言したことです」
「……それは……」

 華絵の表情が恐怖に凍りつく。
 ふいに犯した罪を突きつけられて、少女が俯いた。

「母親を庇いたいあなたの気持ちはとてもよく理解できました。一種の防衛本能のようなものでしょう。ですが武永様はあなたがレンを見捨てたと判断なさった。姫に見捨てられれば、その悲しみから狗が鬼になる危険性がありました。それで、早急に対策が練り直されたのです」
「……対策って、私を里から追い出したことですか」

 恨みがましく言ったつもりはないが、そんなニュアンスが含まれていたのだろうか。
 バツが悪そうに微笑んで、阿久津が頷いた。

「あなたとレンを引き離す必要がありました。彼は素質のいい狗で、家にも従順です。どうにかして楔姫なしで育てることは出来ないかと考えたわけです。武永様はあなたに全てを忘れさせ、その後の生活を保証する代わりに、レンに家の務めを果たすよう告げました。姫と引き離されるなど他の狗には到底耐え難い苦痛でしょうが、彼は素直にその条件を飲みました」
「…………」

「楔姫に縛られない狗ほど家にとって都合の良い存在もありません。つまり雪絵様の死があなたにもたらした変化は、ある意味我々にとって光明でもあったのです」

「……光明……ですって」
 
 少女の声が、怒りに震えた。
 それに気付かないふりをして、阿久津はすっと視線をそらす。

「だからこそ武永様は菖蒲様を罰せず、あなたの嘘に乗っかった。あなたがレンを忌避すれば忌避するほど、家にとっては都合が良かったのです」
「ふざけないでっ……お姉ちゃんは、実の母親に殺されたのよ!?」
「ですがあの時点ではゼンはまだ母親の腹の中でしたので、雪絵様が楔姫であると認識していた者はおりません。いいですか華絵様、この藤代一族にとっては、姫と狗が全てなのです。その他のすべての事柄は、瑣末なことです」
「なんてことを言うのっ……」
「華絵様。よく聞いてください。あなたのために申し上げているのです。あなたはそういう家に生まれたのです。それがこの家のあり方なのです。そこに疑念を抱けば、あなたもまた失敗作と判断される。分かりますか? この家の長が誰なのか、お忘れですか?」
「……っ……」
「武永様は、容赦の無いお方です。それを知っているからこそ、我々はあなたを守るために記憶を取り戻すことをさせなかった。雪絵様の死に疑念を抱けば、あなたがこの家に不信感を抱けば、武永様はあなたを本当の意味で支配しようとするはずです。かつて菖蒲様が、そうされたように」

 その言葉を聞いて、激昂していた華絵がふと眉根を寄せる。

「菖蒲様はマキを異性として愛していました。それは、マキも知っていました。彼が彼女の愛情を拒めるわけがない。けれど、それを知った武永様は、まだ16だった菖蒲様を地下牢へ閉じ込め、自害せぬよう鎖につなぎ、毎夜代わる代わる里の男を通わせました」
「……なに、それ……」
「それは菖蒲様が雪絵様を身ごもるまで続きました」
「嘘よ……だって、お父様は……」
「誠様は身ごもった菖蒲様に充てがわれた跡取りのための飾りに過ぎません。雪絵様の本当の父親は分かりませんが、武永様にとっては瑣末なことです。狗以外なら……誰でも良いのですから」

「…………」
「武永様がその気になれば、楔姫など、どうとでも出来る。華絵様、よくお考えになってください。あなたが自分の身を守るために一番有効なのは、何も知らないふりをして、家の暗部には首を突っ込まないことです。武永様の怒りを買わないことです。そうすれば、少なくとも菖蒲様と同じ轍は踏まないですむ。人並みの幸せは掴めます」
「そん、な……」

 震えていた膝がついに力を失い、華絵はがくりと雪の上に膝をつく。
 
「雪絵様はこの家の歪みに、因果に殺されたのです。俺はそう思っています」
「……どうして……」

 お母様。
 そう呟いて、華絵は顔を覆った。

「雪絵様の亡骸に、更に爪痕を残したのがマキでした。菖蒲様の犯行を隠ぺいするつもりだったのでしょう。……その献身と爪痕、それとあなたの嘘が、今日までゼンの恨みの矛先を菖蒲様から遠のけた……あなたは文字通り盾となって、お母様を守り続けたのです」
「もういい……もうやめて……もう聞きたくない……」

 体を二つに折って耳を塞ぎ、そんなふうに言う少女を、憐れむようにして阿久津が見下ろす。

「あなたの知らない一族の秘密は、まだたくさんあります。全て聞きたいと言うのならお話します。でも俺は、あなたには、せめてあなたにだけは、人並みの幸せを……」

 菖蒲が壊れていくのを、雪絵が散っていくのを、見ていた。
 残された華絵を救うためにどうしたいらいいのか、考えなくても分かった。

 できるだけ、この家から遠ざけることだ。

「……俺は、俺なりに、あなたを守ろうとしてきた」

 そう言い残して、阿久津が去っていく。
 華絵はまだ立ち上がれずに、頬をかすめる冷たい雪の感触だけを感じていた。

 あの日の雪絵も、この冷たさを肌に感じていたのだろうか。

「……お姉ちゃん」

 呟いて目を閉じた。
 白い雪が舞い降りる庭で一人、華絵はいつまでも横たわり、あの日の姉を思い、かつての母を思った。

 閉じた瞼の裏で、二人が微笑み合う姿が見える。
 叶うのならずっと目を閉じて、そんな二人を見ていたいと願った。
 たとえばそれが華絵が作り出した幻想だと分かっていても。

 現実よりは、ずっとマシだから。