境内に植えられた花木(かぼく)には、古い言い伝えがあった。
多くの参拝客が、注連縄(しめなわ)で囲われた太い幹を指差し、これは神木(しんぼく)だと言う。
かつての日本人に根付いていた古神道のなごりだろうか。
感謝や畏怖の眼差しでそれを眺める彼らを見ていると、どうしようもない衝動に駆られる。
この木が彼らにもたらす災厄を、今はまだ誰も知らない。
全てを打ち明けるには、力も足りない。
今すぐに走り出したいのに、そうは出来ない現状に足踏みしながら、今日ものんきな参拝客を黙って見送る。そうするしか出来ない自分に、唇を噛みしめる。
「草も木も、我が大君の国なれば、いずくか鬼の棲(すみか)なるべき」
花木の前に佇み、そう呟いた少女に振り返る。
「……なんですって?」
風の音にさらわれよく聞き取れなかった言葉を尋ねる大河原に、少女は木を見つめながら答えた。
「平安時代に人が鬼へ送った和歌です。彼らをこの世から追い出すために作られました」
「……藤原千方(ふじわらのちかた)の四鬼ですね」
「よくご存知でいらっしゃる」
少女が少しだけ驚いたようにして大河原に振り返ると、彼は苦笑を浮かべて頷いた。
「各地方に散らばった鬼の伝承なら一通り目を通しました。それに、藤原千方の鬼については有名な書物もある。鬼の伝承にかけちゃ、メジャー所ってとこじゃないですかね」
大河原の説明がおかしかったのか、少女はクスクスと笑いながら「その通りですね」と答える。それから、彼が小脇に抱えていた数枚の書類を見つめ、悲しそうに目を伏せた。
「私たち藤代一族の鬼とは違う。私たちの伝承は……」
「長きに渡り隠蔽されてきた」
「そうです」
枯れた花木を見上げ、少女が言う。
「暴かれなければなりません。全ての罪も、全ての因果も……」
言いかけて、少女が喉をつまらせ咳き込む。
だんだんと深みを増す咳に大河原が手を差し伸べるより前に、オレンジ色の髪をした彼女の狗が飛んできて、少女の体を抱え上げた。
「キラ……」
「もういいだろ、中に戻るぞ」
そう言って、明るい髪色の青年が有無をいわさず彼女を連れて行く。
一人取り残された大河原は、神木を見つめながら、くたびれてきた藤代記録のコピーを握りしめた。
これを読んで、書かれた内容を知って、最初に思ったのは「なぜ」という疑問だった。
なぜなのか。
記録では、かつての鬼は初代藤代の手によって全て討伐されてきたとある。
ではなぜなのか。
なぜ「外の鬼」は今も絶えず生まれ続け、根絶を目指すはずの一族の因果な家業は終わりを迎えないのか。
そもそも、「外の鬼」は何なのか。なぜ生まれ続けるのか。
解明されぬまま狗は必要とされ続け、一族の権力は肥大化していく。
その疑問に行き当たった時、恐ろしい疑惑が浮かんだ。
鬼を抱える藤代一族と、大企業である富士白製薬。
もし彼らが鬼の生体を知り尽くしているとしたら。そのノウハウが、あるとすれば。
――「誰にも言ってはいけない事なの。だってこれは、お国とお家が決めた内緒の約束だから」
あの日のひなの言葉が脳裏をよぎる。
そして気付いた。
約束などではない。
そんな生ぬるいものではない。
これは脅しだ。
鬼の一族により繰り返されてきた、人類への反乱なのだ。
「どういうことなの」
目覚めた華絵が、大河原の訪問を告げた小巻の話に眉根を寄せる。
「小巻にも分かりません……ただお二人は藤代記録を間に挟み睨み合って……それから大河原さんが、これは重罪行為だとレン様に仰ったのです。ただならぬ雰囲気でした。レン様はそれを聞いて、追い出すように大河原さんを……」
「重罪って何のことなの」
「小巻には皆目検討も付きませんが……」
真に迫ったような小巻の声色を聞いて、これ以上尋ねても無駄だと悟る。
とにかく大河原と会わなければと感じ、華絵は立ち上がろうと両の腕に力を込める。
その途端にめまいを感じて、少女の体がぐらついた。
「華絵様!」
「だ、大丈夫よ。……薬を飲むのをやめてから、あまり調子が良くないの」
「…………」
「もう、薬を飲めとは言わないの?」
どこかからかうような笑みを見せる華絵に、小巻はしゅんと項垂れたままわずかに頷いてみせた。
「……華絵様が飲んでいらっしゃったお薬は、富士白製薬が独自に開発したものでした。無論、全て認可の下りていない新薬です。虚脱感を増幅し記憶を曖昧にする効果を持つかわりに、強い中毒性を持っています。突然服用を止めたために、離脱症状が起こっているのでしょう……」
つまり大河原の読み通りということだ。
舌打ちでもしてやりたい衝動をこらえて華絵は立ち上がり、寝間着の帯を解く。
「華絵様……まだ安静にしていたほうが……。ここ数日色々とありました。お心の整理がつくまではお布団でゆっくりお休みください」
「ううん。寝ていたって、泣き言しか出てこないもの」
「……」
「それに……何かしていないと、逃げ出したくなるの」
泣き言はもう言った。涙もたくさん流した。
捨て去りたい過去だったとしても、それも含めて自分の人生なのだ。
受け入れていかなければならない。
「まずは大河原さんに話を聞きに行くわ。それからお母様やマキにも、もう一度会ってきちんと話を聞かないと……お姉ちゃんの墓前に、合わせる顔もないもの」
「……華絵様は、お強いのですね」
立ち上がった少女を眩しそうに見上げて小巻が言う。
「今だから思うのです。記憶を曖昧にしておく必要などなかったと。華絵様はこんなにもお強いのだから、いずれ菖蒲様と雪絵様のことも、ご自身の力で乗り越えていたいたはずです」
「……そんなこと、ないわ」
きっと、7年の日々は必要だった。
深い傷跡を、時間が癒してくれたはずだ。
たとえば記憶が抜け落ちていたとしても、傷は無自覚に痛み続けていた。
それから長い長い時間をかけて、癒えたのだ。
古傷となって開かれても、痛みに顔をしかめながら、それでも再び立ち上がれるように。
「大河原さんは今伊津乃神社にいらっしゃるはずです」
「神社?」
「はい。社は里の中にありますが、伊津乃一族の住居は里の外にありますので、そちらの可能性もありますね」
「……一族なのに、里の外に住んでいるの?」
「親族ではありますが、過去に藤代と伊津乃の一族が姫の処遇で揉めたために、今は破門同然の状態なのです」
「姫の処遇……?」
鏡台の前で髪を梳かしながら振り返る華絵に、小巻が神妙な面持ちで頷く。
「かつて里から東京へ逃げ出した伊津乃の楔姫がおりました。その方は不運な事故で亡くなってしまったのですが、見せしめのために武永様が殺したに違いないと、葬儀の場で伊津乃一族が声を上げたのです」
「……そんな」
「藤代家と伊津乃家は揉めに揉めた末、今はほとんど絶縁状態に」
「亡くなった姫には……狗が居たんでしょう? 狗はどうなったの?」
「姫の死を知り、衰弱しきったのでしょう。後を追うようにして、亡くなりました」
「……」
「伊津乃の家には今も新たな楔姫と狗がいます。あそこは藤代に次いで姫や狗を輩出する名家なのですよ。狗のキラは基本的には地方で任にあたっていますが、先日のゼンの捕獲では東京に駆りだされていましたので、華絵様もお目にしたかと思います」
「キラ……」
その名に覚えはないが、花咲きの庭では確かオレンジの炎を身にまとった見慣れない青年がいたはずだ。彼のことだろうか。
「……とにかく行くわ。それに、他家の楔姫とも会ってみたいもの」
「どこまでもお伴します」
力強く頷いて、小巻は華絵の背中にそっと手を当てた。