染屋邸の玄関を出ると、華絵と小巻の行く手を阻むようにしてレンが立っていた。
 戸惑い顔を見合わせる女性たちに向かって、彼はきっぱりとした声色で華絵を寝所に戻すよう小巻に命ずる。

「で、ですが……」
「大河原さんの元へ行かせるわけにはいきません」
「でも……」

 一歩も引かない態度の彼を見て、小巻がすがるような視線を華絵に向ける。
 少女はそれに頷いて、小巻を下がらせた。

「いいのよ。中に戻っていて。レンは私が説得するから」
「無駄です」

 妙に高圧的な態度で言う彼を無視して小巻を玄関の中へ押しやると、その扉を閉めてから華絵は彼に振り返る。

「どういうつもりなのレン。大河原さんは私に用事があって来てくださったのよ。今度はこちらから話を聞きに行くべきだわ」
「話なら俺が伺いました。藤代記録に関する取材です。知っていることは全てお話しました」
「……私は話をしていないわ」
「終わったことです。彼も納得して帰って行きました」

 追い出したくせに。
 そう言いたくなるのを堪えて少女が睨みつければ、強い眼光で睨み返される。
 その迫力に圧倒され、内心慄いていると、それを見透かしたようにレンが視線を逸らした。

「とにかく、部屋に戻ってください。これ以上不穏な動きをして、万が一それが武永様の耳に入れば」
「お祖父様のことは十分承知しているわ」
「分かってない」
「分かってるわっ!」

 つい声を張り上げれば、レンが上体をのけぞらせて目を細める。 
 心底呆れたような、強情な華絵に疲弊しているような、そんな冷たい表情だ。
 我に返り、「ごめんなさい」と呟く。
 レンが理由もなく華絵に歯向かうわけがないから、きっと深い事情があってのことだろう。分かってはいても、いつだって彼は言葉が足りないから、苛立ちが募る。

「お祖父様の恐ろしさは、十分思い知ったつもりよ」
「ならばなぜ、危ない橋ばかり渡ろうとするのですか」
「十分思い知ったからよ。私は……これからの人生を、お祖父様の人形になって暮らすつもりなんてない。そんな気は、これっぽっちだってないの」
「……人形になれとは言っていません。なんでそんなに……」

 聞き分けがないのか、と続く言葉を彼が飲み込む。
 多分、勢いに任せて華絵を侮辱したくないのだろう。
 言ってくれればいいのにと思う。実際に、聞き分けがないと自分でも思うのだから。

「何と言われても行くわ。私なんかが楔姫で、レンもついてないわね」
「……」

 その通りです、と彼の瞳が言外に告げる。
 言ってくれれば喧嘩も出来るのに、そうはしてくれないから、一方的に意地を張るしかない。

「……打ちのめされていたかと思えば、もう立ち上がるのですか」

 やがて彼が力なく告げる言葉に、華絵は決意の瞳で頷く。

「……レンがいてくれたからよ。レンがそばにいてくれたから、立っていられたの。ずっと誰を信じていいのか分からなかったけど、レンの言葉なら信じられた。それが人とは違う、ただの狗の忠誠心でも、私には救いだったの。嘘をつける人の口よりも、あなたの忠誠心のがよっぽどわかりやすいもの」
「そんな言い方はとても卑怯です、姫様」
「いざとなれば私を連れて逃げてくれるんでしょ? そう思えば、強くなれるわ」
「あなたは逃げたりしない……逃げてくれたほうがよっぽどいい」
「レン、お願いよ」
「……また後悔しますよ」
「その時は、……好きなだけ罵ればいいわ」

 彼の予言は、多分当たるだろう。
 そんな覚悟をしながら捨て鉢になって口にしたセリフに、レンがため息を零す。
 諦めて肩を落とすその様子に、少女の胸が傷んだ。

 彼の思いやりに、従順な忠誠心に答えてあげたいのに、取り巻く現状と、華絵の意地がそれを拒む。

――ごめんなさい……

 心の中でもう一度謝罪して、華絵は歩き出した。
 たとえばそれが、武永の意向にそぐわなくとも、自分でも驚くほど、前に進みたいと思った。

 母の罪を、雪絵の死を、レンの犠牲を、自分の七年間を、藤代に傷つけられたすべての人達の痛みと無念を、知ってしまったから。

 もう戻れないと、強く思った。







 無機質な時計の音を聞きながら、茜(あかね)は俯いていた。
 これから訪れる客のために、玄関には胡蝶蘭を飾った。
 お茶もお茶菓子も、最高級のものを用意した。
 行儀がよく無口な使用人を揃え、いらぬ茶々を入れてきそうな者は帰した。

 準備は万全だった。
 それでも、彼女が来てくれるという自信はなかった。
 彼女がどんな花を好み、どんな菓子を好むのかを茜は知らなかった。
 だから、彼女が今どんな気持ちで過ごし、どんな決断を下すのか、当然知る術はない。

「そんな畏まんなよ、また熱を出すぞ。藤代の姫の前でぶっ倒れても俺は知らねぇからな」

 赤と白の巫女装束に身を包み、客間の座敷で正座したまま緊張している主人を見て、キラが軽口を叩く。茜はそんな彼の茶々を無視して、慎重に息を吐きだした。

「キラ、姫様の前でそのような無礼な口を聞いたら、その場で首ごと切って捨てるから覚悟なさい」
「はいはい」

 藤代の姫と会うのは、茜にとって生まれて初めての経験だった。
 元より破門同然だった伊津乃の家は、棲家を里の外に移していたから、もしかすると藤代の姫は茜の存在すら知らないのかもしれない。

 一度も会ったことがない、何の縁も感じないであろう自分の言葉を、あの方は聞き入れてくれるのだろうか。ずっと、そればかりが気がかりでいる。

 染谷の使いである小巻と名乗る女性から連絡を受けたのが1時間前。
 今から姫とともにそちらへ伺うと告げた彼女の言葉を、茜は万感の思いで受け止めた。

 ついにこの日が来た。
 長きに渡る先代の無念も、茜の悲願も、全ては今日の一歩にかかっているのだ。

「華絵様ならきっと話を聞いてくれるさ」
「……キラにあの方の何が分かるの」
「お前だって何も知らねぇだろが」
「…………」

 その通りだ。顔だって、見たことがないのだから。
 東京の花咲きの庭で彼女に対面したことのあるキラの方がよっぽど、華絵については詳しいのかもしれない。

「……まさかお前、華絵様と言葉を交わしたの?」
「いいや。一言も」

 役立たず、と呟いて茜がまたテーブルの木目と見つめ合う。

「それでも、狗を知れば姫のことは大抵分かる」
「……どういうこと」
「レン様は慎重で猜疑心が強く、それゆえ狡猾な狗だ。忍耐力にも長け、自己犠牲を厭わないフシがある。忠誠心の強さは主人への独占欲の裏返しで、根底にあるのは臆病な彼の気質だ」
「お前……口が悪いにもほどがあるわよ」
「彼を見ていると華絵様の姿が浮かぶ。素直で大らかで無頓着。嘘はつかないが他人の嘘も許さない。大胆で、勇敢で、正義感もあるかも知れない。ただし頑固で、向こう見ずだ」
「……とても、大人しくて、慎ましやかな女性だと聞いているわ」
「本来の姿を家が取り上げていたからだろ。だけど彼女は取り戻した。そして、自分からそれを奪っていった奴らを許さないだろう」

 なるほど、と頷いて茜は窓辺に佇む狗をチラリと見やる。

「さすが思慮深い私に仕えるだけはあるわね」
「だろ?……って、おい」
「その無神経さも今すぐ捨ててこないと、この場には参加させないわよ」
「茜を安心させようと思って言ってるんだよ」
「お前が華絵様の前で無駄口を叩くんじゃないか思うと余計に胃が痛くなってきた。まったく、ペラペラと余計なおしゃべりばかり」

 茜が説教を始めようとしたその時、伊津乃家のドアベルが鳴らされる。
 心臓が止まりそうなほどの動悸を息を吐き出すことでどうにか堪えた少女が、ぐっと両手を握りしめ立ち上がった。

「大丈夫よ」

 一瞬にして顔色を失った少女を、先ほどまで軽口を叩いていた狗が不安げな表情で見守る。そんな彼を安心させてから、茜は使用人と客人が待つ玄関へ向かった。
玄関先に立つ三人の訪問者を見かけるやいなや、茜は生唾を飲み込み、背筋を伸ばして彼らを出迎える。

「ご無沙汰しております。染谷小巻と申します」

 手土産らしい菓子折りを差し出しながら、一際背の小さい和服姿の女性が言う。
 
「お待ちしておりました。伊津乃家当主、伊津乃茜と申します」

 使用人が菓子折りを受け取ったのを見て、一歩前に躍り出ながら茜が挨拶をすると、染谷の女性は深々と頭を下げた後、背後に立つ一組の男女にチラリと視線を向ける。

 手足が震え出しそうな緊張を抱えながら、茜もそちらへ顔を向けた。

 最初に目が行ったのはスラリとした痩身の美しい青年だった。
 そんな彼がまとう異端のオーラを見て、あれが染谷の狗だなと察する。
 
 研ぎ澄まされた鋭い視線は、どこも見ていないようで、その実あらゆる箇所にアンテナを張り巡らせている。警戒と、潜めた敵意を用心深く隠しながら、じっと押し黙っている姿を見て、キラの言うとおりだと思った。彼はとても慎重な狗だ。

 それから、彼の横に立つ少女を見やった。
 目があった瞬間、茜は少しだけ虚をつかれた。

 多分彼女が、真っ直ぐにこちらを見つめていたからだろう。
 澄んだ黒い瞳の少女だった。

 話に聞いていたよりは幼い印象で、少女と大人の女性の間を彷徨うような、どちらともつかない危うさがあった。
 流れるような黒髪に、白いワンピース姿の少女はとても美しく可憐だったが、眼差しに迷いはなく、覚悟を決めたような高潔さすら漂わせて、茜を一心に見据えている。

「はじめまして、藤代華絵と申します」

 鈴を転がすような、澄んだ声で少女が言う。
 その美しい響きにも、迷いは見当たらない。

「茜と申します。お会いできて光栄です。楔姫様」

 負けないように、覚悟を決めて茜も微笑んだ。
 臆している訳にはいかない。こんなにも堂々たる姿を見せてくれた姫の前で、何を話すにせよ、そこに迷いを見せる訳にはいかない。彼女の腹はすでに据わっている。

 見合うだけの覚悟が、こちらにも必要だ。