薄暗がりの中、ともすれば霧のように消えてしまいそうな相手の気配を逃すまいと、華絵は背中に回した手で無意識にレンのシャツの握りしめていた。
扉の前で、どのくらいそうしていただろうか。
レンは黙ったまま、ただじっと華絵を抱きしめている。力強い腕は熱くて、確かに彼の情熱を感じるのに、無言の気配は同時に彼の複雑な心中を物語っているようで、やはり余計なことを言ってしまったのかもしれないと、ふと少女は心細くなった。
何を言っても、レンを困らせるだけの存在なんだと、最近は痛感している。
彼を愛しても、彼を愛さなくても、戸惑わせるばかりだ。
「……レン」
なにか言って欲しくて呼びかける。
わずかに腕の力を弱めた彼が、絞め付けられるように抱きしめていた華絵を見下ろす。
澄んだ青い瞳を覗き込んだ少女が、その奥にある色を見て、目を見開いた。
「レ……」
言いかけて、唇を塞がれる。
思っていたよりもずっと冷たい唇が、瞬時に熱を帯びていく。それが華絵の肌に伝播して、少女の背筋が震えた。
あまりの熱に、慄いたからだ。
体が焼けるように熱くて、芯から電流が全身にひた走るのを感じる。
苦しいような、痛いような、本能で逃れたくなるような戦慄を感じたけれど、じっと耐えて、目を閉じる。
これは、口づけだろうか。
触れた唇から、口内にねじ込まれた舌先から、悪意にも似た激情を感じる。
愛されるというよりは、ただ捕食されているような、全身を侵食されていくような恐怖。
そして、それを上回るほどの抗いがたい快楽に、華絵は思わず脱力し、震えた膝が折れていくまま、彼に支えられてずるずると床にへたり込んだ。
そんな華絵の左耳に唇を当てて、レンが密やかに囁く。
聴力を殆ど失ったはずの鼓膜に、消え入りそうな小さな声が落ちた。
驚いて目を見開きレンを見上げたその時、静かな部屋にノックの音が響く。
扉一枚隔てた向こうから唐突に上がった無機質な音に、華絵は心底驚いて声にならない悲鳴を上げた。
「……レンいるか? お前、報告書は書いたのか?」
阿久津の声だった。
レンは扉を背にした華絵を抱きしめたまま、静かに息を吸って「いいえ」と答える。
「仮眠をとっていました。今から書きます」
「おいおい。頼むぞ。書き上がったら俺がチェックをするからな。すぐにデスクに戻ってこいよ」
「はい」
足音が遠ざかると、息を止めていた華絵が安堵のあまり胸を撫で下ろす。そんな彼女の様子をつぶさに観察しながら、レンはゆっくりと華絵を立たせ、青い瞳で少女を見下ろした。
「仕事があるので、終わらせてきます」
「……レン」
「あなたはここで待っていてください。大人しく、誰にも見つからないように」
そう言って、青年が少女の黒髪を撫でる。
そんな彼らしからぬ動作にも、今は違和感を感じることが出来なかった。
「……分かったわ」
華絵がそう言って頷く間も、レンは微笑んでいた。ずっと微笑んでいた。
見たこともないような、妖艶で、凶悪な色を瞳に湛えて。
*
「お、やっと戻ってきたか」
レンが調査員の事務フロアに戻ってくると、デスクでコーヒー片手にタバコをくゆらせていた阿久津が書類の山から頭をのぞかせた。
「そのまま寝ちまうつもりだったんじゃねぇだろな」
「すみません」
「否定しろよ」
突っ込んでも返事がないのはいつものことだが、何となく気になって阿久津が首を伸ばす。
自分のデスクに座ってパソコンを起動し、大人しく報告書を書き始めた青年の横顔を見つめながら、阿久津はふとした違和感に目を細めた。
「……レン?」
「はい」
「なんかお前、調子でも悪いのか」
「いえ」
問いかけている間も、レンは一度もこちらを見ようとはしない。
調子悪い時は普段の無愛想さに拍車がかかるレンだったから、阿久津は重い腰を上げて彼のデスクまで近寄り、その顔を覗き込む。そこで初めて、青年が青い瞳を阿久津に向けた。
「なんか顔色が……悪く無いか?」
「そうでしょうか」
「いや、顔色が悪いっていうか……なんか、目が……」
目が違う。
そう思った。蛍光灯が照らす室内で、異様なほどに青く発光する瞳。
普段は上手に人を真似ている彼だけれど、今ばかりはその青々と煌めく眼光に異端の気配が見える。
「調子が悪いわけではありません」
そう答えてレンが薄く微笑んだ。
お愛想ばかりのぞんざいな彼の笑みは見慣れているはずなのに、今日はそこに潜む美しさや危うさがやけに目について、なぜか気にかかる。
「姫様に言われたことを気にしてんのか? お前は生真面目だからなぁ。考えすぎるのは良くないぞ。姫様だって狗のお前に全部を理解してもらおうなんて思っちゃいないさ」
老婆心からそんな風に慰めても、彼は黙ってディスプレイに向かったまま頷くだけだ。
その場限りの乾いた言葉が青年に響かなかったのは明らかだったので、阿久津はやや身を乗り出して、先ほどよりはもう少し親身な声色で続けた。
「あのな、多少意思の疎通が取れなくたって、楔姫と狗の絆が揺らぐわけじゃないだろ」
「そうでしょうか」
「そうだろうさ。まぁ、俺は狗じゃないからよく分からんが……色んな姫と狗を見てて思うよ。たとえ分かり合えなくても、彼らには人智を超えた絆があるんだなってな。生まれ持った愛情みたいなもんが、お前たちの間にはあるんだよ」
「……愛情、ですか」
せせら笑うようなレンの声色に、阿久津が眉根を寄せる。
「レン?」
「俺はあの人に執着するただの化け物です。彼女の愛に飢えて弱っているくらいがちょうどいいんです」
妙な事を言いながら、淡々とキーボードを叩く青年を見つめていた。
ディスプレイを見据える青い瞳が、鋭い刃物のような冷たい色で煌めく。
「レン……お前、どうしたんだ」
彼全体を包む異様な気配に、たった今気付いた阿久津がまばたきも忘れてレンを見つめる。
瞳に漂う違和感や、疲れているように見えた薄暗い気配は、多分、レンがずっと放っている強い殺意が見せた彼の鬼の一端だ。
あの日、親族が集う会議室で感じた薄ら寒い空気が、今このフロアを包む。
「おつかれさまでした。阿久津さん」
出来上がった報告書の画面を阿久津に向けて、そう言いながらレンが立ち上がる。
その刹那、彼を避けるようにして空気が揺らぐのが分かった。その不思議な感覚を肌で感じながら、阿久津は額にうっすらと汗を浮かべ、遠ざかっていく声援の背中を見つめた。
「なんなん、だよ……」
誰もいなくなったフロアで、凍りついた心臓をそっと胸の上から撫で、慎重に息を吐きだす。
久しぶりに肝を冷やした。こんな風に戦慄するのはあの会議室以来だ。
理由は分からないが、レンが張り詰めているのは分かった。
もっと早くに気付くべきだったのに、すっかり鈍くなった自分を情けなく思って阿久津が頭をかきむしる。
時々忘れてしまうのだ。
どんなに頭に言い聞かせても、知識として知ってはいても、油断をしてしまう。
飼い慣らしたと高をくくって、気安く肩を叩き合うような日常の中で、ついつい、警戒心を緩める。
我々は人で、彼らは鬼で、食われるのはいつだって、弱い方なのだという理(ことわり)を。
*
カーテンのない窓辺に立ちながら、華絵は闇夜に浮かぶ白い月を見上げていた。
心には静寂が満ち満ちていて、この世に恐れるべきものなど何もないように思えた。
――逃げてください。
先ほど耳元でレンが囁いた言葉が、今も胸の奥でこだましている。
待っていろと命じながら、逃げろと忠告する彼の矛盾した行為も、今なら分かるような気がした。
唇を奪われる瞬間、彼の瞳の奥に見えたあの光は、紛れも無く殺意だったように思う。
凶暴な愛を抱えた鬼が、真っ直ぐに華絵を見て、冷たく微笑んだ。
同じ唇で、逃げろと囁いた彼の声もまた、真に迫っていた。
しばらくそうしていると、扉の向こう側から足音が近づいてくるのが分かって、少女が入口の方へと振り返る。
ベッドと机以外およそ家具らしい家具の見当たらない殺風景な部屋で、隠れるような場所はどこにもない。また、そのつもりもない。
ゆっくりと開けられた扉の向こうから現れた人物を、華絵は真っ直ぐに見つめながら出迎えた。
「おかえりなさい、レン」
彼が何かを言うよりも先に、そう言って微笑む。
レンも微笑みを返してくれたけれど、その影のある笑みを見て、手放しに喜んでいるわけではないことが分かった。
彼は窓辺に立つ華絵の元へ近寄ると、少女の瞳を覗き込みながら、その白い手を取り、自分の心臓に当てる。静かな鼓動を感じながら少女が首を傾げれば、青年が目を伏せて握る手に力を込めた。
「痛っ……」
柔らかい華絵の手が、彼の握力の中で鈍く軋む。
骨が押しつぶされる痛みに少女が声を漏らしても、レンは力を緩めようとはしなかった。
「この中に鬼がいて」
心臓に強く華絵の手を押し当てながら、うわ言のようにレンが呟く。
「とても凶悪な感情を、あなたに抱いているのです」
「……凶悪……」
「俺はいつも、あなたに触れるのが怖い」
「…………」
「だから首輪で繋がれているくらいが、俺にはちょうどいいと思っていました」
「レン……」
「きっと、傷つけるから」
軋む手が、赤くなっていくのが分かる。
痛みも麻痺してきて、華絵はぼんやりと青い瞳を見上げた。
「……それでもいいわ」
痛くてもいい。苦しくても構わない。
そんな風にしか愛せないなら、それを受け入れたい。
「それが、鬼の愛し方なんでしょう……?」
目を閉じる間際に、そう囁いて、華絵は降りてくる唇を受け止めた。
また、痛みにも似た電流が全身をひた走る。
全身の生気を奪われるような、頭から食われるような錯覚を覚える。激しい渇望が、そのまま欲望となって華絵の全てを奪い取ろうとする。
すぐに全身が痺れ始めて、立っていられなくなった少女をレンは抱え上げ、ベッドの上の白いシーツにそっと寝かせる。その手つきは優しくて、愛情に満ち溢れていたのに、見下ろす瞳は激しい殺意と情火が入り交じっていて、華絵はうっすらを目を開けたまま力なく微笑んだ。
こんな激情を、どこに隠していたんだろうと思った。
強い矛盾を抱えて、ずっとそばに居てくれたのだろうか。
首筋を這う開いた唇から、尖った犬歯が華絵の薄い皮膚をなぞる。
その上で喉を鳴らせた鬼が、激情を堪えながら牙を潜め舌先で肌を舐めた。
愛撫の一つ一つに見え隠れする殺意を、それを必死で堪える彼を愛おしいと思いながら、華絵はむき出しの白い肢体で、魂ごと目の前の男に差し出した。
鬼に愛されるということは、すべてを奪われるということ。
彼はずっと、殺したいほどの愛情を抱えていたに違いない。
それでもいい。痛くても、辛くても、打ち付けられる熱の塊がどんなに熱くても、それで全身が焼けただれても、こみ上げてくる快楽と充足感がすべてを打ち消してしまうから。
痛みに声を上げる華絵を見て、青い瞳の狗が切なそうに顔をしかめる。
快楽に声を漏らす華絵を見て、狂気の鬼がこの世ならざる妖艶な微笑みを浮かべる。
どちらも愛している。
今ここで、この愛に殺されても構わない。そんなふうに思った。