生まれた時から、分かっていた。
この地上に存在する凡百の人類はみな色褪せて見えるのに、たった一人、あの女だけが、極彩色の衣をまとって、花のような香りを漂わせている。
あれがたった一つの獲物なのだと、すぐに分かった。
あれを手に入れるために生まれてきたのだと、すぐに理解した。
あれは、頭の天辺から爪の先まで自分のものだと思った。
髪の毛一本すら残さず、この手に入れなければならない。
たった一匹の雌だから、欲望のままに愛してもいいし、あの香りを堪能するために頭から食ってもいい。
肌を引き裂いて、赤い血をすすり、魂の一欠片も残さずに胃袋に納めれば、この飢餓感も少しは収まるのかもしれない。
人の腹など、みな似通った赤い臓物の袋でしかないが、彼女の腹はまた違うのだろうか。
どんな味がするだろう。血や肉は。あの花のように鮮やかな赤の色をしているのだろうか。
見てみたい。触れて、色がぐちゃぐちゃに混ざり合うまで体を引き裂いて、食らってみたい。
だけど、もしそれが叶わないのなら、一生側にいて、永遠に彼女の幸せを見届けようと思った。
笑ってくれるのならば、頭(こうべ)を垂れてもいいような気がした。
いつかこの名を呼んでくれるのならば、力の全てを差し出すのも悪くないと、そう思えた。
愛することは、奪うこと。
でも、もし愛してくれるのならば、この身ごと奪われてもいい。
この執着を、誰かが愛と呼ぶならば、それでもいいと、そんな風に思った。
強く差し込む白い光に誘われて、華絵は薄くまぶたを開いた。
わずかに身動ぎをしただけで全身に痛みがひた走り、少女が目を開くと同時に顔をしかめる。
そんな彼女の様子を、隣で横になっているレンの青い瞳が見つめていた。
どうにか取り繕おうと情けない笑みを華絵が浮かべても、彼は笑ってくれない。
「……おはよう、レン」
「おはようございます」
満身創痍の華絵よりもずっと掠れた声で、レンが言う。
太陽の光が彼のなめらかな肌を白日の下に晒していて、何となく居た堪れなくなった華絵が目を逸らしながらどうにか上半身を持ち上げた。
顕になった胸元を隠しながら昨晩着ていたはずの寝間着を探すが、結局見当たらずに手元のシーツを引き上げる。見なくても、体中がアザだらけなのはすぐに分かった。
「失礼します。華絵様」
そう言ってレンがシーツに巻かれた華絵の肩に手を置けば、そこからぼんやりと浮かびだした青い鬼火が少女の体を包む。
涼しい秋風のような心地良い温度が肌を撫でていく気がして、華絵は大人しく目をつぶり、彼女を癒やそうとする鬼火を受け入れた。
次第に体が軽くなっていくのが分かる。
「……便利ね」
目を閉じながら、少しだけ可笑しくなってそう呟けば、レンが頷く気配がした。
「鬼火で傷が癒えるのは、あなたの体を構成する僅かな元素に、それが含まれているからです」
「……どういうこと?」
「あなたの体の一部に鬼火が宿されていて、欠損すればその部分を俺の鬼火で修復することが可能です」
「私医者要らずってこと?」
「欠損した部位によります。深部の欠損にはあまり効力を発揮しませんし、癒やすにも時間がかかります」
「……ふぅん」
淡々と説明してくれる彼の言葉を聞きながら、華絵は昨晩のことを思い返そうとしていた。
レンがあまりにも平然としているから、全部夢だったような気さえして、少しだけ不安になる。
「……ねぇレン」
「はい」
まだ華絵の肩に手を置きながら、真面目くさった顔で治癒に集中する彼を見上げる。
「私に触れるとき、いちいち了解なんて取らないで」
「……え?」
「失礼しますって、さっき言ったわ」
「はい」
「なんだか、傷つくわ。昨日は……その、あんな、だったのに……朝になって他人行儀なんて……」
「……」
悲しげな瞳でそんなふうに呟く華絵を見て、呆気にとられていたレンだったが、やがて察したように頷き、肩に置いた手でそのまま少女の頬を撫でる。
「……難しいですね、人の心とは」
「人の心というか、……女心って言ったほうがいいと思うわ」
「なるほど」
そう言って彼は華絵から手を離すと立ち上がり、昨晩脱ぎ散らかした衣服を身にまとう。
その広い背中や、首筋に流れる黒髪を見つめながら、華絵はどうしようもない恋情にかられていた。
自分でも戸惑うほどに、たった今離された指先が寂しくて、昨晩あれほど触れ合ったにも関わらず、もう一度抱きしめて欲しいと切望してしまう。
この恋はこんなに貪欲だっただろうか。
昨日までは、結ばれるつもりさえ無かった。それがもたらす代償を知っていたから、それどころではないと自制することが出来ていたのに、昨晩を皮切りに、堪えていた恋心が溢れだして、上手にコントロールすることが出来ない。
幼いころ、彼の迷惑も顧みずに、一目見たさの思いのままレンの元へ駆けつけていた、あの日の自分に戻ってしまったようだ。
元より生まれ持った不思議な縁で繋がれていた二人だったけれど、体の結びつきがこんなにも心に影響を与えるとは知らなかった。
今はレンをずっと近くに感じるし、本当の意味で自分の半身のように思える。
レンはどうだろうか。
これは人間特有の感情で、狗の彼は、そんなふうに自制心を手放したりはしないのだろうか。
「……レンは、これから、どうするの……」
こちらに背を向けたままシャツのボタンをしめている彼に問いかける。
振り返ったレンは、不安げな表情の少女に気づくと、不思議そうに首を傾げながら近寄り、まだベッドの上にいる華絵の横に腰を下ろした。
それから伸ばした指先で少女の髪をすくう。
華絵の了承も得ずに伸ばされた指先で髪を弄び、柔らかくすべっていく黒髪の流れを愛おしそうな視線で追う。
「レン……?」
その毛先に唇を押し当てて、それから戸惑う少女の唇を塞ぐ。
昨晩のような強烈な痛みや熱は鳴りを潜め、すっかり溶け合った唇からは甘い快楽だけが注ぎ込まれる。思わず脱力してまた組み敷かれた華絵の耳元で、レンが薄く笑った。
「あなたの思うように生きてください。俺はそれに付き従うまでです」
「……どういう、こと」
「地獄の果てまでお伴します。華絵様」
それは、茜の計画に、乗ってもいいということだろうか。
「覚悟は、出来ているの? レン」
震える声で問いかける華絵の言葉が可笑しかったのか、彼がまた吐息だけで笑う気配がした。
長い指先が、華絵の胸の膨らみをなぞり、表面の柔らかい薄肌に歯を立てる。
「あなたのこの心臓に流れる血の一滴まで、俺のものです」
「……噛まないで……」
鋭い痛みに華絵が呻けば、ふとレンが身を起こし、頬に優しいキスをした。
「覚悟をするのはあなたの方です。華絵様」
そう言って、青い瞳の鬼が不遜に微笑んだ。
*
朝方、部屋に戻った華絵を見て、寝ぼけ眼の宝良が出迎えた。
彼女は横で寝こけたままのしかかるハクを押しのけると、ソファに座る華絵の横に寝間着のまま近寄り、二人分のお茶をテーブルに置いて隣に腰掛けた。
「どこへ行っていたの?」
そう問いかけながらも、答えは分かりきっていると言いたげな宝良の表情を見て、華絵はマグカップを両手で包みながら正直に打ち明ける。
「レンのところです」
「……だと思ったわ。もしかして、ハクのせい? あいつ、また勝手に私のベッドに忍び込んで……華絵様がいる間はダメって言ってるのに、聞かないのよ」
「平気です。ハクを叱らないであげて」
「……」
「私なんかより、宝良さんは自分の狗を大事にしてあげて。私も、そうすることにしました」
「……レン様と、何かあったのですね」
「自分に正直に生きることにしました。私も、多分レンも」
その言葉と、華絵がまとう気配で全てを察したのか、宝良が神妙な表情で頷いた。
「あなたがそう決めたのなら……私も、ハクと話をしないと……」
ふらりと立ち上がった宝良は、ベッドの上でスヤスヤと寝息を立てる白髪の青年の背中を揺すろうと腕を伸ばす。けれどふと指先を止めて、彼女は華絵に振り返った。
「ねぇ……華絵様」
戸惑う気持ちのままに放たれた声は弱々しく、華絵が小首を傾げる。
宝良はもう一度ハクが寝入っているのを確認してから、忍び足でソファに居る華絵の元へと戻ってきた。
「あのね、下世話な気持ちで聞くわけじゃないけれど、……レン様と寝たの?」
唐突な質問にマグカップのお茶を飲んでいた華絵が思わずむせ返る。
その様子を見て確信したらしい宝良が、ソファの前に膝をついたままぐっと身を乗り出して華絵の顔を覗き込む。
「ずっと迷ってるの。私、ハクのことが大好きだから」
「え、ええ……」
まだ咳払いをしながら華絵がどうにか頷く。
「でも一線を超えてしまうのは怖いわ。私、菖蒲様のこともよく知っているもの。男女の契りを交わした姫と狗って、もう二度と元には戻れないのよ。他の人ではダメになってしまうの」
「……」
「だったら、そんな幸せ、知らない方がいいんじゃないかって。私、もしハクに抱かれてしまったら、家の用意した婚約者と結婚なんて出来なくなってしまうかも知れないわ」
「よく、分かります」
「……あなたって、見かけによらず勇気があるのね」
関心したように見上げる宝良を見て、華絵が自嘲気味に微笑む。
昨晩の出来事を、あの衝動を勇気と呼べるかどうかは華絵には分からない。
「私は、我儘なだけです」
「我儘……?」
「レン以外の人を、愛するつもりはありません。だって私、あの人と会うために生まれてきたんだもの」
「……」
「だから怖くなんてないわ。それに、お母様みたいに弱くもない。私は、戦います」
自分に言い聞かせるように決意の瞳で語る華絵を、宝良はじっと見据えていた。
それから彼女は立ち上がり、まだ静かな寝息を立てているハクを見やる。
「ハク、起きているんでしょ」
離れたい位置から宝良がそう声をかけると、寝息はピタリと止み、ボサボサの白髪をあちこちに跳ねさせながら琥珀色の瞳をした青年がむくりと起き上がる。
「僕も宝良ちゃんが大好きだよ」
事も無げにそう言って、ハクが思い切り背伸びをしながら立ち上がった。
「おはようございます、華絵様」
「おはよう、ハク」
人懐こい笑みを浮かべる宝良の狗に華絵も微笑み返す。
「ハク、話があるの、ちょっとこっちにいらっしゃい」
「はぁい」
言われた通りに駆け足で近寄ってきた彼は、ソファに座る宝良の前にちょこんと正座をしてニコニコと行儀よく彼女の言葉を待つ。
レンやマキや、キラとも違う従順そうな態度の彼を、華絵もまた興味深げに見つめた。
昔は、オドオドとした気の弱そうな男の子だった気がするが、今は、どこか飄々とした印象だ。
宝良とハクは、一族の中で一番絆の強い姫と狗だと聞いていたが、随分躾の行き届いた彼の様子を見て思わず納得してしまう。
「とっくに盗み聞きしていたでしょうけど、華絵様は茜様の計画に賛同したわ」
「それじゃあ僕達も、そっち側につくってこと?」
「そうよ。ハクはどう思う?」
問われて、ハクが琥珀色の瞳を天井に向ける。
「うーん。宝良ちゃんがそうしたいなら僕はいいけど……」
「けど?」
「レン様がそんな全貌も見えない計画に乗るとは思えないな。あの人って慎重派って言うか、疑い深いって言うか、どう考えてもそういうの乗るタイプじゃないと思うんだけど……」
ハクの言葉に宝良が隣にいる華絵を見やる。
「そうなの? 華絵様」
「え……えっと。レンは、そのつもりだと、思うけど……」
途切れがちになんとかそう言うと、ハクは目をぱちくりさせて肩をすくめた。
「そうなの? 意外だな。やっぱ愛の力かな」
「ちょっと、茶化さないの」
「ごめんなさい」
ごつん、と頭を拳で叩かれてハクが項垂れるのを見ながら、妙に不安になってきた華絵は立ち上がる。
確かにレンは、茜の策に乗るとは一言も言っていない。
「私、もう一度レンに確かめて来ます」
逸る気持ちのままにそう告げると、華絵は勢い良く部屋を飛び出した。
呆気にとられたままその後姿を見ていた宝良だが、やがてため息を吐きながら腕組みをする。
「どう思う、ハク」
「どうって……言われてもなぁ」
「華絵様は、菖蒲様と同じ道を辿るのかしら……」
「そう思うのなら計画には乗らないほうがいいと思うけど」
図星をさされて宝良が唇を噛む。
躊躇うのは、疑ってしまうのは、怖いからだ。
あんな風に真っ直ぐに、戦うと言い切れないのは、家がどれほど恐ろしいのかを知っているから。
「……でも私だって……本当は……」
愛しい白髪の青年を見つめながら、宝良が悔しさに眉根を寄せる。
「ハクを、幸せにしてあげたい……ううん、ハクと、幸せになりたいの」
「僕は幸せだよ、十分」
「私が他の人と結婚しても? その人の子供を産んでも? 笑って見守っていられる?」
「宝良ちゃんが、そうしろって言うならね」
「そうやって我慢ばっかしてるから、あんたそんなに捻くれちゃったんでしょ」
ハハ、と乾いた笑いを零しながら、ハクは頭を宝良の膝の上に乗せる。
「でもいいんだ。宝良ちゃんの側にいられるなら。愛してもらえるなら」
「ちゃんと愛したいわ……ハクのこと、男の人として、愛したいのよ」
「……残酷だなぁ。宝良ちゃんも華絵様も」
「なんでよ」
「ワンちゃんには決められた食事しか与えちゃいけないんだ。美味しいものをあげちゃったら、生涯それを忘れられずに、苦しい思いをしながら生きていかなきゃいけないんだよ」
「……」
「それって、毒とどう違うの。レン様は愚かだよ。楔姫に手を出すなんて」
「私は……そうは思わないわ」
「そう? 僕は怖いよ。怖くて怖くて、誰にも取られないように、宝良ちゃんを殺してしまうかもしれない。だったら、決められたご飯だけを食べる忠犬をやっている方が、よっぽど気楽だよ」
そう言って微笑みながら、生ぬるい愛情に依存した白い狗が、愛しい主人の太股に頬ずりをした。