初めて恋を知ったのは、まだ十にも届かない幼い少女の頃だった。
気がつけば彼は側にいて、どんな些細なことでも菖蒲の願いを聞き漏らしたりはしなかった。
だから、愛されているのだと思っていた。
彼は美しく、気高く、透明感があった。
でも時々、本当に時々、彼の首元から、雄の匂いがしたのを覚えている。
もっと知りたくて体を寄せれば、身を捩って避けられてしまう。
そんな彼の些細な拒絶から愛を疑いだした頃、二人は15歳で、互いの婚約者を知った。
苛立つ心とは裏腹に、少女はますます彼を縛り付けるようになった。
部屋に閉じ込め、誰にも見せないようにした。
そんな少女の浅はかな行いが、いらぬ憶測を呼んでいるのにも気づかずに、菖蒲はただ一人運命に苛立ち、今まさに奪われんとしている男を、鳥かごに縛り付けていた。
その夜は熱帯夜で、菖蒲はうだる暑さの中寝苦しさに耐えかねて目を覚ました。
空調のリモコンを探そうと手を伸ばすよりも先に、隣で寝ていた男が腕を伸ばし、空調のスイッチを入れる。
「……マキ、起きていたの?」
素早い気遣いに呆れ半分感謝半分といった気持ちで問えば、暗闇の中マキが頷く気配がした。
「姫様、もし寝苦しいのでしたら、俺は自分の部屋に戻ります」
「だめよ」
そう言って、この暑さの中不思議とひんやりとしたマキの体に抱きつくようにして菖蒲は両腕の力を込める。無為に菖蒲と触れ合うことを嫌うマキだが、添い寝だけは幼い頃からの習慣で続けてくれているのだ。今更暑さごときで彼を追い出すつもりはない。
「昔は、マキも私を抱き返してくれたのにね」
「姫様はもう子供ではありません。俺とこうして同衾していることも、きっと婚約者の方が知れば」
「もう黙って。蹴飛ばすわよ」
「……」
忠実な狗が沈黙に徹すれば、菖蒲は彼の首元に鼻をすり寄せてまた目を閉じた。
微かに香る彼のこの匂いを、ずっと昔から知っている。何よりも安心できる香りだったのに、最近は側にいればいるほど泣きたい気持ちになってしまう。
「菖蒲様、昨晩もマキ様とご一緒だったのですか?」
昼時、昼食を運んできた女中がふいにそんなことを尋ねてきたので、菖蒲はおかずを口に運びながら頷いた。最近は食欲もなくて、何を食べても味がしない。
「本当にお二人は仲がよろしいんですね。小さな頃からずっとご一緒で」
「……そうね」
「でも、マキ様も狗とはいえ殿方ですから、毎夜同室でお眠りになるのはそろそろ控えませんとね」
「……そうね」
上の空で聞き流しながら、そんな必要はないと思った。
手を出す勇気なんて、マキにあるはずもない。
「いっそ、襲ってくれれば踏ん切りもつくのに」
思わずこぼれた本音に、女中が目を丸くして固まるのが見えた。
ちょっと大胆すぎただろうか。不謹慎な発言だったかもしれない。
「冗談よ。大体、マキがそんなことすると思うの?」
「それは……そうですねぇ」
クスクスと笑いはじめた女中に安心して、菖蒲はまたぼんやりと宙を眺めながら食事に戻った。
菖蒲は女で、マキは男なのに、毎晩抱き合って眠っても何も起こらないこのいびつな日々は、いつまで続くのだろう。終わらせたいのに、終わらせたくない。このジレンマも、いつまで抱えていればいいのだろう。
事が動き始めたのは、それからわずか三日後の事だった。
急遽当主武永の帰郷が決まり、里は騒然とした。
藤代家の女中は朝から大慌てで、台所を行ったり来たりと駆けずり回り、部屋から引きずり出された菖蒲も朝からうっとおしい着物に着替えさせられる。
「ねぇ、どうしてお父様、いきなり帰ってくるの?」
「きっと菖蒲様のお顔を見に来られるのですよ」
菖蒲の帯を巻きながら、のん気に答える女中を見て、それだけはないだろうと少女が失笑を浮かべる。
昔から、情を感じたことのない父だったから、今回の帰郷だってきっと、ビジネスの一環に違いない。
面倒だから、早く用事を済ませて東京に帰ってくれたらいいのに。
そんな風に思いながらめかし込み、長く不在だった父を出迎える。
「久しぶりだな、菖蒲」
玄関で三指をついて出迎えた娘を見下ろし、武永は野太い声で短く告げた。
ピリピリとした緊張が背に走るのを感じたが、曲がりなりにも父親だ。あまり緊張しすぎても失礼だろうとぎこちない笑みを浮かべて顔をあげる。
思っていたよりもずっと険しい顔をした父が、眉間に深い皺を刻んでこちらを見据えていた。
「お前はいつからそんな媚びた笑い方をするようになった」
「……え」
「時間がない。ついて来い」
武永がそう告げると、彼の後ろに居た付き人らしき男性が菖蒲の両腕を掴んで少女を玄関から引きずり下ろす。
その場に居た誰もが目を丸くし、何事かと動揺し、引きずられていく菖蒲の姿を見つめていた。
「お、お父様……!!」
「黙れ」
容赦の無い力で引きずられるようにして連れて来られたのは、離れにある倉だった。
季節ごとの祭り事に使われる太鼓や神輿や人形が仕舞われた倉には、かつて食料保存庫として使われていた地下があり、武永は戸惑う菖蒲をそのまま地下の保存庫へと放り込むと、呆然とコンクリートの上にへたり込む少女の前に仁王立ちをして腕を組んだ。
「お前には、今すぐに娘を産んでもらう」
「……は……」
わけがわからなくて、言葉も出てこない菖蒲を、武永は冷えた瞳で見下ろした。
「狗と同衾しているそうだな」
「……」
「今日お前の目を見てすぐに分かった。媚びた雌の目だ。狗が手を出してくれるその日を今か今かと待ちかねている淫売の目だ」
「お、とう……さま……」
「お前のような楔姫を多く見てきた。そのたびに厳しい懲罰を与えてきたが、曲がりなりにもお前は藤代の娘。貴重な腹を切って捨てるわけにもいくまい」
「……」
「子を成すまで、次の楔姫を生むまで、ここを出ることは許さんぞ」
「……嫌、そんなの、嫌よ……お父様、許して……」
震える少女を置いて、武永は一切の躊躇いもなく踵を返し、分厚い地下の扉を閉ざす。
がしゃん、と深く響いた施錠の音を聞いてもなお、菖蒲はこの状況が飲み込めず、呆然とへたり込んだまましばしの時を過ごした。
*
噂は、その日の内に里中に広がった。
かねてより狗との仲を疑われていた菖蒲に、ついに罰が下されたと、声を潜めて巡る噂が里を一周し終える頃、今だ地下牢に幽閉されていた菖蒲は、精も根も尽き果てて、ただやってくる夜を待っていた。
遺恨が残らないようにと、里の者が計らったのだろう。
夜ごと地下にやってくる男どもは、みな一様に顔を覆い隠すようなマスクを被っていた。
黙ってやってきては、申し訳無さそうに菖蒲を抱いて帰っていく。
それがおかしくて、最近では行為の最中笑いがこみ上げてくることさえあった。
馬鹿みたいなマスクをはめられて、抱きたくもない女を抱かされて、この男どもだって被害者だ。
だから、恨んだりするものかと、こんな馬鹿みたいな行いに、どんな感情だって覚えるものかと少女が唇を噛みしめる。
日毎、髪は艶を失い、肌は乾いていく。
自慢だった美貌も、今はひどくくすんでいる。
一日に一度食事を運んでくる女中が体を拭いてくれる以外この身を清める手段がなかったから、男どもの無骨な油の匂いと、纏わりつくような精液の匂いが鼻についた。
この世の地獄とは多分、この場所を指す言葉だろう。
一週間をすぎる頃には、どうやって死ねるかだけを考えるようになっていた。
二週間をすぎる頃には、はやく身ごもらないだろうかと考えるようになっていた。
そして三週間目をすぎる頃にはもう、何も考えなくなっていた。
さらに時が立ち、日付を数えるのを菖蒲は、硬い塀に寄りかかって目を閉じていた。
長く歩いていないせいで、体の節々が固まり、動くのも億劫だったから、最近は一日をこうして目を閉じたまま過ごしている。
あの日、袖を通したばかりの着物は、とっくに薄汚れ、見る影もない。
でももう、それもどうだって良いことだ。
ふと、地下の扉が開く音がして、食事の時間かと少女が薄く目を見開いた。
前回の客人は菖蒲を抱いて去っていったから、次は食事の番だ。でも、何を食べる気力もない。
「……菖蒲様」
静かに、押し殺したような、そんな声だった。
薄く開いた視界の向こうで、短い髪の男が顔を歪めて立っているのが見えた。
一瞬ピンとこなかった。記憶の中で蘇る彼の髪はいつだって長かったから。
でもあの日、髪を切れと菖蒲が命じたあの日、従順な彼は手で撫でるとチクチクとくすぐったいほどに髪を短く刈り込んだ。
でも、そのせいで美しい面立ちがハッキリと見えるようになった。
だから、失敗したと思った。
やっぱりマキは、長い方がいい。
「……マ、キ……」
しゃがれた声で名を呼ぶと、狗は淡い水色の瞳に涙を浮かべ、白い頬にそれを零し、菖蒲の前で膝を折る。そのまま、力なく座る少女の前で地面に額をつけ、頭を抱えるようにして声もなく泣いた。
そんな風にして泣くくらいなら、最初から愛してくれればよかったのに。
一瞬そう思ったけれど、彼を責める気力ももう残っていなかった。
それよりも、焼けただれたようなマキの両の手首が気になった。
「……怪我を、しているの……?」
「菖蒲様……申し訳ございません……」
マキの涙声を、菖蒲は初めて聞いた。
こんな風に悲しそうに泣く男もいないだろう。聞いているこちらまで悲しくなってしまう。
「あなたを、こんな目に合わせた輩を……許せない……俺は……」
「……マキ、ここにいてはだめよ。もうすぐ家の者が食事を運んでくる、から」
逃げて。そう告げると、彼は血が出るほどに唇を噛み締め、「いいえ」と首をふる。
彼が菖蒲の命に逆らうのも初めてだった。
「あなたをここから逃します。そして……必ず、あなたの仇を討ちます」
「かたき……」
仇とは、誰のことを指すのだろう。
菖蒲を抱いた男たちのことだろうか。それとも、そんな風に仕向けた武永だろうか。
くだらない。
そんなことよりも焼けただれたマキの手首が気になって、菖蒲は重たい頭をわずかによじらせてまじまじと目の前の男を見据えた。
「……マキ、今までどこにいたの」
「藤代邸の地下牢に幽閉されていました。分家の狗の鬼火で手枷をはめられ、身動きを封じられていましたが、つい先日あなたも幽閉されていることを知り」
「……鬼火で繋がれていたのに引きちぎってきたの? ……馬鹿ね」
「まさか、あなたまで幽閉されているとは……姫様、俺は、あの地下に甘んじて身を投じていました。あなたと距離を取るには、ちょうど良い機会だと思ったのです」
なるほど。彼らしいと思った。いつだって、菖蒲から離れたがっていたから。
「……俺だけがあなたをお守りできたのに……」
顔を歪めて泣くマキは、ひどく焦燥しながら、強く憤り、深く自分を責めていた。
でも菖蒲は、誰を責める気にもなれなかった。心は、とっくに壊れてしまったのだろう。
「仇など……取ってはダメよ、あなたは静かに、ここを出て行くの……」
「嫌です菖蒲様……あなたをこんな場所に残していくなど、そんなことは絶対に」
「いいえ……これは、命令よ……わかった?」
「嫌だっ!!」
吠えるようにして口答えする狗を、静かな目で見下ろしながら、初めて見るマキの色々な表情に、安らぎにも似た愛情を感じ始めていた。
愚かで、優しくて、不器用なこの狗を、守ってあげることくらいなら出来るかもしれない。
彼が武永に仇をなし、全ての狗を敵に回すことはない。
「私が、身ごもればそれで終わるんだから……それで終わりにしよう、マキ」
「……菖蒲様、俺は、こんなことを望んでいたわけではありません」
「……うん……」
「俺があなたを拒み続けてきたのは、こんなことを望んでいたからではない」
「わかってる」
人並みに、幸せになって欲しかったからだろう。わかっている。
でももう、それは無理な話だ。
一つ望めば、全てが欲しくなる。
ずっとそうだった。財や権力や、美貌が誇らしかった時、唯一手に入らないマキをずっと思い続けていた。手に入らないことが我慢ならなかった。叶わなくて、悔しくて、いつだって満たされないでいた。彼が他所の女と婚約をすると知った時、絶対に許せないと思った。
だけどこの地下牢に閉じ込められて、自由や、人としての尊厳まで奪われた時、自然とマキのことも諦められた。彼が手に入らなくても良いような気がした。そうなると、全てを諦めるのはとても容易に思えた。手放すことに慣れてしまったのかもしれない。
だから、せめて彼の身だけは守ろうと思った。
どんな犠牲を払うことも嫌ではない。今更この身が可愛いわけもない。
そうすることで彼が平穏に暮らせるのならば構わない。我慢じゃない。
もしかしたら、マキもずっと、そんなふうに思っていたのかもしれない。