「だから、私じゃないって言ってるでしょっ!」
富士白第二ビルの会議室で、そんなふうに叫ぶ国枝の悲痛な声がこだました。
上座で腕組みをしていた阿久津が、何度目かのため息を付いて、何箱目かのタバコの包みを開ける。
会議室に設置されたモニターでは、ニュースキャスターが早口で大手製薬会社の不祥事を繰り返し告げている。朝さんざん喚いたと思ったら今度は昼のニュースで同じことを繰り返すものだから、頭が痛い。
会議室には、阿久津を始めとするビルの主要スタッフと、レン、ハク、マキの三名の狗と、国枝が同じ長テーブルを囲んでいた。
「でもなぁ国枝」
堂々巡りの問答にどうにか決着をつけようと、阿久津がタバコに火をつけて白い煙を吐き出す。
「見てみろよこのニュース。お前だって見に覚えがあるんだろ?」
そう言って阿久津が指さしたモニターには、富士白第二ビルが保管していたはずの秘蔵文書が大きく映しだされていた。
それから久々宮ターミナルケアセンターと映しだされたテロップに、国枝が悔しそうに唇を噛みしめる。
『――大企業富士白製薬を親会社に持つ、終末期の医療施設にて、患者が大量に不審死を遂げています。一部では何かしらの薬物による人体実験ではないかとも噂されていますが、それを裏付けるようにして昨晩マスコミに送られてきたのがこの被験者リストです』
レポーターがそう言って片手に持ち上げたのが、先ほど映しだされていた文書のコピーだ。
『――久々宮ターミナルケアセンターでは、終末期の患者に何らかの薬物を投与し、それらを独自の名称、CI、SIなどと呼称し区分けや管理を行っていたと思われますが、恐るべきはそれら全ての患者が被験者になった後、即時死亡しているという事実でした。この件を受けて厚生労働省は――――』
憮然とした面持ちでモニターを眺めていた国枝が、くだらない、と呟いて顔を背ける。
確かにモニターに映し出された文書は、あの日阿久津から頼まれて国枝が受け取った仕事の書類だった。それを入力する簡単な作業で、その書類自体が何なのかなんて、考えたこともなかった。
「私じゃない。なんで私が、マスコミに家を売るような真似をするのよ。大体、あの書類は何なわけ? ニュースが言っていることって本当のことなの!?」
白けた顔でこちらを見つめる阿久津に、食って掛かるようにして怒鳴り散らせば、まだ訪れる堂々巡りにその場にいた全員がひっそりとため息を零す。
「俺だって、悪意があってお前がそんなことするとは思わないけど、例えば誰かから頼まれたとか、無意識にあの書類を外部に漏らしたとか、そういう心当たりは無いかって聞いてるんだよ」
「無いわよっ!!」
「無いと困るだろうが! このままじゃお前が処分されるんだぞ!」
「無いものは無いんだからしょうがないじゃない! 大体、阿久津が自分の仕事を私なんかに放おってよこすからいけないんじゃ……」
言いかけて、はっと口をつぐんだ国枝が、ふと思い当たった記憶に目を見開く。
それから彼女は、黙って俯いていたレンに恐る恐る視線を向けて、眉根を寄せた。
「……私、途中からレンに頼んだわ」
その場にいた全員が、一瞬呆けた後、きょとんと目を丸くして名指しされた青年を見やる。
「そうよ。あの日、途中でレンが帰ってきて、私の仕事手伝ってくれたのよ」
「そうなのか? レン」
阿久津に問われて、黙っていたレンが顔をあげる。
彼はチラリと国枝を一瞥すると、「いいえ」と静かに答えた。
「本当に手伝ってないんだな、レン」
「はい」
少女が、驚愕に目を見開くのを目の当たりにしながらも、レンは動揺を見せたりはしなかった。
いつも通り、過剰な弁護も、いらない気遣いもない、彼らしい短い返答は実にそれらしく、あたかも真実を語っているかのように見えた。それが信じられなくて、国枝は口をパクパクと開いては閉じる。
「う、嘘よ。レンは手伝ってくれたわ……」
「でもなぁ国枝。あのファイルに最後にアクセスしたのはお前のIDだったぞ」
「そんな……嘘よ。私じゃないわ」
「だから、お前に悪意が無いのは分かってるんだって。ただこのままだとまずいから、俺らだって必死に逃げ道を探してるんだろう? レンになすりつけたりしないでちったぁ協力しろよ」
「じゃあもう私ってことで良いわよっ!!」
机を思い切り叩きつけて、少女は勢い良く立ち上がると、そのまま逃げ出すように会議室から駆け出していく。その後姿を呆然と見送りながら、阿久津がまたため息を付いた。
「なぁレン、本当にお前、手伝ってないんだよな?」
念のためもう一度尋ねると、青年はさっきと同じ温度で頷き、同じ声色で「はい」と答えた。
*
夕食時、華絵は宝良の部屋で彼女が持ってきてくれた夕ごはんを前に、どこか浮かない気持ちでいた。
何か問題が起こったらしいビル内はどことなく騒然としていて、結局丸一日レンを捕まえることが出来なかった。それも不安だったし、何となく、顔が見れないことで寂しく落ち込んでいる自分がいることにも気がついていた。
レンのことはずっと頼りにしてきたけれど、たかだか一日顔が見れないくらいで落ち込むなんて、今まで、そんなことは無かった。
その気持ちを正直に話すと、宝良はあっけらかんと笑って、そんなものだと告げた。
「やっと、レン様のことを男の人だと自覚し始めたんじゃないですか?」
「……どういうこと? レンのことはずっと男性だと思ってきたけれど」
「そうじゃなくて」
咀嚼していたものを飲み込んで、ふぅ、と一息つくと、宝良は二人が囲むローテーブルにやや身を乗り出して華絵の顔を覗き込む。
「雄として見始めたってことですよ」
「お、おす?」
「私も昔はハクのこと隣にいて当然の男の子だって思ってたんです。でも泣き虫のあいつがだんだん成長して、サナギから抜けてくみたいに綺麗になっていく内に、不安になることが多くなったんです。今何考えてるんだろうとか、私の事思っているかなとか、他の女の子にうつつを抜かしてないかな、とかね。まぁそんなことは全くないからいつも杞憂で終わってつまんないんだけど」
「……な、なるほど……」
「昔は、私のためだけに存在している男の子だと思っていたのに」
「…………」
宝良の言いたいことは何となく分かる。
どんなに狗が忠誠を誓っても、あなたのために生きていると豪語しても、実際は少し違う。
彼らは家の仕事に多くの時間を捧げ、楔姫は蚊帳の外だ。
「そういえば、昔聞いたことがあるんですよ。狗と通じた姫は、心に変化が現れて、ひどく狗に執着するようになるって」
「え……」
「おばあちゃんから聞いた話なんですけど、楔姫の体はそういう風に出来ていて、だから一度でも通じてしまうと、引き剥がすのはとても厄介だって」
「…………」
だからなのだろうか。
朝からレンの姿ばかりを探し、見つからないと落ち込む自分を、自分でも不思議に思っていた。
「でも私、それって恋してれば普通のことだと思うんですけどね」
「そ、そうかしら……」
「うちの家は、姫と狗だからって難しく考え過ぎなんだと思うんです。結局は男と女なんだから、好きな人に初めて抱かれてしまったら、その人に執着するのって当然の成り行きだと思う。大好きな人なら、尚更よ」
「……大好きな、人……」
「まぁ、人っていうか、狗だけど……」
宝良の言葉に、華絵は箸を握る手を止めて黙りこくった。
姫と、狗だから。どこかで、ずっとそんな風に考えていたのかもしれない。
レンが華絵に執着するのはもちろん、華絵が異性としてレンに惹かれてしまったのも、結局は甘酸っぱい初恋の名残りと、記憶が戻ってからの彼の真摯な忠義にほだされたからだと、何となく考えていた。
もし、ただの男と女だったら、どうだろう。
華絵は変わらずレンが好きだけれど、レンは華絵を選ぶだろうか。
不毛な問いかけだけれど、言われてみれば考えたことなど一度もなかった。
当然のように彼は狗で、当然のように、華絵のためだけに存在する生き物だったから。
その時、控えめなノックの音が響いて、宝良が立ち上がる。
開いたドアの向こうから姿を現したのは、いつもの様に無表情なレンと、どこか硬い面持ちのハクが立っていた。
「……あれ? 二人共、仕事は終わったの?」
片方の手で茶碗を持ちながら首を傾げる宝良に頷いて、レンは彼女の横を通り過ぎ、ローテーブルの前に座る華絵のそばに膝をつく。
「華絵様」
「……はい」
何やらただ事ではない気配を察して、華絵は箸を置き、慌てて姿勢を正すと、こちらを見つめるレンと向かい合った。
「家の仕事の一部がマスコミにリークされました」
「え、ええっ!?」
華絵が思わず甲高い声を上げると、それからワンテンポ遅れて宝良も驚きの声を上げる。
「リークされました、じゃなくてリークした、でしょ? 絶対レン様がやったんだよ。僕すぐわかったよ。白々しい演技までしてさ」
ハクの茶々に、華絵がもう一度悲鳴を上げる。
「そうです。いずれ俺が流したことが発覚するでしょうが、その前にここを出る必要があります」
「ど、どういう事なの、レン」
「染谷が用意した隠れ家に向かいます。そこで伊津乃の密偵があなたを待っています」
「……伊津乃」
脳裏にすかさず浮かんだのは伊津乃の姫である茜の顔だった。
「茜さんの、準備が整ったっていうこと?」
「はい。抜け出すのなら混乱に乗じた今しかありません。通常の任務が始まる前に」
「わ、分かったわ!」
勢い良く立ち上がり、部屋着のままハンガーに吊るしてあった上掛けをひったくると、ふと思い立って華絵はまだ部屋の入口に立ち尽くしていた宝良に振り返った。
「宝良さん」
華絵が呼びかけると、宝良はびくりと肩を震わせておそるおそる目線を上げる。
「宝良ちゃんはどうするの? 僕はどっちでもいいよ」
さらにハクにも問われ、宝良はひどく狼狽した後、覚悟を決めたようにぎゅっと唇を結び、頷いた。
「華絵様について行こう、ハク」
「そう言うと思ったよ」
諦めたように肩をすくめ、ハクは持っていた自分の上着を宝良に着せると、そのまま慣れた手つきで彼女を抱き上げる。
「とにかく時間がないんだ。5分後には僕らまた会議室に戻らないといけないから、このまま出るよ」
「え、で、でも、携帯とかお財布とか……!」
「そのへんは染谷の財力にあやかろう」
そう言って素早く宝良の部屋の窓を開け、躊躇なく飛び出していったハクを見ていると、ひょい、と体を持ち上げられて華絵が息を呑む。
「俺たちも急ぎましょう」
「……そうね」
抱えられたまま、彼の首筋に手を回して華絵は頷いた。
心臓はバクバクと早鐘を打っているが、戦うと覚悟を決めたのだから臆するわけにはいかない。
激しい風の抵抗を受けながら夜の闇に飛び出し、ふわりと着地したかと思うとまた隼のように風を切って進む。目をつぶってその冷たさを感じながら、一方で頬に伝わる彼の首元の熱を感じていた。
あれだけ家に刃向かうことを反対していたレンが、積極的に協力してくれるのは喜ばしいことだ。
強制したようで心は痛むけれど、今はそれに見ないふりをするしか道がない。
「レン……本当は嫌がっていたのに、無理強いしてごめんね」
自責の念からそんな風に呟けば、闇を切って駆けていた彼が喉元で小さく笑った。
今更殊勝になる華絵がおかしかったのかもしれない。呆れたのかもしれない。
真意がわからなくて顔を覗きこもうと身をよじれば、強い力で体を固定されてしまう。
むやみに動くなという無言の訴えだろう。だから華絵も諦めて、彼の腕の中で大人しく目を閉じた。
身を切るような冷たい風の槍から守るようにして抱きすくめられ、心地の良い体温に肌を寄せながら、湧き上がる愛しさをひた隠しにするようにして、腕の力を込めたり抜いたりする。
どの程度なら自然にしがみつけるのか、こぼれ出す愛情を相手に知られないでやり過ごせるのか。
今になってその力加減がわからなくなってしまった。