ヴァイオレット奇譚「Chapter0・"始まりのカーニバル"」
始まりは、ある村に生れ落ちた一人の赤ん坊だった。
それを産み落とすと、母親は断末魔と共に絶命し、生まれた瞬間に罪人となった赤ん坊を
村人たちは疎ましげに見下ろした。排他的になるあまり、狭い村で近親交配を繰り返していた彼らにとって、彼女は血族であり、この村の最後の女でもあったからだ。
それからしばらくして彼らは赤ん坊をどうするか話し合った。誰の子供なのか定かではなかったが、
そんなことはすでに問題ではなかった。
やがて一番上の兄が「皆で育てよう」と言った。
三番目と、五番目と六番目の兄達がそれに賛同して踊り出した。
すると二番目の兄が言った。「大事な妹を殺したのだから、この子は死んで償うべきだ」
十番目と十八番目と、二十番目と二十二番目の兄達がそれに賛同して踊り出した。
すると四番目の兄が「育てて狩りをやらせよう」と言った。
皆が彼に注目した。
村は深刻な飢餓状態にあった。何日も絶食が続き、水すらもろくに飲めない彼らは、
村に時折現れる角の生えた大きな獣を見ては、生唾を飲み込む。けれど果敢に立ち向かう事はしない。
あれがとても凶暴な生き物だと知っているからだ。だからこそ、四番目の兄の発言に誰もが瞳を輝かせた。
しかし七番目の兄は違った。
「赤子が狩りを出来るようになるまで一体何年かかるのだ。それまでこれを食わせ育てるのか。
この村にこれ以上男は要らない。いますぐ殺すべきだ」
七番目の兄はこの村で誰よりも賢いとされていたので、皆が混乱した。
場はざわめき出し、動揺のあまり雄たけびを上げ出す者さえいた。
呆れた一番目の兄が立ち上がろうとあぐらをかいていた膝に手をかけた。彼にはこの場を鎮める義務があったからだ。
そして彼らを鎮めこう言ってやるのだ。
「やはり育てよう。この子も兄弟なのだから」と。
しかし、彼は遅かった。
長男が立ち上がるほんの一瞬前に、三十番目の末の弟が立ち上がり、声を上げた。
「ならば、殺して食べてしまいましょう」
誰もが弟を黙って見つめた。それからしばらくの間があって、場には歓喜の声が爆発した。
何故気が付かなかったのか皆己を恥じ、優秀な弟を称えた。万事解決だとその晩は祭り騒ぎになった。
翌日。発案した末の弟が、鋭く研いだ石で赤ん坊の四肢を解体し始めた。
それが上手くいかなかったので、彼らは順番にそのまま食らいつくことにした。
赤ん坊は泣かなかったが、まだ閉じられたままの瞼のその奥にあるバイオレットの瞳で彼らを
嘲るように笑っていた。右手を失い、左手を食われ、両足を失い、性器を失い、腹に噛り付かれても、
赤ん坊は笑っていた。愚か者どもが作り上げた罪の塊であるこの体を、張本人たちが食らっているではないか。
こんなにおかしい事は無いと赤ん坊は笑い続けた。今この場より、世界に混沌が渦巻くのだ。そんなこととも露知らず
醜い形相で肉を食らう面々を、食い尽くされるその時まで赤ん坊は笑い続けた。
それから三日経って、飢えに耐え切れず森へと駆け出したのは三番目の兄だった。
角の生えた大きな獣を仕留めに行こうとする彼を誰も止められなかった。
皆腹が減っていたのだ。だから、例え三番目の兄が死んでしまっても、あの獣を持って帰ってきてくれるのなら
それでいいと思っていた。どうせなら死んでくれたほうが、肉の取り分が増えるなとも考えていた。
もしくは、死んでしまえば、兄も食えるなと考えていた。
しかし、結果は意外な結末だった。
皆のもとへ帰ってきた兄は、その右手にしっかりと獣を握ってはいたが、左手を失っていた。
それどころか、両足が無かった。それどころか、頭が無かった。右手と胴体だけになってしまった兄は、
それでも地面を這いずり、皆に獣を掲げて見せた。皆が声を失って頭を無くしたその異形のものを見つめていると、
やがてむき出しになった左手の骨がばきばきと伸びはじめ、その次に肉が、最後に皮が生えてきた。
気がつくと、両足も同じようにして生えてきた。それに目を奪われているうちに、もう頭が生えきっていた。
三番目の兄は誇らしげに笑っていた。それから、狩りに怯える者はいなくなった。
皆自分が死なないと気付いたからだ。村はみるみる潤い、兄弟達の腹は満たされた。
そんな幸せな日々の中、ふと一番目の兄が疑問を浮かべる。彼は七番目にその相談を持ちかけたが、そんなくだらない事は
さしたる問題ではないと切り捨てられ、一番賢い七番目がそう言うのならばと、長男もまた疑問をその場に捨てた。
やがてその疑問は難題へと姿を変え、のちの末裔達を長きに渡り苦しめる事になるのだが、今はまだ誰も気がつかない。
悲しいヴァンパイアたちの全ての始まりである三十人の小さな村では、今宵も祭りが行われる。
その様子が滑稽だと、地獄で赤ん坊は笑うのだ。
******
女がその男を愛したのには、二つの理由があった。
一つは、彼がとても美しい少年だったからだ。濁りの無い生まれたての赤ん坊のようなブロンドは
見栄えが良い上に希少だったし、形のいい大きな瞳と薄い唇には色気があった。
白い肌は気品に溢れていて、美しい骨格には文句のつけようも無いだろう。つまり、それらの強烈な美の力技によって
女は男を半分愛した。
もう一つの理由は、彼の若さにあった。
女と出会ったときの少年はまだたったの十二歳でしかなく、世の中の善も悪も理解しきれていなかった。
だから献身的に自分を愛そうとする見知らぬ女を、少年はあっさりと受け入れ、それから二人は一緒に暮らした。
五年が経ち、少年が十八になると二人は夫婦になった。彼は彼女を愛し、慈しみ、
それほど大きくない体でもって彼女を守ろうと一生懸命だった。彼の世界の中心に、その女はいた。
しかし、彼がさなぎから抜け出そうとする蝶のように、成長しようともがけばもがくほど女は悲しんだ。
毎晩泣いては少年を困らせ、どんなに抱きしめても泣き止む事はしなかった。それが前兆であり、無言の訴えなのだと気付けなかった事を
少年は今も悔いている。
ある晩、少年が仕事から帰ってくると目を腫らした妻が台所で夕食の支度をしているのが見えた。
テーブルには肉のたっぷり入ったスープがすでに出されていて、少年は黙って席に着いた。
目を腫らしている理由を問いただす気にはなれなかった。毎晩泣き続ける妻をあやしては朝早く仕事へ行く。
そんな日々に疲れていたのかもしれない。朦朧とした頭でスプーンを取る。随分硬い肉を噛み切るのがまどろっこしくて
そのまま飲み込んだ。いつになったら料理が上達するのだろうと内心頭を抱えながら眉をひそめて次々に流し込み、
空になった皿を持って席を立った。そして台所に立っていた妻に皿を渡そうとしたその時、
はじめて女の左肘から下が無くなっている事に気がついた。少年が言葉を失い、呆けたままの表情でそれを見つめていると、
やがて白い骨が生え出した。後を追うようにして肉が生まれ、その上に皮が形成される。ばきばきと奇妙な音を鳴らしながら
女の腕が元に戻ったとき、少年はこみ上げてくる強烈な吐き気を感じていた。
「これでずっと一緒」
女が泣き腫らした目で微笑む。
その夜は、別々のベッドで眠りについた。そしてその日をきっかけに二人が同じベッドで眠る事は二度と無くなり、
それから長い長い時が経ち、ある朝女が目覚めると夫は消えていた。
後に第三世代と呼ばれる少年、クレア・ランスキーの苦悩が幕を切った朝だった。
******
それはある小さな島国の小さな町で起こった悲劇だった。
新聞の見出しに『クリスマス一家惨殺事件』と大きく載ったその一件は、
誰もが浮かれる聖夜に起きたショッキングなニュースとしてしばらくは各メディアを騒がせたが、
一年経ち、二年が経ち、だんだんと人々の記憶から薄れ始めていた。そして三年も経つと、
皆が被害者の名前を忘れ、事件を忘れ、犯人が捕まっていないという事実すら忘れてまた十二月の聖夜を待ちわびる。
町中が色めき、ジングル・ベルがどこからとも無く聞こえてくるそんな季節を、再び愛せるのだろうかと
幼い少女が空を見上げた。
蹴破られるようにして玄関のドアが音を立てて、父親が駆けていった。
それから何だか大きな音がして、ケーキを食べようとフォークを握っていた万莉亜の手が止まる。
「隠れなさい、まりあ」
反射的に悲鳴を上げようとした母親が、本能でもってそれを押し止め、低い声でまず娘に告げる。
小学五年生の娘はただ事ではないと感づき、大人しく言われたとおり隣の部屋の押入れによじ登り、天袋に身を潜めた。
そこでただ震えていると、母親の悲鳴が聞こえた。心臓が跳ね上がり飛び出したい衝動に駆られたが、
それからすぐ聞こえてきた足音に体が固まる。ガタンガタンと家捜しするような音の裏で、付けっ放しのテレビから
流れるジングル・ベルが聞こえた。悲しいくらい陽気な曲調が耳に入っては通り抜ける。やがて乱暴な足音が
遠ざかり、それが完全に消え去っても万莉亜は動かなかった。
賢い少女だったから、この扉を開ければ一体どんな惨状が自分を待ち受けているのかは簡単に予想がついた。
けれど、そんなはずは無いと否定もした。自分に限って、そんなことが起こるわけがない。希望と絶望が入り混じり、
混沌とした意識の中で、鈴を鳴らした歌だけが陽気に通り過ぎる。
たったの五分前までささやかながらも暖かなパーティーが行われていた部屋は、一瞬で鮮血に染まり、声をあげるものはもう誰もいない。
いるのは押入れの天袋で震える生き残った長女だけ。そして彼女は、そ知らぬ様子でパーティーを盛り上げる陽気な音楽を、
ただただ憎みながら、駆けつけた警察が到着するまでそこで震え続けた。
「万莉亜、風邪を引くよ」
障子の向こうからかけられた祖母の声に振り返る。
「中に入りなよ。どのケーキがいいか選んでちょうだい」
クリスマス・シーズンに配られるケーキ屋のチラシをちゃぶ台で眺めながら手招く祖母の
シルエットに万莉亜は口元をほころばせた。悪くなる一方の老眼に苦労しながら、虫眼鏡で細かい文字を読む
祖母は、今年もうんとケーキを予約するつもりなのだろう。それこそ二人では食べきれないほどに。
ちゃぶ台いっぱいにケーキとご馳走を並べては「目が楽しいね」といって微笑む。それが全部自分のためだと
分かっているから、陰鬱になどなっていられない。
「うん。今行くよ」
そう言って立ち上がり、もう一度だけ空を見上げて白い息を吐き出した。
今年も冬がやってくる。来年も、再来年もやってくるのだ。覚悟は決まらなくとも、立ち向かわねばならない。
泣いて塞ぎこむ日々と同じくらい、愛するものと笑って過ごす日々を大切にして、それからの事はまた
後で考えればいい。
障子を引けば、暖かい空気と祖母の柔らかい微笑が彼女を迎えた。
「万莉亜はチョコがいいんだよねぇ」
「うん。おばあちゃんは、苺だよね」
「じゃあその二つと、こっちの果物のやつを二つ頼もうか」
「四つは多すぎるよ。また腐らせちゃうわ」
「多いほうが、目が楽しいからねぇ」
祖母が微笑む。泣きたくなるほど優しい微笑みを一人占めしている自分は、幸せ者なのだ。
だから今日は笑って、明日も笑って、泣きたくなったらそのうち泣けばいい。だから今日は笑って、
そんな風にして生きていけば良いと、悟れたのはそんなに遠い昔ではない。そこまでの道を照らし続けれくれたのが
他でもない祖母だった。「全部諦めるのは明日にして、今日は美味しい物を食べようね」と三年言い続けた祖母の
粘り勝ちで今の万莉亜がある。
やがて時が経ち、その粘り強い不屈の愛が世界の歪みを目の当たりにしたその時に、不遇の少女は誰を救い、誰を苦しめるのか。
誰を罰して、何を許すのか。何も許さないのか。
地獄の底で観察者を気取る赤子だけが全てを見通して嘲るように笑う。
自分勝手な人間の業はやがて人間へと還るのだ。その苦痛の螺旋に終わりはない。
始まってしまったパーティーは、もう取り返しがつかない。
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