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 ヴァイオレット奇譚「Chapter1・"理事長とその行方"」



 痛み出した脇腹をぎゅっとつねりながら万莉亜は走った。左腕にはめた時計は 十時をとっくに回り、あと数分でデッドラインの十一時にさしかかろうとしている。
「まずい、まずい」 
 思わず独り言が口から零れる。速度を緩めずに全力疾走していると、 コートのポケットから携帯の着信が鳴り出した。もちろん悠長に出ている暇はない。 それに相手は大方察しがついた。ルームメイトの蛍に違いない。いつまでたっても帰ってこない自分に 危険を知らせるための電話だ。出られないほどに急いでいる事が蛍に伝わるだろうか。そんな くだらないことを考えながら、最後のカーブを曲がり、寮へと続くなだらかな坂道を一気に駆け上った。
「おかえりなさい。名塚さん」
 そう言って正面玄関に腕を組んで立ち塞がる女性が見えて万莉亜は息を呑んだ。 速度を緩め、子供のようにトボトボと背中を丸めて彼女へ近寄る。
「あの……羽沢先輩」
「おかえりなさい。名塚さん」
 トーンを一切変えずに同じ言葉を繰り返す羽沢梨佳に、最早愛想笑いも出てこない万莉亜は「はい」と 大人しく頷く。茶色の髪を耳の後ろで綺麗に切りそろえたショートカットの梨佳は、まるで教師のような威厳で 鋭い瞳を万莉亜に向けた。
「門限一時間オーバーですけど、言い訳は聞きませんから」
「そんな……!」
「約束どおり、今のアルバイトは辞めてもらいます」
「待ってください、私やっと時給が上がって……」
「知りません聞きません。明日ちゃんとバイト先に連絡してください。その後、学校側から確認の電話をさせてもらいますから」
「先輩……」 
「じゃあ、おやすみなさい」
 問答無用で立ち去っていく梨佳の姿を息を切らしながらも呆然と見送り、万莉亜は肩を落として二階の部屋へ向かった。 勤めて一年になる喫茶店の時給が、やっとの事で今日百五十円もアップしたというのに、何が悲しくて翌日に辞めなければならないのか。
――高校生にあんなに出してくれる所、この辺じゃ中々無いのに……
 心で泣き言を呟きながらドアを開ければ、心配顔の蛍が飛び出してきた。
「バカ!」
 開口一番万莉亜に顔を突きつけてそう言うと、プイっと顔を逸らす。その動作で、蛍のポニーテールが万莉亜の顔面に直撃した。
「い、痛い」
「え、あ! ごめん。またやっちゃった」
 慌てて振り返り力なくしゃがみ込んだ万莉亜に手を伸ばす。
「で、先輩怒ってたでしょ? 何て言われたの」
「今のバイト先やめろって……」
「やっぱね。さっきこの部屋に来たとき、般若みたいな顔してたもん」
「……どうよう」
 蛍に引き摺られるようにしてベッドまで辿り着き、そのまま崩れ落ちる。ずっと掴んでいたままの脇腹がまだちくちくと痛んだ。
「なんでちゃんと帰ってこなかったの。さすがに三日連続で門限破るのはまずいって。先輩も怒るよ」
 正論でつっつかれ返事をする気力も失せた万莉亜は放り投げた鞄からペットボトルに入った水を取り出し、一気に飲みきる。 口の端から水が垂れようが、関係ない。やけっぱちな気分で豪快に飲み終えると、ゆっくり息をついて口を開いた。
「レジ閉めを任されるようになったの。で、レジを閉めるのが九時半なの」
「九時半にあの店出てたら間に合うわけ無いじゃん」
「分かってるけど、それで時給が上がったんだもん……」
「辞めるんなら意味無いじゃん」
「言わないでよぉ」
 情けない声で倒れこむ。
「あとちょっとでお金が溜まるから、バイク買おうと思ってたのに……」
「ああ、原付ね。そういえばそんなこと言ってたね」
 今更、と言った口調で返してくる蛍に口を尖らせながら万莉亜が起き上がる。
「バイクさえあれば三十分で帰ってこれるのに! あの横暴寮長、話も聞いてくれないんだから。 折角免許取ったのにこれじゃあ何にも意味が無いよ。そう思わない!?」
「バイクを買えるまで上手くやれなかった万莉亜の責任でしょ」
 床に放り投げられた空のペットボトルをゴミ箱に入れながらぴしゃりと返す。 すると万莉亜はショックを受けたようにして固まってしまい、言い過ぎたのかしらと心配になった蛍が 優しい口調で彼女の名前を呼んだ。しかし、口を半分開けたまま固まっていた万莉亜は返事をしない。 部屋の中央に置かれた共用の目覚まし時計を一心に見つめ、やがて素っ頓狂な声を上げる。
「万莉亜、どうしたの!?」
 突然取り乱した相手に蛍がおろおろしていると、万莉亜はそのまま自分の机へ飛んでいき、スタンバイ状態にしてあった パソコンの電源を入れる。
「ぎゃ! 落札されてる……っ」
「……何よ、またオークション?」
 呆れたように呟かれた蛍の言葉を無視してヘナヘナと机に肘をつき、泣きそうな声で万莉亜が唸った。
「あたしの爆安ヘルメットがぁ……ずっと見張ってたのに横取りされたぁ……」
「オークションてそういうもんでしょーが」
「もういや……。この世には神も仏もないんだわ」
 拗ねたようにしてそれだけ呟くと、着替えもそのままにすごすごとベッドに潜り込む。
 バイトは辞めさせられそうだし、それによって原付の資金集め計画は中断されるし、その上目をつけていた新品の格安ヘルメットは落札 されるしで万莉亜にとっては散々な一日の締めくくりだった。このやさぐれた気分のまま、明日は授業をズル休みしてやろうかと 考えていたとき、布団の上からポンポンと背中を叩かれる。
「お金、ちょっとなら貸せるよ。それで原付買ってさ、また時給のいいところ探せばいいじゃない」
 泣きつきたくなるほどに優しい声色で囁かれた蛍の慰めが胸に沁みる。けれど、彼女だっていい所のお嬢様というわけではない。 日数は少ないけれど、万莉亜同様にアルバイトをして、お小遣いの一切を自分で稼いでいるのだ。差し出された手に縋りつけるわけもなく、 気持ちだけありがたく受け取ると、万莉亜は布団を被ったまま首を横に振った。それに、あの喫茶店に固執しているのは、決して 時給だけが理由ではないのだ。
「マスターと折角仲良くなれたのに、辞めたくない。常連さんの顔もやっと覚えてきてたのに……」
「万莉亜……」
 アルバイト先の喫茶店は、老齢の夫婦が経営する小さなコーヒー専門店で、店の概観もどこか昭和の匂いがした。 流れの速い現代から取り残されたようにしてただ静かに存在するその店を万莉亜は気に入っていたし、昔からやってくる 馴染みの客も、店に吹き込んだ新しい風として万莉亜を歓迎していた。時給は勿論のこと、居心地のよさにかけても、 この店以上の場所はそうそう見つからないだろう。そこで働く事がもう出来ないのかと思うと、心は一層沈んだ。
「もう一度、羽沢先輩に頼んでみたら?」
 そう言う蛍の口調には諦めが入り混じっていた。あの堅物は 規律の鬼なのだ。皆に示しがつかないとか何とか言って一蹴されるに違いないと、この寮に入って一年半過ごした二人はよく分かっている。
「……無理だよ。あの寮長が、特別扱いしてくれるわけない」
「じゃあ、校長に直談判とかは? 万莉亜はおばあさんの入院費用を稼いでるわけだから、 ちゃんと説明すれば認めてくれるんじゃないかなぁ」
「寮長を溺愛してるあの校長になにを言えっていうのよ。所詮どこの親も親馬鹿なんだよ。あたし達は権力に 屈するしかないんだわ……」
「ちょっとぉ」
 塞ぎこみ、どこか芝居がかったような口調で絶望を露わにする親友に蛍は呆れ、 彼女が頭から被っている布団を無理に引き剥がした。情けない顔をした万莉亜が現れて、蛍の顔を見上げる。
「馬鹿言ってないで考えるの。早く起きて」
「……うん」
 素直に頷くと、万莉亜はゆっくりと上半身を起こし、くしゃくしゃになった長い髪を両手で撫で付けながら整えた。 猫の毛のように柔らかくて軽い万莉亜の黒髪は、彼女の繊細な指の動きにきちんと従う。セットするのに整髪料要らずのその髪を 蛍は内心羨ましく思っていた。
 この学園に入学して初めて万莉亜に出会ったときは、平凡な子だなという以上の感想を持つ事はなかった。 けれど彼女が寮生だと知り、ルームメイトだと知り、寝食を共にするうちに、長くて柔らかい髪だとか、黒目がちな瞳だとか、 綺麗な指先だとか、そんなところばかりが目に付き、よく見ていなければ分からない控えめな美しさを嫌でも知った。 そして気がつけば、どこか危なっかしいルームメイトを、憧れにも似た親心で見守っている自分がいる。
 女が女友達を選ぶのにだって、好みのタイプがあるのだと初めて教えてくれたのが、蛍にとっての万莉亜だった。 内面に関しても、気難しくて天邪鬼な蛍と、大らかで単純な万莉亜はとても相性がいい。二人で問題を話し合うときは、 驚くほどスムーズに事が進むのだ。 だけどそれは、大体の場合において万莉亜が全面的に蛍の言葉を尊重してくれているおかげだと、蛍は知っている。
 一方の万莉亜も、蛍の言葉ならば信じるだけの価値があると盲信していたので、多少一方的といえなくもないが、 二人の話し合いは衝突とは無縁の位置にあった。
「方法としては、二つあるね」
「何なに?」
 ベッドの上から首を伸ばして万莉亜が問う。
「一つは、辞めたフリをすること。この場合は店側にも嘘をついてもらうことになるし、 新しく出すアルバイト許可証にも嘘を書かなきゃいけなくなるけど、でも確実にあの店で働き続ける事が出来る」
「……なるほど」
 関心したように頷く万莉亜に、蛍はすかさず人差し指を立てて釘を刺す。
「でも、ばれたら大変。退寮か、停学か。退学はさすがにないと思うけど……」
「そ、それは困る! それは却下!」
「じゃあもう一つは、……リスクはないけど」
 ゴクリと唾を飲んで蛍の言葉を待つ。藁にもすがる思いで見つめていると、蛍がにやりと口の端を持ち上げた。
「権力には権力で対抗するの」



******



 翌日、午後の退屈な授業を終えると、万莉亜は一目散に教室を飛び出した。 目的はたった一つ、この学園のどこかにいる理事長を見つけるのだ。
 しかし意気込んで駆け出した彼女の右腕を何者かが素早く掴む。振り返ると、栗色の髪を 緩くウェーブさせた、愛くるしい少女が眉を吊り上げて立っていた。
「どこ行くの、万莉亜は掃除当番でしょ」
「……摩央ちゃん」
 何かを訴えかけるような万莉亜の瞳を見て、クラスメイトの下倉摩央はぶんぶんと首を振った。
「ダメ! あんた今週は二回も掃除当番サボってるんだから。今日は帰さないからね」
「これあげるから。前にオークションで落札した呪いのサボテン人形!」
「いるか!」
 ポケットから出された奇妙な中古の人形を思いっきり床に叩きつけて摩央が万莉亜を教室へと 引き摺り戻した。
「ひどい……あれはパタゴニア産の限定品なのに」 
「パタゴニアはどーでもいいから掃除して」
 目の前にモップを突きつけられて万莉亜は泣く泣くそれを受け取ると床を擦り始めた。 放課後はクラスの違う蛍と食堂で待ち合わせをして、一緒に理事長を探そうと昨夜約束していたのだが、 厳しい摩央の目をすり抜けていくことはどうやら困難そうだ。万莉亜は諦めて、それならばせめて早く済ませてしまおうと、 せっせとモップがけに集中した。
 時が経つのも忘れ、一心不乱に床を磨いていると、やがて教室の入り口から自分を手招く蛍の姿が見えた。 駆け寄ろうとした時、するどい摩央の視線に気付き、あくまで手を休めず床を磨きながらさりげなく蛍に近づく。
「ごめんね、私掃除当番で……」
「うん。それはいいんだけどさ」
 なんだかソワソワした口調の蛍に万莉亜は眉をひそめる。
「今職員室へ行って来て、理事長室の事聞いたの。私場所知らないし、万莉亜も知らないでしょ?」
 話の方向性が見えないが、確かに知らないので頷く。
 そう言えば、この学校での理事長の存在とは随分希薄だ。見かけた事も、話題になったこともない。まあしかし女子高生にとっては、 理事長など校長以上に遠く関心の薄い存在だ。どこもこんなものなのだろうと思い、湧いた違和感はすぐに消えた。
「それで先生に聞いたんだけど……誰も知らないのよ。理事長室の場所」
 妙に神妙な口調で蛍が呟いた。万莉亜は首を傾げ、そんな馬鹿なと困ったように微笑んで見せた。
「理事長室が無いわけじゃないのよ。ちゃんとあるの。それは先生達も知ってたんだけど」
 慌てて蛍が付け加えると、万莉亜はますます混乱した。
「あるのは知ってるのに、場所は知らないの?」
「……そういうこと。変じゃない?」
 変だ。そしてそのことに今まで疑問を持たなかった先生達も変だ。生徒じゃあるまいし、 そこまで軽視していい存在ではないはずなのに。
「何の話?」
 教室の入り口で唸り続ける二人を、ひょこっと現れた摩央が覗きこむ。
 摩央とは一年の頃クラスメイトだった蛍が、気心知れた様子で理事長室のことを尋ねると、 摩央は二人と同じようにして唇に指を当てて考え込んでしまった。
「そういえば、あるのは知ってたけど……考えた事無かったな。どこにあるかなんて」
「新館のほうにあるんじゃないかなぁ」
 思いついたように万莉亜が声を上げる。彼女ら学園生徒の教室は全て旧校舎にあり、その隣に新しく 建てられた新校舎にはまだ特別教室しか入っていない。来年からは全ての教室を新校舎に移すと聞いたが、 そういえば去年もそんな事を聞いた気がする。結局新校舎は今だクラスの教室としては活用されず、 入っているのは特別教室だけという贅沢な使われ方をしたままだ。学校側がケチっているのだと 生徒達は内心毒づいていたし、実際それは半分当たっていた。
「でも新館には、調理実習室と音楽室と視聴覚室、あと被服と……ほかになんかあったっけ」
 指折り数えて摩央が新館にある教室を上げていく。
「パソコン教室もあるよ」
 万莉亜が付け足すと蛍も頷いた。
「そうそう。でもそれだけだよね。あとは空き部屋だし、理事長室なんて見た事ないよ」
 新校舎内を思い浮かべて摩央が言うと、二人も首を捻った。
 いくら新館といっても知らない場所ではない。何度も行き来しているし、今日だって家庭科の時間はあちらの校舎で行った。 見落としているとは考え難い。
「掃除終わったら探しに行こう」
 しばらく悩んだ後、しかたがないと諦めて万莉亜が言うと、意外にも摩央が乗ってきた。 蛍はこの後アルバイトがあるために二人を激励して教室へ戻り、残された万莉亜と摩央は精力的に掃除を終わらせると、 その足で新校舎へと向かった。

 新校舎へは通常旧校舎から繋がる渡り廊下を歩いていくのだが、今日は違う視点から見る事が必要だと 思った二人は一旦旧校舎の外へ出て、中庭を突っ切っていく事にした。校務員のおじさんが手入れを怠らない中庭には秋の花であるコスモスが 綺麗に咲きそろっていた。それにうっかり見とれがちになっていた万莉亜の背中を摩央がせっついて二人は正面玄関から新館へと入る。
「……誰も居ないね」
 静まり返った放課後の新館で万莉亜が呟くと、その声が玄関ホールにこだました。
「手分けする?」
 振り返ってそう言う摩央にブルブルと首をふってしがみつく。
「一緒に行こうよ。ちょっと怖いし」
「それもそうだね」
 二人は仲良く腕を組み、一階から四階までくまなく歩き回る。 もちろん、見知った景色なので別段新しい発見はない。今度は四階から一階に向けて歩き、それをニ、三度繰り返し やがて二人はへたり込むようにして一階の廊下に腰を下ろした。
「やっぱり無いね」
 覇気の無い声で万莉亜が言うと摩央も黙って頷いた。
「でもさぁ、旧校舎なんて、もっとあり得ないよね……だって理事長室なんて見たこと無いんぐぃっ」
 一人で万莉亜が呟いていると、突然摩央が右手で彼女の口を塞ぐ。驚いた万莉亜が目をぱちくりさせていると、 摩央は人差し指を唇に当て、そのまま聞こえてくる音に耳を済ませた。
「やば、寮長だ」
 小さな声で摩央が言うと、万莉亜も思わず萎縮する。 誰かと話しながら歩いているのか、男性と会話する羽沢梨佳の声が確かに近づいてきていた。
 万莉亜はバイトの一件で彼女を苦手としているし、摩央は摩央で過度なメイクや髪の毛のカラーリング、制服の規定違反、 デートでの門限違反などで梨佳とは犬猿の仲である。ここで見つかってはまたクドクドとお咎めを受けるに違いない。
 そう焦った摩央が万莉亜と手を繋いでいる事を忘れて勢いよく立ち上がると、いきなり腕を引かれた万莉亜が バランスを崩し頭から床に落ちた。
 ゴツンと大きな音がして、真正面からおでこと鼻をぶつけた万莉亜が痛みと衝撃で奇声を上げる。
「あ! ご、ごめん万莉亜!!」
「いたぁーい……」
 顔を抑えてうずくまっていると、パタパタという足音ともに羽沢梨佳が駆けつけた。 その横には、見慣れない金髪の男性もいる。
「何やってるの」
 床にうずくまり唸る万莉亜と、観念したように肩を落とした摩央の顔を交互に見やり、梨佳が呆れたような ため息をついた。
「ここで何してるの?放課後は、新校舎は立ち入り禁止になっているんだけど」
「すみませーん。先輩がどんどん新しい規則を作るから覚えきれなくって」
 嫌味をたっぷり含ませて摩央がそう返すと、梨佳は顔をしかめて相手を睨みつけた。その間に 赤くなっているであろう鼻を手で覆いながら万莉亜が立ち上がる。すると梨佳の矛先がこちらに向けられた。
「名塚さん、あなたアルバイト先に電話したんでしょうね」
「い、いえ……あの、まだ……」
「まだ? 言っておくけどあなたが電話しないのなら学校から直接……」
 腰に手を当てて梨佳がそう言いかけると、摩央が万莉亜の腕を強引に引いて歩き出す。
「行くよ万莉亜」
「あ、でも」
「いーから」
「……うん」
 万莉亜は慌てて後ろを振り返り、怒りに顔を赤くした梨佳に頭を下げた後、その隣に黙って立っていた 金髪の男にも同じようにして会釈する。青年はその万莉亜の仕草にひどく驚いた様子で目を見開いたが、 挨拶されるとは思っていなかったのだろうと勝手に納得してそのまま万莉亜は新校舎を後にした。

 逃げるようにして新校舎を出て、そのまま寮の玄関まで帰ってくると、やっとの事で摩央が息を吐いた。
「あーびっくりした。まさか寮長がいるなんて。グチグチ言われる前に逃げられて良かったぁ」
 すでにぐちぐち言われた万莉亜はそれに曖昧に頷いて、湧いて出た疑問を口にする。
「そういえば、あの外人さん誰なんだろうね。転校生かな」
 靴を履き替えていた摩央が中腰のまま動作を止めて万莉亜に振り向く。
「……外人?」
「え?」
「そんなん、どこにいたの」
「……え」
 羽沢梨佳の隣に、ずっと立っていたではないか。そう思って口を開こうとしたとき、 確かに見たはずの彼の顔の印象が、非常に曖昧な事に気がつく。
――金髪だったけど……顔は、外人だったっけ?
 電気のついていない薄暗い新校舎の廊下では、あの青年が日本人なのかそうではないのかはっきりと見分けられなかったし、 そんなに長い間見ていたわけではないからと万莉亜は自信をなくした。
「分かんない……もしかしたら、染めてただけかも」
「あんた何言ってんの」
 眉根を寄せて摩央が相手の顔を覗きこむと、万莉亜のほうも予期せぬ相手の反応に戸惑いを浮かべはじめた。
「え……だってさっき居たじゃない。寮長の隣に……男の人が」
 そう言った瞬間、摩央の表情が恐怖に歪む。
「やめてよそういう怖い事言うの! あいつじゃあるまいし!!」
 摩央の言う”あいつ”とは、彼女のルームメイトである逢坂千歳の事だ。
 千歳は神社の娘で、何でも神通力があると地元では有名な巫女だったらしいが、 真偽のほどは定かではない。ただたまに、霊が見えると呟いては同級生を震え上がらせる。
 言ってしまえば変わり者の彼女を、摩央は本気で怖がっていた。だが決して不仲というわけではなく、 ただその一点においてはどうしても分かり合えないらしい。
「違う違う。そういう、ちーちゃんがいう霊とかじゃないよ。だってあの人居たじゃない」
 慌てて言い直すが、摩央は耳を塞ぎ逃げるようにして自室へ走り出す。止める間もなく取り残された 万莉亜は、寮の玄関で一人首を捻った。
 まさかとは思うが、摩央はあの人に一切気がつかなかったのだろうか。そんな馬鹿な話があるわけが無い。 羽沢梨佳の隣にあんなに確かな存在感を漂わせていた人間を、見落とす事など不可能だ。



******



「ほんとに居たの? どっちかがボケてるんじゃなくて?」
 昨晩、蛍の帰りを待たずに眠ってしまった万莉亜が朝になって昨日の一件を相談すると、 蛍は半信半疑でそう訊ねる。万莉亜は制服に着替えながらこくこくと頷いた。
「本当に居たんだよ。金髪の男の人」
「えー……幽霊でも見たんじゃないの」
「ちーちゃんに相談してみようかな……」
 摩央のルームメイトである逢坂千歳の名前を出すと、蛍は肩をすくめて答えた。
「いや、まあ幽霊ってのは冗談だけどさ、でもあんたそれより理事長はどうすんのよ。 結局昨日は店に電話したの?」
 突然現実に引き戻され万莉亜はハッと目を見開いた。
「忘れてた!」
「……バカ。どーすんのよ、今日にでも学校から電話されたらアウトじゃん」
「ど、どうしよう!!」
「あのせっかちな先輩だったら、放課後まで待たずに昼休みとかに電話しちゃうよきっと」
 有り得る、と万莉亜は頭を抱えた。お店の開店は午前十時からだ。朝は無理でも あの先輩なら昼に連絡しかねない。
「……私……もう一回探してみる」
 混乱したままセーラー服の白いリボンを結び、そう言うと歯を磨いていた蛍が驚いて振り返った。
「授業はどうすんの」
「遅刻してく。なんとかして、午前中に理事長室を見つけなきゃ」
「……そんな、子供の探検じゃあるまいしね、それだけ探しても無いなら きっとどっか別のところにあるんだよ。だいたい、理事長室を見つけても、理事長が居るとは限らないでしょ?」
 呆れた口調でそう諭すが、万莉亜は覚悟を決めたような瞳で首を振った。
「でも、今日のうちに出来る事はやっておかなくちゃ。後で後悔したくないもん」
 普段は自分の意見をすんなり聞き入れる万莉亜だが、たまにこうやって強情を張る。そして、こうなってしまっては もう頑として揺るがない事を蛍は知っていた。
「……分かった。じゃあ、あんたは具合が悪くてここで寝てるって言っておく」
「ありがと、蛍」
「それと、携帯持っていきなよ。私も色んな人に聞いてあげるから」
「うん! そうだ、これあげる! 通販で買ったフェロモン香水」
 そう言ってポケットから取り出した得体の知れない瓶を突きつけられ、蛍がゲンナリと肩を落とした。
「……いらないって。つーか最近この部屋臭いのコレのせいでしょ」
「マレーシア産の限定品なのに……」
「捨てなさい」
 きっぱりと言い切られて意気消沈した万莉亜はそれを大事そうに鞄にしまった。
「いーもん。オークションに出すから」
「入札があるといいけどね」
 そう投げられた蛍の嫌味に舌を突き出して万莉亜は部屋を出た。
 授業が始まるまでは教師がうろついている旧校舎は避けた方がいいと判断し、 当ても無く中庭をほっつき歩く。少し歩いた先にある新校舎を見上げてみるが、あそこは 昨日散々探し回った場所だ。今更行って何か新しい発見があるとも思えなかった。
――あと探してないのは体育館とテニスコートとプール……。でもそんな場所に理事長室ってあるのかなぁ…… あるわけないよねぇ……
 中庭からクルクルと学校の敷地を見渡してため息をついた。 花壇の前にしゃがみ込んで綺麗に花開くコスモスに指を伸ばしてみる。 手入れの行き届いた花は、朝日に照らされて幸せそうに空を見上げていた。 その時、ある人物を思い出す。
――そうだ……校務員のおじさんなら…… 
 学校の全施設を管理しているあの人なら、きっと理事長室も把握しているに違いない。 そうひらめき勢いよく立ち上がったとき、ちょうど後ろを通りがかった人物と接触してしまい、 相手が大きな音を立ててしりもちをついた。
「ご、ごめんなさ……」
 慌てて振り返り手を差し伸べようとした万莉亜の動きが止まる。 そんな彼女を、転んだ少女は不思議そうに見上げていた。
「あ、あの……えと、そ、そーりー……」
 やがてはっと我に返った万莉亜が、ぎこちない英語でそう言うと、 少女はにっこりと微笑み差し出された手に捕まり立ち上がった。
 年の頃は十二、三歳のその少女は、褐色の肌に赤錆色の瞳と髪の毛をしていて、その見慣れぬ風貌に万莉亜は目を奪われた。
 一方の少女はリスの様に大きな瞳をクルクルとさせて万莉亜を眺めると、非常に興味深そうに彼女の胸や腹部をぺたぺたと 触り始めた。本当に相手がそこに存在しているのか確かめるようなその仕草に、恥ずかしさよりも驚きが勝り、しばらく されるがままにしていると、やがて鈴のような声でクスクスと笑い出す。
「……あ、あの……えーと、えと、えくすきゅーずみー……」
 いざ話そうとすると何も出てこない。もっと真面目に英語を勉強しておくんだったと後悔しながらそう言ってみると、 少女は楽しそうに首を振った。
「日本語で大丈夫」
 流暢にそう言って、少女は万莉亜を驚かせる。
「シリルです。はじめまして」
「え! あ、あの、どうも。名塚と言います!!」
 慌てて頭を下げる。動揺しながらも、なんて綺麗な日本語だろうと思った。 訛りも癖も一切無い、まるでネイティブだ。
 少女は慌てふためく相手の反応に満足したのか、ニコニコとその場に立ち続けて万莉亜の次の言葉を待った。
「えーと……日本語上手なんだね」
「うん、もうずっとここにいるから」 
 なるほど、と心の中で両手を打った。もしかしたら幼い頃から日本育ちで、自然と身についたのかもしれない。 流暢な日本語も、そういう理由なら納得がいく。それにしても、と万莉亜はシリルの格好に目をやった。
 フリルとリボンとレースをふんだんにあしらったピンクのワンピースは、ファッション雑誌内でならばともかく、 着て歩くにはいささか装飾過多といえる。親のセンスを疑いながらも、よほど大事にされているのだろうなと思うと微笑ましくもあった。
「シリルちゃんは、ここで何しているの?」
「遊んでるの」
「そうなんだ……先生に見つからないように気をつけてね」
 そう彼女に注意したとき、丁度通りがかった校務員のおじさんと目が合った。
「もうチャイムが鳴ったよ」
 鐘が鳴ってもまだ悠長に中庭に佇む女生徒を見つけて、おじさんが声をかける。 見つかってしまい慌てた万莉亜は、苦し紛れにシリルの手を掴みその手を振ってみせた。
「迷子なんですー」
 作り笑顔でそう言うと、校務員は「はあ?」と言って呆れ顔をした。 そして万莉亜の正面まで近づき、困ったように微笑む。
「君何年生? 高校生になってまで迷子かな?」
「……へ? 違いますよ、迷子はこの子」
 そう言って、隣にいるシリルを指さすが、校務員はますます困ったように眉をひそめた。
「何言ってるの。おじさんをからかっちゃダメだよ」
 軍手をはめた手をポンと万莉亜の頭において、彼は花壇の手入れを始める。それを 唖然としたまま万莉亜は見下ろした。
 言葉も出ない。今彼の真横に立つこの異国の少女を、 どう見落とすことが出来るだろうか。けれど目の前の校務員は別段ふざけている様子でもない。 まるで本当に、見えていないかのような……。
「見えないんだよ」
 万莉亜と手を繋いだままポツリとシリルが呟いた。 その瞬間、万莉亜の背中に寒気が走る。
「あ、……あ、あなた……幽霊……?」 
 震える声でそう言うと、校務員が不思議そうに万莉亜に振り返った。
「なにを言ってるんだ君は。勝手に殺さないでくれよ」
 そう小さく笑いながら彼が花壇の作業に戻る。けれど本当に言葉を投げかけられた少女は 笑わなかった。真剣な口調でそれを否定する。
「幽霊じゃないの。でもこの人にはシリルが見えないし、聞こえないの。 クレアが、そうしたから」
 額に嫌な汗をかきながら、そっと万莉亜が隣にいる少女を見下ろす。 彼女は、まっすぐにこちらを見ていた。
「あなたは見える。そういう人は私たちと相性が悪いの。だから見えてしまう。あなたは、 コントロールできない。それは、ある人には幸せだけど、ある人には悲しい事なの」
 そう呟いたシリルがあまりにも悲痛な表情をするので、万莉亜は握った手を放すタイミングを失ってしまっていた。
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