ヴァイオレット奇譚「Chapter3・"午後の紅茶と花占い"」
あの不思議な空間に招待されてから、すでに一週間が過ぎていた。
梨佳の言葉どおりアルバイト先の喫茶店に学校側から電話が来る事も無く、それどころか
多少門限を破っても梨佳が正面玄関で待ち伏せているような事は無くなった。
すべて望んだとおりの形になったわけだが、それを叶えてくれたのは彼女を説得してくれたルイスと理事長、
そしてあの場所を教えてくれたシリルのおかげだ。何とかしてお礼を伝えたいし、ルイスとの約束も守りたいと思いながらも、
梨佳の影に怯えて授業以外で新館に近づく事が出来ないでいる。心に引っかかる物を抱えた日々はどうにも憂鬱だった。
「万莉亜ちゃん、少し疲れてるんじゃないかい」
年老いたマスターが、閉店後のレジを閉めていた万莉亜の顔を見て心配そうに声をかける。
「ううん。違うんです。ちょっと気になることがあって」
お札を数えながら万莉亜が答えると、マスターは拭いていたカップをカウンターに置いて、万莉亜の
隣に腰かけた。彼女が何かに悩んでいることに気がつくと、彼はいつもそうやって全ての事を中断し話を聞く体勢に入る。
そんな気遣いが嬉しかったし、万莉亜はいつも喜んで相談に乗ってもらっていたが、今回は一体どう説明したらいいのやら。
人間ではない者が見えるなんて迂闊に言ってしまえば、マスターは自分にたっぷり休暇をとらせるに違いない。
だから万莉亜は言葉を慎重に選び、実に大まかな説明を彼に始めた。
「実はですね……会いたい人がいるんですけど、私が会いに行くのを嫌がる人がいるんです。
で、私はその人が怖いんです」
マスターはうんうんと頷いて話に聞き入る。
「でも、私約束しちゃったから、会わないわけにはいかないんです。それで……困っちゃって」
「見つからないように会いに行けばいいじゃないか」
あっけらかんと言ってのけるマスターに万莉亜はお札を数えていた指を止めてしばし制止する。
「……そっか……なんで気がつかなかったんだろう……」
途端に視界が開けた気がして万莉亜は笑みを浮かべる。
「ありがとうマスター。私、それで行ってみる!」
「そうかい? 良かった良かった」
満足したようにそう言うと彼は立ち上がり、再びカップを手に取り拭き始めた。
彼にしてみれば孫娘のような存在だ。可愛くてついつい構いすぎてしまうが、万莉亜はそんな彼の愛情を一切拒否する事無く、
注がれるままに吸収していく。
彼女には伝えていないが、万莉亜が隣町で起きた六年前の悲惨な出来事の中心にいたことを面接の時点で気付いたマスターは、
よくもまあこんなに素直な娘に成長したものだと感心すらした。
元々寂れた喫茶店だ。アルバイトを雇う必要も余裕も無かったが、
湧いて出た同情心で彼女を店に招き入れてからと言うもの、どうにも気が気で無い日々を送っている。
悲しんではいないか、辛くはないか、そんなことばかり日がな一日中考えては、笑顔で店にやってくる万莉亜にほっと胸を撫で下ろす。
すでに巣立った我が子を見送り、やっと優雅な隠居生活を楽しめると思っていた矢先の出会いだったので、また子供のことで
ハラハラさせられるのかと肩を落としたものだが、そう思える存在がいるということは幸せな事だ。
願わくば、彼女がこのまま愛されて育てばいい。それは難しい事かもしれないけれど、不可能な事ではない。何よりも素晴らしいのは、
彼女がそういった愛のやり取りに長けているという点だ。これは、この先の彼女の人生において、大きな武器になると
マスターは確信すらしていた。
「おばあちゃんの具合はどうだい?」
カップを丹念に磨きながらそっと探りを入れてみると、万莉亜は花のような笑顔を少しだけ
曇らせて振り返った。
「うん。悪くは無いけど良くも無いの。日曜日にまた行ってみるつもりです」
「そうか。じゃあ、行く前にここに寄りなさい。車で送っていってあげるから」
「本当? ありがとう、マスター」
白い歯を覗かせて微笑む彼女に内心ほっと胸を撫で下ろしてマスターはカップを閉まった。
全く、隠居どころではない。万が一たった一人の身寄りである彼女の祖母に何かがあった場合を
考えれば、我が家に新しい娘として万莉亜を向かえ入れることも真剣に検討する事になるだろう。
それは幸せな事だったが、なるべくならば実現して欲しくない、悲しいシナリオでもあった。
******
翌日の放課後。
掃除をさっさと済ませると、万莉亜は昨日バイト先で貰ってきたコーヒー豆の袋を二つ
紙袋に詰めて教室を飛び出した。
お昼に行こうかとも考えたが、昼は梨佳が来るというルイスの言葉を思い出してそれは止めた。
遭遇してしまったら大変な事になる。ここは、非常に慎重にならなければいけない。
旧校舎から一旦外へ出て、中庭に身を潜めて新校舎の気配を伺う。
まだ学校が終わったばかりということもあり、新校舎の周りにもチラホラと生徒の影が見受けられた。
――誰も居なくなってから行くべきか。それとも他の生徒に混じって入るべきか……
しかし考えていても一向に生徒達が消える気配が無いので、万莉亜は思い切ってその場から駆け出し、一目散に
新校舎内へと入り込む。
特別教室のある一階や二階では微かに生徒の話し声が聞こえたものの、物置状態になっている三階まで
上るとすでに人の気配は消えていた。万莉亜はほっと胸を撫で下ろし、紙袋を抱えて四階を目指す。
――階段はある。階段はある……絶対ある……
心の中で呪文のように唱えながら、四階の廊下を突っ切る。
あと少しで壁にぶつかる、という所でそっと左へ振り返った。
ステンレスの黒い螺旋階段が、待ちわびていたかのように彼女に姿を見せる。
「……あった」
湧き上がる達成感でいっぱいになった万莉亜は、それでも心を沈めて、そっと足音を立てないようにして階段をのぼる。
途中で何度も足を止めては、上の階の物音に耳を澄ませるが、これといって何かが聞こえてくるわけでもない。
――寮長が……居ませんように……!
祈るような気持ちで階段を上りきると、目の前には以前と同じ、優雅で開放感溢れるフロアが広がった。
「やった……」
思わずそう呟いてから、慌てて口をつぐむ。
万莉亜の立っている位置から少し離れたソファに腰かける羽沢梨佳の後姿が見えた。
――う、嘘でしょ……!!
気が動転して、思わず踵を返し階段を駆け下りようとしたその瞬間、梨佳と向かい合って座っていたルイスが
こちらの姿に気付いて何か声を上げようとするのが見えた。
万莉亜は自分でも驚くほどの素早さで人差し指を口に力いっぱい押し当て、千切れそうなほどに首を横に振ってみせる。
それを遠目で見たルイスが事情を察したのかは知らないが、とにかく彼は開きかけた口を閉じて再び梨佳に向かい合った。
とりあえず危機を免れて全身で脱力していると、一瞬ルイスが顎で右を示した気がして、万莉亜は眉をひそめる。
じーっと彼を見つめていると、ルイスはもう一度、顎で彼女の視線を右へと誘導した。
――……何……
わけが分からずにその方向に目をやる。先には、理事長室の大きな扉が見えた。
もう一度万莉亜がルイスに視線を戻すと、彼は梨佳に悟られないよう実に自然に頷いてみせる。
――理事長室へ……行けって事、かな……
本音を言えば、すぐに逃げ出したかったのだが、彼女の意図を汲み取り、共犯の片棒を担いでくれたルイスの好意を無下にも出来ず、
万莉亜は慎重にすり足でそっと進む。梨佳が振り返りませんようにと祈りながら亀の歩みで移動し、彼女からは見えない死角の位置にまで
辿り着くと、一旦そこで休憩する。
――た、助かった……
ゆっくりと息を吐き、バクバクと音を立てる心臓を落ち着かせてから万莉亜はさらに少し進んだ場所にある理事長室の扉を見上げた。
――シリルの……お父さんなんだっけ……
シリルの姿からまだ見ぬ理事長の姿を思い浮かべてみる。
浅黒い肌に、赤い髪をした赤い瞳の中年男性が頭をよぎった。少なくとも、日本人ではないことははっきりしている。
――よし……!
ノックをするとフロアに音が響く危険があったため、万莉亜はドアのまん前まで近づき、びったりと顔を近づけて
息だけの声を発した。
「……あのー、理事長さん」
返事は無い。扉の向こうの部屋がどれだけ広いかは知らないが、この声量では彼に届かないのかもしれない。
ほんの少しだけ声を強めてもう一度呼んでみる。
「あのー、二年三組の名塚といいますー……あのー、開けてくださーい……」
返事は無い。
僅かな焦りが万莉亜を襲う。
「お話があるんですけどー、理事長さーん。あのぉ、あのぉーっ」
根気良く息だけで呼びかけていると、とつぜんソファの方から梨佳の怒声が上がった。
「もういい! ルイスじゃ話にならないわ。クレアに言うからいいわよ!!」
そう言って、荒い足音がこちらへと近づいてくる。
万莉亜は息を吸うのも吐くのも忘れて迫り来る恐怖に目を見開いた。
――や、やだ……こっち来る!?
隠れようにも狭い通路にドア一枚のこの空間では隠れる場所も無い。ドアに縋りつくようにして
影が迫るのを怯えて待つだけだ。
――だ、誰か……!!
あと一歩で死角だったこの場所に梨佳が踏み入れようとしている。万事休すかと
万莉亜が両目をかたくつむったその瞬間、縋りついていた扉が開き、そこから伸びてきた白い腕が彼女を一瞬で室内に
引き入れた。
「クレア!」
角を曲がった梨佳が扉の前に佇む青年を見つけてそう大きな声を上げる。
「聞いてよ、ルイスったらね……」
呼ばれた青年は後ろ手でドアを閉めると、憤りながらこちらへ歩いてくる梨佳に笑顔を向ける。
慌てて梨佳の後を追ってきたルイスがその様子を見てほっと胸を撫で下ろした。
「何事?」
騒がしい二人を眺めて悠長に青年が口を開く。
ルイスは困ったように息をついて主人の問いかけに答えた。
「それが、ハンリエットと梨佳さんがまた衝突したらしく……」
「衝突の一言で片付けないでよ! なんで単なる”枝”のあの女と私を同列に語るわけ!?」
「梨佳さん、私は決してあなたを軽んじているわけでは……」
「私は”マグナ”なのよっ!!」
「それは勿論……」
ヒステリックに叫ぶ梨佳を必死にルイスがなだめるがどうやら効果は無いらしい。
お手上げだとばかりに彼が主人に視線を向けると、青年は扉にもたれながら肩をすくめて外野を気取った。
「……クレアは……私とハンリエット、どっちが大事なの」
そんな彼の様子を見ていた梨佳が怒りの矛先をクレアに向ける。
「……どっちも、かな」
「それじゃあ嫌なの!」
とうとう涙を流して叫び始めた梨佳に、クレアは諦めたように息を吐くと、震える梨佳の肩に腕を回した。
「ハンリエットは僕の娘だ。誰かと秤にかけるなんて事、出来ないよ」
甘い声でそう囁くと、梨佳は体の力を抜いて相手に身をゆだねた。
「……でも、それじゃあ嫌なの。だって私は……マグナなんだから……」
「もちろん、君だって大事だ。誰かと比べたりなんて出来ない」
「…………クレア……」
潤んだ瞳で見上げられ、やぶ蛇だったなとクレアが後悔する。
今彼女を、部屋に入れてやるわけにはいかないのだ。
「ごめんね梨佳。悪いけど大事な仕事があるんだ。この続きはまた明日話し合おう。それでいい?」
「……仕事? 仕事って何よ」
案の定つっつかれて、言葉が出ない代わりに笑顔を作る。
「それを今から私が説明します」
そう言って二人の前に立ち、ルイスが梨佳の腕を取った。
「じゃあ後は頼んだよ」
そっと梨佳に回していた腕をはずし、ルイスにゆだねる。恨めしそうな彼女の視線に気がつかないふりをして、
彼は扉の向こうへと戻っていった。
「……まったく」
扉を閉めてしっかり施錠すると、クレアはそう呟いてため息をついた。この調子じゃあそのうち
ペットの犬猫にまで嫉妬し出すかもなと先を案じながら部屋を見回す。
「……あれ?」
匿ったはずの少女の姿が見当たらない。
「おーい」
呼びかけてみるが、少女からの応答は無い。
しかたなくクレアは部屋に漂う微かな匂いを嗅ぎ分けて歩を進めた。
そして辿り着いた先にあるクローゼットの扉を眺め、さてどうしようかと思案する。
「……ナヅカさん」
「…………はい」
クローゼットの中から蚊の鳴くような声が返ってくる。
「もう出てきて大丈夫だよ」
「……あの……お願いがあるんです」
「なんでしょう」
「ティ、ティッシュを数枚……いただけませんか」
「……かしこまりました」
意外な要求に思わずそう答えると、クレアは目に付いたティッシュケースごと僅かに開いたクローゼットの
隙間から投げ入れてやる。
「……ありがとうございます」
そのお礼の後、豪快に鼻をかむ音が数回部屋に響く。なんのこっちゃと呆れたクレアはその場にしゃがみ込み、
引き篭もってしまったアマテラスの登場を待った。
「……あの……で、出ます」
やっとの事でそう囁かれると、クローゼットの中から衣服まみれになった少女がそっと顔を出した。
その表情を見て、クレアはハッとした。
少女の顔は今にも倒れそうなほど蒼白で、瞳は真っ赤に充血している。額には、浮き出た冷や汗まで見えた。
そんなに梨佳が恐ろしかったのだろうかと眉を潜めて眺めていると、少女は力なく微笑んで、情け無さそうな声で彼に
お礼を告げた。
「ごめんなさい……実は私、ひどい閉所恐怖症で……」
「閉所恐怖症? じゃあ何でこんな所に隠れたの」
至極最もな疑問を投げかけられて、相手が困ったように俯く。
「……慌てているときは、どうしても狭いところに隠れちゃう癖があって……あの、ごめんなさい。お洋服、ぐちゃぐちゃにしちゃいました」
「そんなことはいいよ。とにかく、顔でも洗ってきたら?」
「い、いえ、もう大丈夫です」
赤くなった瞳をなおもティッシュでゴシゴシこすると、彼女はしっかりと顔を上げて微笑んでみせる。
「あの、私二年三組の名塚万莉亜と言います。はじめまして」
ペコリとお辞儀をして、再び顔を上げたとき、彼女の表情からは一切の悲壮感が消え去っていた。
その人間らしくない表情の切り替えを、ほんの少し不審に思いながらクレアも笑顔を作る。
「はじめまして。僕はクレア・ランスキー」
「クレアさんですね。理事長の……息子さんですか?」
「いや、理事長は僕だけど?」
その言葉に万莉亜はポカンと呆けて、首を捻ったまま固まってしまう。
目の前の青年は、どう見ても自分と同年代だ。シリルのような大きい娘がいるとは考えられない。
だが勿論それは、人間を前提にしたお話である。
「えーと……シリルの、お父様……ですよね?」
「そうです。よく知ってるね」
クレアが感心したように微笑む。
「えっと、えっと……私は、その……その道のプロでは無いんですが……」
「……はあ」
「お化けって……早熟なんですね……」
微かに頬を赤らめてそう言う彼女が、一体何に困惑しているのか、大体の察しがついたクレアは心の中で
そっと笑いを零し、あえて誤解を解くこともせずに彼女をテーブルへと案内した。
「今お茶を入れるから待って」
そう言って部屋にある簡易キッチンへと歩き出した彼を呼びとめ、持ってきた豆をドン、とテーブルに置いてみせる。
「みんなで飲もうと思って、バイト先から貰ってきたんです」
邪気の無い笑顔で万莉亜がそう言うと、クレアは思いも寄らぬ土産に、少し戸惑ったようにして微笑んだ。
「折角だけど、それは次の機会にしよう。それまでにコーヒーミルを用意しておくよ」
「……あ」
うっかりバイトのノリで豆ごと持って来てしまったが、よほどのコーヒー好きでもない限り、
豆を粉砕するための器具を常備している家庭は少ないだろう。そこまで考えが及ばなかった自分が恥ずかしくなって
万莉亜は肩を落として、消沈した。
「……ごめんなさい。私……気が回らなくて」
悲しみを露わにする少女が気の毒になってクレアは慰める言葉を捜した。けれど
彼が言葉を見つける前に、少女はパッと表情を変化させて、さらに紙袋をあさる。そして何かを手にすると
それを握って彼の元へ駆け寄った。
「あの、じゃあせめてこれ使ってください」
少女から手渡されたのはごてごてしい金の細工が施された小さな缶ケースだった。
「これは?」
「ネットオークションで落とした角砂糖です。正しくはフラワーシュガーって言って、
解けると中から花の絵が描いた紙が出てくる花占いのお砂糖なんです」
「……なるほど」
「一九八八年にアメリカで発売された限定品なんですよ!」
それ、大丈夫なの、と喉まで出かかった言葉を飲み込んでクレアは彼女に礼を告げる。
相手が喜んでいると信じきっている万莉亜は、満足げな微笑を浮かべて席へと戻った。
――あの笑顔で呪いの人形をルイスにくれてやったわけか……
突っ返せなかったルイスの気持ちをここへきて知り、クレアは何だか釈然としない思いのままティーカップを二つ用意する。
邪気が無い少女だということはよく分かった。多少ズレてはいるが、思いやりのある優しい女の子だ。
――でも……
気になったのはあの表情の移り変わりだ。あれはコロコロと変わる、なんて可愛らしいものではなく、
スイッチでもって強制的に切り替えているような、非常に人間らしくない素振りだ。
――ああいうのは、好きじゃないな……
ぼんやりとそんな事を考えながらカップに紅茶を注ぐと、興味深そうにキョロキョロと部屋を眺めている彼女の前に
差し出した。
「あ、ありがとうございます」
彼が戻ってきたのを知ると、若干気を引き締めて万莉亜が姿勢を正す。
しかし微笑んで自分の対面に腰を下ろした青年は何を話すでもなく、ただゆっくりと優雅な仕草で
カップを持ち上げて口をつける。奇妙な沈黙が訪れる前に何か会話の糸口を見つけなくてはと焦る万莉亜を
知ってか知らずか、窓から見える紅葉を彼はうっとりと眺め続けた。
――えーと……何か聞かなきゃ……、何か、話を……
焦れば焦るほど頭が真っ白になるのは、ここが彼の部屋だからだろうか。
部屋に流れる空気さえも彼に従い、万莉亜は容易に口を開く事が出来ない。そんな雰囲気が、いつのまにか出来上がっていたのだ。
――騒がしいのが……嫌いなのかな……もしかして、迷惑だったのかも……
そんな風にだんだんと不安を募らせれば、もう真っ直ぐに彼を見つめる事が出来ずに万莉亜はまだ冷めない紅茶とにらめっこをする。
「もう秋だったんだね」
そんな彼女をよそにポツリと彼が呟く。
「……え」
万莉亜が顔を上げると、青年は視線を紅葉に留めたまま、どこか遠い目つきでぼんやりとそれを眺めている。
客人の存在などは気にも留めず、微塵の気まずさも感じていない彼の横顔に、万莉亜はふと瞳を奪われた。
形のいいまぶたの奥にあるバイオレットの瞳は、そのプラチナブロンドと相まって彼を幻想的に演出していたし、
すっと通った鼻筋や形のいい薄い唇は色気に満ち溢れている。
特に横顔のラインは、思わずため息が零れるほどに美しい。
――この人、すごく綺麗なんだわ……
自分のことに精一杯でロクに気付きもしなかったが、あらためて観察すると、
ありったけの全霊を込めて形作られた隙の無い彼の風貌からは、神様の執念まで感じられた。
そしてその事実に気付くと、万莉亜はなんだか途端に居心地が悪くなってくる。
劣等感だろうか。美しいものを目の前にして気後れしているのかもしれない。
クローゼットに身を潜めていたせいでくしゃくしゃになった髪や、皺だらけの制服。なんだかパッとしない自分の外見が恥ずかしくなって
身を縮めた。
「飲まないの?」
そんな彼女の様子に気付いたのか、クレアが声をかける。
「あ、あの、……頂きます」
おずおずと手を伸ばし、カップを包んだとき、万莉亜は大切な事を思い出し間抜けな声を上げた。
「あ! お、お砂糖!」
そう言われてクレアも自分の脇にある金の缶ケースを、さも今気付いたと言わんばかりに驚いた様子で見下ろした。
「ダメですよクレアさん! ちゃんとお砂糖入れないと」
言いながら腕を伸ばし、長い事封印されたままの蓋を開けて彼に差し出す。
「はい、どうぞ」
都合よく忘れていた彼女にあえて思い出させることをしなかったクレアは、観念したように苦笑いして
一つまみ上げ、もう半分ほど減ってしまった紅茶の中に落とす。
「一つじゃダメなんですよ」
「え?」
「これハズレも入ってるんです。だから三つくらい入れないと」
得意げに説明をする万莉亜が、そのまま残りの二つを彼の紅茶の中へとためらいなく落とす。
「は、はずれって、花占いだろ?」
「でもハズレもあるんです。面白いでしょ?」
「主旨がブレてると思うんだけど……」
ぶつぶつ文句をいいながら、入れられた物は仕方がないと諦めてスプーンでかき混ぜてみる。
けれど少なくなった紅茶に対して砂糖の量が多すぎたのか、中々解けきらない上に、崩れてきた角砂糖の中から
紙切れの端がプカプカと泳ぎ出すという最悪の状態に陥りはじめた。
「……この買い物、失敗だったんじゃないかなぁ」
すっかり飲む気が失せて彼女にそう言ってみると、肝心の相手はそんな言葉はどこ吹く風で必死に
スプーンを回転させている。やがてカップを両手で掴むとそれを一気に飲み干し、舌でしっかりと捕えていた
直径一センチほどの小さな紙切れを三枚口の中から取り出した。
そしてその紙切れを順番に確認していく。一枚一枚めくるたびに彼女の表情が曇っていくのが見て取れたが、とりあえずクレアは黙って
それを観察した。
「……全部……ハズレでした」
全ての紙切れを確認すると落胆したように万莉亜が呟く。
「……結構外れるもんなんだね」
何と言葉をかけていいか分からずにクレアがそう返すと、相手は希望を託すような瞳でこちらを見上げる。
「クレアさんは、どうでした?」
「……どうかな」
顔を引きつらせてドロドロになった紅茶を見下ろす。それからもう一度瞳を輝かせている万莉亜に視線を向け、
何度かそれを繰り返すと、腹をくくって一気に流し込む。
ざらざらとした液体が喉を通るのが非常に気持ち悪かったので、すぐに飲み込んでしまう。
「……あ」
ゴクンと喉が音を立ててから思わずそう声を漏らした。
「ど、どうです?」
「ごめん……飲んじゃった」
「えぇ!?」
「あ、ちょっと待って」
そう言って辛うじて舌に張り付いていた一枚の紙切れを指で取り上げる。なんて最低な
後味だ、と眉根を潜めて口内に残る砂糖を舌で探りながら、小さな紙切れを開いて彼女に見せた。
「うわぁ、菫だ!」
嬉しそうな万莉亜の声が上がる。
「当たりですよクレアさん! いいなぁ」
「……ありがとう、嬉しいよ……」
「運がいいんですねきっと」
「で、菫だと何なの?」
「へ?」
笑顔のまま万莉亜が首を傾げる。
「だって、これって花占いだろ? 菫だと何なの?」
「……さあ。菫が当たったって事じゃないですかね?」
それじゃあクジだろ、と突っ込みたい気持ちを堪えて、クレアはその紙を手の平でクシャっと丸める。途端に、
万莉亜から悲痛な声が上がった。
「捨てちゃうんですか!?」
「……何かまずかった?」
「す、捨てるならください……」
恥ずかしそうに俯きながら片手を差し出した彼女を俄かには信じられずにクレアが見つめ返す。
「この、紙切れが欲しいの?」
「はい」
「これ僕の口から吐き出された紙くずだけど」
「でも、当たりですから」
一体なにが彼女をそうさせるのか。全く意図がつかめないままに、手元にあったナプキンでそれを丹念に拭うと、
クレアは小さく折りたたんだ紙切れを彼女の手の平に乗せた。そしてそれを受け取った彼女があんまり幸せそうに微笑むから、
こちらももう笑うしかない。
一方は苦笑いであるにしても、とりあえずはそんな和やかな空気の中、突如ヒステリックな女性の声が割って入る。
「クレア!! 開けて!」
梨佳の声だとすぐに分かった。
今にもドアをぶち破ってきそうな迫力の彼女に万莉亜は思わず席を立ち上がり、オロオロと辺りを見回す。
「こっちにおいで」
そう言って万莉亜の手を掴むと、立ち上がったクレアは大きな絵が飾られた壁に手を当てて、
何かを掴むような仕草をしてみせる。
「よく見て。何が見える?」
「……え」
言われて万莉亜は戸惑った。彼はさっきまで背にしていた壁に手を当てている。何が見えるといわれても、
その上にある飾られた大きな絵しか見えない。
ただ気になるのは、軽く握られた彼の手の平。まるでドアノブに手をかけているような……。
そこまで考えると、うっすらと長方形の線が浮かび上がり、万莉亜は目を凝らした。
「騙されないで。しっかりと見て」
「……はい」
言われたとおり、壁を見つめる。けれど、それが壁でない事は薄々気付いていた。
あとは、信じるだけなのだ。
――見える。そこに……ドアがある……
目をつむってそう言い聞かせ、一気に開く。視界に飛び込んできたのは飾り気の無い真っ黒なドアだった。
銀のドアノブにクレアがそっと手を添えているのが見える。
「……黒い、ドアが見えます」
「ご名答。君、本当に僕と相性悪いんだね」
自嘲気味にそう零し彼はドアをそっと開ける。すると見覚えのある黒い螺旋階段が姿を現した。
「降りていけば新館の裏に辿り着くよ。ここは非常階段で、梨佳も知らない」
「……寮長も?」
「多分、梨佳には見えない。あの子も大概鈍いけど、君ほどじゃないから」
「私、……鈍いんでしょうか」
「視点によるね。でも術者の僕に言わせると、君は相当鈍い」
そう説明されてもよく分からなくて万莉亜は曖昧に頷いた。
「行って。もうすぐ梨佳がドアを蹴っ飛ばして入ってくるから」
「は、はい」
促されるようにして扉をくぐる。振り返れば、バイオレットの瞳が優しく自分を見守っていた。
「あの、バイトのこと、ありがとうございました」
「頑張ったのはルイスだよ」
「あ……ルイスさんにも、シリルにもお礼を……伝えておいてくれますか?」
「もちろん」
「あの、……それとコレ……ありがとうございました」
握り締めた拳を胸の前に掲げてみせる。その中には、菫の花が描かれた小さな紙切れが収まっているに違いない。
「さっき言おうとしたんですけど、誠実だと思います」
意味が分からなくてクレアが首を傾げる。
「菫の花言葉、紫の菫は誠実です。これ、クレアさんの瞳の色と一緒ですね」
そう言って少女が柔らかく微笑んだ。
「それじゃあ、失礼します」
「あ、……待って」
階段を下りようと背中を向けた万莉亜の腕を咄嗟に伸びてきた手が掴む。
驚いて振り返った少女の頬に、柔らかい唇がかすめるようにして触れた。
「準備して待ってるから」
「……へ」
彼の唇が触れた頬を片手で覆いながら、混乱気味の万莉亜がとぼけた声を上げる。
「次は一緒にコーヒーを飲もう」
至近距離で見ると、透き通った薄紫の瞳は本当に綺麗で、このまま吸い込まれてしまうのではないかと万莉亜は
不安すら覚えた。けれど、その瞳が綺麗なアーチを象っていたので、安心してこちらも微笑みを返す。
「はい。飲みましょう」
万莉亜がそう答えると、クレアは小さく頷き、掴んでいた万莉亜の腕を放す。
「またね、万莉亜」
「はい、また」
そう挨拶して、万莉亜は黒い螺旋階段を駆け下りた。
高鳴る胸は、焦っているからだろうか。ドキドキと耳にうるさい音が体の中で響いている。
階段を駆け下りる少女の姿を見送ると、クレアはそっと扉を閉めた。
それから、ドンドンと扉を叩きつけるもう一人の少女のために、部屋の鍵を開けてやると、相変わらず涙を流したままの
梨佳が胸に飛び込んできた。
「もういや!! 私の護衛からハンリエットを外してよ!」
そう言って泣き叫ぶ彼女の後を追って困り顔のルイスが現れる。
「梨佳さん、ですがそうなるとシリル一人になってしまいます」
「ルイスが付いてくれればいいじゃない!」
「私はクレアの側近ですから……それとも側近をハンリエットに代えて私が護衛に付きますか?」
「それは嫌!! クレア! 新しい枝を作ってハンリエットを消してよっ!!」
「梨佳さん……っ」
胸元で泣き叫ぶ少女と、それに対応する従者のやり取りとぼんやりと聞き流しながら、
どうしてあんな事を口走ったのだろうとクレア・ランスキーは考えた。
衝動に駆られて動いてしまうのは、あんまりいい事ではない。万莉亜とはもう少し距離を保つつもりだったのに、
突然湧き上がった衝動のままに、触れてしまった。そのくせ、唇に触れる勇気は出なかった。
泣き叫ぶ梨佳を抱きしめながら、テーブルのすみに置かれたままの金色に輝く缶ケースを眺める。
なんでアレを買おうと思ったのだろう。そう考えるとおかしくなって、自然と口元が綻んだ。
あの子はきっとまた来る。社交辞令ではなく、来ると約束したら、彼女はきっとやって来るのだ。
――誠実だからだ……
妙に納得して、金に光るそれを見つめる。
そんな主人の微弱な感情の揺れを従者は敏感に感じ取って、彼の視線の先を追った。金色の怪しげなケースを見つけて、
ルイスは目を細める。呪いのサボテンに負けじと胡散臭いその代物は、一体どこ産なのだろうと考えて、思わずこみ上げてくる
笑いを噛み殺した。
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