ヴァイオレット奇譚「Chapter9・"刹那のキス"」
ルイスが挽きたての豆から抽出したコーヒーをカップへと注ぐ。
それを眺めて、いつのまにコーヒーミルを用意したのだろうとほんの少し疑問に思った。
――もしかしたら、私が来る事なんて、お見通しだったのかな……
例えば心は読めなくても、未来を予知できたりするのかもしれない。
なんたって相手は正体不明の生き物だ。どんな可能性だってありえる。
そう思いながら湧いて出た疑問を心の中にだけ留めて、万莉亜はじっと押し黙った。
なんだかソワソワしてしまうのは、貸して貰ったハンリエットの服のせいかもしれない。だだのシャツだと思っていたら、
胸の途中でボタンが終わっていて、随分と胸元をさらけ出す羽目になってしまう。
豊満なハンリエットが着たらビシっと決まる大胆なデザインも、彼女より一回り小さい自分が着ると何だかヨレヨレでみすぼらしい。
体が小さいから恥ずかしいと零していた蛍の気持ちを今まさに痛感し、ギュッとボタンの無い襟元を握り締めた。
それから、対面に腰かける青年を遠慮がちに見上げる。
散々素っ裸を見られて、もう恥ずかしい事なんて何もないと思っていたが、いざこう向き合って座れば、頭が真っ白になって
言葉一つ出てこない。
時刻は午前三時。
何故か始まった深夜のコーヒータイム。
黒いカーテンで締め切られた部屋は、いつもよりほんの少し窮屈に感じられて妙に息苦しい。
薄暗い照明に照らされた青年は、美しい曲線を描く眉をぴくりともさせずに、ただじっと自分を見つめている。
思わずうっとりしてしまいそうなほどに形のいいまぶたのその奥の瞳で、真っ直ぐに熟視されれば、こちらも限界まで
顔を伏せるしかない。
テーブルとおでこがくっつきそうになった所で、ルイスが不思議そうに声を上げた。
「万莉亜さん……それは、日本の”礼”ですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
テーブルと睨めっこしながらそう答えると、正面のクレアはおかしそうにクスクスと笑い出し、やっと
視線を外してくれた。
内心ほっとしながらそっと顔を上げて、ルイスの入れてくれたコーヒーに目を落とす。ほろ苦い香りは、アルバイト先を連想させて、
ほんの少し万莉亜の緊張をほぐしてくれる。
「では、私はこれで失礼します」
その矢先、一応そう万莉亜に断ってルイスが早々と部屋を出ていく。
声をかける間もなく、彼は扉を静かに閉めた。
その瞬間、金縛りにでもあったように全身が固まる。
香ばしいコーヒーの匂いも、もう良く分からない。ルイスの後姿に追いすがるようにして扉へ向けた首をもとに戻すタイミングすら
見失って、万莉亜は今、クレアから思いっきり顔を逸らした状態にある。
そんな間抜けな自分を、思いっきり見られていると知っているから、余計に向き直り難い。
「花占いやる?」
タイミングを与えてくれたのは、クレアの意外な一言だった。
素直に驚いて、「え?」と呟き彼に振り返る。
クレアは、テーブルの上に置いてあるゴテゴテと装飾された怪しい金の缶の蓋を外し、
何やら真剣な面持ちで角砂糖を見下ろす。
しばらく目を細めてそれらを眺めると、そこから塊を三つ手に取り、万莉亜のカップへと落とす。
それから無造作に一つ摘み上げて、自分のカップへと落とした。
「あ、クレアさん、一つじゃ……」
「いいんだ。今日はいくつ入れても外れる気がするから」
慌てて答えると、相手に口を挟む隙を与えずにクレアはさっとコーヒーを口元に運ぶ。
それを見た万莉亜は、しぶしぶ諦めてティースプーンを手に取り、静かに角砂糖を溶かす。
彼はこれを気に入ってくれたのだろうか。だったら嬉しいし、贈ったかいもある。
そんなことを考え自然と口元をほころばせる万莉亜を、カップ越しにそっとクレアが盗み見た。
複雑な思いでその無邪気な笑みを見つめる。
どうして来てしまったのかと責めたい気持ちもあったけれど、ドアを開けてぼろぼろになった
彼女を見た瞬間そんな憤りはすぐに消え失せ、それが梨佳の仕業だと分かれば申し訳なさで胸が痛んだ。
――……なんで来たんだろう……
約束を果たしに来たと、彼女は言った。でもまさか、本当にコーヒーだけ飲みに来たわけでもないだろう。
彼女の真意がさっぱり掴めない。
「……不思議ですね」
カップを両手で包みながら、万莉亜が口を開く。
その瞬間視線が交差して、彼女はすぐさまテーブルとの睨めっこに戻る。
「不思議って、何が?」
「だって……さっきまであんなに疲れてて、私気を失ってたのに今はすごく元気なんです。
何だか目も冴えてるし、このまま学校にも行けそう」
それは自分の生命力をたっぷり吸わせたせいだとつい零しそうになったが、
説明も面倒だったのでクレアは口をつぐむ。
「それに怪我も治ってるし。クレアさんって、医者要らずなんですね」
最高の皮肉を笑顔と共に投げかけられて、何と答えていいか分からずに適当に微笑んだが、
どちらにせよ彼女はすでにこちらの顔を見ていないので、すぐにくだらない作り笑顔を消す。
――来てしまったのなら、もう君の責任だ。同情はしない……
心でそう呟く。
これからは梨佳同様、彼女もマグナとして丁重に扱わなければいけない。生贄にするその日までは、
出来る限りの我儘を聞いてあげて、出来る限りの贅沢をさせる。
一方的で、随分アンフェアではあるが、これはクレアなりのギブアンドテイクだ。
「……何で来たの?」
それでも、聞かずにいられなかった。
万莉亜は梨佳とは違う。
彼女は自分に異性としての好意を向けていない。だから、自分から直接返してやれる物がない。
そう思えば一層心は沈んだし、梨佳のそんな想いを逆手に取っている自分にも吐き気がした。
「来るなって言ったはずだろ? どうして来たんだよ」
「……ご、……ごめんなさい」
いきなりため息と共に責められて、万莉亜はカップを持ったままうろたえる。
「まさかとは思うけど、ボランティアで僕の子供を生むつもり?」
「……あの……」
「もしそうなら、僕はとことんそれを利用させてもらう。勿論君に一切の同情もしない」
「……私」
「それとも、ただの興味本位?」
「……いえ……」
どんどん小さくなっていく自分の声に、万莉亜は戸惑った。
明確な理由なんてない。覚悟もない。興味本位と言われればそうかもしれない。
なんであの時、あんなにも必死になって黒い螺旋階段をのぼったのか。理由を言えといわれても、
そんなものはない。ただ、一段一段をクリアする事に、その瞬間の全てをかけていた。
「……後悔しないためです」
蚊の鳴くような声で、万莉亜が呟く。
それから、すっと顔を上げて、彼女は微笑んだ。その微笑が、あんまりにも晴れ晴れとしているのでクレアは
多少面食らう。
「昨日後悔しない選択肢は、ここへ来る事です。だから選んだんです。だから今は、すっきりした気持ちです。
こうしてクレアさんともコーヒーの約束が果たせたし」
「明日後悔するかもよ」
その衝動的ともいえる彼女の決断に呆れて、クレアが水を差す。けれど
万莉亜は得意満面で首を振った。
「いえ、もう今日ですけど、まだ後悔してません」
「今すぐ後悔させてあげようか?」
「え?」
無邪気な顔で問われれば、「何でもない」とクレアはため息をついた。
「マグナってのは、一度なったら本当に大変なんだ。しょっちゅう命を狙われるし、
楽しい事なんて一つもない」
「……はあ……」
ピンとこない様子で万莉亜が頷く。
「一年後二年後に後悔したって、もう手遅れなんだよ?」
「それは一年後と二年後に考える事ですから」
「そのときに後悔しても遅いんだよ……君は、全然分かってない」
どこか投げやりにそう言うと、クレアは頬杖をついて視線を彼女から外した。
一方とりあえず怒られている事は理解した万莉亜は、音を立てないように慎重にカップをソーサーに戻す。
けれど動揺しているのか、手元が震えてカチャカチャと鳴ってしまう。
「……考えるのは、苦手です……」
誰に言うでもなく、カップに残ったコーヒーの波紋に視線を落として万莉亜が呟く。
その言葉にクレアは黙って耳だけを傾けた。
「今日一日を……乗り越えたらそれでいいんです。その中で、一番選びたいものを選んだら……
それでいいって信じてます」
「結構刹那的なんだね」
「……はい」
口元だけで万莉亜が微笑む。
それなのに、瞳は悲しみにくれていた。
しかしそれも一瞬のこと。カップの中に何かを見つけた彼女は、すぐさま表情を切り替えて、花のような笑顔を浮かべる。
「すごい……三枚とも当たった……!」
スプーンで紙を救い上げ、ナプキンでコーヒーを拭うと、
殆ど茶色の染まってしまったその紙を次々とテーブルに並べて万莉亜がはしゃぐ。
しかし、砂糖を選んだのはクレアだと言う事を思い出し、いきなり難しい顔をして彼を見上げた。
「……まさか……千里眼ですか?」
「さあね」
よく観察すれば、どの角砂糖に紙が仕込まれているかすぐに分かるようになっているのだが、あえて不敵に微笑んでやると、、
少女はバイオレットの瞳を探るようにして覗きこんだ。
「よく見てごらん。僕の瞳には、文字が書いてあるんだ」
「……え!?」
まんまと罠にかかり、テーブルから身を乗り出した少女が首を伸ばす。
その顎を指で捕えて、相手の唇を舌でなぞるようにしてからそっと塞ぐ。
妙に甘ったるいコーヒーの味に少し顔をしかめながら唇を離すと、放心している万莉亜が瞳を限界まで開いて
こちらを見据えている。
「はじめましてマグナ。そう決めたのなら、僕はあなたを歓迎するよ」
「……は……じめ、……」
そう言ってまだ放心を続けている彼女にとびっきり意地悪く微笑む。
その笑顔の裏で、どうしてキスをしたのだろうと考える。こんな事は
前にもあった。無邪気な少女を見ていたら好奇心を抑えられなくなって、気紛れに彼女の頬に触れた。
これも刹那的な衝動なのだろうか。
無責任で、考えなしの行動。
いつか訪れる後悔に目を瞑り、今を後悔しないためだけの浅はかな選択。
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