ヴァイオレット奇譚「Chapter8・"ロマン主義の選択肢[3]"」
目が覚めたとき、鉛のように重たい体を不思議に思い万莉亜は考えた。
しかしすぐに痛みがやってきて、皮肉にもその痛みが全ての記憶を呼び覚ますきっかけとなる。
階段から落ちた。
生きているという事は、止めは刺されなかったらしい。でも、もう指一本だって動きそうにない。ジンジンと体中が
痛みに響いて、どこが痛いのかも分からない。
――骨が折れてたらどうしよう……
ピクリともしない体に不安になって万莉亜は焦った。折れていたとしても不思議ではない。
階段の天辺から転がり落ちたのだ。
それから即座に浮かんだのは意外にも入院費についてだった。保険と貯金でまかなっている分を抜かせば、
祖母の入院費用も万莉亜の学費も全て祖母が知り合いに頼み込んで貸してもらった借金だ。
この上自分まで入院なんてことになったらそのお金はどこから出てくるんだろう。原付のためにいくらか貯金はしてあるが、それで足りるだろうか。考え出すとどんどん不安になって万莉亜は痛みを堪えて
両手を握る。
――入院なんて、絶対に出来ない……!
そう強く決意して、息を止めながら腹筋に力を込め一気に上半身を起こす。
ビリビリと電気のような痛みが走り、それを歯を食いしばる事でやり過ごすと、おそるおそるまぶたを開いた。
目を開いた先にある自分の二本の足を見て、思わず卒倒したくなる気持ちを堪える。
階段にぶつけた箇所は満遍なく青痣になり、右足のすねはすでにぱんぱんに腫れあがっていた。
さらには落ちる際に擦ったのかそれともぶつけたのか、膝の皮がパックリと割れ、血が溢れ出している。
それを見て涙腺がショックを受けたのか、意図せず涙がこみ上げる。
誰も見ていないからと、一粒だけそれを零し、後は袖で強引に拭ってから、今度は両腕も確認する。
足ほど悲惨ではなかったか、それでも満遍なく痣になっていて、ただ折れている気配は無さそうなのが救いだった。
背中や腹も痛いけれど、恐らく痣になっただけだろう。
問題はこの足だ。
中がどうなっているのかさっぱり見当も付かない。ただ、割れた膝と腫れた右足のすねが最も強く
痛んでいる事だけは分かった。
――立てなかったらどうしよう……
弱気になって体から力が抜ける。
そのとき、ふと左腕の腕時計の文字盤が割れていることに気付いた。祖母から十三歳の誕生日にと送られた品だ。
大事に使っていたのに、こんな壊れ方をしたと知ったら祖母はきっと悲しむ。
そう思えば再び涙がこみ上げて、とうとう万莉亜はもう一度仰向けのままその場に横になった。
もう何もかも嫌だ。
起き上がる事も、考える事も放棄して眠りたい。
こんな暗い場所で、誰もいない校舎で、自分は何をやっているのだろう。
馬鹿みたいだ。まったく意味が無い。
明日とは言わず、たった今この瞬間に全部諦めてしまいたい。
こんな風に思うのは、随分久しぶりな気がする。でもここには、慰めてくれる祖母がいない。
シンと静まり返った空間に、カチコチと時を刻む秒針の音が響く。他に音が全くしないから、
嫌でも聞こえるその音に、万莉亜は耳を澄ませた。
中身は、無事だったんだ。
ぼうっとしながらそう考えて、何気なく左腕を持ち上げる。肩を上げると激痛が走ったが、
時計の安否の方が気になった。
針は十一時三十分ぴったりを指していて、万莉亜は一人で苦笑いを浮かべる。
試されている気がした。
多分、十二時を過ぎていたら、もう立ち上がれなかったと思う。けれど運命は、まるで試すかのように三十分の猶予を
万莉亜に与えた。
――もう一回だけ、あと三十分だけ足掻いてみようか。泣くのは十二時過ぎてからでもいい……
半ばやけっぱちになって、痛む体に鞭をうつ。
手すりまでズルズルと移動し、腕の力だけで立ち上がろうと試みるが、やはり左足は使い物になりそうもない。
床にかすかに触れるだけで、電流のような痛みが走った。
それでもたかだか後三十分の話だ。ずっと頑張る必要は無い。あと三十分試しに頑張ってみればいい。
そう自分に言い聞かせて、出血こそ見られるものの、比較的ダメージの少ない右足だけで体を支える。
血が足をつたい、紺のハイソックスに滲む。白い靴下でなくて良かったとあえて気楽に考えるよう努めて、万莉亜は一段一段
階段を下りた。
今更四階からの螺旋階段を使う気にはなれない。
万が一にでもまたナイフを持って待ち構えている梨佳と遭遇すれば、今度こそ止めを刺されてしまうかもしれない。
そう考えた万莉亜は、のろのろとおぼつかない足取りで新校舎を後にする。
たっぷりと二十分かけて何とか新校舎を出た万莉亜は、それから壁をつたって裏手に回る。新校舎の裏には
梨佳も知らない非常階段があるはずだ。
――絶対にある。……もう知ってるんだから……
微かに疑う気持ちを押しのけ、無理やりそう唱えると、ほんの少し先に黒く聳え立つ螺旋がぼんやりと姿を現した。
息を切らせて一歩一歩近づく。時間をかけて何とか螺旋の手すりまで辿り着くと、万莉亜は愕然としてそこにへたり込んだ。
どう考えても、この足では五階分の階段を上れない。
焦って時計に目をやれば、十二時まであと八分足らず。逸る気持ちを抑え、額の汗を拭いながら万莉亜は考えた。
ここから呼びかけることは出来ない。大声を出せば、梨佳に見つかるかもしれないから。
かといって、両足で上るのは無理だ。膝と手をついて上ろうかとも考えたが、右膝はパックリと割れていて血が流れいてる。
片膝だけでは、途中までも持たないだろう。
――しょうがない……かっこ悪いけど……
どうせやけっぱちの極みだ。やれる事はやってやる。
そう決意して螺旋階段の一段目に腰を下ろすと、万莉亜は腕だけの力でお尻を持ち上げ、一段上にのぼる。
そうして地道に一段一段上がれば、予想されていた事だが早くも腕が悲鳴を上げ出した。
まだ半分ものぼっていない。それでも、途中で休憩を挟みながら万莉亜はのぼり続けた。
――……あと一段、あと一段のぼったらやめる。あと一段だけ……
どうしても挫けそうになった時は自分にきつくそう言い聞かせる。
静かな夜の空気の中で、汗だくになって天辺に到着したとき、最早時計を見る事すら出来ないほどに
腕は力を無くし、万莉亜は数秒の間不思議な達成感に包まれてそこからの景色を眺めた。
それから飾り気の無い真っ黒なドアに寄りかかり、ノックする事もままならなくなってしまった腕の変わりに、万莉亜は小さく呼びかける。
「クレアさん、いますか?」
返事は無い。
聞こえていないかもしれない。でももう、これ以上大きな声を出すのは無理だった。気を抜けば、このまま眠ってしまうそうな
虚ろな意識で、万莉亜はなおも一人呟く。
「……今、何時でしょうか……私、間に合いましたか……」
しばらく待ってみるが、やはり部屋からは物音一つしない。
――居ないのかも知れないな……
そう思っても、不思議と落胆はしなかった。今は奇妙な達成感に包まれている。悪くない気分だった。
「色々あって……来るのが遅くなってしまいました……。約束したのに、ごめんなさい……」
あの時、咄嗟に自分の腕をつかみ、ああ言った彼の真意は分からない。
ただの社交辞令だったのかもしれない。
でも、万莉亜にとって違う。約束は、果たされてこその約束だ。
「……間に合ったのかなぁ」
一人で呟く。
螺旋階段の一段目に腰を下ろしたのが、何だか遠い昔のように思えて万莉亜はそっと瞳を閉じた。
それから朦朧とした意識で扉の音が軋むのを聞いて、それが開くと同時にもたれかかっていた上半身がぐらつき、
固い腕に抱きとめられたような気がしたけれど、はっきりとは分からない。
強制的に眠りに落ちようとする体に逆らえず、万莉亜は沈むようにして深い闇に意識をゆだねた。
******
長く眠りすぎたのかもしれない。
割れるように頭が痛い。
ズキンズキンと痛みが走る額に、無意識に手をやろうとすれば、今度は肩が悲鳴を上げた。
「動かないで」
囁かれるような声が耳元で聞こえる。蛍とは違う、もっと低い、男の人の声だ。
わけが分からずにそっと重たいまぶたを半分だけ持ち上げると、真上からまっすぐに見下ろしてくる
バイオレットの瞳と視線が重なった。
「……一応弁解しておくけど、これは治療だからね」
意味が分からなくて問いかけようとしても、声が出ない。喉が焼けるように熱くて、
それどころか全身がじっとりと汗ばんでいる事に気付く。
「……あ、つい……」
何とか息だけの声でそう搾り出した。
暑くて暑くて、死んでしまいそうだ。もう何時間もサウナにいるような、湿った熱気に体中が包まれている。
逃げ出して涼しい風に当たりたいのに、体はびくとも動かない。
「もう少しの我慢」
そう言ってお腹の辺りに何か柔らかいものがそっと押し当てられる。
それはまるで熱した鉄のように熱く、突然の温度に万莉亜の体が跳ね上がった。
このままでは火傷をしてしまう。そう直感してうめき声を上げながら何とか体をよじってみるが、腰に回された手は
彼女をがっちりと固定して身じろぎすら許さない。
「熱い……、あついっ……」
殆ど涙声で訴える。
「終わり」
そう言って小さく呟くと、クレアは彼女の腹部から唇を離し、健康そうな肌色に戻ったそれを見てほっと息をついた。
それにしても、人間を治癒をしてやって熱いなんて訴えられたのは初めてだ。どれだけ自分と彼女の相性が最悪なのか、考えてほんの少し
憂鬱な気分になる。
「後は、この足か……」
そんな考えを追っ払うようにして、彼女の左足の靴下をそっと脱がせると、そのあまりの痛々しさに目を細める。
左のすねは、右の二倍にも腫れ上がって赤黒くうっ血していた。
「……これは、じん帯が切れてるかもね」
あまりの惨状についそう零すと、朦朧としていたはずの万莉亜は突如目を見開き、
まだ回復しきっていない上半身を勢い良く起こした。
「……じん、たい……?」
乾いた声で彼女が彼の言葉を繰り返す。そして少し動揺したように瞳を揺らせた。
「大丈夫だよ。すぐに治してあげるから」
安心させるように微笑んでそう言ってやると、万莉亜は少し不思議そうに首をかしげる。
「その代わり、熱いよ。病院に行きたくなかったら、しばらくの間我慢して」
そう言って軽く息を吸い込むと、それを送り込むようにして万莉亜の足に唇を押し当てる。
その瞬間、万莉亜は声にならない悲鳴を上げて足を彼の腕から引き抜こうと暴れ出した。
「熱い! あっ、やだっ、やめてぇっ!」
あまりの熱に皮膚が爛れていくような気さえする。けれどクレアは片腕で彼女の左足をしっかりとつかみ、
空いているほうの手で暴れる万莉亜の上半身をベッドに押さえつけた。
じん帯の損傷まで治すのは容易ではない。
万莉亜は実に五分もの間熱に焼かれるような痛みを堪え、やっとのことでクレアが唇を離したときには、
痛みのあまりすっかり放心状態でベッドに横たわっていた。
どれほど熱かったのかは分からないが、瞳から涙を流して放心している彼女を見れば、善意でやったにしろ、
クレアは申し訳ない気持ちになってそっとその涙を拭ってやる。
「……ごめん」
「あつ、い……」
壊れた人形のように同じ言葉を繰り返す彼女に、ベッド脇のテーブルにあったガラスの水差しをそのまま
手渡してやる。
横になっていた万莉亜は、受け取った物が一体なんなのか理解した瞬間、少しだけ上半身を起こしてそれを一気に
喉に流した。
一滴も残さずに全て飲み干すと、やっとのことで落ち着いたようにゆっくりと息を吐く。
「まだ熱い?」
いつの間にか自分の上半身を支えるようにして手を回していたクレアがすぐ隣でそう尋ねると、
万莉亜はぎょっとしたような顔で彼を見つめる。
どうして彼がこんなに近くにいるのかも、どうして熱で自分を痛めつけたのかも分からない。
ただ、妙に軽くなった左足に違和感を感じて視線を投げれば、両足に痣の一つも見つけられずに
万莉亜はますます混乱した。
「……あの……私……」
そう口を開きかけたとき、荒々しい足音と共にノックもせずルイスが部屋の扉を乱暴に開ける。
「クレア! 今の叫び声は……っ」
血相を抱えて飛び込んできた彼は、ベッドの上の主人と見覚えのある少女の姿を確認してそのまま動きを止めた。
「……ま、万莉亜、さん?」
ほんの少し戸惑ったようにルイスが言うと、万莉亜も戸惑いながら彼を見つめ返した。
それからすぐに辺りを見回し、ここが理事長室である事に気付くと、万莉亜は驚いたようにもう一度真横にいるクレアの
顔を覗きこむ。
「あ、あの、クレアさん? これは……」
「覚えてないの?」
そう問われて困ったように俯くと、なぜか露わになった自分の胸が見えて、吸った息をそのまま飲み込む。
下着すらもつけていない格好で、背中をクレアに支えながら足を投げ出している事を知った万莉亜は、叫ぶのと同時に
隣にいたクレアをベッドから突き落とし、手元にあったクッションを必死の形相で手繰り寄せる。
そうこうしている内にクレアが突き飛ばされた事に驚いたルイスが慌てて室内に飛び込む。そのせいでさらに混乱した万莉亜は、
とうとう手元にあった空の水差しを二人の男性に投げつけていた。
「ま、万莉亜さん落ち着いて……!」
「怖がってるだろルイス。早く出てけよ」
「二人とも出てってーっ!!」
完全に我を見失った万莉亜がベッドサイドの陶器のランプを握ると、二人は慌てて部屋から退散し、やっとのことで室内に静寂が戻る。
ヘナヘナと床に崩れ落ち、クッションを抱えただけという何とも心許ない格好で一人うずくまる。二人の男性に同時に裸を見られてしまった事が
ショックで、しばらく何も考えられないままそうしていると、部屋の隅に置かれた自分のセーラー服を見つけてそっと手にとってみる。
ナイフで切り裂かれた袖に、べっとりと血の付いたスカート。まだ汗に湿っている下着。靴下にいたっては、もう捨てるしか無さそうだ。
しかしそれでもないよりマシだと言い聞かせて下着を拾い上げたとき、控えめなノックが響いた。
驚いた万莉亜はそれを床に落として再びクッションを抱きしめる。
「万莉亜?」
「ま、まだ入ってこないでくださいっ!」
「分かってるよ。ベッドの横にあるクローゼット開けてごらん。その中の赤くて小さい整理タンスに梨佳の服も下着も入ってるから、
貸して貰うといいよ」
そう言われて一瞬大きなクローゼットの扉に視線を向ける。
でも、素直に返事が出来ない。元はといえば、こうなったのも梨佳のせいだ。
その彼女の世話にはなりたくない。そう意地を張って万莉亜は落とした下着を拾い上げる。
「結構です。制服がありますから」
頑なに突っぱねると、扉の向こうの人物は一瞬黙り、それからもう一度扉をノックした。
「……何ですか」
彼に当たるのは筋違いだと分かりつつも、なんだか刺々しい口調で万莉亜が答える。
「パウダールームのチェストにバスローブが入ってるから」
「……え?」
「それ着て待ってて。ハンリエットに何か借りてくる」
そう言い残すと、扉の向こうの足音が遠ざかる。
しばらく突っ立った後、握り締めた下着を畳んだ制服の隙間に隠してから、万莉亜はおそるおそる部屋の奥にある白い空間を覗き込む。
オレンジの優しい照明が主だったベッドルームに比べ、すこし目に痛いほどの白い空間。そこに足を踏み入れ、
鏡に映る自分の体を何となく見ないようにして言われたとおりチェストの引き出しを引いてみる。
部屋と同じ、真っ白なバスローブがキッチリと詰められたそこから一着拝借すると、ありがたくそれを体に巻きつける。
――……あれ……
異変に気付いて、手を止めた。
あれだけボロボロだった体には傷一つ見当たらず、ここへきてやっと自分が普通に動けている事に気付く。
――……いつのまに……
混乱する頭を抱えて思考を整理する。
怪我をしたのは確かだ。現に制服は血で汚れている。なのに傷が無い。
納得がいかなくてもう一度バスローブを広げ、まじまじと自分の体を見下ろした。
「どうしたの?」
「ひっ!」
息を呑んで咄嗟に前を閉じる。自分の背後に立っていたクレアは、
鏡越しに万莉亜と視線を合わせると、どこか勝ち誇ったように微笑んだ。
ばっちりと鏡に映っていたであろう裸体を見られた万莉亜は
再びパニックに陥り、ガタガタと周りのものを倒しながら後ずさる。
「ノックしても返事が無いから」
さらりと自己弁護を済ませ、彼はハンリエットから借りてきた服を相手に手渡す。
「じゃあ、あっちで待ってる」
「あ、あ、……」
「ごゆっくり」
怒りと羞恥で上手く言葉を紡げない万莉亜を置いて、何か固い物を投げつけられないうちに彼はさっさとパウダールームを後にした。
******
「言い訳は聞きたくないわ」
新校舎の五階。理事長室からはほんの少し離れた場所にある一室で、ハンリエットが
目の前の少女を睨みつける。
相手はそんなハンリエットから思いっきり顔を逸らし、胸の前で腕を組んだ。
「万莉亜はマグナよ。その彼女を傷つけるだなんて」
刺々しく言っても、相手はそ知らぬ顔で窓の外を眺める。
月の無い夜、外灯の無い景色は、ただ黒いだけだというのに、梨佳はそこから視線を動かさない。
ハンリエットと向かい合うくらいなら、ただの闇を眺めている方が幾らかましなのだろう。
そんな態度がますます気に食わなくて、ハンリエットも苛立ちを隠そうとはしなかった。
「梨佳。そういう態度はいい加減改めてくれない? やりづらいのよ。あなた一人が、このフロアの空気を乱してる」
「私はマグナよ」
きっぱりと、窓から視線を逸らさずに梨佳が呟く。
まるでそれが、全ての免罪符であるかのように。
「……だから他のマグナを傷つける権利があるって? うぬぼれるのも大概にしてよ」
「うぬぼれているのはあなただわ、ハンリエット」
言いながら、初めて梨佳が相手の顔に視線だけ向ける。憐れむような、嘲笑するような視線でこちらを
見やる彼女は、どこか自信に満ち溢れていて、さすがのハンリエットももうため息を零すしかない。この流れでいけば、
またいつもの押し問答だ。
執念深いと自覚しているハンリエットさえいい加減うんざりしているのに、梨佳のしつこさは異常だった。
「たかが枝ごときのあなたが、マグナの私に説教? 随分お偉いのね」
毎度毎度こう言っては、ハンリエットやシリル、そしてルイスにまで対抗し、立場の違いをはっきりさせたがる。
「思い上がっているのね、梨佳……」
「それはどっちかしら。私とあなた、クレアがどっちを選ぶか考えて御覧なさいよ」
考えるまでも無い。
クレアは、そんな意味の無い選択をしないからだ。
けれど多分、彼のそんなところに、梨佳は不満を募らせている。”特別”だと、皆にはっきり示してくれないから。
いつまでたっても自尊心が満たされない。
そのプライドの高さが、いつまでも自分の首を絞めていることに、梨佳は気付かない。気付いても、
あえて無視を決め込んでいる。
「マグナは女王陛下ではないわ。クレアのパートナーでもない。恋人でも、家族でもない」
「そんなこと知ってるわ。馬鹿みたいに言われないでもね」
恋人でもない。その言葉に、ほんの少し梨佳が眉を潜めて吐き捨てた。
これ以上彼女に何を言っても無駄だと悟ったハンリエットは、小さく肩をすくめると
部屋を後にする。それでも一言だけ伝えたくて、足を止めた。
「万莉亜は今夜ここへ来た。彼女はもう正式なマグナよ」
「だから?」
「私の仕事はマグナの護衛。もし万莉亜に何かしたら、ついにあんたを殺す理由が出来るわ」
愉快そうに告げられたその脅し文句にも、梨佳は大して表情を変えず、ほんの少し目を細め相手を一瞥してから部屋の奥へと消えた。
その後姿を見届けてから、ハンリエットもそっと扉を閉じる。
マグナを決してマグナ以上に扱おうとはしないクレアに、よりにもよってあんなにプライドの高い女が現れてしまった。
すでに事態は最悪だけれども、新たなるマグナの登場で、より陰湿なものへと変わっていくはずだ
けれど、正直に言えばフロアの空気などどうでもいい。
目障りなあの女が失脚さえしてくれたらいいのだ。その点で、万莉亜の存在は望みに望んでいた
希望と言える。
――楽しみにしてるわよ、万莉亜……
心の中でそう呟けば、足取りも軽くフロアの自室へと向かった。
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