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 ヴァイオレット奇譚「Chapter23・"はぐれ狼の無血クーデター"」



 朝の八時にセットしていた目覚まし時計が時間どうりにぎゃんぎゃんと騒ぎ出す。
 それを十五分ほど前から待ち構えていた万莉亜は、パチンと勢いよく黙らせて、もう一度秒針と睨めっこを始めた。
 約束の時間は八時半。
 今から行っても遅刻は免れない。あえてそうしたというのに、そわそわと落ち着かない気分にさせられるのは、 やっぱり昨日の切羽詰ったメールのせいだろう。
 日曜日だと言うのに六時きっかりに目が覚めた万莉亜は、手早く身支度を済ませて それからずっと時計とにらみ合っている。行くべきか、行かざるべきか。
 悶々としながら目覚まし時計の前で正座をしていると、突然買い換えたばかりの携帯が 震え出し、ディスプレイにはいつもの名称が表示される。学園内にある公衆電話からの呼び出しだ。
「もしもし」
『万莉亜?』
「シリル、おはよう」
 自分達に繋がるパイプはなるべくマグナに持たせない、というクレアの方針から、携帯電話どころか電話線も通っていない 五階の住人である彼女は、最近公衆電話から万莉亜を呼び出すという技を覚えたらしい。おかげで 今の万莉亜の携帯は、シリル専用受信機といっても過言ではない。
『万莉亜、日曜日だよ』
「うん? そうね」
『遊べる?』
「…………」
 言葉に詰まったのは、その申し出に乗り気じゃなかったわけではなく、むしろこれを大義名分にすべきではないだろうかと 無意識のうちに考えてしまったせいだ。
『万莉亜ー?』
「遊ぼう! 今すぐ校門に集合ね!」
『やったー』
 その喜びの声と共に電話は切られ、万莉亜は適当に詰め込んだ小さな鞄の中身をチェックした。
ポイントカードやクレジットカード、原付の免許証が入っている財布は部屋に置いて、いくらかの現金だけをポケットに移し、 クレアに貰った催涙スプレーがちゃんと入っているか確認して、最後に彼が用意してくれた架空の名義で作られたらしいあからさまに違法の匂いがする外出用携帯電話を持って、 自分のものは電源を切って部屋に置いておけば完璧だ。
「これで、よし……」
 それから手首にたっぷり菫の香水を振りまいてそれも鞄に詰め込む。
 何だか悲しい習性が身についてしまったが、これも自衛のためだと思えば気が抜けない。
 反対側のベッドで寝ている蛍を起こさないように静かに部屋を抜け出すと、万莉亜はそのまま寮を飛び出して校門へと急いだ。

――『拝啓 名塚万莉亜さま』
――『ご返信ありがとうございました。とり急いでお話したいことが御座います。明日日曜の午前八時半、二の蔵駅にてお待ちしております。 尚、この件は他言なされないようお願い致します。いつまでもお待ちしています。乱筆拙文お許しください』

 昨夜のメールは書き出しとは対照的に、随分と慌てているような印象を受けたとても短い文章。 万莉亜の質問は無視して、一方的に要求を突きつけているようにも見える。
 もちろん無視をするべきだし、行くべきでないのは重々承知ではあったが、二の蔵駅は アルバイト先の喫茶店がある場所から近い見知った駅だったし、それに手紙の差出人も気になる。
 そんなわけで興味本位と野次馬根性で寮を飛び出した万莉亜は、シリルと遊ぶついでにこっそり見に行くだけなんだと自分に言い訳をして校門ですでに 自分を待ち構えていたシリルに大きく手を振った。
「万莉亜!」
 自分を見つけて駆け寄ってきたシリルの前で万莉亜は一度呼吸を整える。
「ねー、何して遊ぶ? 公園行く?」
「違うわ。今日は二の蔵駅に行こうよシリル」
「にのくら?」
「喫茶店があるところ」
 バイトの、と付け足した途端にシリルがあからさまに嫌そうな顔をしたので、思わず苦笑いを浮かべて否定する。
「違うよ、あの辺に遊びに行こうって事。新しい公園見つかるかもよ?」
「バイトはしないー?」
「しないー」
 彼女と同じ口調で繰り返してそのまま手を引き学園を出る。その時、ぐっとシリルに引き戻されて万莉亜は振り返る。
「クレアに公園に行くって言っちゃった。"にのくら"だって言って来ないと」
 今日に限って妙に忠実なシリルだが、あの公園のある町だって二の蔵町には違いない。そう万莉亜が説得すると、 彼女は納得がいったようで大人しく歩き出した。それを見て万莉亜はほっと胸を撫で下ろす。
 もしクレアに報告して、万が一何しに行くのかと問われた場合、何となく言い辛いのは、相手が正体不明の怪しい人物だからではなく、 単に男性だから、という点に尽きる。そんなのおかしいと思っていても、なぜか後ろめたく感じてしまう。
 それに、そもそも自分は決して会いに行くのではない。あくまで野次馬しに行くのだ。これは単なる暇つぶしなのだから、彼に報告するまでも無い。 そうやって自分が納得するまで言い訳をし続けながら、万莉亜は学園から二の蔵駅を目指した。



******



時刻は午前九時過ぎ。
 最近はアルバイトもクレアの車で送り迎えしてもらっていたので、七尾学園と二の蔵町との距離は片道二十分程度だったのだが、 やはりバスを乗り継ぎするとたっぷり一時間はかかってしまう。
 待ち合わせの時刻は八時。
 その上、待ち合わせの場所が「駅」という曖昧な指定だったため、それがどこの改札口なのか、もしやホームなのか、 はたまた駅前なのかも分からずに万莉亜とシリルはウロウロと辺りを歩き回ることしか出来なかった。
「もう帰りたい」
 しばらくそうしていると早速シリルが痺れを切らし、文句を零し始める。
 これはそうそう長くは持たないなと悟った万莉亜は、もう一度駅前をぐるりと見回してから諦めて踵を返した。
「見つからなかったねー、トツカエージ」
「ねー。ほんと、何だったんだろう、あのメール……」
 よくよく考えれば、あんなに曖昧な待ち合わせで、彼は本当に会う気があったのだろうか。
――やっぱ悪戯だったのかな
 では彼はなぜ自分の名前を知ってたのだろう。どこで知ったのだろう。そんな風にしてぼんやりとしたまま休日で いつもより人の多い雑踏を歩いていると、突然繋いでいた手をぎゅっと強く握られて足を止める。
「シリル?」
「万莉亜……逃げて」
 そういうが早いか彼女は懐に忍ばせていた銃を取り出して万莉亜を仰天させる。 そしてシリルが駆け出した方向に目をやれば、道の向こう側からこちらを真っ直ぐに見つめる茶髪の少年と目が合った。
――……あれ
 もしかして、と思った瞬間にはシリルが少し離れた場所で彼に銃口を向けていて、万莉亜は思わず その少年に向かって叫ぶ。
「に、逃げてーッ!!」
 道端で突然叫び出した少女に通り過ぎる人々は足を止めて奇異な視線を向ける。 けれどたった一人、その少年だけは、その言葉を聞くとバネの様にして力強く地面を蹴り上げ駆け出していた。
 その後をシリルが追い、それを止めるために万莉亜が追う。
「シリル! 待ってっ!」
 そんな言葉を後ろから必死にかけるけれど、彼女の耳には届かない。見つけた第四世代を逃すまいと彼女は無我夢中に男の後を追う。
「シリルってばっ! ちょっと、早い……」
 日ごろの運動不足の上に元々足が速いほうではなかったから、万莉亜はあっさり二人にまかれて一人取り残される。
――どうしよう……
 おろおろしながら二人が向かった方向すら見失った万莉亜は、歩道脇にある背の高い花壇に腰かけてバクバクと驚いている心臓をなだめる。
 あの茶色い髪。ツリ目がちで生意気そうな瞳。それでいてどこか幼い顔立ち。
 間違いない。彼はあの嵐の夜、あの木材倉庫で自分を助けてくれた第四世代の少年だ。
 まさか、あのメールの差出人は彼? "異端"とはそのままの意味だったのだろうか。
 では、なぜ今頃になって急に万莉亜に会いたいなどと 言い出したのだろうか。やはり罠か。確かに一度は助けてもらったが、彼もまたクレアとそのマグナを狙う第四世代に変わりはない。
――……でも
 いくら自分に警告しても、一度ついてしまった印象は中々拭えず、万莉亜の中で彼はどうしても悪に染まりきれない情の深い少年のままだ。 だとすれば、やはりあのメールの文面どおり、彼は何か已むに已まれぬ事情で自分の助けを必要としているのかもしれない。
 しかしそのどちらだったとしても、はぐれてしまった自分に出来ることなど何も無い。
 せいぜい、ここで大人しくしてシリルが見つけてくれるのを待つぐらいだ。そう落胆して肩を落としたとき、 突然後ろから名前を呼ばれて心臓が飛び出しそうになる。
「名塚万莉亜?」
 声にならない悲鳴を上げる相手に、花壇の裏から現れた少年がもう一度万莉亜の名前を呼ぶ。
「あ、ああ、あなた……」
 動転して声が震える万莉亜に、彼は両手を上げて攻撃の意思が無いことを表した。それから 花壇からずり落ちて地面に腰を抜かす万莉亜にその手を差し出す。
「メール読んでくれた?」
「あなたが、戸塚、瑛士くん?」
 僅かな警戒心から、差し出された手に首を振って自力で立ち上がると、万莉亜は少年をしげしげと眺めながらそう訪ねる。 彼はあからさまな視線に不快感を示しているのか、万莉亜から思いっきり顔を背けながら頷いた。そしてぶっきらぼうな口調で 彼女に言葉を投げる。
「あんたって、俺に借りがあるよな」
「……へ?」
 きょとんとしながら首を傾げると、バイオレットの鋭い視線で睨みつけられる。
「あるだろ! 何忘れてるんだよ!」
「あ、あります、あります……けど……」
 相手の勢いに押されて思わず敬語になってしまったが、こうやって明るい日中に彼を見ると、以前の印象よりもいっそう幼く見えてしまう。 万莉亜と同じか、もしかすると少し低い背丈。憎らしい目元に残る幼さの影。声はアルトだ。
「金用意してよ」
 呆然としながら突っ立っている万莉亜に、少年が言う。
 その予想だにしていなかった言葉に、万莉亜はしばらく困り果てた後、ポケットに忍ばせた三千円を取り出して 彼に差し出した。それを見た戸塚瑛士は、思いっきり顔をしかめてジロリと万莉亜を見上げる。
「あんた、馬鹿にしてんのか? これっぽっちでどうしろっつんだよ」
「え!? で、でも私今、これしか持ってないし……残りはバス代だし」
「……ッ……そういうせこい話をしてるんじゃねぇ!」
「ええっ……?」
 ひたすらうろたえる少女と、金を出せと迫る少年。三百六十度どこから見てもカツアゲにしか見えないその光景を 道行く人がチラチラと盗み見る。それに気付いた彼は舌打ちして万莉亜の腕を引っ張り、花壇の真後ろにあった小さなレストランへと彼女を引き摺っていく。
「いらっしゃいま」
「二名」
 店員の挨拶も遮って彼はそう言うと案内されるまでもなく店の奥まった席に腰をおろす。
「言っておくけど、あんたのおごりだからな。早く座れよ」
「……は、はい!」
 苛立ったように指示されて万莉亜は慌てて従う。
 何だか随分強引で横柄だけれど、あくまで危害を加えるつもりは無さそうだ。 それならば、借りがあるのは事実なのでなるべく恩を返したいところだが、やってきた店員に次々と注文をする彼を見てつい口を挟む。
「……あの、ほんとに三千円しかないですよ! 計算してくださいね!」
 こっそり注意したはずの言葉だったが、向かいの彼に聞こえるように少し強く言いすぎてしまい、二人の間に立つ店員が苦笑する。 彼はそれを見て本日二度目の舌打ちを鳴らした。

「恥ずかしいやつだな」
 店員が去った後、苦々しい口調で少年が呟くと、万莉亜は顔を赤くして肩を縮めた。
「お前、ほんとにマグナなのかよ」
「え……」
 驚いて顔を上げると、彼は責めるような目つきで万莉亜を見据える。
「もう嘘ついたって通用しねーからな。お前がマグナだってことは分かってるんだ。まんまと俺を騙しやがって」
「……ご、ごめんなさい……」
 あの時は助かりたくて必死だった。そして彼を利用しようとした。それはもう、どうにも取り繕いようの無い事実だ。
「別にいいさ。俺はもう誰も信用しないって決めたんだ。どうせあの夜の仲間も全滅したしな。こっからは俺一人で生き抜いていく」
「…………」
「そのためには、まとまった金が必要だ」
 十四、五歳、いや、十三歳にも見える少年の口から出たあまりにも風貌にそぐわない台詞に万莉亜はなんと言っていいのか分からないまま 頷く。
「クレアはいくらだって金を作れるだろ? 人間なんて自由自在なんだからよ」
「……ああ……なるほど」
 それは考えたこと無かったが、言われてみればあの人がお金で困ることは無いのかもしれない。もちろんそれは当たり前のように違法なわけだが、 それを気にするタイプでも無さそうだ。
「なるほど、じゃねーよ。お前馬鹿なんじゃねーの。マグナだったらあいつからいくらでも金引っ張れるだろーが」
「……ひっぱ、る?」
「そう。とりあえず二億でいーから」
「……に……おく?」
 さらりと言い放つ相手を、顎が外れそうなほどぽかんと大口開けて眺める。彼は、何を言っているのだろうか。
「あ、あなたね……お金を借りるって言うのは、すごーく大変なことだし、それに二億なんて」
「借りるんじゃねーよ。馬鹿か」
 軽い眩暈を堪えながら万莉亜はじわじわと腹の底から湧いてきた怒りに拳を握る。 しかし、そのまま怒りに任せて説教をしてやろうかというところで、ハンバーグステーキを運んできたウェイトレスに邪魔をされた。
「明後日辺りまでに用意できる?」
 豪快にそれを口に運びながら話を続ける彼に説教する気も失せて万莉亜は大きなため息をつく。
「……二億円欲しいなら、ちゃんと働いて自分で稼いだらどうでしょう。株とかでもいいと思いますよ。今から勉強して」
「バッカじゃねー。人間じゃあるまいし」
「…………」
「無理なら一億でもいーからさ。ていうか、お前って結構ぞんざいに扱われてるのな。マグナってもっと、 女王様みたいに扱われてるのかと思ってた」
「ぞんざいになんて……扱われてません」
「所持金三千円だろ? ヒューゴが聞いたら腹抱えて笑うぜ」
 その三千円でハンバーグを食べているのはどこの誰だと怒鳴りたくなる衝動をぐっと堪える。
「あ、それとさ、当面の寝床も用意してよ。やっぱ路上生活はきっついわ」
「……家無いの?」
「そんなもんあるかよ」
「どうして?」
 何気ない質問のつもりだったが、彼はそこでピタリと手を止めて、また万莉亜を睨みつける。 慌てた万莉亜が急いで視線を外すと、彼はまた手を動かし始めた。
「とにかく、金と、寝床だ。それと、俺からの要求だって事クレアにバラすなよ」
「…………」
「そん時はあんたの情報ここいらにまだ残ってる第四世代にばら撒いてやる」
 そう言って彼が薄汚れたジーパンのポケットから白い携帯電話を取り出して見せる。
「あ……!」
 思わず万莉亜が声を上げると、彼は満足そうに微笑んでそれを彼女の前でちらつかせた。
「これ、仲間に取り上げられたあんたの携帯だろ? 倉庫で見つけたんだ。大事な家族とか友達の名前とか たっぷり入ってんだろうなー」
「や、やめて……っ!」
 うろたえながらも、これでやっと合点がいった。彼はこの携帯から万莉亜のパソコンのアドレスを見つけ出したのだ。あのアドレスを外部に持ち出したのは、 彼の持つ前の携帯以外にはない。そしてやたらと丁寧な文章でメールを送りつけ、見事油断した彼女を釣り上げた。少ない情報だけで 人柄まで判断してしまいがちになメールが、自分を偽るのに最も適していると判断して。
「あと一日あんたの返事が遅かったら、俺餓死してたかも。この体って意外に腹減るのな」
 上機嫌に一人喋りながら、次々と運ばれてくるメニューを少年が平らげる。
「……二億なんて、無理」
 それを眺めながらがっくりとうな垂れて呟かれた万莉亜の言葉を、彼は鼻で笑った。
「本当に無理なの……! ねぇ、ちゃんと恩返しはするから携帯返して」
「どう恩を返すんだよ」
「私が高校を卒業して、ちゃんとした会社に就職したら、お金を借りる事が出来るでしょ? それで……一億は無理だけど、でも まとまったお金ならきっと借りられる……」
「あのなぁ、俺は今困ってるんだよ。ヒューゴが消えちまって、突然一文無しだぜ? やってられるかよ」
「そんな……」
「クレアを頼れば早いだろ。マンションが欲しいとか適当に言ってさ」
 そんなこと、出来るはずがない。そもそも自分はマグナと呼ばれているけれど、その役目を果たすつもりのない形だけのマグナだ。 梨佳のような覚悟もないし、覚悟を持つつもりもない。
「そんなの……無理だよ」
 自分の声がどんどんと弱弱しいものになっていく。
 あの携帯には、祖母の病院はもちろんの事、アルバイト先に友人達、蛍にいたってはその実家まで入っていたはずだ。 考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。
「……おい……大丈夫かよ」
 テーブルにおでこをくっつけそうなほどうな垂れた万莉亜を見て少年の声も覇気を無くす。
「そんなにクレアに言うのが難しいのか? よくわかんねぇなぁ、マグナってのは。まぁ、元気出せよ」
 茶色く染めた頭を掻き毟りながら彼女を気遣う諸悪の根源を、万莉亜は複雑な面持ちで見上げる。
「さっきも言ったけど、難しいなら一億でいいからさ」
「…………」
――……一億円
 がむしゃらに働けば、もしかすると返せない金額ではないのかもしれない。
 しかしローンを組んでもらった挙句、無利子無担保とどめの保証人無しで貸してもらえるだろうか。甘すぎるだろうか。 それにしても、たった一つの携帯のために何故こんなはめに。
「ま、とりあえずは寝床だな。部屋用意してくれる?」
 頭を抱える万莉亜の脇で、きっちり3千円分食い尽くした少年が言う。
「ああ……部屋……」
 そんなもの、一億円を聞いた後では取るに足らぬ問題に思えてくるから可笑しい。
「寮は……無理です。相部屋だし……」
「つーかそんなせまっ苦しい所に俺を放り込むつもりだったのかよ……」
「……はあ」
 お互いがお互いとも、呆れてものが言えない状態だ。
 けれど弱みを握られている分、万莉亜が先に折れる。
「ああ……そう言えば、部屋、ありました。私の私室にって用意してくれたんですけど、私寮生だし、全然使ってないから……」
「そーそー! そういうの待ってたんだよ。やっとマグナらしくなってきたな」
 そう言ってバシバシと万莉亜の肩を叩き、彼が立ち上がる。さっさと店を出て行く彼の後を追って急いで会計を済ませると、万莉亜もそのレストランを出る。 すると入り口で待っていた彼に手の平を突き出され、混乱しながら持っていたレシートを手渡してみると、本日三度目の舌打ちと共にそれが投げ捨てられた。
「馬鹿かお前は! バス代だよ!」
「……え?」
「歩かせんのか? 俺を」
「…………」
 まさかバス代までたかられるとは思っていなかったが、これから一億円をたかられるのだと思えば、何百円が惜しくなるはずもなく、 もはや諦めの境地で万莉亜は有り金全てを彼に渡す。
「サンキュー。で、部屋ってどこにあるの? マンション?」
「いえ、学園です」
「は?」
「七尾学園にあります」
 そう告げると少年は少し面食らったような表情で固まる。
「学園かよ……」
「……はい」
「あそこってクレアの監視きついって聞いたんだけど、まじ?」
「え……さあ? 私はよく分からないですけど、そう聞いたんならそうじゃないですかね?」
「あー、やっぱそっかぁ」
 髪の毛をクシャクシャにかき回しながら彼が苦悩している。
「でもなぁ……お前の部屋ってクレアのアジトとどれくらい距離あんの? あの梨佳ってマグナよりも離れてる?」
「え……」
 それは、わりと離れた場所にあるが、そもそも理事長室がたった一つ隔離されたようにしてフロアの最奥にあって、 その他の部屋同士はわりと近くに集結しているので、クレアの部屋を基準にしたらどの部屋も離れている事になってしまう。 梨佳と自分では梨佳の方が僅かに理事長室に近いかもしれないが、所詮はどんぐりの背比べだ。
「まぁ……結構離れていると思いますよ。先輩よりも……遠いですし」
「クレアってあんたの所寄ったりする?」
「まさか。ていうか、私自身あの部屋一度も使ってないですから」
 いらないと言ったのに、必要ですと押し切ったルイスが用意してくれた部屋だ。気持ちは嬉しいが、 寮生の万莉亜は持て余してしまうし、なんならさっきのさっきまで存在すら忘れていた。
「そっかー、なら、安全かな。灯台下暗しって言うしな」
「……はぁ、なるほど」
「じゃあ、俺はバスで七尾学園向かうからさ、お前は走って俺と同じくらいの時間に到着しろよ? 今からだと、一時間後かな」
「え!?」
「じゃあな。校門の外で待ち合わせな」
 爽やかな少年らしい笑顔で戸塚瑛士はさっさとバス停へ向かう。
「ちょっと! 無理ですって!! あのっ……!」
 聞こえているはずなのに、万莉亜の訴えなどには耳も貸す素振りすら見せずに彼の後姿が消えていく。
――そんな……
 しばらく呆然と立ち尽くしながら、ハッと我に返って走り出す。
 徒歩で学園から二の蔵間を行き来したことはないのだが、どんなに甘く見積もっても 一時間では足りないことは明白だ。走り出したその瞬間から痛み出した横っ腹をぎゅっと握り締め、 無我夢中で駆ける。
 まだ影も形も見えてこないどころか、どんなに走ってもそうそう見えないであろう学園に思いを馳せて、 何故こんなことにと自問自答しながら、早速悲鳴を上げ始めた体に鞭打ち、途中途中で一億円の件を思い出しては 打ちのめされ、それでも万莉亜はただひたすらに走り続ける。
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