ヴァイオレット奇譚「Chapter24・"ナルシス・クライシス[1]"」
「ここでいいの?」
七尾女子学園の数メートル手前で車を止めると、マスターは助手席の万莉亜にそう問いかけた。
「はい。本当に、ありがとうございました」
彼女が申し訳無さそうに頭を下げる。
今から三十分ほど前、真っ赤な顔に流れるほどの汗をかいた万莉亜がアルバイト先の喫茶店に現れ、
床に頭をこすり付けそうな勢いでマスターに車を出して欲しいと懇願してきた時には、一体何事なのかと随分驚いてしまったが、
何てことはない、目的地は彼女の寮がある学校だった。
「一時間……ちょっと過ぎちゃったかな?」
マスターが右腕にはめた腕時計に目を落とし時間を確認する。
何だかよく分からないが、どうしても一時間以内に学園に帰らなければならないと鬼気迫った口調で
説明され、その迫力に押されるようにして急いだつもりだったが、休日の昼下がり、思ったよりも交通量が多く
普段よりも時間がかかってしまった。
「いえ、十分です。ありがとうございますマスター。助かりました」
心底ほっとしたように万莉亜はお礼を述べ、それから昼の大事な時間に店を抜けさせてしまったことを詫びると、
そわそわとした手付きでシートベルトを外す。傍から見ていても、彼女が何かに急かされている事は一目瞭然だった。
「……何か、あるの?」
その好奇心と少しの不安を抑えきれずにマスターが聞けば、万莉亜は困ったように視線を泳がせた後、
「補習がある」ともっともらしいようでいて実はちんぷんかんぷんな理由を告げる。
そんなに大事な補習があるのなら、なぜ午前中、それも時間ギリギリまで二の蔵町でフラフラとしていたのか。
それも、一銭も持たずに。
「……そうか。頑張ってね」
けれど思いつめたような万莉亜の表情を見ていれば、とても問いただす気にはなれず、きっと何か事情があるのだろうと
自分に言い聞かせてマスターは微笑む。何にせよ、頼ってくれたのは嬉しいし、役に立てた事もそうだ。
自分の嘘に後ろめたさを感じて上手く笑えない万莉亜を急がせて、彼は学園を後にする。
それにしても。
――無茶な子だなぁ……
聞けばさっきのさっきまで走って学園に戻るつもりだったというから驚きだ。マラソン選手じゃあるまいし、よくも
そんな無茶な方法を取れたもんだと感服すら覚える。
それとも、冷静な判断が出来なくなるほどに慌てていたのだろうか。では一体何に?
何か、特別な事情でもあったのだろうか。
そこまで考えてマスターはある人物を思い浮かべる。
――そう言えば……
彼女のお抱え運転手であるあの若造は、一体こんな大事なときに何をしているのだろう。
客観的に考えて、真っ先に頼るなら自分よりもあの男ではないだろうか。
――ここぞってときに
フン、と鼻で笑い、ちょっとした優越感を味わう。
いらない時にはついてまわり、肝心なときには役に立たない。
今度あったら、今日のことを嫌味たっぷりに語ってやろう。あの完璧な笑顔がピクリと不快感に眉を動かす様子は、
見ていて実に痛快だ。そんな風にしてクレアを苛める材料を手に入れた彼は、
万莉亜の抱える事情を探求する気持ちも忘れ、鼻歌まじりにのんびりと二の蔵町へ戻って行った。
「車があるなら先に言えよ」
正門の前に座り込み彼女が到着するのを待っていた戸塚瑛士は、
万莉亜がマスターの車から降りてくるのを遠目で眺め、それからこちらへ駆け寄ってきた彼女に開口一番そう文句を告げる。
「人をバスに乗せておいてお前が車?」
「……すみません」
何となく想像はしていたが、実際そう因縁をつけられると思っていた以上にイライラとした気持ちが込み上げてきて、
万莉亜は拗ねた口調で返す。
「ま、いいけどよ。お前、香水持ってんだろ?」
「え……」
「あるだろ。マグナなんだし」
「あります……けど」
そう言った瞬間鞄をひったくられてその中から見つけ出した透明の小瓶を彼は取り出し、
止める間もなく全身に吹きかける。
「これでいいな」
自分の両腕を鼻に押し付けて匂いを確認すると、少年はニッと口の端を持ち上げてから
呆然としている万莉亜に鞄ごと乱暴に突っ返した。
「で、どこなんだよ」
「……は」
即座に対応できないでいる万莉亜を見て彼が盛大に舌を打つ。
「お前ほんっと、とろいのな。もっときびきび動けよ」
「…………」
「返事」
「……はい」
「部屋、どこだよ。案内しろ」
横柄な物言いに腸が煮えくり返りそうになりながらも言われたとおり万莉亜は歩き出す。
多分、これで相手が屈強な大男ならば話も違ってくるのだろうが、どうにも自分より小さな少年に理不尽な態度を取られているせいか、
相手が異端だということも忘れて憤慨できるほどの余裕が生まれてしまう。その分、恐怖心も薄れているのだからこれは喜ばしいことなのだろうか。
あんまり素直に喜べない。
「馬鹿っ、真ん中歩くんじゃねーよ」
後ろからケチをつける彼の文句を聞いて万莉亜はこそこそと敷地の端を歩いて新校舎へ向かう。
日曜日ということもあって生徒達の姿は一切見当たらず、誰にも見られずに彼を連れ込めたのはいいが、
校舎についた途端、少年はあんぐりと口を開けてそれを見上げ、それからキッと万莉亜を睨む。
「……俺を、馬鹿にしてるのか?」
「してませんよ」
「てことは何か? 理科室にでも住んでるのか、お前は」
当たらずとも遠からずな問いかけに万莉亜は「うーん」と唸りながら顎に手を添えた。
「理科室ではないですけど、でもこの中です」
「……まじかよ」
「でも、問題があるんですよね」
そう呟けば彼は呆れながら横目で万莉亜に視線を移す。
問題は、彼が五階に上がれるかどうかだ。あそこへたどり着くには、クレアの惑わしに打ち勝つ必要がある。
でもそれは、そんなに簡単な事ではなく、また努力でどうなるわけでもなく、相性の問題なのだ。
しかし、考えていても始まらない。まずは四階に彼を連れて行き、あの螺旋階段が見えるのか見えないのかを
確かめなくては。
「とりあえず、上りましょう」
そう言って万莉亜は誰もいない休日の新館へと入る。
その後を、居心地が悪そうにきょろきょろと辺りを見回しながら戸塚瑛士が続く。
それから四階に到着し、真っ直ぐに廊下を突っ切って、後一歩で壁にぶつかりそうだという所で足を止める。
「……見えます?」
その場所で振り返った万莉亜が不安そうに背後の少年に話しかける。
「は?」
「私の……左、見えますか?」
すぐ隣にある黒いステンレスの螺旋階段を万莉亜が指さす。それでも、やはり相手はぽかんとしたまま
首をひねるだけだ。
「ここに階段があるんです。でも、クレアさんが見えなくしちゃったんです。普通の生徒が入って来れないように」
「……ここって、壁だろ」
疑わしそうに呟いて彼が壁に手をつける。確かに壁の感触が伝わるし、第一螺旋階段を隠すほどの
スペースなんて無いではないか。
「あるんですよ。私には……あ、あの、あなたの事どう呼んだらいいですか?」
「んなこといーから話を進めろよ」
「……はい。えっと、え、瑛士くんが空中に手を立てているだけに見えます」
「…………」
「あるんですよ、階段」
「……見えねぇよ」
「ですよね……」
どうしたものかと頭を抱える。
「見えないと使えないのか?」
「え?」
「見えなくたって、あるんだろ? だったら、使えない事ないんじゃねーの?」
「……でも、どうやって」
「しゃがめよ」
そう言って彼は言われたとおりしゃがんだ万莉亜の後ろに回り、その背中に体を預ける。
「え!」
「お前は見えてんだろ? だったら、お前が俺を背負って上ったらいい」
「……そ、そんなぁ」
「何だよ。多分俺、お前より軽いぞ」
彼の何気ない一言にほんの少し傷つきながら、それでも実際立ち上がってみると意外にも楽々背負えてしまったことに
何とも言えない苦笑いを零し、万莉亜はそのまま螺旋階段へと向かう。しかし踏み出したその瞬間、背中の彼が奇妙な声を上げて足を止めた。
「ど、どうしたんですか」
「何だコレ……気持ち悪い……」
万莉亜が立っている場所は、本来なら壁がある位置だった。
実際壁が見えていた彼には、今どんな景色が映っているのだろう。
「何も見えねぇ……ていうか、なんかグルグルまわってる。気持ち悪い……」
「だ、大丈夫ですか? 戻りますか?」
「い、いい。早く、早く上がれ!」
「わっ、分かりましたっ」
切羽詰った彼の声に慌てて万莉亜は少年を背負ったままフラフラと
螺旋階段を上がる。それから、上りきる前に聞き耳を立ててフロアに誰もいないことを確認すると、そっとフロアに上がり、
そのままルイスが用意してくれた自分の部屋まで一目散に進む。
「大丈夫ですか?」
部屋の中央にある大袈裟な天蓋ベッドに彼を仰向きにして横たわせる。
蒼白になった彼の顔にはうっすらと汗が滲み、Tシャツから覗く腕には鳥肌まで見えた。
「……気持ち悪い。ぐらぐら、頭、振られてるみたいだ……」
「あの、な、何か飲みます? それとも薬をっ……」
ベッドの脇でおろおろするばかりの万莉亜を無視して彼は無理やりまぶたを持ち上げる。
――どうなってんだよ……これ
目の前の視界はぐにゃぐにゃと歪み、正視しようとすればするほど強烈な酔いに襲われた。
何かふわふわとしたものの上に寝ている気がするけれど、それが何なのかもよく分からない。
――これが……第三世代の力なのか……?
目を盗まれている。
信じがたいが、それが一番しっくり来る表現だった。
――こんなこと、出来るのかよ……何でもありじゃないか……
ふざけるなよと心の中で呟く。
寿命が長いだけでは、自然治癒能力が長けているだけでは、この世はただただ生き辛いだけの地獄巡り。
超自然的な、そして圧倒的な力は、不死に近づけば近づくほどに必要なのだ。
それなのに、それを受け継いだのは第三世代まで。
第四世代からは、ただの凡人に成り下がる。
この力があったらどんなにいいか。そう思えば思うほど、彼ら第三世代が憎らしくてたまらない。
「瑛士くん? ……大丈夫?」
脇から覗き込むぐにゃりとした女の輪郭。マグナだ。それを薄目で確認すると、余計にむしゃくしゃした気持ちがこみ上げて
来て、彼は思いっきり目つぶり寝返りを打って万莉亜に背を向けた。
「寝る。お前は適当に見張ってろ」
「……あの」
「何だよ」
「大丈夫……?」
「大丈夫だっつってんだろ」
「…………」
――顔が、真っ青なのに……
一体彼の体に何が起こったというのだろうか。
――無理やり連れて来たら、ダメだったのかな
例えば、この症状が「相性のいい人物」を無理やり引き込んだ副作用だったとしたら。
そう考え出すとどんどん恐ろしくなり、万莉亜は大きな不安を抱えたままやがて寝息を立て始めた戸塚瑛士の背中を眺める。
細くて頼りない、まだまだ少年の背中だ。
薄汚れた衣服と、ボサボサになった茶色い髪は、路上生活を続けていた痕跡だろうか。
それを長いことじっと見つめていると、彼の傲慢な態度に感じていたストレスも少しずつ和らぎ、いくらかましな気持ちになっていく。
だがもちろん、問題は山積みだ。
――……一億円なんて……
たったひとつの携帯のために。
だけどあれは、大切な人たちの個人情報だ。よりにもよってクレアのマグナである自分を目の敵にしている
第四世代にばら撒かれるわけにはいかない。
瑛士の背中を見つめながら、ごくりと唾を飲む。
――今しか、無い……
彼が、ジーパンのポケットにしまう所を見た。
ほんの少し手を伸ばしてみればいい。それで一億円からは解放される。恩返しなら、別の形ですればいい。
そもそも、最初に自分を拉致したのはそちらではないか。助けてくれたからといって、その罪が帳消しになるわけでもないだろう。
「……っ」
息を殺して、手を伸ばす。
――でも……
あの時彼は、自分の腿を刺してまで万莉亜を助けてくれた。
万莉亜の言い分を信じたからだ。だから仲間を欺いてまで助けてくれた。
勇気がいったはずだ。それを、また裏切る……?
――だけど、一億円なんて……無理だよっ
あんまりだ。
だけど。
「……だめ」
音にならないほど小さな声で呟く。
それから彼の腰に伸ばした手を引っ込めて大きなため息をついた。
拉致をしたとか罪が帳消しだとか、そんな事ではない。彼は怒っているのだ。嘘をついた万莉亜を。
不誠実な彼女を憎んでいる。だから馬鹿な感傷だと知ってもなお、これ以上彼を裏切るような真似は出来なかった。
がくん、と床に崩れ落ちてうな垂れる。
――何やってるんだろう……私……
こうやって一時の感情に流されて、間違っていると分かっている選択をしてしまう。一億円など用意できるはずも無いのに、
恨まれたくない一心で、ただそれだけの感情で間抜けな選択をしてしまう。
「……瑛士くん」
床に座ったまま、こちらに背を向けて寝入っている彼に声をかける。もちろん、返事は無い。
「私、一旦寮に戻ります。……この部屋は、どうせ誰も来ないから、ゆっくり休んでください」
それでもとりあえずそう断って万莉亜は静かに私室を後にした。
******
午後十時半。
全ての寮生の部屋を回り一通り就寝前の点呼を終わらせた万莉亜が寮の自室へと戻る。
「おかえり」
テレビから視線を外さずに彼女を迎えた蛍にため息で返事を返すと、彼女は振り返って
万莉亜を見上げた。
「どうしたの?」
「……ううん。疲れただけ」
そう言って蛍の真向かいに腰を降ろす。それからテーブルに頬杖を付いて、楽しそうな笑い声が溢れる
バラエティ番組をぼーっと眺めた。
「そんなに嫌なら、寮長辞めさせてもらえば?」
「……え」
「違うの?」
てっきり突然押し付けられた寮長の役割を重く感じてのため息だと思っていた蛍が首を傾げる。
あの嵐の夜以降、知らない間に寮長になっていた万莉亜は、毎回戸惑いながら点呼に向かう。二年生で、おまけに
人当たりもよく温厚な性格をした彼女が寮長になった途端、皆好き勝手に門限を破り始め挙句の果てには無断外泊も増え出した。
確かにその事は万莉亜自身気にしていたし、同時に梨佳の偉大さを痛感させられて落ち込んでしまう。
蛍はそんな彼女の心境を知っていたし、荷が重いのだろうなとも傍目に感じ取っていた。
「ううん。まぁ、それもそうなんだけど、ちょっと……問題があって」
歯切れの悪い万莉亜の台詞に蛍が目を伏せる。
おそらく、またあの男がらみの問題なのだろう。だから万莉亜は言いよどんでいる。
聞きたくないという態度を全面的に押し出してしまった蛍に遠慮しているのだ。
「いいよ。言って」
テレビに視線を向けてからそう告げる。
本当は聞きたくないけれど、万莉亜が心の底ではずっと蛍に話したがっているのは知っていた。
たまには、そんな彼女の気持ちを汲んであげたい。
「……一億円稼ぐのってどうすればいいのかな」
「はぁっ?」
予想の斜め上を行った万莉亜の質問に思いっきり顔をゆがめながら振り返る。
しかし、おかしな顔をした蛍とは対照的に、万莉亜の表情は真剣そのものだった。
「……一億って、何よそれ」
「うん。ちょっと、……お金欲しくて」
「…………」
「やっぱ、そんなの無いよね」
自嘲気味な万莉亜の微笑みに笑い話ではないのかなと不安になってしまう。
それでも、一億円なんて突飛過ぎる。一体、何がどうなってそうなるのか、見当もつかないではないか。
「……ごめん、忘れて」
「それ、おばあちゃんに関係ある?」
じっと相手の顔を覗きこんで聞いてみる。万莉亜はきょとんとした表情で、それから力なく微笑んで見せた。
「違う違う。おばあちゃんじゃ、無いけど」
確かに祖母の入院費で借金はかさむ一方だが、それでも一億円には遠く及ばない。
「……なら、いいけど。でも、どうして?」
ほっと胸を撫で下ろしながらそう聞くと、万莉亜はテーブルに置いた自分の両手に視線を落としながら
「恩返し」と答えた。
その簡素な説明はもちろん蛍を納得させるには不十分すぎたが、悲壮感漂う万莉亜の様子にこれ以上強く
出るわけにもいかず、うーんと唸ってポニーテールの毛先を弄ぶ。
一万、二万ならいざ知らず、一億円となると自分にしてやれることは何も無い。
万莉亜だってそんなつもりは端から無いだろうし、彼女はただ純粋に「一億円を手に入れる方法」を欲しているのだ。
「……株」
とりあえず思いついたものから上げてみる。
「株って、素人が今から勉強して一億円も儲かるものなの?」
パッと顔を上げて期待を含ませた視線をぶつけてくるルームメイトに蛍は苦い顔をしてみせる。
「まぁ、無理だよね」
「……だよね」
「た、宝くじ!」
「…………」
「……銀行、強盗」
「そんなぁ……」
「芸能界に入ってCDデビュー! 大ヒット!」
「……蛍」
呆れ顔の万莉亜に蛍は勢いよくブラウン管を指した人差し指をおずおずと引っ込める。
どう考えたって、一介の女子高生に稼ぎ出せる金額ではないのだ。
「……相談してみたの?」
一瞬静まった空気の中、ぽつりと蛍が零す。それに眉をひそめる万莉亜の鈍さに
苛立って、言いたくもない名前を告げる。
「クレアさん。理事長なんでしょ? お金、持ってるんじゃない? 一億円かどうかは知らないけど」
「……聞いてない」
「貸してもらえないの?」
常識的に考えればありえない話だが、芸能界で大ヒットに比べたら、可能性としてはいくらかマシではないだろうか。
二人の関係は、少なくとも、他人ではないのだから。
「……言えないよ。それに、返す自信もないし」
消え入りそうな声で万莉亜が答える。
確かに、あのレストランで一瞬、彼に借りることは出来ないだろうかと考えた。
返済も、どうにかなるのではないかと思った。
だけど今こうやって寮に戻り、冷静になってみると、なんて馬鹿げた発想だと打ちのめされる。
返す自信もないのに、一億もの大金を借りたりは出来ない。そんな事は……。
――……返す……?
その時、何かが頭に引っかかり万莉亜はじっと指先を見つめる。
――やだ……私、何考えてるんだろう……
一度考え出すと、それはむくむくと頭の中で大きくなっていく。
彼が欲しているものを、思い出してしまった。
――……子供……
「万莉亜?」
黙りこくってしまった彼女に蛍が声をかける。それを合図にハッと我に返り、慌てて
頭を振った。
何を考えているのだろう。一億円欲しさに、命を差し出すなんて。そんな事は馬鹿げてる。
絶対にやっちゃいけない。絶対に、許されない。
「万莉亜……大丈夫?」
心配顔の蛍が万莉亜の顔を覗きこむ。
――だけど……
自分の都合で周りの人を危険に晒すわけにもいかない。
蛍の安全も、みんなの安全も、それを脅かす権利なんて万莉亜には無い。
「……相談してみなよ。言ってみなきゃ、分からないじゃん」
さすがに様子のおかしい親友に気付いた蛍がそう諭すと、万莉亜はぼんやりとしたままそれに頷いた。
「……そう、だね。そうしてみる」
どこか焦点の定まらない瞳でそう答えると、彼女はすくっと立ち上がり、固く結んだ唇のままもう一度頷く。
「相談してくる」
「……今から?」
「うん」
「……後でちゃんと電話してね」
そう言ってテーブルに置きっぱなしだった万莉亜の携帯を取って渡す。
受け取った万莉亜は、不安そうな蛍にもう一度頷いて見せてから玄関に向かい、そのまま自室を後にした。
「ああ、万莉亜さん、いらっしゃい」
再び新校舎五階のフロアに戻ると、着いた途端に通りがかったルイスと鉢合わせて
万莉亜はつい大袈裟に驚いてしまう。
「あ、すみません」
奇声を上げられたルイスはほんの少し目を見開いた後、驚かせたことを詫びた。
「いえ、ごめんなさい。私こそ、考え事してて」
慌てて笑顔を取り繕い、それから彼が運んでいる料理を乗せたワゴンに視線を移す。
「ああ、これですか? クレアの夕食ですよ。万莉亜さんも召し上がるようでしたら用意しますよ。遠慮なく言って下さい」
万莉亜の視線に気付いたルイスが先回りで答えると、彼女は小さく首を横に振った後、思い切ってワゴンごとルイスから奪う。
「……私が、運びます」
「え」
「私が」
思いつめたような表情でそう自分に訴える彼女の様子がおかしいのは一目瞭然だったが、あえて言及せずにルイスは頷く。
「では、よろしくお願いしますね。あ、クレアは休んでいますから、声をかけて起こしてあげてください」
「……寝て? クレアさん、疲れてるんですか?」
「ええ。今日はシリルが、……っ」
そこまで言いかけてから彼は慌てて口元を手で覆う。
しかしその不可解な動作に万莉亜が気付いた様子もなく、むしろ彼女は突然何かを思い出したようにして
口をあんぐりと開けたまま固まっている。
「そ、そうだ! シリル、シリル帰ってますか?」
すっかり忘れていたが、彼女とは二の蔵町ではぐれてしまってからそれっきりだ。
「ええ、夕方に帰ってきましたよ。全く、どこで遊びほうけていたんだか」
そう苦笑しながらルイスが理事長室とは逆の方向へ消えていく。
――良かった。シリルは帰ってきたんだ
彼女に一応の土地勘と帰巣本能があったことに感謝して、万莉亜は長いため息を零す。
自分のことで精一杯で彼女のことを丸々失念するなんて。
――もっと……しっかりしないと
自分を叱咤して、ワゴンを押しながら理事長室へと向かう。
何をしようとしているのか、自分でもよく分からない。いや、分かってはいるが、
覚悟が伴っていない。それでも踏み出す。追い詰められている心のままに。
「……クレアさん」
理事長室の扉の前に辿りつくと、小さくそう声をかける。
返事が無いので、何度かノックをしてみる。それでも返事が無いと知ると、
万莉亜は冷たい銀のドアノブに手をかけた。
ひんやりとした感触が全身を冷やしていくのが分かる。指先から、じわじわと。
――鍵が……かかってますように……
強く願って握った手に力を込めた。
もちろん、そうではないことを知りながら。
Copyright (c) 2007 kazumi All rights reserved.