ヴァイオレット奇譚「Chapter28・"ナルシス・クライシス[5]"」
小さな公団住宅。
そこが、世界の全てだった。
狭い部屋に、アルコール中毒の母。不在の父。
貧困とは常に隣り合わせ。
絵に描いたような生い立ちだ。
でもそれが、俺の現実だった。
嫌だったのか、悲しかったのかはよく分からない。
ただ、ぼんやりとしたコンプレックスを抱えていたことは確かだ。
やがてヒューゴに出会った。誰も得ることの無い奇跡が、すぐそこにあったんだ。自分でさえ気付かなかった野心に、
ヒューゴが火をつけた。今度は俺が、俺を見下していた奴ら全部を、見下す番なんだって。ヒューゴはそう言った。
確かにそう言ったんだ。
薄暗い地下。
ここが私立高校の校舎の下で、この上では、何にも知らない女子高生達がいつものように安穏とした日々を送っている。
それが信じられないほどに、冷え切った寒々しい空間。おそらく人体を解体するためであろう道具がいくつかと、黒い金庫が数十個。
目に付くのはそのくらいだ。広い空間にはただそれだけ。考えなくとも分かる。ここで、何百もの仲間がばらされ、あの黒い箱に詰められた。
そしてもうすぐ、自分もその道を辿る。気の遠くなるような時間を、暗い海の底で過ごす。見つけてもらえる保証も無いまま。
地面から何本も突き出たコンクリの柱、そのうちの一つに鎖で全身をしっかりと固定されながら、瑛士は成す術も無く自分の足元に
視線を落とした。
恐ろしい気持ちはもちろんあった。これから体感するであろう痛み。それから、気の遠くなるような年月への恐怖。
ただそれ以上に、どうしようもない劣等感がこみ上げる。
「君みたいな馬鹿が絶えないから、僕は本当にうんざりしてるんだ」
目の前に立つ金髪の青年がため息混じりに呟く。
第三世代のクレア・ランスキー。その噂に違わぬ美しさに気を取られぬよう、瑛士はあえて彼から視線を逸らす。
この男がどれほど美しかろうと、その過去をどんなに美化しようと、反逆者である事に変わりはないのに、
その暴挙に次ぐ暴挙はいつしか英雄伝めいたものに姿を変え、あげく第三世代の象徴のように扱われ続けている。
ふざけた話だと思っていた。怒りもあった。
だから噂に次ぐ噂が作り上げた偶像、それに向けていた強い感情を、今目の前で憂鬱そうな表情をしている男に向ける。
「……お前が……俺たちにきちんと力を」
「そんな台詞は聞き飽きたよ」
恨みの言葉をびしっと遮られて瑛士が唇を噛む。
何様のつもりだ。
腹の中でそう繰り返した。彼には聞く義務がある。責任があるだろう。
本来ならば、不死だけでなく、第三世代の持つような超自然的な能力を授かるはずだった。
「……本当に、もう聞き飽きたよ」
言いながら、刃渡りの長いナイフを瑛士の頬に押し当てる。一筋の血が流れ、瑛士が痛みに眉をひそめたところで
クレアはそれを離した。それから憎々しげに睨みつけて来る相手に薄く微笑む。
「痛いだろ?」
「……やるなら、さっさとやれよっ……裏切り者」
「強がるなよ。切られたら痛いんだ。覚えておいた方がいい」
ナイフの先に付いた赤いものを布で拭いながら、それを懐に戻して簡易なイスに腰掛ける。足を組んで、見上げるように視線を合わせれば
不可解そうな表情をしている釣り目がちな瞳と視線が絡む。
クレアはしばらく黙り込んだ後、やがて諦めたようにため息をつき、少年にそっぽを向いて口を開いた。
「万莉亜と約束したんだ。嫌われたくないからね」
「…………」
「本当なら切り刻んでやりたいよ」
「……俺を……殺さないのか」
「あの子がそれを望んでる限りはね。例えば君が本当は純朴な少年だとか、善人だとか。どうかしてるけど、
たまにはそれが真実になったっていいだろ? 現実を突きつけられてばっかりじゃ可哀相だ」
「…………」
「言ってる意味が分かるかな」
「……わからねぇな」
「分かるだろ? 君は、万莉亜が望んだとおりの少年であればいい。でなければ、この場でばらすだけだ」
「…………」
つまるところ、改心して、真っ当に生きろということだろうか。あの女の理想のために、人間に成り下がれと?
自分達は、人間を超越する能力を頂いておいて?
のうのうと、うつしよを楽しんでおいて?
「……っ……ふざけるなよ……」
怒りで語尾が震える。それとも恐怖だろうか。
そんな少年の言葉に耳を傾けながら、クレアはその頬に流れる一筋の赤い血を見つめていた。
「君たち世代が力を得られなかったのは、僕のせいじゃない。
僕たちは退化していく生き物だから、例え君が第三世代を丸ごと食ったところで、せいぜい治癒能力が高まるとか、そのくらいだよ」
「う、嘘を言うな……っ!」
「嘘だよ」
「なっ……」
思わず閉口して相手の顔を見つめる。そんな相手の様子を見てクレアは可笑しそうに笑った。
「ふ、ふざけるなよっ……てめぇ……」
「いいじゃない、真実なんてどうだって。大切なのは、生まれてしまった君がとても無能な生き物だって事だ」
「…………」
「逃げ込んだ先もまた格差社会で、愕然としているんだろう?」
全てを見透かしているようなバイオレットの瞳を細め、同時に放たれたクレアの言葉が瑛士の心を抉る。それが悔しくて
頭に血が上り、声を荒げた。
「……っ黙れ!!」
「どこまで逃げても、コンプレックスは君について回る」
「黙れっ! 黙れよっ……!!」
全てが上手くいくと思ってた。全てを手に入れられると思っていた。
それなのに、まだ見下せない奴がゴマンといる。そいつらが、俺を見下す。それが我慢ならない。
いつだって別の奴が、欲しいものを全部持っている。それが、我慢ならない。
******
昨日の時点で、クレアは全部知っていた。
戸塚瑛士の後をこっそりと追い、あのレストランでのやり取りの一部始終を聞いたシリルから報告を受けて、
彼は全てを知っていた。ではなぜ、それを黙っていたのか。
――……試されて、た……
一体何を?
分からない。だけど彼は知っていて知らないふりをした。
そしておそらく、万莉亜が取った行動は彼の望むものではなかったはずだ。きっと、そうに違いない。
「……で、これがインド産の薬味入れでしょ、それでこっちが、アフリカで取れた恐竜の骨笛だって!」
何であんな事を言ってしまったのだろう。
もしそれを、彼が了承したら、どうするつもりだったのだろう。
「こっちの薬味入れは、薬を入れるのにいいよね。模様も可愛いし退院した後使えそうかなって」
――「何回……」
朝方彼がそう言いかけて飲み込んだ言葉。何を言うつもりだったのだろう。
「万莉亜」
そんな風に考えを巡らせていると、すっと耳に通る優しい祖母の呼びかけで我に返る。
奇抜な色がおかしな模様を描いている小さな缶ケースと、真偽の怪しい薄汚れた笛を掲げながらほとんど無意識に喋りとおしていた万莉亜が、
ここへ来てやっと口をつぐむ。
心ここにあらずな孫娘の頬に触れようと、祖母は横たわったまま腕を伸ばし、万莉亜もまた
彼女に無理をさせないようにと自ら首を伸ばす。
「どこでそんな素敵なものを見つけてくるの?」
カサついた皺々の指で頬を撫でながら優しく問えば、万莉亜は「内緒」と言って微笑み、二人は静かに笑いあった。
先日の日曜に見舞いに来れなかった万莉亜は、授業が終わるやいなや学園を飛び出し祖母の病院へと駆けつけた。
それからの記憶は無い。
多分、口だけが機械的に言葉を紡いでいたのだろう。折角お見舞いに来たのに、これでは意味が無いと自分を叱咤し、
余計な雑念を振り払おうともう一度笑顔を作る。祖母はそんな彼女を見透かして、悪戯に目を細めた。
「何か、心配なことがあるのね」
ずっと前から気付いていたような口ぶりだ。
ほんの一瞬だけ迷った末に、万莉亜は観念して素直に頷いた。多分、こんな風にして見透かして欲しかったのかも知れない。
だからその言葉をきっかけに万莉亜は脱力して、ゆっくりと目を伏せた。
「おばあちゃんに言ってみて」
「……よくわかんないよ」
どうしてこんなにも打ちのめされているのか。
彼に失礼な申し出をしてしまった自覚があるのなら、謝れば済む話だ。それで万事解決。そのはずなのに、
情けなくて、恥ずかしくて、落ち込んだ心はちょっとやそっとじゃ立ち直れない。
「私……」
何をしているのだろう。
考えるべきことは、もっと他にある。例えば、一億円。クレアにはもう頼めないから自力でどうにかするしかない。
それなのに、そんなことは頭からスコンと抜け落ちて、もっともっと重たい憂鬱が万莉亜を襲う。もっともっと重たくて、
棘棘した痛みが襲う。
「私……もう、消えちゃいたい……」
本音を零せば、その言葉を待っていたかのように祖母が頷く。
「……会わせる顔がないわ。もう……どうしたらいいのか」
クレアはきっと、何にもなかったようにまた微笑んでくれる。それが分かっているのに、それじゃあ納得が出来ない。
「きっと、嫌われた……気がするの。よく分からないけど、がっかりさせちゃった気がするの……」
変わらない笑顔。変わらない声色。だけどその裏にある失望。それを、確かに感じてしまった。
「昔ね」
背中を丸めて俯く万莉亜に、祖母が語りかける。視線を窓の外に向けて、見えもしないはずの景色を楽しむかのように穏やかに微笑んで。
「昔、近所に柿の木があってね」
「……え?」
「まだおばあちゃんがうんと若い頃。万莉亜と同じくらいにね」
「……」
「いつかあの柿の木によじ登って、柿をとってやろうって、いつも考えてたんだよ」
そう言って、祖母が小さく笑を零す。彼女の心は、かつてのあの情景に旅立ち、ここにはない。
そう感じた万莉亜は、黙って頷いた。
「おてんばだったからね。男勝りで、近所のおばさんたちはいつも呆れてたけど、私はあの柿が欲しくて欲しくて、
それである日、とうとう決意をしてその木によじ登った。それでまんまと柿を手に入れたはいいけど、そこからまっさかさまに
地面に落ちちゃったんだよ。幸い下は土だったから、怪我はしなかったけど、でもその姿をおじいさんに見られて……」
「……おじいちゃんが?」
「幼馴染で、おじいさんも近所に住んでいたからね。今でも思い出すよ。学生鞄を肩にかけて、ぽかんとしている
おじいさんの顔。今思えば可笑しいけど、あの時はそれどころじゃなかった」
「…………」
「恥ずかしくて恥ずかしくて、穴を掘って入りたい気分だった。誰におてんばだと笑われても気にした事はなかったけど、
おじいさんにだけ違った。あの人の前では、いい格好をしていたかったんだよ」
何となく彼女の言わんとしている事を察した万莉亜が、ほんの少し顔を赤らめて自分の足元を見つめる。
「それから丸一週間、おばあちゃんはおじいさんを避けて暮らした。恥ずかしくて、会わせる顔がなかったからね」
「……それで、どうなったの?」
「どうにもならないよ。ただ時間が過ぎて、自然にまた会話するようになって」
「…………」
「おじいさんはもう、そんなことはすっかり忘れていたからおばあちゃんも忘れたフリをして。でも、
結婚してから何十年も経った後に、庭の柿の木を眺めながらふと思い出したようにおじいさんがその話をしたときは、やっぱり顔から火が出ると思ったよ」
ただぼーっとその木を眺めて、それから骨ばった皺皺の指で柿を指し、「欲しかったら言いなさい」そう彼は言った。
それが、かつての日の彼女の所業を皮肉ったものだとは中々気付けず、その言葉のあとにフフと笑った彼の表情で悟ったとき、年甲斐もなく恥ずかしく
なってしまったと、祖母は穏やかに語る。
「いい格好をしていたかったんだよ。おばあちゃんは、おじいさんが好きだったからね」
「…………」
「十倍も二十倍もいい格好がしたかった。だけどそんなのは続かないって、気付いたのは今の万莉亜よりももっと大人になってからだったけど」
「……私……」
後悔している。無意識のうちに、正しい自分であろうとしていたから、お金の代わりに命を差し出そうなんて間違った選択をした自分を、
他の誰でもないクレアに見られたことを、後悔している。情けないと、浅ましいと思われたのかもしれないと、怯えている。
「……私……あの人が好きなんだわ……」
「そうだね」
分かっている。だから、こんなに消えてしまいたい。
自分の価値が、彼の中にある自分で決まってしまうような錯覚。
「でももう、会わせる顔がないっ……」
「……そうだね」
強く握られた二つの拳に祖母がそっと手を重ねる。
「……それでいいんだよ。人生は、年寄りから始められるわけじゃ無いんだからね」
「え……」
「だからそれでいいんだよ」
満足そうに微笑んで告げられた言葉の真意はよく分からなかったけど、万莉亜は小さく頷いた。
祖母の優しい言葉が、頭の天辺からつま先へと染み渡れば、心をちくちくと刺激していた棘は消えて、いくらか穏やかな気持ちが
戻ってくる。自分の心を半分だけ取り戻せたような、不思議な感覚。
――好きなんだ……
目を逸らそうとするから、混乱する。
答えは見えていたくせに、見えないフリをしていたから、路頭に迷う。
「私……あの人が好きだわ。だから……すごく怖い……」
もう一度、見えた答えを復唱する。
苦手な数学の公式と一緒で、解けてしまえば、あんなに混乱していたのが嘘みたいに、すとん、と納得してしまう。
怖くて怖くてしょうがないけれど、これはきっと、とても理にかなった感情なんだ。そう思えば、
パニックに陥っていた自分を、もう少し広い心で受け止められそうで、万莉亜は力なく微笑んだ。
「馬鹿みたいなことを言っちゃったわ……だからもう、会わせる顔がないの」
「そうだね。でも、万莉亜が思うほど大したことはないって、おばあちゃんは思うけどね」
「……そうかな」
「大抵は、そんなものだよ」
「うん……」
慰められて気分がいくらか落ち着けば、馬鹿正直に胸のうちを吐露してしまった自分が妙に恥ずかしくなってきて、
「へへ」と顔を崩して笑う。考えてみれば、明言もしていないのに対象の人物が誰であるのか祖母にはすっかりお見通しの様子だ。
それがまた、どうしようもなく気恥ずかしい。
「……いーや。しばらく会わないで、ほとぼりが冷めるのを待ってみる」
気まぐれなクレアのことだ。一週間も会わないでいれば、忘れてくれるかもしれない。気楽に考えよう。
思いつめたって、きっと良い事はない。そう決めて顔を上げると、どこか楽しげに
顔をほころばせている祖母が病室の入り口へと視線を投げながら呟いた。
「それは、無理かもねぇ」
「え?」
その視線につられるようにして入り口へと目をやれば、金髪の青年がいつものように微笑みながら佇んでいた。
「……クッ……」
「やあ」
驚きのあまり口をぱくぱくさせて固まる万莉亜にとりあえずそう声をかけると彼はつかつかとベッドへ歩み寄り、まずは横たわる祖母に色とりどりにアレンジされた
大きな花束を渡す。
「こんにちは。お久しぶりです」
「まぁまぁ……クレアさん、ありがとうございます」
嬉しそうに花を胸に抱えて微笑む祖母の手をとって、クレアがそこにキスを落とせば、万莉亜はますます硬直し、
周りのベッドの患者からはクスクスと笑いが零れる。それでも、肝心の祖母は幸せそうに目を細めた。
「ちょ、ちょっと! クレアさん!」
「ああ、万莉亜。お見舞いに行くなら誘ってくれれば良かったのに。いきなりいなくなるから心配したよ」
そう言って今度は万莉亜の手を取る。
彼女はすかさずそこから手を引っこ抜いて、恨めしそうにクレアを睨んだ。
「おばあちゃんに変なことするの、止めて下さいっ!」
「……挨拶なのに」
「だめっ!」
顔を真っ赤にして抗議する彼女にクレアは肩をすくめて、そんな二人の様子に祖母がくすくすと声を零して笑う。
「ほら万莉亜、花瓶にお花を生けてきて頂戴」
「……わ、私がっ?」
「他に誰がいるの?」
「…………っ」
正直なところ、祖母とクレアを二人っきりにするのは気が進まない。
でも、折角の綺麗なお花を水にも挿さず枯らしてしまうわけにはいかないから、万莉亜は花瓶を抱えて
祖母に耳打ちをした。
「……へ、変なこと言わないでよ」
「はいはい」
ニコニコと笑いながらその忠告をやり過ごす祖母をハラハラと見つめながら部屋を出ると、万莉亜は一目散に病室とは少し離れた給湯室へと向かう。
――……びっくりした……
それから水道の蛇口をひねり、脱力したまま正面にある鏡を覗けば、思っていたよりもずっと顔を赤くした自分と目が合ってしまい、
冷たい水で冷やした両手をそっと頬に当てる。
誰かを好きだと認めて、それを誰かに打ち明けることが、こんなにも恥ずかしいだなんて知らなかった。
それなのに、待ったなしで本人まで登場する始末。早く病室に戻りたくて急いだのに、少し落ち着いて考えてしまうと、途端に臆病風が吹く。
平気な顔をして、病室に戻れる気がしない。
――……どうしよう
ゆっくりと花瓶を洗って、水切りした花を挿して、やることが無くなってしまうとしばらく花瓶を持ったまま
給湯室をウロウロし、やがて覚悟を決めて病室へと戻る。
「あ、あれ……」
意気込んで戻ってきたというのに、そこにクレアの姿はなく、思いっきり拍子抜けしている万莉亜に
祖母が声をかける。
「クレアさんなら、外で待ってるって言ってたよ」
「……あ、そうなん、だ……」
「邪魔しちゃいけないからって。……気を使ってくださったのね」
「う、……うん」
そんな事を言われると、ろくに対応も出来なかった自分の子供っぽさが情けなくて、万莉亜は少ししょげたまま
花瓶を飾る。
――……そういえば……
彼が祖母に挨拶をしたとき、その気障な振る舞いに周りから笑い声が上がった。
――……見えてたんだ
前回、変な登場の仕方をするなと散々叱った事を、覚えていてくれたのかも知れない。そう考えて、首を振る。
そうじゃない。最近の彼は、姿を見せることが多くなった。万莉亜と行動しているときは特にそうだ。アルバイト先で客寄せパンダにされても、
散々見知らぬ人から声をかけられても、姿を隠さない。最初のうちこそ疑問だったけれど、それに慣れてしまうと、そのうちに疑問も霞んでしまっていた。
「ねぇ万莉亜」
考え込んでいると、ふいに声をかけられて振り返る。
「あの人は、……クレアさんは、何か悩みでもあるのかしらねぇ」
微笑みながら、少しだけ悲しい口調の祖母の言葉に、花びらで遊んでいた万莉亜の指先が動きを止める。
「可笑しいね。……あの人が笑っても、何か素敵な言葉を言っても……」
「…………」
「何でだろうね……なんだか、猿真似のような気がしちゃうんだよ」
「……」
彼は、笑顔がとても上手だけど。
だけど所詮、それだけの話。
「万莉亜は、難しい人を……好きになったんだね」
「…………うん」
クレアが、好きだ。
多分、彼を好きにならないことは、とても難しいこと。あんな風に寂しく笑う人を放っておくのは、とても難しいこと。
あんな風に優しい人を無視することは、とても難しい。
「……でも、好きよ。私……」
恥ずかしいから、花に視線を落としたままそう返せば、真横で祖母が顔を向ける気配がして、ますます俯いてみせる。
きっと顔は、真っ赤に違いない。
「そうだね。おばあちゃんも、……寂しい人ってのは、昔から好きになってしまうね。性分かしらね」
「……うん」
手を繋がれるたびに、握り締めた手に力を込められるたびに、思い知る。
どんどんと、後戻りが出来なくなる所まで気持ちは育ってしまって、
引き返すタイミングを見誤って、多分もう、取り返しがつかない。
それでもいいと本能は叫び、ついに降参したなけなしの理性が、今日腹を括った。
******
病院の庭先で万莉亜の帰りをただじっと待っていたシリルが、院内からこちらへ向かってくる意外な人物を見つけて声を上げる。
「あれー、クレア?」
金髪の青年はシリルに呼ばれると、片手を上げて返事をしてから彼女の横に腰かけた。
「いい子にしてたか?」
「うん。でももう飽きた」
「もう少し」
そう言ってシリルの頭を撫でてから、芝生の上に座ったままもう夕日の落ちかけた赤い空を見上げる。
――「あなたにとっての時間は、随分と残酷なんでしょうね」
二人きりになってから、ぽつりと呟かれた万莉亜の祖母の言葉。
ぎくりとして顔を上げれば、ニコニコと微笑む老人と目が合って、笑顔を作るのに一瞬戸惑ってしまった。
誰かに心を見透かされるほどに、おかしな所が自分にあるとも思えないのに。リンといい、彼女といい、一体何が言いたいのだろうか。
「……年寄りって怖いな」
独り言のように呟けば、隣に座っていたシリルが不思議そうに見上げる。
年月だけで言えば、彼女よりもうんと年上の自分なのに。
――やっぱり、ダメなのかな……
そう思って、手の平に視線を落とす。見慣れた指先。見慣れた爪の形。見慣れた腕。十八のころから、
何一つ変わらない。皺一つ増えやしない。永遠の体。
大人になったら、誰よりも強くなって、幸せにしてあげたい人がいた。
「シリル」
「なぁーに」
「お前、友達が欲しい?」
「…………」
「同じくらいの歳の友達と、遊んでみたい?」
「……どうして?」
「一人で滑り台を使ってても、つまらないかなって」
「…………」
赤錆色した髪を綺麗に梳かしてやるよりも、フリルのたっぷりついた華美な服を与えてやるよりも、
欲しいものが、あるのなら。
「もう、透明人間も飽きただろ」
「……怖いからやだ」
眉間に皺を寄せて、頬を膨らましながらふて腐れたようにシリルが言う。
けれどその言葉には、葛藤がありありと浮かんでいて、クレアは苦笑した。
「そうだね」
「万莉亜がいるからいらない」
「分かったよ」
「……いらないよ」
「分かったって」
「…………」
「そうしたくなったら、いつでも言いなさい」
「…………」
「きっと、楽しいよ」
「……うん」
芝生の草をむしりながら頷くシリルを見て、クレアはもう一度空を見上げた。
自分だけを愛することが出来たら、どんなに楽だろうか。
どんなに痛めつけられたって、どんなに恨んだって、悲しいくらい人間が好きで、たまらない。
どこまでいっても、情がついてまわる。人生に向き合うということは、自分ではない誰かと向き合うということ。
たった一人で人生が完結できたらいいのに。
甘ったるくて詰めの甘い自分には、それがどれほどの難題か、考えただけで気が重くなる。
高みから悠々と見下ろしているわけじゃない。
ただ地上に足をおろすのが、怖くて仕方がない。
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