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 ヴァイオレット奇譚「Chapter27・"ナルシス・クライシス[4]"」



 翌朝、目覚めた戸塚瑛士の前に立っていたのは、紺のセーラー服に身を包んだ黒髪の少女だった。
「……お前……」
 目覚めたといっても、体中を隙間無くラップでくるまれてしまったような圧迫感と息苦しさ、そして相変わらず続く 吐き気と眩暈にむりやり覚醒させられた彼は、ベッドサイドに立つ少女が誰なのか思い出す前に再びうめき声を上げて突っ伏してしまう。
「……まだ、具合悪いですか?」
 遠慮がちにかけられた言葉にどうにかして頷くと、瑛士は天井に向かって大きく息を吐き、まぶたを手で覆う。
 見ようとするから、いけないのだ。
 分かろうとすればするほど混乱して、視覚と触覚の奇妙な不一致に脳がパニックを起こす。 だから目をつぶり、あるがままを受け入れる。わけの分からない現象は、わけの分からないままに受け入れて、 それ以上のことは考えない。そうしていれば、気分はいくらか和らいだ。
「今……何時だ」
「朝の七時です。私は、もう少ししたら学校へ行きますけど……その、大丈夫ですか?」
「誰がそんなこと言った」
「……え」
 戸惑う少女の声に舌打ちをしながら上半身を起こす。
 ここがどこだかなんて知らない。考えない。見ない。全ての概念を捨てる。そんな風に自分に言い聞かせれば、 皮肉にもぼんやりとした部屋のシルエットが浮かんでくる。
――……ざまぁみろ
 これは、いわば固定観念を利用したトラップだ。
 思い込みが強ければ強いほど、その本質は永遠に見抜けない。
 けれど一旦それを捨ててしまえば、景色はありのままの姿で瑛士の視界に姿を現す。
 一面マーブル模様の異空間に放り出されたような気がしていたが、落ち着いてみれば、そこは二十畳程度の 広さがある豪華な部屋だった。重厚でクラシカルな家具に、決して現代的ではない装飾過多な調度品の数々。それに自分が今横たわっている 馬鹿みたいに大きな天蓋のベッド。どれもこれもが華美で、ぜいたくで、金の匂いがする。
 中世ヨーロッパの貴族じゃあるまいし、よくもまぁこれだけゴテゴテと飾れたものだと、その利便性を徹底的に排除した部屋に感心すら覚えるが、 裏を返せば、それだけ彼らがマグナを厚遇している証拠だ。
 万莉亜のあまりにも平々凡々とした様子に一抹の不安を覚えていた瑛士だったが、彼女も例に漏れずマグナであるのだと、何よりもこの部屋が証明している。 同時に、彼らの金回りの良さも。
「まずは……飯だな」
 一安心すれば、徐々に空腹を感じて瑛士が万莉亜に命令する。 すると彼女は、初めからそう指示されることを予想していたのか、持っていた黒い学生鞄から青い布で包まれた 弁当箱を二つ取り出した。
「これが朝ごはん、こっちがお昼です。夜はまた、何か買ってきます」
「……おい」
「大丈夫ですよ。ちゃんと味見もしましたから」
「……いらねぇよ。何かもうちょっとマシなもん買って来い」
「時間、無いですから。私授業があるし……」
「だから! だれが学校へ行けって言ったよ。お前がいないと、いざというときの人質に使えないだろーが」
「…………」
「いいか。金が用意できるまで、お前は離れず俺の側に居るんだ。いいな」
「……困ります」
 弱気ではあったが、どこか強い意思の感じられる口調で万莉亜が答える。
 昨日は始終オロオロしていた彼女のそんな態度に瑛士が振り返ると、真っ直ぐにこちらを向いている万莉亜と目が合った。 その目の下に出来た大きな隈や、充血した瞳に一瞬怯む。彼女は憔悴し、精神的に追い詰められているようにも見えた。
「……昨日、クレアさんにお願いしてきました」
「言ったのか?」
 あれだけしぶっていた彼女が、意外にも素早くアクションを起こしたことに気を良くして瑛士の声が弾む。 それとは対照的に、万莉亜の表情は見る見る曇っていった。
「でも……やっぱり私には無理です」
「……断られたのか?」
 まさかと思いつつそう聞くと、万莉亜は複雑そうな顔をした後、ゆっくりと首を横に振った。
「……そうじゃないんです」
 断られてはいない。でも、歓迎されていたとも思えない。当たり前だが。
 クレアはきっと気を悪くしたに違いない。自分を浅ましい人間だと思ったかもしれない。軽蔑されたかもしれない。 そう思うと心は冷えて、今すぐにでも消えてしまいたくなる。
「とにかく、お金の件は……もう少し考える時間をください」
「ふざけんなっ!」
 威勢良く怒鳴って瑛士はベッドから飛び降りるとそのまま万莉亜に詰め寄る。
「いいか、俺は切羽詰ってるんだ。第三世代がいるこの日本から一刻も早く出たいんだよ! 命がかかってるんだ! 軽く考えてんじゃねーぞっ!!」
 その勢いに吹き飛ばされそうになりながら、万莉亜はじっと耐えた。携帯はもちろんのこと、彼に嘘をついてその善意を裏切ったという後ろめたさがあるからだ。 だけどそれも、疲れ果てた今の状態では細い糸の上を綱渡りするようなほどに危うい感情。ほんの少しのきっかけでガラガラと崩れ落ちてしまいそうな 理性を、それでもぐっと保たせる。
「大体、マグナの癖に金も自由に使わせてもらえないってどういうことだよ。舐められてんじゃねーの? それとも、お前はやっぱり 羽沢梨佳のスペアなわけ?」
「…………っ」
「それとも、くだらない見栄のために引っ込んだわけじゃなーだろーな。だとしたら、本気で怒るぞ」
 言葉こそ乱暴だったが、ほとんど正解に近いその台詞が、より辛辣に万莉亜の耳に届く。
「……勝手なこと言わないでください」
 堪えきれない感情を零すように静かに呟く。
 その言葉に、瑛士の視線が鋭さを増した。
「何でも、……何でもかんでもあなたの言うとおりになんて出来ない、だけど私は……っ」
 答えようと、努力しているではないか。
 そう続けると、悔し涙が零れてしまいそうで万莉亜は言葉を切った。
「あっそう。で? あんたの努力で俺は救われるわけ?」
 言葉にはならなかった万莉亜の言い分を察した瑛士がそう反論する。それがまた悔しくて、 万莉亜は拳を強く握った。
「今からすぐにクレアに言いに行けよ」
「じゃあ自分で言ったらどうですかっ?」
 怒りでわなわなと拳を震わせながら半分ふてくさった口調で言い返す。
 そんな相手の様子に、瑛士は眉をひそめた。
「大体、お金を借りるのってすごく大変なことなんですっ、あなたはすごく、簡単に言うけどっ!  今日明日でどうにかなる問題じゃないって事、どうしてもっと分かってくれないんですかっ」
「……開き直るのか?」
「違います! だけど、もうちょっと私の事情だって考えてくださいっ!!」

「万莉亜?」

 怒りに任せて万莉亜がそう怒鳴り散らすと、扉の向こうから若い男の声が響く。
 飛び跳ねるようにして驚いた万莉亜と瑛士は、それぞれがハッと息を呑んで扉へ振り返った。
「万莉亜?」
 もう一度、ノックと共に声がかけられる。
 声の主はすぐに分かった。混乱して顔を引きつらせる万莉亜を見て、瑛士も声の主を悟る。
 返事を返すか、居留守を使うか咄嗟の判断に迷った万莉亜が少年に指示を仰ぐが、肝心の彼は 固まってしまって瞬きもせずに扉を見つめていた。
「あ、あの……」
 黙っていてもしょうがないと観念し、思い切って声をあげる。
「ああ、万莉亜。やっぱり居たんだ」
「は、はい! 昨日はここを使わせてもらって……ご、ごめんなさい。勝手に……」
「いいんだよ。君のために用意させた部屋なんだから。やっと使ってくれて嬉しいよ」
「はい、あの……すごく素敵な部屋で、あ、ありがとうございました」
「うん。ところで、大声が聞こえたんだけど、大丈夫?」
「は、はい! あの、ひ、独り言ですからっ!!」
 声に妙に力を入ってしまって、かえって怪しまれないだろうかと不安に駆られていると、クレアは小さく 返事をした後、部屋の前から立ち去って行った。その足音が遠ざかり、完全に消えてなくなると、二人は言葉も無くヘナヘナと 床に崩れ落ちる。
「……い、今の、クレアか?」
 それからおそるおそる投げられた瑛士の問いかけに万莉亜が息を吐きながら頷くと、 彼は小声で彼女に詰め寄った。
「何であいつがここにいるんだよっ!」
「そ、それは、だって……」
「離れてるって言ってただろ! 嘘ついたのかっ!?」
「う、嘘じゃありません! 離れてますよっ! クレアさんの部屋とはっ……」
「……部屋だぁ?」
 額に青筋を立てる瑛士に、万莉亜はこくこくと頷いてみせる。
「一番奥の、大きな扉の部屋です。それに、滅多に出てこないし……」
「ちょっと……待てよ。じゃあ何か? この階は、お前専用じゃない?」
「……へ?」
「まさか、クレアもここに住んでるのか?」
「……当たり前じゃないですか」
 何を今更、といった具合にそう返すと、瑛士は口をぽかんと開けたまま どうやら言葉を見失っている。そんな彼の心中を察した万莉亜が、驚いて「あ」と声を上げた。
「まさか、違うと思ってたんですかっ?」
「思うだろ! お前、離れてるって言ったじゃねーかっ!!」
「い、言いましたけど、だって、離れてるじゃないですかっ!」
「スケールがいちいち小さいんだよお前はっ! 俺はそういう意味で言ったんじゃねぇ!」
「だって! 灯台下暗しって瑛士くんが言うからっ」
「下暗しっつっても! 真横に居たんじゃ意味がねぇだろ馬鹿っ! どう考えたら俺がクレアと同じ空間に 居たがると思えるんだよっ!!」
「知りませんよそんなのっ! ちゃんと言って下さいよっ……」

「万莉亜?」

 知らぬうちにヒートアップし、声を荒げる二人に再びクレアがノックをしてそう声をかける。
 驚いた瑛士は自分の口元を両手で封じ、万莉亜は思わず立ち上がって反応する。
「は、はい!」
「……大丈夫?」
「大丈夫ですよ! 全然!」
「……そう」
 心なしかため息まじりだったクレアの声に、万莉亜の胸がなぜか痛む。
「あ、あの……、クレアさん」
 居ても立っても居られずに、扉の向こうの人物に取り繕うようにして明るい声を出した。
「クレアさん、ごめんなさい。私、独り言が本当にひどくて……」
 そんな風に言い訳する万莉亜の声を遮って、轟音と共に扉が蹴破られる。
 ギィ、と軋むドアの向こうから派手に現れた青年は、冷たい目で床にへたり込む瑛士を一瞥すると、それから 真っ直ぐに万莉亜に向かって歩き出し、彼女の目の前でピタリと歩を止める。
「……何回」
 低く呟かれた声に万莉亜の肩が跳ねる。
 それを見たクレアが言いかけた言葉を飲み込んで、その代わりにすっかり萎縮してしまった万莉亜の頬をすっと撫でた。
「クレア、地下に運びますか?」
 いつの間にか部屋に入っていたルイスが困惑している瑛士を手際よく捕えてそう言うと、クレアは頷き、 それを見た万莉亜が咄嗟に飛び出した。
「やめてっ……!」
 瑛士を捕えるルイスから少年を庇うようにして背中に押し込む。
「この子、あの人たちとは違うんですっ! 本当はすごくいい子なんです! だからっ……」
 必死の形相で訴える万莉亜に困り果てたルイスが主人に振り返った瞬間、匿われていた少年が 万莉亜の首に腕を回す。
「動くな。動いたらこいつを殺すぞ……」
 視線を戻したルイスの視線が一気に厳しいものへと変わる。きつく回された腕よりも その表情に段違いの恐ろしさを感じた万莉亜が慌てて後ろの少年に囁く。
「え、瑛士くんっ…… こんなの、逆効果……」
「うるせぇっ! テメェは黙ってろっ!」
「で、でも……」
「いいから大人しくしてっ……く、来るなっ!」
 一気に緊張状態に陥るかと思われたさなか、ためらいもなく歩み寄ってくるクレアを警戒して瑛士が叫ぶ。 それでも怯まず距離を詰めると、間髪いれずに振り下ろされたクレアの平手が少年の頬に命中し、彼の体が吹き飛んだ。
「気安く僕のマグナに触れるな」
 床に倒れこんでしまった相手にそう吐き捨てて、クレアはルイスに視線で命ずる。 従者は黙って抵抗する相手に再び拘束具を取り付けた。
「やめて……っ」
 思わずそれを止めようと一歩進み出た万莉亜の腕を、クレアが掴み引き寄せる。
 有無を言わさぬその力の強さに驚いて見上げれば、笑顔の裏に反論を許さぬ迫力を隠し持ったクレアと目が合った。
「分かってるよ。君の恩人なんだろう? 話は全部シリルから聞いた」
「……シリルから?」
「うん。昨日ね」
「…………」
 昨日?
 混乱して、上手く考えがまとまらない。
「丁重に扱うことを約束するよ。だから君は安心して学校へ行って」
 そんな彼女の混乱を見透かすようにしてクレアは優しく告げると、万莉亜の手を引きそのまま部屋の外へと連れ出す。
 それでもなお瑛士の安否を気にしながらチラチラと視線を部屋に向ける彼女に苛立ったのか、クレアはさっさとその半壊した扉を引いて 彼女の視界を覆った。
「言っただろ? 悪いようにはしない。話を聞くだけだ」
 諦めて俯くと、万莉亜は小さく頷いてから、クレアの足元を見つめながら懇願した。
「……瑛士くん、悪い子じゃないんです。信じてください……」
「…………」
「彼を傷つけたりしないでください。……お願いします」
 そう言って頭を下げると、彼と視線を交わす勇気も出せずにそのまま万莉亜は走り出した。
 背中に刺さる視線が痛い。
 もう会わせる顔がないと思っていたから、突然のクレアの登場は万莉亜にとっては衝撃であり、そしてこれ以上ないくらい 気まずいものだった。
 クレアは紳士だ。
 だから、万莉亜に対して思うところがあったとしても絶対に顔に出すようなことはしない。ただ今ばかりは、それがつらい。 彼が自分をどう思っているのか、考えただけで泣きたくなるような思い。彼の評価だけが自分の全てでもあるまいし、 こんな風に思いつめることはないと分かっていても、消えたくて消えたくてたまらない。
――……もうやだ
 時間を取り戻せたらいいのに。
 それか、彼の記憶の中から、昨晩のことだけを抜き取ってしまいたい。
 あんな馬鹿げたことを口にしてしまった自分を、その記憶から、消し去ってしまいたい。
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