ヴァイオレット奇譚「Chapter26・"ナルシス・クライシス[3]"」
ベッドサイドのランプ。
そのオレンジ色した淡い光だけが、暗闇の中で彼の顔を照らす。
言葉も呑み込んで、その攻撃的なまでの美しさに目を奪われていると、小さな呻き声と共に
クレアが寝返りを打った。
覚醒し始めているのだろうか。起こすチャンスだろうか。
だけど、石のように硬くなってしまった全身はもうピクリとも動かない。
「…………」
声の出し方も、忘れてしまった。
ただただ研ぎ澄まされた聴覚だけが、彼がおこす衣擦れの音を正確に拾う。その、僅かな呻き声さえも、正確に聞き取ってしまう。
――……なんだ
やっぱり。当たり前だ。奥さんなんだから。好きに決まってる。愛してるに決まってる。
夢うつつに、その名前を呟いてしまうくらい、何だっていうのだ。当たり前だ。
それが、どうしたというのだ。
「……クレアさん」
傷ついたりはしない。
「クレアさん、ご飯、持ってきましたよ」
「……万莉亜?」
かすれた声で言いながら、彼女のいる方向へ再び寝返りを打ったクレアがバイオレットの瞳を半分だけ覗かせる。
「ご飯、持ってきました」
万莉亜がもう一度繰り返すと、彼はぐったりとした体を上半身だけ持ち上げて、ニ、三度の瞬きの後、脇に立っている彼女を見上げた。
それから、いつもの笑顔で微笑む。
「汗……すごいですよ」
その笑顔に答える余裕もなく、驚いた万莉亜がびっしょりと汗を吸った彼のシャツを指さす。
「……ほんとだ」
クレアはそのままゆっくりとベッドから立ち上がり、濡れたシャツを脱ぎ捨ててワゴンに手をかけている万莉亜に振り返る。
「それ、食べてくれないかな?」
「……え、でも」
「汗だくのままじゃ君に失礼だし、シャワーを浴びてくるよ」
「あ、あの」
言い残してさっさとバスルームへ消えようとするクレアを呼び止める。
「……大丈夫ですか? 少し、うなされてたみたいだから」
ああ、また。口が暴走を始める。
ほら、こんなこと言ったって、彼はああやって微笑むだけだってこと、分かっていたのに。
「大丈夫だよ」
微笑んで、バスルームへ続く扉を静かに閉める。
ぱたん、と鳴った小さな音の余波が刃となって万莉亜の胸に突き刺さった気がした。どうかしてる。
――私が……しっかりしないと……
こんなわけの分からない感情に翻弄されている場合ではない。
そう思いなおして、部屋の電気を探し、煌々と照らされた明かりのもとでワゴンの料理をテーブルへと並べる。
それから、二人分のお茶を丁寧に入れて、数分後にバスローブ姿で戻ってきたクレアを出迎える。
出会った当初に比べれば、大分打ち解けたといえなくも無いが、彼の部屋で二人きりになる
気恥ずかしさはまだ十分すぎるほどに残っているので、万莉亜はただ黙ってイスに座り、
濡れた髪をタオルで拭っている彼が着席してくれるのを待つ。
すると、まだ乾ききっていない髪もそのままに、クレアは一旦それを切り上げて万莉亜の座るテーブルの席についた。
濡れて気持ち色を濃くしたブロンドの襟足から雫が滴り、万莉亜は何となくそれを目で追う。そうしながら、
さっきから考えのまとまらない思考を整理させようと内心躍起になっていた。
「どうしたの」
「……え」
優しい声で問いかけられて顔を上げる。
クレアは万莉亜が入れたお茶に口をつけながら、視線だけを彼女に向けて続けた。
「話があるんだろう?」
「……ど、どうして……」
「いつも二人きりにならないように警戒してる君が、何の理由もなく僕の部屋に留まるはず無いだろうから」
「…………」
図星を突かれて口ごもる。さりげなくしていたつもりだったのに、全部お見通しだった。
「いいんだよ。僕にはそうされるだけの前科があるからね」
冗談めかしてクレアが言う。
だけど、顔の筋肉が引きつってしまって上手く笑顔が作れない。
頭が、混乱してしまって、どう切り出すべきかすら分からない。こうやって向き合えば向き合うほど、
思考がかき乱される。いつもならもう少し、まともなやり取りが出来るのに。
「あ……あの……」
膝の上でギュッと二つの拳を握る。
「お願いが……お願いがあるんです」
変に力を入れすぎて、声が震えている。それに低い。とても自分の声とは思えない。
これは、どこから出ているのだろう。何を言うつもりなのだろうか。
「いいよ」
混乱のさなか、正面から返って来たやけにあっさりしたクレアの声に顔を上げる。
彼は音一つ立てずにカップをソーサーに戻すと、まだポタポタと雫の垂れる髪をうっとおしそうに掻き揚げてから微笑む。
「いくらでも。君のためなら惜しくなんて無い」
「…………」
限界まで目を見開いて万莉亜が絶句する。
「最近、とうとう人の心まで読めるようになったんだ」
本当か嘘か、分からなくなるほど真面目くさった声色でそう言うと、クレアは一旦立ち上がってもう一度彼女の前から姿を消す。
それにほっとした次の瞬間、消えてしまいたいと強く願う。
猛烈な後悔と、恥じ入る気持ちが万莉亜を襲う。もう、消えてしまいたい。ギチギチと奥歯を噛み締めて、真っ赤になるまで
両手を握り締める。
白いシャツと淡いグレイのデニムパンツに着替えたクレアがウォークインクローゼットから戻ってきたときには、
万莉亜はすっかり彼を直視できない状態にまで追い詰められていた。
「万莉亜」
気遣うようにして名前を呼びながらイスに座っている彼女の体をこちらへ向かせ、握り締めた両の拳をクレアが片手で包む。
そんな風にして自分の正面に膝をついている彼と決して目が合わないように、万莉亜は視線を左斜め下に落して固定した。
「今度一緒に、お見舞いに行こうか。君のお祖母さんの所へ」
「……私……」
「この間は手ぶらで行ってしまったから」
「……ごめん、なさい」
「…………」
クレアが、真っ直ぐに自分を見上げているのが分かる。その視線だけで、射殺されてしまいそうなほどの圧迫感。
どんどん、頭にのぼった熱が温度を上げていく。
「私、……マグナ……」
ああまた、口が勝手に動き出す。言葉を紡いでしまうのを止められない。
「ちゃんと、……やります……だからっ……」
だから。ほらね。
――「マリア。淫売の名前だわ」
やめて。違う、これは、違うの。
「……だから?」
甘くて、それでいて鋭い声が届く。
それに肩をびくつかせたせいで、固定していたはずの視線が揺れ、一瞬にして彼の瞳に捕えられた。
「お金と引き換えに、僕の子供を産んでくれるって事でいいのかな」
「…………っ」
クレアは微笑んでいた。いつものように。そこにはひとかけらの冷たさも、意地の悪さもない。
いつのもの優しい微笑だった。
――ああ……そっか
いつも、こうだったんだ。
笑ってなんて、いなかった。
彼はびっくりするほど笑顔が上手だから、ついつい騙されてしまうけれど。
「……嘘、ですよ……」
上ずった声で言いながら、彼に包まれていた拳をそっと引き抜く。
「そんなわけ、ないじゃないですか……全部嘘です」
刺すような視線を感じるけれど、目を伏せたまま無理やり無視を決め込んで立ち上がり、
そのまま入り口の扉まで歩き出す。それから銀のドアノブに手をかけて、その生ぬるさに驚いた。
違う。あんなに握り締めていたはずの自分の手が、氷のように冷たいのだ。
「ごめんなさい……」
小さすぎて彼には届かなかったかも知れないけれど、言うだけ言って理事長室の扉を抜け、
そのまま同じフロアにある私室へと逃げるようにして飛び込んだ。
その慌しい姿を、たまたま徘徊していたハンリエットが見かけて舌打ちをする。
「男の嫉妬って最低」
その足で理事長室へ向かった彼女が開口一番に嫌味を言うと、テーブルに座っていたクレアが肩をすくめて見せた。
「やっと頼ってきたと思ったらとんだ肩透かしだ。いじめたくもなるだろ」
「良かったわね。今のでまた一段と遠ざかったわよ、お父様」
「…………」
「どーすんのよアレ。臭くて敵わないわよあんなの混じってるなんて」
「さぁね」
「……ほんと優柔不断なんだから」
吐き捨てるように言うとハンリエットが踵を返して立ち去っていく。
その後姿を横目で眺めながら、クレアは長いため息をついた。
全面的とまでは言わないが、もう少し頼りにしてくれてもいいのに。
どうやら彼女は端からその選択肢を除外している様子だ。勇ましい少女は、あの細腕一本で全てのカタをつけようと奮闘している。
それが思っていたよりも不服で、同時に納得がいかない。
ただ、彼女の泣いているような謝罪のささやきを聞いた瞬間、子供じみた八つ当たりのその全てに後悔してしまった。
「……あーあ」
残された部屋で宙に向かって一人呟き、両足を放り投げるようにして伸ばす。
薄々気付いてはいたが、しがみついていた可能性はおそらく幻だ。
多分今よりもっと早い段階で気付いていたのに、理想を追い求めるあまり目を逸らしていた。
――「希望が必要だよクレア」
そんなものが、欲しいわけじゃないのに。
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