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 ヴァイオレット奇譚「Chapter30・"ナルシス・クライシス[7]"」



「あ、蛍? ……あの、とっても申し訳ないんだけど……」
『点呼の代理でしょ? もうやっておいたよ』
 みなまで言わせない蛍の鋭さに、電話越しだというのにも関わらず万莉亜はぺこぺこと頭を下げた。
 すっかり忘れていた寮長としての務めを思い出しパニックになりかけたが、蛍のアシストのおかげで一安心だ。そう胸を撫で下ろして新校舎五階にある私室の壁がけ時計を見上げる。
 時刻は夜十一時を回っていた。
『あんた、今日帰ってくるの?』
 夜遊びをしている娘を嗜める母親のような台詞を吐くルームメイトに、万莉亜は「もちろん」と頷いて電話を切ると、 ベッドで寝入っている少年に視線を落とした。
 冷え切った万莉亜のお弁当を温めもせずに平らげると、彼は疲れきった体をベッドに投げてそれからはぴくりとも動いていない。 憔悴しきっていたのは、疲れや極度の緊張による精神的ストレスのせいだとハンリエットは説明してくれたが、風邪の線を捨て切れていなかった万莉亜は どうにも気が気でなく、中々寮に帰れずにいた。
――……困っちゃったなぁ……
 ベッドから少し離れた窓際のチェアに座って、そこから見える細い月を眺める。
 今日は、一日中気が動転していた気がする。いや、正しくは、昨日からだ。
――どうなっちゃうんだろう……私……
 投げやりに考えて重たいまぶたをそっと閉じる。
 日々は、驚くほど細分化された見えない岐路の連続。選ぶのは自分で、選択の日々はきっと、死ぬまで終わらない。 直感で動いてもダメ。考えすぎてもダメ。それは大抵難しい選択肢で、意地悪な事にどの道も正解ではない場合がある。 だけど、それらを選び続けた先が未来ならば、どうなっちゃうのか分からない未来は、きっと選び抜いた未来。

――「……でも、好きよ。私……」

 そして今日また、一つの選択をした。



******



 七尾女子学園の旧校舎と新校舎の間には、よく手入れされた中庭があり、そこには、綺麗に咲き誇ったコスモスの花壇がある。
 年老いた校務員によってよく手入れされたその花たちは、たった一人、この学園の理事長にだけ、歌を歌う。大抵の場合その歌に 大層な意味など無いが、気まぐれに、この世界を見通す閉じたその目で予言めいたものを呟く。
 暇なんだろうな、と青年は思う。高みの見物は、さぞかし退屈なのだろう。
「あの人のことを……思い出す?」
『何も聞こえない。何も見えない』
「そう……」
『…………』
「僕は、思い出すよ」
 花壇に植えられたコスモスに見上げられながら、クレアは花たちに微笑んだ。
「ヨーロッパで生まれた化け物が、何の酔狂で、こんな辺鄙な島国の女子高で理事長やってるのかなって」
『…………』
「……馬鹿らしくなるたびに、僕はあの人を思い出す」
『思い出さない日はないよ』
 まるで鈴の音のような、存在自体が危うい音から一転して、その声はしわがれた老人のものへと変わる。 その変化にクレアは何のリアクションも見せず、ただ小さく、「そう」と答えた。
「あの人に……よく似ている。ほんとはずっと、横恋慕してたんだ」
『…………』
「嘘だよ。全然好みじゃなかった」
『……タエ』
「そうだね」
『……ナナオ……タエ』
「横取りするつもりなんて、無かったよ」
『…………』
「ちょっといいなって、思ってたけど」

 明治二十七年。
 初めて訪れた日本という国に、少女は居た。七尾タエ。それが、彼女の名前だった。
 よく動き、よく喋り、よく笑う快活な少女で、日清戦争の真っ只中、彼女の笑顔だけが、この国の救いにも思えた。
 彼女は最後の最後まで、微笑んでいた。今際の際に愛する者の名前を呼んで、微笑んで死んでいった。 名前の無かった彼に、「始まり」という意味で付けたその名前を、とても愛しそうに呼んで、笑って逝った。

「それがつらくて、僕は日本から逃げた。あなたを置いて」
『…………』
「それなのに……おめおめと戻ってきて、あの建物の最上階でふんぞり返ってる。どうしてだろうってたまに思うけど、 すぐにあの子の事を思い出して、納得してしまうんだ」
『…………』
 思い出に、縋っていたかった。それが、とても温かいものだったから。
「やっぱり、ちょっと好きだったのかな」
『…………』
 風の無い夜、ざわざわとそよぐコスモスをからかう様にしてクレアが微笑む。 しかし次の瞬間、花たちはピタリとその動きを止めて、あたかも花であるかのように振舞い出す。 それに気付いたクレアが振り返れば、長い黒髪と、見慣れた青いパーカーを羽織った少女が呆然としながらこちらを見つめていた。
「……万莉亜」
「あ、あの……あ、ま、窓から見えて! な、何してるのかなって……その……」
 見てはいけないものを見てしまったような気分に駆られて、万莉亜が口ごもる。
「気にしないで。独り言が、趣味なんだ」
 そんな彼女を見て、可笑しそうにクレアが言えば、万莉亜は困ったように首を傾げた。 それから躊躇いがちに彼の側により、一緒になって花壇を見下ろす。花の素振りを続けているコスモスたちに「見ているくせに」と 心の中で呟きながら、クレアは何かを切り出そうとしている万莉亜の言葉を待った。
「……あ、あの……!」
「うん?」
 随分力の篭った切り出しに、クレアが視線を向ける。
 緊張からか、単に居心地が悪いのか、万莉亜の顔はいつになく硬い表情を浮かべていた。
「き、今日は、お見舞いに来てくれて、ありがとうございました。お花も……」
「ああ、うん。いいんだよ。僕もお祖母さんに会いたかったから」
「そ、それから! 瑛士くんのこと、黙っててごめんなさい」
「うん」
「それから……き、昨日の夜は、軽率なこと言いました。……ごめんなさい」
「うん?」
「……あの……一億円とか、マグナとか……私、失礼なことを言いました」
「ああ」
 合点がいったようにしてクレアが頷く。
「いいんだよ別に。そんなこと気にしてないから」
「……え」
「僕が勝手に嫉妬して、勝手に不機嫌になっていただけなんだ。気にさせちゃったのなら、謝るよ」
 気にさせるためにあんな意地悪な態度を取ったというのに、この口はよくもしゃあしゃあと言ってのける。 そう自分自身で驚きながら、相変わらずの捻じ曲がった性格に呆れた。何回自分に嘘をつくつもりだと、理不尽な怒りを、彼女にぶつけていたくせに。
「……クレアさん?」
「謝罪合戦をするのならきっと僕の勝ちだよ。比にならないほど、君には迷惑をかけてる」
 そう言ってしゃがみ込み、花壇に膝をついたクレアを万莉亜は見下ろした。 何となく、そうすることで意図的に距離を置かれた気がして、万莉亜は立ったままぎゅっと両手を握り締めた。
「……大岡裁き」
「…………え?」
 ぽつりと呟かれた言葉にややあってから反応した万莉亜が目をぱちくりとさせると、クレアは 視線を花壇から外し、いつもの隙の無い笑顔で彼女を見上げる。
「って知ってる?」
「……い、いいえ」
 困惑したまま首を振ると、相手は意外そうに片方の眉を上げた。
「そうなの? 日本では有名な話かと思ってた」
「……ご、ごめんなさい」
「子争いっていう話があってね、簡単に言うと、二人の母親が一人の子供を取り合うんだ。 お互いがその子供の手を引き合って、勝負させる。どちらが本当の母親か、それで見分けるんだ」
「…………」
「名裁きって呼ばれるその話は、結局痛みに泣き出した子供を思って手を放してしまった母親が本物だって事で、一件落着する」
「…………」
「僕は、手を放さなかった母親がどうなったのかが、すごく気になるんだ。だから君が知ってたら、教えてもらうおうと思って」
「……クレアさん……?」
「子供が泣き叫んだって、たとえその体を引き裂いたって、手を放すものかって思ってしまった彼女が、 偽者だなんて、誰が言い切れるんだろう」
「…………」
「愛って、大抵歪んでて、すごく自分勝手なものだよ」
「……そう、でしょうか」
 我慢できずにそう返せば、クレアは柔らかく微笑んで、また視線を花壇のコスモスへと戻す。
「君は、多分手を放すんだろうね」
「…………」
「僕は、放さない。誰かに取られるくらいなら、それが壊れたって構わないよ」
 静かな彼の言葉が夜の闇に融ける。
 それとは対照的に、見下ろしている彼のプラチナブロンドが月明かりに照らされて色を失くし、こちらは光に融ける。
 逃げるなら今だよ、と彼の背中に言われている気がして、万莉亜はさらに拳を握った。
 日々は、驚くほど細分化された見えない岐路の連続。今も、目の前でまた道が二つに割れる。それでも、 まだ見ぬ未来はこの心で選び抜いた未来であると信じている。
「……私、あなたが好きです」
 吹いてもいない風にかき消されそうなほどに弱く、でも心からの声で、彼の背中に呟いた。
 ゆっくりと振り返った彼は、何の色も無い表情で万莉亜を見上げる。
「……気でも、狂ったの?」
 妙に淡々と告げられたその言葉に、万莉亜は小さく首を振った。
「いいえ」
「……僕は、君を食いものにしようとしてる化け物だよ」
「いいえ。……手を、放してくれるって、信じてます」
「放さない」
「信じてます」
 震えそうな奥歯をぐっと噛み締めて、冷静な声を出しているつもりでも、喉はカラカラに渇いて、目頭が熱い。 悲しいことも嬉しいことも、何も無いはずなのに、すぐそこまで迫ってきている涙を、万莉亜は何度も飲み込んだ。
「……好きです」
 もう一度繰り返すと、決壊した涙が一粒零れる。
 これは、感情の吐露。熱くて、熱くて、死んでしまいそう。
 そんな万莉亜の濡れた頬に、夜風に冷えた指先が触れる。いつの間にか立ち上がり、彼女を見下ろしていたクレアは、 思いっきり顔をしかめて、頬に当てた自分の指先を睨みつけていた。
「……諦めろって、言うのか?」
 低く呟かれた声が聞き取れなくて、万莉亜が伏せていた視線を持ち上げる。
 全ての仮面を脱ぎ捨てた、十八歳の青年の、苦しそうな表情が視界に飛び込む。 ずっと知っていたはずなのに、初めて彼の顔を知ったような錯覚。
「こんな所で諦めるために、生き続けてきたんじゃないんだ……」
「……え」
「俺は……」
「クレア……さん……?」
 初めて聞く苦しそうな言葉が途切れて、彼の乾いた唇が頬に触れ、滑り落ちるようにして万莉亜の唇へとたどり着く。 目を閉じてそれを受け入れると、途端にクレアの甘い香りに包まれた。すぐそこにある淡い金髪が、閉じたまぶたの裏でキラキラと白い光を放つ。 目を閉じているのに、それが、どうしようもなく眩しい。



『ねぇクレアさん』
 何?
『どうしてクレアさんは、マグナを探しているの?』
 もう忘れちゃったよ
『誤魔化しても、タエには分かりますよ』
 どうして?
『あの人も、同じだから』
 セロが?
『みんなみんな、寂しいからです』
 そうかな
『自分だけを愛して生きてはゆけないからです』
 僕は、違うよ
『生きている限り、寂しさはつきものですから』
 僕の望みは、違うんだよ、タエ
『いいえ、いいえクレアさん。元を辿れば、同じなんですよ』

 さみしいさみしいと、泣いているんですよ
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