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 ヴァイオレット奇譚「Chapter31・"ポリアモリー症候群"」



 夢を見ている。
 四方を湿った壁でぐるりと囲まれて、身動きが出来ない。とても、狭い。
 壁越しに、随分と荒い足音が聞こえて、それが、万莉亜のいる場所の前でピタリと足を止める。
 薄い壁一枚。何かとても恐ろしいものが、唸るような呼吸を繰り返しながら、こちらの気配を探っている。
――……やめて……
 開けないでと願う一方で、いっそのこと開けてくれと捨て鉢になる。耐え難い恐怖。
 沈黙の中、壁の向こうの相手が、万莉亜を真っ直ぐに見ている。それから
――「記憶想起の回避です」
 どこか機械的な低い声が響く。
 驚いて顔を上げた。
 景色は一変し、暗い闇から、どこまでも白い空間へと姿を変える。
――「それから感情の麻痺。未来像の、喪失」
――「焦ってはいけません。今日、一日を」
 今日一日を、どうにか乗り越えて行きましょう。
 そう、誰かが祖母に語りかけている。祖母は、泣いている。目を腫らして。顔中に痣を作って。
――「万莉亜ちゃん、指を、噛まないで」
 誰かに言われて気がつくと、親指の変形した爪から赤黒い血がにじみ出ている。そこでやっと、痛みに気付く。
――「絆創膏を貼ってあげるからね」
 ベージュ色の絆創膏。その真ん中にある白いガーゼに血がゆっくりと滲み、小さな赤い円を作り、やがて止まる。
――「もう大丈夫」
 誰かが笑うから、それを真似してみる。
 湿ったガーゼの下で、じくじくと膿みはじめた傷に、どす黒いなにかが溜まっていくのを感じながら、 それにも目を背けた。
 たくさんたくさん蓋をして、もう二度と開かないようにしてしまえばいい。
――「結構刹那的なんだね」
 また違う声が、耳に響く。
 それに頷きながら、痛むような気がするだけの親指を絆創膏ごと噛んだ。

 考えてはいけない事が、多すぎる。


「……さん、名塚さん」
「…………っ」
「名塚さん!」
 背中をペンで強めにつつかれてハッと目を覚ます。
 振り返れば、呆れたようなクラスメイトが白い紙の束をこちらに突き出しているのが見えて万莉亜は首を捻った。
「答案用紙、前に回して」
「……あっ、ご、ごめん!」
 慌てて彼女から後ろの席の分の用紙を受け取り、それからそこに自分のものも重ねる。 冷静を装ってはいたが、心臓は早鐘を打っていた。
――……や、やばい……
 問題の三分の一も解かないうちに眠ってしまうなんて。
 動揺しながらとりあえず名前を書いたかを確認して、半ば諦め半分でそれを前の生徒に託した。
――……や、っちゃったぁ……
 よりにもよって苦手な数学だ。ただでさえ正解率は低いに決まってるのに、 その問題の半分も手を付けられなかったとなると、これはいよいよ一桁台をとってもおかしくはない。
「終わった……」
 そう呟いてがっくりと机に突っ伏すと、隣の席の摩央がこちらに満面の笑みを向けた。
「とうとう終わったね! 中間テスト」
「……え?」
「長かったぁ」
「う、うん」
 そういう意味ではなかったのだが、このさいどちらでもいいやと曖昧に微笑む。
――とにかく、これでまたバイトが出来る
 テストを前にして、ぎりぎりまで勤務日数を減らしてきたツケを補うためにも、 今日から早速アルバイトを再開するのだ。土日も返上で働かなくては。
 そう思いながらペンケースに筆記用具をしまっていた時、指先にぴりっとした痛みが走る。
「……?」
 小さな内出血を起こしていた親指の爪に気付き、眉をひそめた。
――寝てるときに、噛んだのかな……
 ずいぶんと幼稚な悪癖がまだ残っていたんだな、とそれ以上には気にも留めず、万莉亜は早々と帰り支度を始めた。
 
 十月の下旬。
 長かった中間テストも本日で全ての教科を終え、目下のところ生徒達を待っているのは連休だ。
 一気にだらけたムードが漂う校内を万莉亜は駆け抜け、一旦寮に戻って私服に着替える。
 それから選別された持ち物だけを鞄に詰め込み、菫の淡い香りがする香水を少し多めにつけて再び寮を出ると そのまま新校舎へと向かった。

 新館の四階から続く黒い螺旋階段をのぼり、通いなれた五階のフロアに辿りつく。
 するとまず最初に万莉亜を出迎えたのは不機嫌そうな顔をした茶髪の少年、瑛士だった。
「おいお前! あいつに何とか言えよ!」
「え……?」
 息を切らしながら胸を撫でる万莉亜の前で、瑛士はモップを片手に理事長室を指さす。
「朝から晩までこき使いやがって! あいつ俺を過労死させるつもりだぞ!」
 今にも万莉亜の胸倉を掴みそうな彼にたじろいでいると、突然背後から襟首を持ち上げられた瑛士が奇声を上げる。
「働かざるもの食うべからずよ。瑛士」
 振り返った少年の目に現れたのは、すらりとした長い足をこれ見よがしに短いスカートから覗かせた美女だった。 ぴったりとしたタンクトップから見える豊満な谷間に一瞬目を奪われた後、彼はその誘惑に負けじとするどい視線を向ける。
「さ、触るな! デブ!」
「衣食住世話してやってるってのに、その態度は無いんじゃない?」
「うるせー、誰が頼んだんだよ!」
 二人の前に現れたハンリエットは、いまだ飼いならせない小さな野生の猫をしつけるようにして、瑛士の首根っこを 持ち上げると、空いている方の手で二度彼のお尻を叩いた。
「な、何すんだよ!」
「悪い子にはおしおき」
「や、やめろっ、やめろよ!」
「ほーら、万莉亜が見てるわよ。恥ずかしいわねぇ」
「やめろよっ!」
 どうにかして体を捻らせそこから逃げ出すと、彼は顔を真っ赤にしてハンリエットを睨みつけた後、 万莉亜には目もくれずにその場を立ち去った。
「……瑛士くん」
 呆然とそのやりとりを見ていた万莉亜が小さくなっていく彼の背中を追うべきなのか迷っていると、 隣にいたハンリエットが困ったように微笑んで肩をすくめた。
「やりすぎちゃったかしら」
 そんな彼女に万莉亜も苦笑する。
「……でも、ちょっとずつ馴染んでるみたいですね」
「そうねぇ。ま、最初に比べたら、良くはなってきてるわね」
「はい」
 行く当てのなかった少年瑛士を、このフロアで預かって欲しいと言い出したのは万莉亜だった。
 もちろんルイスは大反対したが、結局は決定権を持っているクレアがその懇願に折れて、彼は 暫定的に住み込むことが許され、そして今に至る。
 初めの頃こそ、ピリピリとして口数の少なかった彼だが、最近では声を荒げて待遇の不満などを叫ぶ。良い傾向と、 言えないこともないだろう。あれから約二週間、心を閉ざしたままだったらどうしようという万莉亜の不安も、杞憂に終わったというわけだ。
「これからアルバイトなんでしょう? シリルを呼んで来るわね」
 そう言ってフロアにあるいくつもの扉の一つにハンリエットが向かう。その後姿に「お願いします」と 投げかけて万莉亜はラウンジのソファに腰かけた。
――疲れたなぁ……
 テストという大きな山を越えて、張り詰めていたものが一気に緩んだのかもしれない。
 こうやって息をつくと、どっと疲れが押し寄せる。
――昨日の……徹夜が、効いてる……
 重たくなっていくまぶたに逆らえずそっとそれを閉じてソファに沈む。
 ゆっくりと意識を手放して、持っていた小さなバッグが、床に落ちる音を遠くで聞いた。

――問1
 整式 f(x)=x3+x2−16x+4 を因数分解しなさい。
――……え? え、ええと…… f(x) に、x=α を代入して……ええと……
――問2
 円 (x−1)2+(y−2)2=7 の中心と半径を求めなさい。 
――ええっ? ちょ、ちょっと待って……ええっと、確か方程式が……(x−a)2+、えっと……何だっけ……
――問3
 約一億二千万のうち、無差別強盗殺人の被害に遭う家族またはその世帯の遺族があなたである確率を述べなさい。
――…………え……
 善良な市民であったあなたの両親が無残に刺し殺されるその確率を述べなさい。
――……やめて……
 その確率を述べなさい。
――やめて……やめて……っ!

「万莉亜っ!」
「……あ……」
「……どうしたの?」
 浅い眠りから覚めると、目の前で困惑しているシリルと目が合った。
 いつものように可愛らしい淡いピンクのワンピースを着て、小脇にはアルバイト先で退屈しないようにと 選ばれた絵本を数冊抱えている。万莉亜が提案して一緒に本屋で選んだものだ。
「怖い夢見たの?」
 赤い瞳をまばたきさせてシリルが覗き込むと、万莉亜は額にうっすらとかいた汗を拭いながら首を横に振った。
「……わかんない」
 忘れちゃった、と彼女は小さく付け足す。夢はいつも、見た端から忘れていく。
「今日クレア行かないんだって。アルバイト」
 すでに興味を失っていたシリルが、床に座り込んだまま絵本を開いてそう呟くと、万莉亜はソファに沈ませていた 体を持ち上げて、しっかりと座りなおした。
「そうなんだ。何か用事があるのかな」
「しらなーい」
「……そっか」
――会いたかったのにな……
 素直に心でそう嘆いた後、妙に頬に熱が篭るのを感じて万莉亜は両手を当てた。
 次の瞬間、妙に硬いものが頭にゴツン、と当たり驚いて振り返る。
「にやけてんじゃねぇよ」
「え、瑛士くん!」
 ソファの後ろで、大きな瞳を吊り上げた不機嫌顔の瑛士が、モップの柄でもう一度万莉亜の頭を容赦なく打つ。 日ごろの鬱憤を晴らしているのかもしれない。その攻撃から逃げるようにして立ち上がり、万莉亜は頭を両腕でガードする。
「痛い! もうっ、瑛士くん、やめてよねっ」
「うるせぇな。ぶっさいくな面ニヤニヤさせやがって。気色悪りぃ」
「ひどいっ、ニヤニヤなんてしてないもん」
「してるだろ。ったく、てめぇらはあっちでイチャイチャこっちでイチャイチャ、目障りなんだよ!」
「そ、それはクレアさんが……」
 勝手に過剰なスキンシップを、と言いかけて口をつぐむ。
 それを、甘んじて受けている自分も、同罪なのかも知れない。
「大体な、ここはラブホテルじゃねーんだぞ! もっとTPOってのを……」
 そこまで言って瑛士はぴたりと動きを止める。
 彼は口を大きく開けたまま徐々に蒼白になりながら、万莉亜の背後に立っている金髪の青年を見上げた。
「不満なら、出て行ってもらっても構わないよ」
 形のいい唇を微笑みの形にカーブさせてクレアが答えると、瑛士は彼女への攻撃に使っていた 凶器をさっと背中に隠してプルプルと頭を振った。憎き相手ではあっても、とりあえずのパトロンには違いない。
「クレアさんっ?」
「やあ万莉亜」
 美貌の青年は驚いて振り返った彼女の手の甲にキスを落としていつもの挨拶をする。最近は、 その流れで頬にも唇を寄せる。万莉亜は硬直しながらそれを受け入れると、目の前にあるバイオレットの瞳を見上げた。 それから、真っ直ぐに通った鼻筋。形よく引き締まった鋭角的なあごとその上にある色気を含んだ薄い唇を眺める。
「出かける前に君の可愛い顔が見られて良かった」
 その外見だけで人を地に叩きつける事が出来るくせに、びっくりするほど真剣な眼差しでそう言うから、「嫌味ね」と言って 笑い飛ばすことも出来ない。ただただ俯いて、困り果てながらつま先を眺めるのが最近のパターンだ。隣から感じる瑛士の刺さるような視線が痛い。
 二週間ほど前に告げられた万莉亜の告白に対して、彼はこれといった答えを返さなかった。
 ただ、噛み付くようなキスをして、しばらく抱きしめた後、黙って部屋まで送り届けた。その間ずっと、困ったようにして 眉をひそめていたのを万莉亜は知っている。
 自分の告白は、思っていたよりも彼を困らせてしまったらしい。だから万莉亜も、答えはいらないと思っていた。 きっと、複雑な事情あるのだろうと解釈した。少なくとも、思いを告げられたことで、万莉亜の心は驚くほどにすっきりしたから、 それでいいと思っていた。何も変わらなくていいと自分を納得させた。
 ただ、そんな万莉亜の思いとは裏腹に、彼は言葉の代わりに態度で示し始める。
 過剰だったスキンシップは、タガが外れたようにしてより過剰に。ついでに砂を吐くような甘い台詞まで付いてくる。
 この斜め上を行く変化に万莉亜は少し困惑していたが、情けない事に、それが嬉しい自分がいるから手に負えない。
 言葉は力だとつくづく思う。
 ぼんやりとしていた淡い思いも、口にした瞬間、揺るぎがたい事実となる。
 口に出した瞬間、それは明確に恋になる。
「送迎にはルイスをやるよ……万莉亜?」
「は、はい……!」
 ぼーっと見とれていると突然顔を覗きこまれて慌てて返事を返す。
「少しまぶたが腫れてる。寝不足?」
「え、あ……はい。少し」
 目ざとく見抜かれて両方のまぶたを覆うように手を当てた。
「そっか。テストだったんだよね。どうだった?」
「……き、聞かないで下さい」
 情けない声でそう言うと、隣で「バーカ」と小さく茶々を入れる瑛士の声が届いた。
「うるさいよ」
 しかしすかさずクレアに睨まれ、瑛士はフンと鼻を鳴らし適当に床をモップでみがく作業へと戻る。 それを監視するようにしばらく眺めた後、彼はもう一度笑顔を作って万莉亜に振り返った。
「大丈夫だよ。いざとなったらテストの成績くらいどうにでもなるからね」
「え……」
「どうにもなりませんよ、クレア」
 今にもくっつきそうなほどに密着して立っている二人の男女の間に、冷たい声が割って入る。
「仮にも歴とした私立高校なんですから。理事長といえども他の保護者に顔向けできなくなるような不正は許しません」
 言いながら厳しい目つきを主人に送るのはいつの間にかその場に立っていた従者のルイスだった。
 灰色のスーツの上に、かっちりとした黒いコートを羽織った彼は、その長身のせいもあってか、異様な迫力をかもし出していて万莉亜は 息を呑んだ。
「ルイス。そう固い事言うなよ」
 愛しげな視線を万莉亜に向けたまま、振り返りもせずそう答える主人に呆れたようにしてため息をついた後、ルイスは 右腕の時計に目を落として彼を急かした。
「いいんですか? もうとっくに時間は過ぎてますよ」
「少しくらい待たせたって構わないよ。ていうか、黙っててくれないかな」
 先ほどから入る第三者の茶々を心底鬱陶しそうに一蹴すると、彼はもう一度ニッコリと微笑んで 万莉亜の頬に手を伸ばす。しかしそんなやりとりを不思議に思った万莉亜が今度は口を開く。
「誰かと、約束ですか?」
 黒目がちな瞳をキョトンとさせて見上げる彼女に観念して、一瞬考え込んだ後、実にどうでもいい風に語る。
「うん、まぁ、昔の知り合い。それが無骨な男であんまり好きじゃないんだけど、ちょっと用があってね」
「お友達?」
「そうそう」
 聞かれてもいないのに「無骨な男」だと主張する辺り、随分怪しいもんだと瑛士は 内心で呆れてしまうが、肝心の万莉亜は疑う気配すら見せず意外そうに頷いている。
――クレアさんに……友達。なんか、意外……
 そんなこと言ったら、怒られてしまうだろうか。
 何となくそれが新鮮で、もっと聞いてみたい気もしたが、時間の無い今引き止めるのも悪いので万莉亜は 素直に頷いて「いってらっしゃい」と彼に声をかけた。するとクレアは嬉しそうに目を細めて、万莉亜のまぶたに唇を寄せる。 反射的にぎゅっとつぶってしまったその上に、柔らかい唇の感触が伝わって、体中が火照りそうな錯覚に陥った。
 これが日常茶飯事なのだ。
 免疫の無い万莉亜では、そのうち熱に浮かされて倒れても不思議じゃない。
「あんまり無理はしないようにね」
 耳元でそう囁くと、彼はルイスから渡されたグレーのコートを羽織って、一足先に螺旋階段へと消えていった。
 ふわふわとした気分でその後姿を眺めていると、隣で盛大に響いた瑛士の舌打ちで我に返る。
「ったく、あっちでイチャイチャこっちでイチャイチャ」
「……ご、ごめんなさい」
 今度ばかりは、顔を真っ赤にして謝るほか無かった。



******



 午後五時半から始まった喫茶店でのアルバイトは、終了間近の9時過ぎまで何事もなく 平穏に過ぎていった。
 クレアが居ないせいか、気持ち客の入りは悪く、滞在時間も短い気がする。久しぶりのアルバイトだった万莉亜にとって これはラッキーだったし、マイペースで仕事を丁寧にこなせるのは気分が良かった。
 チラチラと窓際の席で大人しく絵本を読んでいるシリルを気にかけながらカウンターを拭いていると、カウンター席に座っていた常連客である 女子大生がこちらに話しかけたそうにしてソワソワしている事に気付く。万莉亜は手を止めずに彼女に向かって微笑むと、相手が思い切って口を開いた。
「今日は彼氏来ないの?」
 唐突に切り出されて手の動きが止まる。
「いつもあそこの席に座ってる、クレアちゃん」
 もう一度、彼女は窓際の席を指差しながら小さく笑みを零した。
「あ、あの……」
 どう答えていいものか戸惑った万莉亜は、持っていた布巾をグシャグシャに握り締めて耳を赤く染める。 この会話を、奥にいるマスターが耳を潜めて聞いていることにも気付いていたので、余計に気恥ずかしい。
「あの子って、留学生か何か?」
「え、えと……いえ、あの、え、英会話学校で……その、知り合って……」
 設定としては彼は英語がさっぱり話せないことになっているのだが、咄嗟に出てきてしまったでたらめを 引っ込めるわけにもいかず、万莉亜はどんどんと嘘の上塗りを続ける。
「い、一緒に英語の勉強をしているんです。それに、か、かか彼氏とかじゃないんです! が、学校が一緒ってだけで……」
 緊張するとどもってしまう癖がここぞとばかりに発揮されて、ろれつの回らない舌を恨みながらヘラヘラ笑うと、 彼女は「へぇ」と素直に感心して頷いて見せた。
「すごく綺麗な子だから、見るの楽しみにしてたんだけど、今日はいないでしょ?ちょっと残念でね」
「あ、あの……ご、ごめんなさい」
「やだ、謝らなくっても」
 ケラケラと笑い出した相手に、ほっとして万莉亜も息をつく。それからちょっとした罪悪感も。
 彼女は、以前万莉亜と人違いをされて第四世代に目を付けられた常連の女子大生だった。
 彼女の与り知らぬ所で、万莉亜やクレアの存在が、その命を危険に晒してしまったのに、今目の前の女性は 何も知らずに自分とクレアに好意を寄せて話しかけてくれている。それが、なんともいたたまれない。
「私ね、すごくいいなって思ってたの」
「え?」
「最近女性のお客が増えたじゃない? みんながみんなチラチラあの子を見ていくのに、クレアちゃんは そんなの全部無視してあなたを見てるでしょ。あれって、意識してやってると思うの」
「……はぁ」
「そこにすごく誠意を感じるの。見ててすごく気持ちいい」
「…………」
「お国柄かしら」
「……さぁ、ど、どうでしょう……」
 困り果てて俯きながら赤くなった顔を隠していると、彼女は楽しそうに万莉亜を覗き込んで片方の眉を持ち上げた。
「付き合ってあげればいいのに」
「えっ……!」
「絶対あなたのこと、好きなんだと思うけど」
「…………」
 その時、自分がどんな表情をしていたのかは分からなかったが、よっぽど複雑な色を浮かべていたのだろう。 彼女はしばらく万莉亜の顔を見上げた後、静かに姿勢を正してアイスコーヒーのストローを指先で弄び始めた。
「まぁ、色々あるよね」
「……あ、そ、そんな……ことは……」
 色々ありすぎて、実際のところはもうどうしようもない。
 こんな風に彼のことでからかわれるたびに、自分は嘘をつかなくてはならない。だから、 他愛もない恋の話を単純に楽しむことも出来ない。誰にも、真実を打ち明けられない。
 本当は、すごく嬉しいのに。

 午後九時半。
 久しぶりに客が引いたその時刻に、万莉亜はレジを閉め終えて、制服から私服へと着替える。
 黒いエプロンを脱いで、ジーパンとパーカーに着替えると、どっと疲れが押し寄せて奥の部屋の簡易な丸イスに 腰を降ろしため息をついた。
――疲れたなぁ……
 昨日ろくに寝ていないせいもある。
 それから、遅れ気味だった授業を取り戻すべく連日深夜までテスト勉強をしていた、そのしわ寄せもあるだろう。 どうしようもなく気が抜けて、ついつい呆けてしまう。
――今日は、早く寝よう……
 そう考えて思い腰を上げ、マスターに挨拶をしてから店を出ると、待ちくたびれていたシリルの横に、いつの間にか 迎えに着ていたルイスの姿を見つけた。
「お疲れ様です」
 そう告げると彼は素早く万莉亜の鞄を手に取り、脇に止めてあった車のドアを開けて彼女を迎える。
「ありがとうございます、ルイスさ」
「万莉亜! 公園は?」
 言葉を遮って入ってきたシリルの声に、それがあったか、とがっくり肩を落とす。
「シリル、今日は我慢しましょう」
 万莉亜の疲れを見抜いたのか、すかさずルイスがそう嗜めると、彼女は悲痛な声で 叫び出した。それから車に乗ることを拒否し、そのまま路上で地団太を踏み始める。
「シリル、シリル! ちゃんと寄るから、ね? ルイスさん、いいですか?」
「……ですが」
 怪訝そうに万莉亜の顔色を覗き込もうとする彼ににっこりと微笑んで、万莉亜が地面に横たわったシリルを抱き起こす。
「約束だもんね。行こう、公園」
「うんっ!」
 そう言って車に乗り込んだ女性二人。ルイスは困ったようにして微笑みながら、結局万莉亜の言う通りに車を走らせ、 目的の公園へと向かった。

 目的地へ到着すると、シリルは一目散にお気に入りの滑り台へと駆け出していく。
 その様を遠目で眺めながら、万莉亜とルイスはただ黙ってベンチから見守った。
「狭いですよね、この公園」
 沈黙を恐れてまず最初に万莉亜がそう切り出すと、ルイスは辺りをぐるりと見回してから頷く。
「あそこにあるマンションが管理してる公園なんです。だから、ここはあそこに住んでる子供達が たまに使うくらいで、大抵は無人なんですよ」
「なるほど」
「いつかもっと広いところで、みんなと遊べると良いねって、よくクレアさんとも話すんですけど」
「……そうですね。シリルは、きっと喜びます」
 その光景を想像しているのか、穏やかに微笑んでいるルイスの表情が嬉しくて、万莉亜も顔をほころばせた。
「みんなで来られるといいですね。クレアさんや、ハンリエットさんも、あと瑛士くんも……それに」
 そう続けて、万莉亜は口をつぐむ。
 彼女が何を言いよどんだのかに鋭く気付いたルイスは、ゆっくりと首を振り、彼女を気遣うような声色で語りかけた。
「……梨佳さんのこと、気にしていらっしゃる?」
「…………」
「あなたが背負う必要はありません。絶対に」
「……でも……」
「彼女は、もうマグナではありません」
 その言葉に、万莉亜は眉根を寄せながら隣の男性を見上げる。
「マグナではないんです。元々、彼女にはその資質がありませんでした」
「…………」
「早い段階で分かっていたのに、目を逸らしていたんです。あなたには言うなと口止めをされていましたが、まぁ、問題ないでしょう。 そのうち明らかになることですから」
「……ど、どうして……」
「無理に続けさせても、悪戯に彼女を危険に晒すだけですから。もちろん、梨佳さんはそうは思わないでしょうね」
「…………」
「惨いと思いますか?」
「…………」
「私は、惨いと思います。彼女は人形じゃない。感情がある生き物ですから、とても深く傷ついている。 特に梨佳さんはクレアに依存していましたから、心の傷は深く残るでしょう」
 その言葉とは裏腹に、彼の口調には怒りや哀れみが感じられなかった。ただ淡々と、静かに言葉を紡いでいるだけ。
「……それじゃあ、……あんまりです」
 自分が言えた立場でないのは百も承知で、万莉亜は拳を握った。
「ルイスさんは……何も思わないですか? 先輩の、ずっと先輩の傍にいて、何も思わないんですか?」
「……私ですか?」
 膝の上の拳を見下ろしながら万莉亜が小さく頷くと、隣で彼が足を組みかえる小さな布ズレの音がした。
「そうですね。……色々、思うところが無いわけではありません。ですが……」
「……?」
「私は傍観者に努めようと思っています」
「そんな……!」
 思わずそう零して隣の男を見上げると、意外にも穏やかに目を細めている彼に勢いをそがれて万莉亜は 黙って視線を戻す。彼の心境などさっぱり分からなかったが、その悟ったような瞳に、自分が何かを訴えかけることなど 到底不可能に思えた。
「私はただ、見届けたいのかも知れません。一度は死に絶えた身です。もうこの手で何かを成し遂げようなどとは思いません。 ただ、静かに見届けたいのです」
「……先輩の、事をですか?」
「そうです。それに世界の移り変わり。まだ知らない日本の文化。全てです。全てに興味があります」
「…………」
「ただ、知る事が出来るだけでいいんです」
「ルイスさん……」
 それは本心からなのか、そうではないのか、淡々とした彼の口調から読み取ることは不可能で、万莉亜は 黙って目を伏せることしか出来なかった。
 シリルと同様、彼にも辛い過去があったのだろう。その強い怨念でクレアを引き寄せてしまうほどの、悲しい恨みが あったに違いない。だけどそれを乗り越えた今、彼が穏やかな気持ちでいられるのならば、もう自分に言えることなど何もない。
 梨佳のことで憤ってくれない彼を、薄情だと罵りたい気持ちもあったけれど、きっとそれは、お門違いなのだろう。
「私……、先輩のこと、苦手だったんです」
 滑り台をのぼるシリルを眺めながらぽつりと漏らすと、隣で小さくルイスが笑う。
「今でも、苦手です。……ううん、ほんとは、嫌いなんです」
「そうでしょうね」
「……でも、その百倍、先輩は私のことが嫌いですね……きっと」
 そうでしょうね、とルイスが繰り返す。それから、彼がこちらを向く気配がして、 万莉亜も視線を上げた。シリルと同じ色をした毒々しい赤い瞳は、見慣れたせいか、もう奇妙でもなんともなくなっていた。
「誰かに恨まれることが、恐ろしいですか?」
 ストレートに投げかけられた言葉に、素直に頷く。
 誰かに刃を向かれることが、恐ろしくて仕方がない。だからみんなにいい顔をしたい。 たとえ偽善者だと罵られても、敵を作るよりは何倍もマシだと、そう思っていた。
「素敵だと思います。それはあなたの弱さではあるけれど、それがあなたが皆に好かれる所以だと、僕は思います」
「……」
「割り切れない甘さを持った人が、僕は好きですよ」
「……」
「とても、人間らしい」
 感慨深げに呟かれた言葉に小さく頷いて、月を見上げた。
 いつもと変わらない白い月は、今夜も淡い光を放つ。
 それが想う人のブロンドを思わせて、万莉亜の胸は自然と締め付けられた。
――会いたいな……
 ただ無性にそう感じると同時に、気が滅入ってしまうのを止められない。
 割り切れたら楽なのだろうか。
 出来もしないことを考えて、そっとため息を零した。
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