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 ヴァイオレット奇譚「Chapter32・"発熱"」



 新調したばかりのカーテンを取り付けて女が微笑む。
「素敵な色だと思わない?」
 肩まで伸びたブルネットの髪を後ろへ払いのけながらヴェラが言うと、キッチンからカップ片手にクレアが 頷いた。
「素敵だね。そのはしばみ色」
「……カーキーなんだけど」
「似たようなもんだろ」
 幾分冷たい口調で答えると彼はまだ湯気の立つカップを口につけたまま、手元の書類に目を落とす。
――高くついたんだか、安くあがったんだか……
「でも意外だった」
 目を伏せたまま頬杖をついていると、リスのようにくりっとした瞳でヴェラが 覗き込んできた。その視線は挑発的で、隙が無い。そのくせにっこりと微笑めば唇の隙間からは先の尖った糸切り歯が覗いて、それが 彼女の印象をほんの少し幼く見せてしまう。女性らしい完成された体つきとはアンバランスなあどけなさの残る一面。
 何も自分に縋らなくても、彼女の可愛らしさなら喜び涙を流して金を積む男がごまんといるだろうに。
 そんなくだらないことを考えて、クレアは一人自嘲気味に唇の端を持ち上げる。
「何笑ってるの?」
「別に。何が意外だって?」
 適当に誤魔化せば、ヴェラは一瞬だけ眉をひそめたあと、書類の散らばっているテーブルに乗り上げて座る。
「どうしてこんな面倒な手続きしたの? 馬鹿みたいにたくさんサインしたり、ましてやお金を払うなんて」
「不動産業はボランティアじゃないんだよヴェラ。知らないかもしれないけど」
「……知ってます。いちいち嫌味なのね。聞いてるのは、どうして洗脳しなかったかって事なんだけど」
 じっとこちらを見下ろしながら聞いてくる彼女に、さてどうしたものかとコーヒーにもう一度口をつける。

 ヒューゴの実妹であるヴェラに会ったのは今から一週間前。
 学園の周りに、第四世代の気配が張り付いていることに気付いていないわけではなかったが、長いこと無視を続けていた。
――「私と取引しない?」
 しばらくして気まぐれに出向いてやったクレアに、彼女は開口一番そう言ってのける。
 条件がさほど悪くなかったことはもちろん、第三世代を前にしても揺るがない彼女の堂々たる度胸に 感服したのもあったのかも知れないが、クレアはその条件をのみ、今にいたる。
 接触を第三者に知られないためにも頻度は最小限に抑えるべきだと考え、二人がきちんと会うのは昨日も含めてこれが三度目だが、 ヴェラはすっかり気を許した様子で、今も薄手のシャツ一枚羽織っただけの姿ですらりとした長い足を組み替えた。
 しかし考えてみれば、彼女は初めからこの調子だったのかも知れない。
 それをこちらが、強がりのポーズだと勝手に決め込んでいただけで。

「君が、最初に言い出した取引の内容、覚えてる?」
 今また目の前で組みかえられた白い足には目もくれずクレアが問いかけると、ヴェラは少し不服そうな 表情をした後軽く肩をすくめて見せる。
「知らない。確か……ヒューゴの情報を売るから、マンション買って、だったっけ?」
「そう。その後に、住所不定じゃ働き口が見つからないって言ったんだ」
「言ったけど……、でも、それが何?」
「人間社会で真っ当に暮らそうとしてる君の家を、ふざけた方法で買いたくはない」
「…………」
「納得した?」
「……まぁ……少しは」
 そう言って視線を逸らしかけたところで、はっと何かを思い出した彼女が厳しい顔つきで 再びクレアの瞳を捕える。
「ていうか、そもそも買ってもらってないよ!」
「十分だろ。君の望んだクラスのマンションだ。保証人にもなってやったし、家賃は一年分前払いしてある。ついでに家具一式揃えたんだ。 言わせてもらえば、最後のは完全なるサービスだよ」
「約束と違うっ」
「それはこっちの台詞だ。まさか、あれっぽっちの情報だなんて夢にも思わなかった」
「だってしょうがないじゃない。出てきちゃったんだから、これ以上は知らないくて当然でしょ」
「高く売れてよかったね」
「……っ」
 不満をあらわにして眉を吊り上げているヴェラを横目で一瞥しながらクレアは半分ほど飲み終えたコーヒーをテーブルに戻して それからリビングに移動し、ぐるりと部屋を見回した。
 白い壁に真新しいカーキーのカーテン。それからアイボリーで統一した家具と大きなテレビ。 そして、外見年齢が二十歳そこそこのヴェラには少し不釣合いなテディベア。これがまた巨大で、ソファのほとんどを占拠している。
「意外に少女趣味なんだね」
 彼女ではなく、そのぬいぐるみに向かって呟くとクレアはその横に腰を降ろしてゆっくりと息を吐いた。
 心臓がひどく痛む。
 ぎちぎちと押し込められたそれが一歩歩くごとに悲鳴を上げて、さっきから気分は最悪だった。
「顔が真っ青よ」
 キッチンにいたはずのヴェラが今度はぬいぐるみを押しのけてクレアの隣に座る。それから彼の 顔を覗きこんで、どこか愉快そうにそう尋ねた。
「やっぱり、ソレって痛いの?」
「……気になるなら、試してみたらどうかな」
「嫌よ! さっきだって見てるだけで卒倒しそうだったんだから。バスルーム、まだ一回も使ってないのに 血だらけにしてくれちゃって。ああいうことは自分の家でやってよね」
「第四世代を一匹預かってるんだ。隙を見せるわけにはいかない」
「私だって第四世代なんだけど」
 不可解そうに首を傾げる彼女に、息を吐いて痛みを逃がしながら薄く微笑んだ。
「そういう意味じゃない。これは、メンツの問題なんだ。男としてのね」
「……どういうこと?」
「分からなくてもいいよ」
 もう喋るのもだるそうにしてソファの背もたれに頭を乗せる。
 脳裏に浮かんだのは、生意気そうな釣り目をした若い少年だった。
 本能なのだろうか。
 自分のマグナに近づかれると、それがどんなに小物であっても馬鹿馬鹿しくなるほど警戒してしまう。
 瑛士を学園に置いてはやれないだろうかという万莉亜の申し出は始めから予想していたが、 誤算だったのはルイスまで折れてしまったことだ。もう少し粘るかと思っていたのだが、彼はクレアの意思を 尊重して瑛士を受け入れた。そんなところまで尊重しなくてもいいのにと心の中で鳴らした舌打ちは、おそらく 届いてないのだろう。
――まったく……
 今更追い出したら他の誰でもない万莉亜に大ひんしゅくを買ってしまうだろう。だからもう、 今は現状を受け入れるしかない。自分がこんな風に不満を持っていることをあの少女は露にも思っていないのだろうな。 そう考えると、なぜか心がいっそう重たくなった。いい顔し続けるのも、そうそう簡単ではない。
「ねぇ、テレビ見てもいい?」
 隣で、ヴェラがそう聞くから、目を閉じて天井を仰いだまま「どうぞ」と答えた。
 彼女がリモコンを手にして、買ったばかりのテレビのスイッチをつける。抑揚の無い声をしたアナウンサーの読み上げる ニュースが流れ始めた。
「……ヒューゴは、テレビをつけると怒ったの。うるさいって」
「随分神経質なんだね。クマみたいな顔してるくせに」
 そう言ってやると隣にいたヴェラが盛大に噴き出した。
 大きな体に、非常に男性的な目鼻立ち、そして四角い顎。狩った獲物を生で食べてしまいそうな 見た目をしているくせに、テレビの音量にケチをつけるのか。
「ヒューゴは、繊細なのよ」
 まだクスクスと笑いながら彼女が言う。
「自分の外見も好きじゃなかったみたい。アンジェ、……あの女は見た目の綺麗な人間が好きだから」
 一瞬言葉を置き換えたヴェラの心境を心で思い浮かべながらクレアが頷く。 さすがに、第二世代ともなると名前を呼ぶことすら躊躇われるのだろうか。
「それについてヒューゴは強いコンプレックスを持ってる。でも私思うの。少しの間だけど、 あの女の近くにいてすごく感じちゃったの……彼女は、結局クレアの代わりを探してるだけなんだって。全く同じものを 望んでいるって」
「そう」
「……あの女から逃げても無駄だと思う。ましてや心臓にそんなもの詰め込んで抵抗するなんて馬鹿げてる。 傍にいたから分かるわ。あれはもう、第二世代っていうのは、全然次元の違う生き物よ」
 彼女の声が、かすかに震えている。
「そうだね」
「あなたに挑むヒューゴも馬鹿だけど、あなたはそれ以上に間抜けかもね」
 大きなため息をつきながらヴェラが零すと、クレアは唇の端を持ち上げながら彼女に視線を送った。
「それは、心配してくれてるのかな」
「……大事な金づるだもん」
「なるほど。第四世代のパトロンを務めるのは君で二人目だ」
「私が自立するまでは、ヒューゴの代わりを務めてもらわなくっちゃ」
 悪戯っぽくヴェラが微笑めば、唇の隙間から愛らしい糸切り歯が覗いて、クレアも目を細めた。
 第四世代と馴れ合うのは主義に反するが、それでも彼女を疎ましく思えないのは、 やはりその愛らしさと、聞かされた境遇のせいかも知れない。ヴェラもまた、親世代のご都合で無理やり作られた異端。 自分と同じようなルーツを抱えながらも、それでもこうやってごく自然に諸悪の根源である兄を語る彼女を見ていると、なぜか心が安らいだ。
「クレアの方が楽でいいな。ヒューゴみたいに神経質じゃないし」
 言いながら彼女が肩にもたれかかる。
「どうしてあんな風になってしまったのか、私には全然理解できない。昔は、普通の兄だったのに、 あの女に出会って全てが変わっちゃったの」
「運命の出会いってわけだ」
「今のヒューゴは、必死にクレアに成り代わろうとしてる。だけどそんなの無理でしょ?  誰かが誰かの代わりになるなんて、ありえないでしょう? だとしたらヒューゴは、一体いつ自分に満足できるのかな」
「さぁね。……ただヒューゴのコンプレックスは少し的外れかな」
「……は?」
「アンジェリアは面食いじゃなくて、単なるペドフィリアだよ」
「まさか……」
「幼い子供にしか興奮しないんだ。どうしても気に入られたかったら、彼女の前で指でもしゃぶってみたらいい」
「冗談でしょ?」
「そうかな。僕だって成長したら捨てられたわけだし」
「…………」
「彼女が変態なのは、僕が一番知ってる」
「……まじ?」
「それも筋金入りのね」
 見る見る引きつっていくヴェラの表情を内心面白がりながら、くだらない話をしている間に少しずつ馴染んできた 胸をそっとなでる。ひどい痛みはまだあるが、隠し通せないほどではない。二、三日は持ちこたえられるかも知れない。
「そういう嗜好って虫唾が走る」
 小さく零されたヴェラの声色にはありありと軽蔑の色が浮かんでいた。
 今の話は、半分真実で半分は誇張だ。
 アンジェリアはペドフィリアではないだろう。ただ、もっとやっかいな嗜好を持っている。それは とても一言では語りつくせないし、一概に分類することも出来ない。
 ただ一つ分かっているのは、彼女が求めているのはクレアでもヒューゴでもないということだ。
「さてと」
 絡め取られていた腕をヴェラからそっと引き抜いて立ち上がる。
「そろそろ僕は失礼するよ」
「もう帰っちゃうの?」
「うん。もうこんな時間だ」
 そう言われてヴェラが白い壁にかけてある時計を見上げる。
 時刻は夕方の五時を回ったところだった。
「小学生みたいな事言うのね。怖いママが待ってるって?」
 背中からそう投げかけられた言葉を無視してコートを羽織り玄関へ向かう。
「バスルーム掃除して行きなさいよ」
 足を止めない彼にイラついてコートの裾を引っ張ると、クレアは内ポケットから数枚の お札を取り出して彼女に手渡す。
「悪いけど業者でも呼んでくれる? 言い訳は適当に考えて」
「あ、あんな血だらけでどう言い訳しろってのよ」
 そう突っ込むと彼はおかしそうに微笑んでそのまま靴を履き玄関のドアノブに手をかける。 それを慌てて追いながら、ヴェラは必死に引き止める口実を探していた。
「ね、ねぇ! 何をそんなに急ぐの?」
「言ったろ。もうこんな時間だ」
「何それ。私なんかといてもつまらないなら正直にそう言えばいいのに」
 そう言って拗ねたように唇を尖らせる彼女を少し意外そうな表情で見つめた後、 彼は「とんでもない」と首を振った。
「君と居るのは楽しいけど、もうすぐ僕のマグナがアルバイトを終えるんだ」
「……は?」
「迎えに行かないと。昨日は同伴できなかったからね。手を抜いてきたと思われたくない」
「アルバイト……してるの? マグナが?」
「笑っちゃうだろ。君にはこんなに貢いでるのに」
 どの異端の間にも共通としてあるのが、マグナは非常に貴重な存在という認識だ。
 大いなる母、という意味で呼ばれるその存在は、大抵の場合種付けをする異端から手厚く扱われ、 これでもかというほど贅沢に囲われるのが常だった。もちろん、マグナが支払う代償を考えれば、 それでも安いくらいなのだが。
「マグナに働かせてるの?」
 半信半疑で投げかけられたその問いにクレアは心外そうに眉を上げて短いため息をついた。
「機会があったら君も説得してくれると助かるよ」
「…………」
「この件に関しては、驚くほど強情で困ってるんだ」
 そう言って掴まれていたコートの裾をそっと取り返し、彼が玄関のドアをすり抜ける。
「さよならヴェラ。いい就職先が見つかるといいね。それと情報をありがとう」
「……思って無いくせに」
「いや、本当に助かった。でも出来ることなら、もう二度とこちらには関わらない方がいい」
「…………」
「人生に満足して、死にたくなったらまた僕のところへおいで」
 ドアの隙間からそう微笑んで、クレアの姿が消える。それから遠ざかっていく足音。
 リビングから聞こえてくるニュースがやけに遠く聞こえた。
 それからフラフラと玄関を後にして、リビングにあるソファに座りこむ。
「満足……か……」
 一人呟いて、そばにある大きなテディベアに抱きついた。ふわふわとした感触の中に顔を埋めて、 彼の言葉をもう一度反芻する。
――人生に、満足したら……
 頭に浮かんだのは、いつも歪んで見える兄の顔。
 哀れなほどに幻を追いかけ続けている、滑稽な兄の姿。



******



 テスト開けの連休二日目。
 昨日と同じようにしてアルバイトを続けているうちに、「テスト明けで気が緩んでいる」という持論が だんだんと崩れかけていることに気付き始めていた。体は重く、歩くたびに関節が悲鳴を上げる。 仕事の合間にアイスコーヒーを流し込んで誤魔化し続けていたが、喉は時間がたつごとにその痛みを増す。 昨日やけに眠かったのは、単に風邪の前兆だったらしい。
「もう上がっていいよ」
 朝から働きづめの万莉亜に、マスターがまた同じ台詞を言う。
 しかし、時刻はすでに夕方の五時半。後三十分も働けば予定どうりに終了できるのだから、 今更早く切り上げるつもりはない。
「大丈夫ですよ。あと三十分ですから」
 先ほどはあと一時間ですから、と答えた。その前は一時間半。
 結局心配顔のマスターをよそに、万莉亜は粘りに粘ってその日の仕事を全うした。

「万莉亜、汚い!」
 奥の休憩室で着替えている最中、思い切りはなった万莉亜のくしゃみを頭からかぶったシリルが叫ぶ。
「ご、ごめっ……ぃっグシュッ!」
 謝りながら今度はすんでの所で両手で口元を押さえる。
 それでなくとも今日は随分と冷え込むというのに、風邪の悪寒も手伝って全身に立った鳥肌がどうにもおさまらない。
 さすがに明日のバイトはマスターに断られてしまったが、それで良かったのかも知れない。意地でも 今晩から明日にかけて治さなければ、またアルバイトに支障をきたす。
――ああ、でも……
 明日は祖母の見舞いに行かなければ。
 こちらも、テストのおかげで先週は会いにいけなかった。となると、今晩中に治さなくてはならない。 万が一にでも祖母に風邪を移すわけにはいかないのだ。
「今日はどっちのお迎えかなぁ」
 休憩室の簡素な黒いソファで絵本を広げながらシリルがそう言って隣に座っている万莉亜を見上げる。
「万莉亜はどっちだと思う?」
「うん? うーん、ルイスさんかな」
「えー」
 シリルがあからさまに嫌な顔をする。
「ルイスは、すぐ帰ろうっていうからやだ」
 昨日の公園の件を根に持っているのだろうか。
 クレアが普段遊ばせてくれる時間の半分もたたないうちに「帰りましょう」と 切り出したルイス。万莉亜の体を気遣っての発言だったが、シリルは不満を露わにしていた。
「でも、クレアさんはまだお出かけしてるかも」
 そう言って万莉亜が豪快に鼻をかむ。
 それを横目で眺めながら、シリルが盛大なため息をついた。
 今日の朝万莉亜が新校舎の五階を訪ねたとき、クレアはすでに出かけた後だった。 昨日の夜は結局会えなかったので、「居たらいいな」とほんの少し期待していたのだが、その小さな期待は 泡と消え、そのうち体調不良でそれどころでは無くなった。
 今にもぶっ倒れてしまいそうだ。とにかく一刻も早く、寮のベッドで眠りたい。
――そうだ……点呼があったんだ……ああ、あと……公園も寄らないと……
 面倒だなと思いながら重たい頭を背後の壁に預ける。
 昨日だってぐっすり眠ったはずなのに、全然疲れが取れていない。寝ている間中全力で 走り続けていたような、そんなぐったりした気分で目が覚めた。多分、見ていた夢のせいだ。 でも、その内容を覚えていない。それはいつもの事だから良いとして、ただこんな時ぐらいは、 夢も見ないで穏やかに眠れたらいいのに。


「……っ」
――……あれ……?
 息苦しさの中で目を覚ます。それも当然だった。
 身動きも出来ないほど狭くて四角い空間に膝を抱えてうずくまっている。
――まただ……
 すぐに夢だと気付いた。
 この夢を見るのは、何回目なんだろう。それなのに、目が覚めるといつも忘れてしまう。
 真っ暗な空間の中、為す術も無くじっとしていると、やがていつもの荒々しい足音が聞こえてきて、 それが万莉亜の前でピタリと止まる。これがいつも、怖くて怖くて仕方がない。
 息を殺して耐えていると、突然大音量で軽快なメロディが鳴り響いた。驚いて心臓が跳ね上がる。それでも、 万莉亜は声を漏らさなかった。この夢は幾度と無く見た。だからこれから、何が起こるかも知っている。
 このドアは絶対に開かない。この狭い空間は、とても恐ろしいけれど、とても安全だということを知っている。
 それなのに、今日は隙間に人差し指が差し込まれる。
「……ひっ……」
 突然の事に思わず堪えていた声が漏れた。
 僅かな隙間が広がるにつれて軽快な音楽がその音量を上げていく。どんどん大きくなって、 それはそのうち、ガチャガチャ騒ぎ立てるただの騒音に成り下がった。
 やがて隙間から入り込んできた指が引き抜かれ、万莉亜が震えながらそこを凝視していると、 突然人間の目が覗く。
「いやああぁっ!」
 後ずさりしようにもどうにもならない空間で、万莉亜はパニック状態に陥り叫んだ。
 視線は真っ直ぐ万莉亜に向いている。その眼球は、とても人間のものとは思えない、おぞましい紫に濁っていた。
「いやあああっっ……!」
「万莉亜!」
「やめてっ……やめてぇえっ」
「万莉亜、目を開けて」
「やめてぇ……っ」
「それは夢だよ」
「……やめ、て……」
「いい子だから、目を開けて」
「…………」
 まるで導かれるようにして、その声のままにゆっくりまぶたを持ち上げる。
「おはよう」
 眩しい金髪とともに飛び込んできたのはクレアの微笑だった。
「……クレ、アさん……?」
 真上から自分を見下ろしている彼の顔をまじまじと眺める。彼が瞬きをするたびに、しばたたく金色の睫毛がキラキラと光った。
「クレアさんっ!?」
 やっと覚醒した瞬間、自分の真上に彼の顔がある事に驚いて万莉亜が飛び起きる。
 考え無しの彼女の行動に、あわや額と額が衝突するかと思われたその瞬間、クレアがひらりと身を起こしてそれをかわした。
「おはよう。気分はどう?」
 そう問われて万莉亜が辺りを見回す。
 今横たわっていたベッドが寮にあるものでもなく、ましてや五階にある私室の華美なものでも無いことに一瞬混乱したが、 おちついて見るとそこは見覚えのある理事長室だった。つまり、クレアの私室だ。とりあえずそれを確認できた事に満足して 今度は視線を下すと、パーカーとジーンズだったはずの自分がいつの間にかシルクの寝巻きに着替えている事に仰天し、 さらにそのスルスルとした肌触りから上半身の下着まで剥ぎ取られていることを知り引っくり返りそうになる。
「待って。一気に全部答えるよ」
 真っ赤になって言葉を失っている万莉亜の横に腰を降ろすと、クレアが指先で彼女の頬を撫でながら先回りをする。
「まず僕が迎えに行くと君はアルバイト先の休憩室で寝ていた。起こすのも忍びなかったのでそのまま車に乗せた。 それから僕の部屋で寝かせた。具合が悪そうだったからね。ここまで質問は?」
「……あの、わ、私の……服は……?」
「そうそう。そのままじゃ寝苦しいと思って」
「……っ!!」
「ハンリエットが君を着替えさせた。君は一時間くらい眠っていたよ。質問は?」
 全身で安堵してからはたと大事な約束を思い出して顔を上げる。
「シ、シリルは……? 私、公園の約束が……」
「今近所の公園に瑛士が連れて行ってる。あいつにも使い道ってあったんだね」
 なんとも辛辣な言い方だが、とにかく万莉亜はほっとして息をつく。
「……信じられない。あんな所で寝ちゃうなんて」
 ほんの少し目を閉じていただけのつもりだったのに。
「きっと疲れていたんだよ。テストもそうだけど、ここ最近君はずっと色んなトラブルに巻き込まれっぱなしだったからね」
 僕のせいで、と付け足して自嘲気味に微笑むクレアに万莉亜が慌てて首を横に振った。自分が選んだことなのだ。 誰のせいにも出来ない。
「君はもううんざりしてるだろうけど」
 そう前置きしてから彼が懇願するような視線をこちらに向ける。それだけでこの先の言葉は容易に想像できた。
「やっぱり、アルバイトは辞めてくれないかな。身の回りの面倒なら、全部僕が」
「ダメです」
 すかさず万莉亜が断固とした口調で遮る。
 クレアは覚悟が出来ていたのか一旦目を伏せると、今度は新しい切り口で食い下がってきた。
「それじゃあ、考え方を変えよう」
「……え?」
「僕がこうやって君を拘束している間、お金を払う。君の時間を買うよ。それでもダメかな」
「……そ、そんなの、ダメに決まってるじゃないですか!」
 何考えてるんですか、と言い捨ててプイッと彼から顔を逸らした。
 会いたくて、傍に居たくて、そうしたいからそうしているのだ。お金を貰う筋合いは無い。
――やっぱり……クレアさんにとって、私はマグナなんだ……
 クレアの言葉は、彼が思っている以上に重たく万莉亜に圧し掛かる。
 風邪のせいで、ネガティブになっているのかも知れない。それでも、一緒にいる時間を金銭でやり取りしようだなんて 、あんまりにも悲しい言葉だ。今の万莉亜には、ダメージが大きすぎる。
「私……帰ります」
 その言葉が予想外だったのか、少し驚いたような表情でクレアが目を開く。
「私は、いつだって帰りたいときに帰れるんですから……」
「……」
「時間を売ったり買ったりは、しないんです」
 彼に対して怒っているわけではなかった。いや、多少の怒りはあったのかも知れない。とにかく万莉亜は パジャマ姿のままずるずると重たい体を引き摺りベッドから抜け出そうと動く。
 だがそれも、クレアの片腕一本で簡単に止められてしまった。
「ごめん。謝るよ」
 その場から逃げ出そうとする万莉亜の肩を掴んで引き寄せる。振り返ると、 困り果てたようにしてこちらを見つめるバイオレットの瞳がそこにあった。
「心配だったんだ。君はあんまり……自分の体を労わるようなタイプには見えないから」
「……そんなこと、無いですよ」
「じゃあきっと、僕が心配性なだけだ」
「…………」
 力なく微笑む彼を見ていると、どうしようもない愛おしさがこみ上げてきた。
 それからすぐに、苛立ちに任せた自分を後悔する。
「ごめんなさい。心配されてるっていうのは……分かってるんです……だけど」
「分かってる。そう言えば前回も"タダより高いものは無い"って君に怒られたばかりだった」
 そう言われて万莉亜も前回の問答を思い出した。
 あんまりしつこくクレアが食い下がるものだから、「怖くて受け取れない。タダより高いものは無いんですからね」と 強く言ってしまったのだ。その光景を思い出してはつい顔がほころぶ。
「やっと笑った」
 一人でニヤニヤとしている万莉亜の頬を掴んで、彼女が驚いているうちにクレアがその頬に唇を寄せる。 そのまま彼女の唇へシフトしようかなと考えたところで、相手の体がガチガチに硬直していることに気付き、そっと解放してやった。
「……熱があるね。寝ていたほうがいい。何か飲む?」
 今にも沸騰しそうな顔でブルブルと万莉亜が首を振る。
「だ、だ、だいじょうぶ、です……っ」
「そう?」
 言いながら立ち上がったクレアがそっと彼女の上半身に片腕を回す。
 目の前に突然彼の胸元が現れて目をつぶった瞬間、後ろに回された手が万莉亜の背中をすべり落ち、あらぬ事を想像した彼女が奇声を上げようと口を開いた瞬間、 スライドしていった手に乗っかったようにして上半身がすとんとベッドに横たわる。それから乱れたシーツを彼女の口元までたくし上げ、 ほんの少し枕の位置を調整してやると、クレアは最後にあちこちに散らばった万莉亜の髪を手グシで整えながら微笑んだ。
「顔が赤いよ。大丈夫?」
「だ、だだだ、……」
 舌が使い物にならなくなってしまった万莉亜が言葉を発するのを諦めて顔までシーツを引っ張り上げる。
「今勘違いしたでしょ」
 その上から意地悪にも耳打ちしてくる彼をシーツの下から押しのけて、羞恥のあまり涙を浮かべた瞳だけを覗かせた。
――押し倒されるのかと思った……
 というか、わざと紛らわしい寝かせ方をしたくせに。
「そうやって、からかって楽しんでるんですねっ……!」
「まさか」
 そんなはずないだろ、と真面目ぶって答える彼が憎たらしくて万莉亜は勢いよくシーツの下に潜り込んだ。
 好きだと白状してしまった手前、どうやったって不利なのはこちらなのだ。
「おやすみ、万莉亜」
 優しい声色でそう告げられて、ますます感情の矛先を見失う。
――……ずるい……
 何だか納得いかないまま渋々目をつぶる。
 とても疲れていたから、ここで少し眠っていくのも悪くないかも知れない。
 すぐそこに彼の気配を感じて心はざわつくのに、落ちていく重力のようなものに逆らえず万莉亜は五分もしないうちに 眠ってしまった。

「万莉亜?」
 ベッドサイドのアームチェアで三ページほど読み進めた本を閉じる。それから振り返って彼女を呼べば、 シーツの中で丸まっている彼女はもうぴくりとも反応しない。
「…………」
 その寝つきの良さにしばし呆気にとられた後、あんまり意識されてはいないんだなと内心がっくり来ながら ベッドに近寄り、窒息する前にシーツから頭だけ救い出してやる。
 しかし、それから現れた光景にしばし静止してしまった。
「……万莉亜?」
 そう呼んでも、返事は無い。
 彼女はベッドの上で丸まりながら、恐怖か、怒りか、見たことも無いような苦悩の表情をし、 その口元にはうっ血した親指が歯と歯の間に挟まれていた。寝ているせいで、力の加減が出来ないのだろう。 そっと彼女の口から親指を抜き取ろうと手を伸ばす。ただ、思っていた以上に力が篭っていて、中々上手くいかない。
 しばらく苦戦しながら万莉亜を起こさずに何とか親指を引き抜くと、彼女は小さくうめいた後いっそう 表情を歪ませる。
――さっきといい今といい……
 一体どんな悪夢を見ているのだろうか。
「万莉亜」
 顔を寄せてそっと囁いてみる。耳に唇が触れそうなほどの距離でもう一度名前を呼べば、 ほんの僅かに彼女の眉が反応を示す。
「夢だよ」
 小さく、でもはっきりと呟いて髪を撫でれば、表情は徐々に穏やかなものへと変化を見せた。
 やがて規則的な寝息を立てて脱力していく彼女を確認してからクレアはそっと部屋を後にする。
「……」
 ドアノブに手をかけて、もう一度奥のベッドへ振り返る。穏やかに上下するシーツを眺めて、 静かにドアを閉めた。
 驚いてつい起こしてしまったあの妙な奇声も、あの幼い癖も、普段から彼女が抱えているものなのだろうか。
 それとも、やはりただの体調不良だろうか。
 どちらにしても、少し度が過ぎているように思えた。
――軽度の睡眠障害でもあるのかな……
 そんな風に考えて、クレアはもう一人のマグナ、いや、マグナであった女性の部屋へと向かった。
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