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 ヴァイオレット奇譚「Chapter34・"ジェラシーは骨がらみ"」


 
 翌朝、一睡も出来なかった自分の顔と向き合って鏡の前でため息をついた。
――なんか、ひどくなってる……?
 顔色は青白く、頬は心なしかやつれている。そのくせ、顔全体はむくれているのだ。
「休んだら?」
 長い髪を慣れた手付きでポニーテールにしながら蛍が声をかけるが、 万莉亜は依然鏡と向き合ったまま頭を振った。一晩中粘っても眠れなかったのだ。ここまで来たら授業に出よう。 明け方頃彼女はベッドに横たわりながらそう決意した。

 一時間目の授業を終えると、クラスの入り口から担任が手招きして万莉亜を呼び出す。
 休んでいた彼女に、少し遅れて中間テストの答案用紙を全教科分まとめて返却すると、担任は渋い顔をしながら 「数学はまずかったな」と本音を零した。一方の万莉亜も、信じられない思いで数学の答案用紙を凝視する。
 いくら目を凝らそうとも、正解した問題はたったの一問だけ。 それも、まず初めに数学教師がサービスで用意した計算問題だった。あとは見渡す限り不正解のバッテン。
――……に、に、二点……!?
 一桁台かもしれないとは薄々予感していたが、まさか本当に一桁台、しかも一問正解で二点の結果とは、さすがの 万莉亜も屈辱感と情けなさで頭を下げるしかない。もう乾いた笑いさえ出てこなかった。
「まぁ、追試もあるしそんなに気を落とすな」
 ガツンと言ってやるつもりだった担任教師も、病み上がりの彼女の蒼白な表情を見て思わずフォローにまわってしまう。 まだまだ体調が思わしくないらしい少女に止めを刺してしまった気分だ。
 名塚万莉亜は特別優秀、というわけではないが、別段落ちこぼれというわけでもない。
 多少数学は苦手な傾向にあるが、他の教科は平々凡々の結果だし、何より生活態度や授業態度はまじめだ。 非行に走るわけでもなく、何かに反発をすることもない。髪の毛をある日突然金髪にしたり、過度な化粧や制服改造で 教師達を悩ませる事も無い。
 最近は多少欠席が目立っているようだが、まぁそれも大した問題ではないだろう。
「まずはしっかり風邪を治せよ」
 担任教師はそう言って彼女を職員室から送り出した。

 職員室を後にすると、万莉亜はおぼつかない足取りで教室へ戻る。
 頭の中で「二点」という二文字がぐるぐると踊り、明らかに意気消沈した様子で答案用紙を持ち帰ってきた 万莉亜に、クラスメイトの下倉摩央もあえて声をかけなかった。
――こりゃとうとう一桁台いったか……?
 隣の席でうな垂れている万莉亜を盗み見ながら心の中で確信する。
 いつもならここで慰めの言葉の一つでもかけてやるのだが、なまじ自分がいい点を取ってしまっただけに、 何を言っても嫌味になりそうだ。というのも、今回の中間テストは、全体的にみな出来がよく、どの教科も平均点が 高かった。成績では万莉亜と同レベルの摩央でさえ、少し驚くほど簡単な問題のオンパレードだったのだ。
――ちゃんと話聞いてなかったんだな、さては
 中間考査は、どの教科の先生も出てくる問題のヒントを事前に教えてくれた。それも大量に。 それをきちんと聞いてメモしていれば、赤点を取る事はむしろ難しいと言えたのに。
 万莉亜はここ数ヶ月どこかずっとうわの空だった。
 隣の席でずっと彼女を見てきた摩央にはそれがお見通しだったのだが、男がらみだろうと解釈して あえて指摘する事も無かった。少しは言ってやれば良かったと今更ながらに後悔してももう遅い。
「ほら万莉亜、先生来たよ」
 机に上半身を突っ伏して打ちひしがれている万莉亜の背中を叩いて起こす。
「……うん」
「期末があるよ」
「うぅっ……」
 さりげないフォローが余計に彼女を傷つけてしまったのか、万莉亜は泣き声とも呻き声ともとれる 情けない返事でノートと教科書を広げた。

 放課後。
 教室の掃除を済ませた万莉亜は、誰も居なくなった教室で答案と睨めっこをしていた。
 追試では全く同じ問題が出される。つまりはこの問題を全て暗記してしまえばいいのだが、二点のショックで 中々頭が働かない。答案用紙を見るたびに、憂鬱な気分になってしまうのだ。
「……はー……」
 声が出るほど大きく息を吐き出して頬杖をついた。それから窓の外に視線を向ける。
 外はもう日が沈み始めていた。いつの間にか、暗くなるのが早くなっている気がする。 気がつけば十月は終わり、あっという間に十一月。
――ちょっと前まで九月だったのに……
 ここ数ヶ月は怒涛の速さで過ぎ去っていった。それこそ息つく間もなかった。
 現実と非現実、リアルとファンタジーの狭間で混乱しつつ、信じられない恐怖にも幾度と無く遭遇した。
 ただ、決して嫌ではなかった。
 必死に理解しようと努め、馴染もうとしてきた。全てが現実なんだと認めてきた。
 だけど今、それら全てが夢だったんだと否定したい気分で一杯だった。
――……あの二人は……恋人同士なのかな
 昨日一晩かかっても解けなかった問いを再び自分に投げかける。
――それともそういう……そ、そういう……そういうアレなのかな
 自分でも何が何だか分からないが、つまり言いたいのは、万莉亜が思っているほど、彼らにとって そういう事は重くるしくない行為なのだろうか。愛していると言ったり、ベッドの上で……二人で……。
――そんなことあるわけないじゃんっ……!
 浮かんできた考えを、自分で即座に否定する。
 それは、単なる願望に過ぎない。そんなに意味の無いものであってほしいという万莉亜の願望。 しかしその一方で、彼女の貞操観念がそれを叱りつける。つまり、頭の中がぐちゃぐちゃに混乱している。
 一度も男性経験が無くたって、女子高育ちだからって、まさかこうのとりが赤ん坊を運んでくるわけではない事ぐらい知っている。 ただそれは、不死の体よりもはるかにファンタジーの世界だった。少なくとも、万莉亜にとっては。
――だからつまり……クレアさんは先輩が好きで、先輩もクレアさんが好きで、つまり、……つまりあの二人は……
 落ち着いて冷静に、客観的にあのシーンを解釈しようとする。
――あの二人は……愛し合ってる……?
 その答えに辿りついた途端、また心臓が捻り潰されるように痛む。
 昨夜もずっとこの痛みのせいで眠れなかった。はなから、見返りを期待していたわけじゃない。 勝手にこちらが好きになったのだ。だから、見返りを期待していたわけじゃない。
――……嫌い
 心で呟いて、机にまた顔を埋めた。
 やはり、期待していたのかも知れない。
 彼が、あんまりうやうやしく万莉亜を扱うからいつの間にかそうされることが当たり前になっていた。 それなのに今になってそれが根底から崩される。それはとても辛かったし、やり場の無い喪失感と怒りが湧いてくるのを止められない。
――良い事が何にもない……
 失恋はするし、テストは二点、おまけに昼から何だか熱っぽい。このしつこい風邪にもイライラさせられっぱなしだ。
 心がネガティブになっているのが自分でも分かる。後から後から、不満は尽きない。どうして私ばかり。どうして辛いことばかり。 そんな風に考えてしまう。日々に満足し、自分を愛し、あらゆる事に感謝しながら幸せに暮らすのは、どうしてこんなに難しいのだろう。

 そんな時、教室のドアが音を立てた。
 どうせ忘れ物をした生徒だろうと思い顔を上げずに寝たフリを決め込んでいると、 机の前まで近寄ってきたその人物が万莉亜の名前を呼ぶ。
 それが予想だにしない低い男性のものだったので、彼女は慌てて上半身を起こした。
「……ルイスさん」
 目の前に立つ長身の男性を見上げてそう呟くと、彼はいつものように隙の無い微笑みを万莉亜に向けて頷く。 それから、優しげな声色とは反対に異論を許さない口調で告げた。
「困りますよ万莉亜さん、まだ安静にしていないと。さぁ、帰りましょう」
「あの……私」
「帰りましょう。もう日が暮れている」
 落ち着いて喋ってはいるが、彼が焦っているのは一目瞭然だった。
 なぜなら万莉亜の広げている教科書やノートを本人の許可無くさっさと閉じて鞄に詰め込み始めたからだ。
「私、もう少し勉強しないと……」
「お部屋でゆっくりと続きをなさってください。シリルにも邪魔をしないよう言い聞かせておきます」
「いえ、あの、……私そろそろ寮へ」
「さぁ帰りましょう」
 万莉亜が言い終えるのも待たずに彼は隣の席の机に置いてあった薄茶色のPコートを手に取り万莉亜の背中にかけようとする。 それを身をよじって避けると、万莉亜は彼から自分の学生鞄を取り戻して再び教科書を取り出した。
「教室でやるのが、集中出来て効率が良いんです」
「困ります」
「何でですか」
 少し強気になってそう問いかけると、ルイスは一瞬言いよどんだ後、「体に障る」などととってつけたような返事をした。
 いつもの万莉亜ならそれで納得してしまうのだが、今日はとにかくあらゆることに反抗したかった。 彼の一方的な態度にも何故か無性に腹が立った。
 どうせクレアに命じられてそうやっているだけのくせに。本当は私の体なんてどうでもいいくせに。
 そんな風に思ってしまう。見当違いな八つ当たりをしてしまう前に、 とにかく彼を追っ払いたい。しかしルイスはてこでも動かないだろう。 やっぱり言う事を聞くしかないのだろうか。
 そんな風に万莉亜が諦めかけたとき、意外にも「分かりました」と頷いて彼が教室を後にする。
「……え……」
 あっさりと引き下がった相手に意表を突かれて万莉亜はしばし突っ立ったまま、しばらくして 再び教科書を開き、テストの答案用紙と向き直った。
――ちょっと意地悪だったかな……もしかしたら、本当に気遣ってくれたのかも……やっぱり失礼だったかも
 しかしどうしたことか、時間がたつごとにルイスに対しての申し訳なさが膨らんでくる。
――怒らせちゃったかな。いつも親切にしてくれてるのに、どうしよう……
 良心の呵責に耐えられず、もう数学の公式などさっぱり頭に入ってこない。
「ああ、もう……」
 こんな事なら、おとなしくついていけばよかった。
 ただどう考えても、クレアと梨佳のいる新校舎へは行きたくない。
 その事についてはもう、考えたくも無いのだ。
「X=2、Y=3で、えーと」
 彼女はとうとう、苦肉の策として問題を読み上げる事にした。こうやって、無理にでも意識を勉強へ向けなくてはならない。
――……これは結構、良いかもしれない……
 力技ではあったが、意識を散漫とさせながらもどうにか一問解いてみる。
――なるほど……ここが間違ってたんだ……
 教科書からヒントを得て正解にたどり着き、それを暗記する。
「よし、次。えーと」
 腕をまくってそう独り言を呟いたちょうどその時、またもや教室のドアが音を立てる。
 一瞬ルイスかと思って顔を上げてしまった万莉亜は、入り口に立っている金髪の青年と目があってしまう。 その瞬間、集中しかけていた数学への意識がどこかへはじけ飛んでしまった。
「勉強?」
 そう言ってクレアが微笑む。
 返事を忘れ呆けていた万莉亜が慌てて頷くと、彼は大股で近づき、万莉亜の前の席のイスに腰掛けた。 それから頬杖をついて、彼女の教科書を覗き込む。
 その間、万莉亜の視線は彼の胸元へ釘付けになっていた。
 大きく開いたシャツの胸元、そこから覗く彼の白い肌が妙に生々しく映ってしまう。いつもなら、 たとえ上半身裸でうろつかれてもそんな風に感じないのに。
「ああ、ごめん」
 彼女の視線に気付いたクレアがシャツのボタンを首元まで留める。
「シャワー浴びてたんだ」
「……そうですか」
 そう言われれば、ほのかにシャンプーのいい香りがする。
「薔薇の匂いですね」
 感じたことをそのまま呟いた後、自分でショックを受けた。万莉亜の中で、薔薇は梨佳の象徴だった。
 いや、もしかするとシャワーは嘘で、本当は梨佳と居たのかも知れない。いいやもしかするとシャワーは本当で、 つまりそのシャワーを必要とするような行為を二人で……
 そこまで考えて万莉亜は握っていたシャープペンシルに力を込めた。
――どうだっていいじゃないっ……!
 自分のいやらしい妄想にひどく嫌悪してぐっと奥歯を噛み締めた。下世話だ。すごく下世話だ。 なのに、考えられずにはいられない。
「これテスト?」
 そんな時、ふと目の前のクレアが両手で頬杖をつきながら問いかける。 万莉亜が頷くと彼は「ふーん」と小さく言った後押し黙った。
――……あっ!!
 その時になってやっと答案用紙にでかでかと書かれた『二点』の文字が彼に丸見えになっている事に気付く。 万莉亜は慌ててペンケースを引っつかみ、点数の上にバンと音を立てて置いた。
「もう見ちゃったよ」
 クレアが苦笑しながら言う。
「ちょ、調子が悪かったんです……っ」
 顔を真っ赤にしながら苦し紛れに弁明しても、万莉亜の自尊心はズタズタだった。 「そうだね」と告げられた彼の優しい言葉も、なぜか刃となって胸を痛めつける。
「そろそろ暗くなってきたし、続きは帰ってからにしようよ」
「どうしてですか」
「ここは寒いし」
「全然寒くなんて無いです」
 自分でも驚くほど口調が固く、そして冷たく響く。クレアも意外そうに目を丸くしていた。
「万莉亜?」
「……私はここで勉強したいんです。なんで邪魔するんですか」
「…………」
「寒かったら帰ったらいいじゃないですか」
「いや、……僕は寒くないけど」
「じゃあ何で寒いって言うんですかっ!」
 机を叩いて立ち上がりそうな勢いで万莉亜が噛み付けば、クレアはますます混乱したような顔つきで しばし言葉を失う。万莉亜も混乱しながら、ただ言い放った文句を引っ込める事はしなかった。やがて彼は 人差し指でこめかみをこすった後、身を乗り出して彼女の顔を覗きこむ。
「ごめんね万莉亜。もう口が裂けても寒いなんて言わないよ」
「…………」
 冗談なのか真面目なのかよく分からない相手の口調に万莉亜はただ俯いて首を横に振った。 謝られるのは筋違いなのに、素直に「こちらこそごめんなさい」とは言えない。
 ただ黙って教科書の位置を正し、テスト勉強に戻る。
 自分が不機嫌な事は、もう相手には伝わっているだろう。だけどそれを、 どうにか取り繕う気にもなれない。きっとこの口をついて出るのは、悪態ばかりだろうから。

 それから約三十分もの間、教室には奇妙な静寂が訪れた。
 クレアは彼女の邪魔をしないよう、教室の前方にある教師用の机に腰を降ろして窓の外を眺め、 万莉亜は黙ってペンを走らせる。
 当然、内容は全く頭に入ってこなかった。
――何やってるんだろう……
 これじゃあ、寮でも新館でも、部屋に帰ってやったほうがいくらもましだ。
 今はただ、教科書にある公式をノートに書き写しているに過ぎない。問題を解くほどに頭が回らないのだ。 それに体が熱っぽい。僅かだが頭痛もしてきた。やはりハンリエットの言うとおり、まだ熱は下がっていなかったのかも知れない。
――どうしよう……帰りたい……
 そうは思っても、あれだけ意地になって主張していたのだ。
 三十分でやっぱり帰ります、では何だかばつが悪い。
 そっと顔を持ち上げて向こうにいるクレアを盗み見ると、どうやら彼は目を閉じているらしく、 万莉亜はほっと胸を撫で下ろしてさらに目を凝らした。
 こうやってゆっくり彼を眺めるのは久しぶりだ。
 あの部屋で寝込んでいる間クレアの姿を見ることは殆ど無かったため、今日は久しぶりの再会になる。 それなのに、随分な態度を取ってしまった。
――寝てるのかな
 微動だにしない彼を気にしながら万莉亜は教科書やノート、ペンケースをそっと鞄にしまい、置いてあったPコートを羽織る。 それから足音を立てないようにしてそっと彼に近づき、腕組みしながら寝入っているらしいクレアの顔をしげしげと観察した。 そうしているうちにはっきりと分かったことがある。先ほどから湧いてくるどうしようもない感情。怒り。
――……だいっきらい……
 心の中でもう一度囁いた。
 もし彼に、心を読む能力があったとしたら。ふとそう考えて一瞬動揺するものの、それならそれでもいいと開き直る。
 どうしようもない嫉妬心。今ならば、自分は梨佳の唯一無二の理解者になれる。彼女のように泣き叫んで彼を責めたい。 だけど万莉亜には、そうすることがどうしても出来なかった。
――……先輩が、好きなんですか?
 心で彼に問いかける。
 もちろん、眠っているクレアは眉一つ動かさず静かな寝息を立てていた。
 見慣れたはずの彼の姿がどこか遠くに感じてしまう。それが寂しくて、どうしようもなく悲しい。
「…………あ、……終わった?」
 ふいに目を覚ましたクレアが、目の前に突っ立っている彼女を見上げながらまぶたをこする。 疲れているのか、ニ、三度頭を振ってから随分重たそうに腰を上げた。
「帰ろうか」
「……はい」
 結果的にはクレアの粘り勝ちになるのだろうか。
 ルイスとは真逆のやり方で、結局彼は万莉亜を教室から連れ出す事に成功した。

「すっかり暗くなったね」
 廊下を歩きながら、窓の外に視線をやって彼が話しかける。
 万莉亜はそれに黙ったまま頷くものの、決して同じ方向に視線を向けようとはしない。 いつもの彼女ならば「本当ですね、もうすぐ冬ですし、お鍋の季節ですね」なんて言いながら会話を広げようと努めているはずだ。
 もちろん万莉亜自身、そうしないことに耐え難い気まずさを感じてはいるが、出来る限り口を開きたくないのが本音だった。 彼と楽しげな談笑をする気分には毛頭なれない。
 そんな彼女の態度を重々承知で、クレアはあれやこれやと話しかけてくる。
 まるで挑発されている気分だと万莉亜は思った。それとも、本当に鈍感なだけなのだろうか。
「風邪が治ったら、一緒にお祖母さんのお見舞いに行こう。何を持っていったらいいかな」
 こんな風に、相槌だけでは済ませられない質問までしてくる。
「……そんな、気を使ってもらわなくて大丈夫ですから」
 しばらく考え抜いた末一番ベターだと思われる返事をして万莉亜は口を尖らせる。
 喧嘩を売りたいわけじゃないのに、どうしたって口調が刺々しくなってしまうのだ。 だから話しかけないで欲しいのに、知ってか知らずか彼は軽快な口調で次から次へと話題を提供した。
 そんな風にして下駄箱に到着し、万莉亜は上履きから黒いローファーに履き替える。
 その間クレアは昇降口のドアの前で彼女を待っていた。
 下駄箱には他の生徒の靴はもう殆ど見当たらず、薄暗い校舎内は人気が無い事もあいまって気持ち薄ら寒い。 万莉亜はコートの襟をギュッと詰めて待っているクレアの元へ駆け足で近寄った。
 しかしどういうわけか、万莉亜が寄って行ったのと同時に、クレアはドアから離れ下駄箱に近づく。 入れ違いになるようにしてドアの前に取り残された万莉亜は、何か早足で下駄箱を見て回る彼を不審に思いながら 昇降口のドアを押した。
「あ、あれ……?」
 開かない。
 ガラスのドアは、どういうわけか押しても引いてもビクともしない。
――もう鍵閉められちゃった……?
 そう疑いながら横一面に並ぶ全てのドアを確認してみる。しかしどの入り口もすでに施錠済みらしく、万莉亜はため息をついた。 それから壁にかけられた時計を見上げる。時刻は六時二十五分。部活の生徒だって居るだろうに、鍵をかけるには早すぎやしないだろうか。
 しかし、何も出口はここだけじゃない。
 渡り廊下から中庭を突っ切って外に出てもいいし、体育館から校舎裏に出てもいい。運が良ければ女子バスケット部が活動しているだろうから、 体育館は開いているはずだ。それがダメなら職員室へ行って昇降口を開けてもらったっていい。 楽観的に考えて振り返ると、相変わらず下駄箱と睨めっこをしているクレアに声をかけた。
「クレアさん、鍵閉まってますから渡り廊下から出ましょう」
「いや、鍵はかかってないよ」
 万莉亜の呼びかけに振り返ることもせずそう答えると、彼は難しい顔で全ての下駄箱を見て回る。
「……え?」
 理解できずにもう一度背後のドアへと振り返る。押しても引いてもびくともしない。その隣もだ。
――鍵かかってるのに……
 眉をひそめながら完全にロックされている銀の金具部分に目を落とした。
「あれ……」
 僅かな違和感を感じて隣のドアのそれと見比べる。
「あ、……あれ?」
 あちらのシリンダーは、鍵穴が横に。こちらのシリンダーは、鍵穴が縦に。 つまり、どちらかがロックでどちらかがアンロックの状態であるはずだ。だが実際は、どちらもロックされている。
 ざっと見て回ると、広い昇降口に並んだ左右のいくつかのドアだけが鍵穴はロック状態になっていた。 おそらくは、もうほとんど生徒が下校したため、少数の生徒用に中央のドアだけが解放されているのだ。居残っていると、 ドアの半分が閉められている状態はよく出くわす。今日も、校務員のおじさんが左右のあまり使われていない出入り口を 先に封鎖して行ったのだろう。鍵穴の状態がバラついていることはこれで説明が付く。 しかし実際には、シリンダーの状態などお構い無しでドアは全部封鎖されいた。
「クレアさん、何かドアが……」
 そう言って彼に振り返った瞬間、昇降口の近くにある職員室から連続して何かが落ちる音が聞こえた。
 硬いような、それでいて柔らかいような、まるで人間の体が次々に崩れ落ちたような音。 その奇妙な物音に万莉亜の心臓が驚いて跳ねる。
「……な、なんだろ」
 言いながら職員室を覗こうと踏み出した彼女の腕をすかさず掴みクレアが人差し指を唇に押し当てる。 さらに鋭い視線を音の方向に向けて、こう囁く。
「荷物をここに捨てて」
「え? ど、どうして」
「逃げるためだよ」
「…………」
 緊張感が全身を駆け抜ける。
 彼の声色は決して切羽詰るものではなかったが、握られた腕のその力強さが、事態の深刻さを全て物語っていた。
「れ、例の……第四世代ですか……?」
「そう」
 それと、おそらくあの女も来ている。
 クレアは内心毒づいていた。
 アンジェリアが近々奇襲をかける。そのために、第四世代を大量に作っている。
 そうヴェラから聞かされて以来、負け試合を覚悟でこの一週間準備をしてきた。 薬漬けになってまで眠りを嫌っていたのは、その瞬間この学園が手薄になってしまうからだ。 警戒を怠らず、意識だけで敷地内を見張ってきた。たったそれだけでも、第四世代を尻込みさせるには十分だと知っていたからだ。
 アンジェリアは一人では絶対に訪れない。
 彼女は人間を病的なまでに恐れているから、出来るだけ数を連れて来たがるはずだ。
――間抜けどころの騒ぎじゃないな……
 迂闊な自分が心底憎らしかった。
 先程、自分でも気が付かないうちに意識を手放した。その瞬間を待ちわびていた彼女は、易々と大量の 手下を連れてこの学園に忍び込んだに違いない。一体何のための耐久不眠レースだったのか。 第四世代の数はなるべく最小限に抑えておきたいと努力し続けてきたのに、まさかこんな所でへまをやらかすなんて。 おまけに、現在地は旧校舎と来た。最悪だ。
「……クレアさん……」
 自分のすぐ横で、怯えたような声を出す万莉亜を見下ろす。
 黒目がちの瞳が、恐怖に揺れていた。
 それを見て、クレアはゆっくりと息を吐き出す。それから腰に忍ばせていた二連銃身の小型拳銃を服の上から確認した。 ただこれも、アンジェリアの前では水鉄砲と何ら変わりが無いただの玩具と化してしまうだろう。
「万莉亜」
「は、はい……」
 先程まで不機嫌を露わにしていた少女はすっかりパニックに陥り、縋りつくようにしてクレアの袖口を握っている。 何度も第四世代に狙われ、あげく第二世代のアンジェリアとも向き合ったことのある彼女だ。 相当の恐怖をいくつも体験してきたせいで、トラウマになっているのかも知れない。
 震える彼女の指先を眺めながら、彼は舌先で奥歯をなぞった。
 大丈夫。頼りない事に変わりはないが、策が無いわけではない。開始地点が旧校舎なのはもちろん 想定外だったが、戦争に不測の事態はつきものだ。何にせよ、気持ちだけでも強く持っていなければ、僅かなチャンスまでも見落としてしまう。
「今から新校舎に行こう」
「……え……」
「大丈夫、君は僕が守るよ。それにあそこは安全だ。武器もたくさんあるし、なんといっても守り神が住んでる」
「まもり……がみ?」
「気まぐれだけどね」
 そう言って微笑むと、万莉亜は困惑顔で首を傾げた。
「背後に注意しながら付いてきて」
 彼はそう告げて歩き出す。悲鳴の上がった職員室とは反対の方向へ。
――神は言いすぎか……
 進みながら、先程の言葉を心の中で訂正した。
 あれは、神という名の諸悪の根源。
 味方とは言い難く、敵とも違う。あえて言うのなら、古い知人だろうか。
 血を恨み、力を恨み、やがて恨む事にも飽きたあの生き物は、末裔の行く末を高みの見物だ。
 彼が唯一固執しているのはこの学園のみ。"七尾学園"と名の付いたこの場所さえ無事なら、あとは野となれ山となれ。 古い知人と言えどクレアに肩入れしているわけではないらしい。万莉亜にはああ言ったが、実際当てにするには危険すぎる。
「いやぁああっ……!」
 背後で急に叫び声を上げた万莉亜が力任せにクレアの背中にしがみついた。
 前方にうごめく何千本という黒い糸。ぐにゃぐにゃと束になり、まるで生き物のようにして地面を這いずっている。 アンジェリアの髪の毛だと、気付いた時には万莉亜の腕を掴み走り出していた。
「な、なに、あ、あれ……っ、あれ何なの……!!」
 すっかり動転した万莉亜の足は縺れ、半ばクレアに引き摺られるようにして校舎を走る。
 この数ヶ月、人ではないものはたくさん目にしてきたが、そのどれもが人を模っていた。胴体があって、四肢があって、 目があり口があり鼻がある。でもあれはなんだ。まるでホラー映画だ。一体、何が始まったというのだ。
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