ヴァイオレット奇譚「Chapter35・"真夜中の侵略者[1]"」
七尾学園新校舎五階。
その広いフロアの中央にあるラウンジで、ハンリエットは窓の向こうにある少し古ぼけた旧校舎を眺めていた。
何となく、"よくないもの"を感じる。根拠のない胸騒ぎではあったが、
この体においての第六感の重要性はよく理解している。いや、思い知っているといってもいい。
枝と呼ばれる自分は、宿主であるクレアの体に根強くリンクしている。
だからふと感じるわけの分からない違和感や、ちょっとした焦燥感などは、大抵は無意識にクレアの
ものを感知してる場合が多い。一心同体とは、まさにこのことだ。
「何だか嫌な感じ……」
ぽつりと零した彼女の言葉に、ソファで塗り絵に興じていたシリルも顔を上げずに頷く。同じ枝である
この幼い少女も、きっと同様の胸騒ぎを感じているのだろう。
そのプレッシャーを不憫に思いながら、シリルの手元に視線を落とす。
可愛らしく描かれたウサギの線画から大きくはみ出してピンク色のクレヨンを走らせてる。ゴリゴリと
こすり付けるように圧力をかけて塗りたくるたびに、細いクレヨンがギチギチと悲鳴を上げていた。
「上手にできたわね」
「うん。あとで万莉亜に見せる」
「そうね。……じゃあ、そろそろ塗り絵は片付けてちょうだい」
その言葉だけで察したのか、シリルは一瞬固まったようにハンリエットと見つめあうと、コクンと頷いてクレヨンを放り投げ
自室へ向かって走り始めた。それに続いてハンリエットも自室へ向かう。
――「様子を見てきます」
そう言ってルイスがこのフロアを出たのが十五分ほど前。
万莉亜に追い返され、すごすごと帰ってきた従者の代わりにクレアが旧校舎に向かい、
今度はなかなか帰ってこない彼を心配して再びルイスが様子を見に出かけた。
何をまどろっこしい事をやっているんだ。引っ張ってでも連れて来ればいいのに。
そう思ったが、口に出すのは止めておいた。我々の強引な態度に、万莉亜が疑問を抱いてしまっては元も子もない。
最初から分の悪い試合なのだ。不安の種は出来るだけ少ないほうがいい。
「嫌な予感がするわ」
一人で呟いていた。
今はもう、はっきりとした確信があった。ぞくぞくと寒気が走る。
これは、おそらくクレアが感じているものだ。
――……今日なの? 今なの? お父様……
近いうちに第四世代を引き連れた第二世代が奇襲に来る事は、事前から知っていた。
ヴェラという名のスパイが売りつけてきた情報では、何でもこの学園の見取り図を入手し、仲間たちと延々話し合いを続けていたのだとか。
彼らはおそらくはクレアのいるここ、隠された五階を突き止めたかったに違いない。
そのせいでこの一週間自分たち枝はあれやこれやと下準備に奔走していたのだから、当然心構えが出来ていないわけではない。
ただ今この場にクレアと、そしてルイスまでもが不在であることは多少想定外だった。
ルイスは一番初めに枝になったいわば長男だ。そして戦場では指揮官になる。
その彼が不在となれば、心許ないのも致し方がない。
――気負いすぎかしら……
どの道大した役にも立たないだろう。ほんの少しでもクレアの負担を軽減させることが出来たのなら、それで
万々歳なのだ。あんまり気負っても仕方がないというのに……
「ハンリエット?」
部屋の入り口からそう声をかけられて顔を向けた。
「準備できたよ」
9mmパラベラム弾を詰め込んだサブマシンガンを携えて立つ幼いシリルの姿は滑稽だったが、
相変わらずの飄々とした口調に安心させられてしまう。
なかなかどうして、物事に動じない少女だ。幼さのせいもあるかもしれない。
「使い方は、分かるわよね」
そう訊ねれば、シリルは「多分」と頼りない返事をしてチラリと銃に目を落とす。
おそらく、彼女が扱った銃器の中でも最も威力の強い武器になるだろう。もちろん、
扱い方を勉強したわけでも、特訓したわけでもない。テストすらしていない。だからこそ「多分」としか
答えようがないのだ。
「大丈夫。使えるわ」
それでも、ハンリエットは焦りを見せない。シリルが使いこなせることを知っているからだ。
「クレアが使えるんだから、大丈夫よ」
そう言ってクローゼットから同様のマシンガンを取り出す。それからありったけの
弾倉を腰に装着した大きめのポーチに突っ込んだ。ポーチの底はウレタンのブロックで上げ底にし、弾倉を
取り出しやすくしてある。
その知識を得た記憶はないが、ハンリエットが銃の扱いで困ったことは一度もなかった。
クレアが与えてくれたもの。それは気の遠くなるような時間と、彼が体得した銃器の知識。それから、彼の扱える言語。
それを共有することをクレアは許してくれた。
――「シリルもハンリエットさんもルイスさんも、みんな日本語が上手なんですね」
出会ったばかりの頃、万莉亜はよくそう言って感心していたが、実際のところ苦労して会得したわけではない。
苦労して会得したのはクレアであって、枝たちはその知識をコピーされたに過ぎない。
しかし面白いもので、そこから向学心を見せたルイスと、それに満足してしまったハンリエットでは、
今はもう比べ物にならないほどの語彙力、応用力の差がついてしまった。
何事にも向上心は大切なようで、銃器の扱いについても、普段からもっと訓練しておけば良かったと
今更になって僅かに後悔する。「ある程度使えればいいや」なんて胡坐をかいていたツケが、不安となって
ハンリエットの胸を騒がせていた。
――出来ることをするだけよ
怖いのは、自分が死ぬことじゃない。ましてや怪我をして痛みを感じることでもない。
志半ばのクレアを死なせてしまうことだ。
「大丈夫だよ」
ふいにシリルが口を開く。
「だってあんなに準備したんだもん。いっぱい金庫作れるようにさ」
「……シリル」
「早く行こう」
驚いて返事が出来ないでいるハンリエットを急かすようにしてシリルが手招きをした。
慰められたのだろうか。そう気づいた瞬間、肩の力が抜けてしまったハンリエットが
「参った」とでも言うようにして肩をすくめた。
そうだ。あんなに準備してきた。
慌てて武器を揃え、万莉亜や梨佳には悟られないよう周到に計画を練り、相手の出方を
何度もシュミレーションして、それに応じた対策を頭に叩き込んだ。その中には、
クレアやルイスが不在であるパターンだってあったはずだ。自分たち枝が一斉にアンジェリアによって
無力化されてしまう可能性すら考えていた。可能性が低いから頭の隅に追いやっていただけで、決して不測の事態ではない。
自分は自分の役割をこなせばいい。焦ることはない。
「よーし。言っとくけどシリル、ルイスが居ないから指揮官は私よ。命令をよく聞くように」
「イエスマム!」
踵を鳴らしたシリルがにこやかに敬礼をしてみせる。
この状況を心底楽しんでいるのか、不安げなハンリエットを励ましているのか、真意は分からなかったが、
とにかく救われてしまったからしょうがない。
「どうやら決戦の火蓋は切って落とされた模様。何が何でも城を守るため、そしてお父様のために、乗り込んできた第四世代は一人でも多く金庫送りにすること。いいわね」
立ち上がり腰に手を据え、わざとらしくも大げさな口調で命令すれば、シリルは実に興奮した様子で何度も頷く。
まるで戦争ごっこを楽しんでいるのかのように駆け出していった少女の後姿を視線で追い、「それでもいいか」と力なく微笑んだ。
勝利の可能性は、低いのだ。どんなに楽観視しようとも、それは変わらない。
だったら開き直って楽しんでやろう。今夜が人生最後のパーティーになる可能性だってある。
――派手にやってやろうじゃない
抱えたマシンガンを見下ろしニヤリと微笑むと、ハンリエットは豊かな金髪をバサリと払いのけながら
シリルの後に続いた。
******
旧校舎一階、職員室。
万莉亜は息を切らしながら、ぐったりと教員用のデスクに突っ伏していた。突然の全速力に驚いた肺がジリジリと痛む。
「大丈夫?」
言いながら水の入ったコップを差し出される。
そうしながらこちらを覗き込むクレアに、万莉亜はどうにか一回頷いた。
いつの間にか給湯室で用意してきたのだろう。そんなことしている余裕があるのかと訊ねたかったが、
とにかく喉が渇いていたのでそれを一気に流し込む。
飲み干すと、ゆっくりと息を吐いて気を落ち着かせ、目の前に立つクレアを見上げた。
「顔が赤い」
「……え」
ふいに彼が言った言葉に首をかしげる。
「もしかして、本当にまだ熱下がってなかったの?」
「え、あ……わ、分からないです。もしかしたら、ぶり返したのかも」
本当に、というフレーズにいささか引っかかるものがある。
彼は、万莉亜が病人だと思っているはずだ。だから新校舎にいろ、としつこく引き留めていたのではなかったのか。
しかしまぁ、些細なことではあるし、今この場においてはことさらどうでもいい疑問だ。
「困ったな。病人の君に無茶はさせられないし……」
うーんと唸りながら顎に手を当てたクレアを見て、万莉亜は慌てて口を挟んだ。
「私走れます! まだ走れますから……っ!」
実際、あの謎の黒い髪に追い掛け回されて、校内中走りまわった。
想像を絶する恐怖を前にして、体調不良などとは言っていられない。息は苦しかったが、
自分の腕を引くクレアのスピードについて行こうと必死だった。それでもやはり、
半分は引きずられるような形になってしまっていたのは否めないが。
「そうは言ってもなぁ」
困ったようにして呟く彼に不安感を煽られてしまう。
旧校舎は、不思議な力によってありとあらゆる出口がふさがれていた。
施錠されたシリンダーを銃弾で痛めつけても、見るからに安っぽい金具はなぜかびくともしない。ガラスも同様だった。
その閉鎖された空間の中で、異形の化け物が自分たちを追い掛け回してくる。たまに遭遇する
居残っていた生徒や教師は、どういうわけか魂が抜かれてしまったようにして床に倒れていた。あの化け物にやられたのだろうか。
それとも別の何かに?
相変わらず万莉亜には何一つ現状がつかめなかったが、分かっていることがたった一つ。
頼りは、今この場にいるクレアだけだということ。
「私、まだ走れますから……、置いて行かないでください……っ」
スカートの裾をぎゅっと握り締めて懇願するように相手を見上げる。
足手まといになっているのは事実だが、今彼に置いて行かれたらどうしていいのか全く分からない。
「置いてく? 僕が万莉亜を?」
そう返した後、クレアは少し呆れたようにして微笑んだ。
「まさかとは思うけど、君を置いて自分だけ命からがら逃げ出そうとする、そんな男だと思ってる?」
「…………」
思ってはいなかった。不安に煽られて口をついて出ただけの言葉だ。
きっと心の奥底では、彼を頼っている。信用している。でも素直に否定できなかったのは、昨夜のことを
根に持っているからだろうか。梨佳とのシーンは、万莉亜にとっては裏切り以外の何物でもなかった。
だから今は少し、クレアが怖い。彼の真意が霧の中に紛れ込んで見えなくなってしまったせいだ。
苦悩の表情を浮かべる万莉亜を眺めながら、クレアは何か思い切ったようにして頷くと、
今度は膝をついてイスに腰掛ける彼女を下から覗き込んだ。
「君に、不愉快な思いをさせた」
そう言う神妙な面持ちの彼に、それが先ほどの台詞のことを言っているのではないとすぐに気づいた。
「今日君に会って、すぐに分かった。だけど気づかないふりをしてたんだ」
「……何の、話ですか」
「昨日、見たんだろ?」
「…………っ」
ぐっと奥歯をかみ締める。図星だったが、それを悟られないよう努めた。でももう、多分遅い。
「僕の勘違いだったらいいなと思って、とぼけてたんだ」
それは真実ではなかった。
万莉亜の硬い表情を見た瞬間、神の名を呟いて目元を覆いたくなったくらいだ。それくらい彼女の目は
如実にその怒りを物語り、そしてクレアの不実を責めていた。
気づかないふりをしたのは、今はそのことに時間を取られるわけにはいかなかったからだ。
一刻も早く新校舎へ戻りたかった。いつ敵が攻めてくるか分からなかったから。だけどそれを、
今ここで彼女に説明するわけにもいかない。しかしながら、ここまで信用を失っていたのかと思うと、どうやらこの問題は無視できないようだ。
「……無神経だった。だけど」
「いいんですっ」
クレアの言葉を遮って万莉亜が声を上げる。
「いいんです……少し驚いただけで、クレアさんのこと、無神経だなんて……」
思っていませんから。囁くようなか細い声でそう続け、万莉亜が目を伏せる。
「万莉亜……」
「誰かを好きになるのは……自由ですし……だから……」
クレアが梨佳を好きなのも彼の自由。万莉亜がクレアを好きなのも万莉亜の自由。
そこには、なんの縛り事もない。分かっているのに、嫉妬が止められない。だけどそれは、
万莉亜の我がままであって、クレアに責められるいわれはない。
「参ったな」
本心から、呟いた。
彼女が及び腰になっている。口先だけで上手く丸め込もうにも、全部が裏目に出てしまいそうで、
クレアも言葉を探した。汚い言葉で罵ってくれたら、平謝りすることも出来たのに。
「……君は知っていると思うけど、マグナは恋人じゃない」
「でも……じゃあ先輩は」
「無理なんだ。僕がマグナに惚れ込んでしまった時点で、その人はマグナではなくなってしまう」
「……」
「欲しいのはマグナだ。恋人じゃない。絶対に好きになったりはしない」
「……もし、好きになったら……?」
「その気持ちを切り捨てるしかないだろうね」
彼がそう口にした瞬間、万莉亜の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
あまりにも突然のことに、万莉亜はクレアよりも一瞬遅れてそれに気づく。
「あ、……ご、ごめんなさい」
慌てて拭って、「へへ」と力なく笑う。
なぜだろう。勝手に好きでいると決めたのに、彼の言葉がショックだった。
梨佳のことなんてなくても、そもそも自分には一%の確率もなかった。何もなかったんだ。
彼が求めているのはあくまでマグナとしての万莉亜。彼の子供を宿せるかもしれない可能性を持った体。たったそれだけ。
「……万莉亜……」
痛ましい姿の彼女を、クレアは唇を噛んで見つめ続けた。
なんて馬鹿正直な答えか。傷つけてどうするんだと自分を責めたくなった。けれど、
誠実な彼女を前にして、一体真実以外の何を語れというのだろうか。
万莉亜は、本人が意図していてもいなくても、その言外にはっきりとしたクレアの答えを求めていた。
何百年と彼が葛藤し続けていた難題に、たった今ここで、よりにもよってこんな非常時のさなか、答えを出せと
暗に訴えている。
たくさんのマグナとの、こんなシーンを思い出す。
先日の梨佳もそうだし、過去のマグナたちもそうだった。中には、心揺らがせる女性もいた。
何度か誓いを破りそうもになった。元来、割り切れない性質なのだ。それでも踏み出すことが出来なかったのは、
宿願を果たすためだ。そのために、生き続けてきた。もう今更、易々と誰かを愛したりなんて出来ない。易々と、
認めるわけにはいかない。
「……だけど」
眉根に皺を寄せながらクレアが呟く。万莉亜を見つめてはいたけれど、
その視線は彼女の瞳を通り越し、その奥に映る自分の姿へと語りかけているようだった。
「今日死ぬかもしれないとなると、くだらない固執にも思えるんだ」
「……え?」
そう万莉亜が聞き返した瞬間、どこからか女性の悲鳴が上がった。鬼気迫る、つんざくようなその悲鳴に
二人は声の方向へ振り返る。
「い、今の声……っ」
「行こう」
戸惑う万莉亜の手を引いてクレアが走り出す。
職員室を飛び出し、まっすぐに階段を駆け上がる。悲鳴はなおも続いていて、その出所を聞き分けたクレアが
三階で足を止めた。
万莉亜を背中に隠し、廊下の端からじっと辺りを睨みつける。
やがて教室から飛び出して来た影に反射的に銃を向けると、背後の万莉亜が咄嗟に声を上げた。
「摩央っ!?」
その声に教室から現れた女生徒が振り返る。
栗色の髪の毛を緩くウェーブさせた今時の美少女。彼女は万莉亜の姿を見つけるや否や
猛スピードでこちらへ駆け寄ってきた。
「万莉亜ぁっ……!」
しかしそんな彼女を追って、黒く蠢く糸の集合体がぞぞぞっとこちらへ移動を始める。
スピードこそなかったが、その恐ろしさたるや、言葉を絶するものがあった。
「あ、摩央っ!!」
恐怖で足がもつれたのか、万莉亜とクレアまで僅か二メートルといったところで頭から摩央が転倒する。
慌てて駆け寄ろうとした万莉亜を制止して飛び出したクレアは、髪の毛の化け物が彼女を捕らえる前に摩央を抱きかかえ、
おろおろする万莉亜へ「戻ろう」と素早く指示を出す。万莉亜はそれに頷くと、クレアの後を追ってわき目もふらず階段を
駆け下りた。
******
再び職員室へと舞い戻って十分が経過した。
やはり、とクレアは己の仮説に確信を持つ。
――見えていない……
それどころか、鼻も効かない。
おそらくアンジェリアは、この旧校舎内には居ないのだ。居たらきっと、もっと手際よく自分たちを捕まえているはずだ。
第二世代の嗅覚を持ってすれば、そんなことは容易いはず。
そしてあちら側が持っていたとされる学園の見取り図。
彼女の力ならば、そんなまどろっこしいものが必要であるはずがない。その気になれば、一瞬で敷地内に居る
人間を皆殺しに出来るのに。それなのに彼女は、わざわざ見取り図を用意して、自分と万莉亜の居場所を探る。
旧校舎に居ると知るや否や、そこにいる全ての人間を眠らせて、ここでもやはり二人をピンポイントに狙う。
おそらく、こちらが予想していたよりも臆病だ。
人間と、すれ違うことすら恐ろしいらしい。
――となると問題は……出入り口か……
こちらの校舎で狙われることは、他の生徒の安全も考慮して出来れば避けたいパターンだった。
万莉亜を軟禁していたのも、理由の半分は無関係の人間と距離を置かせたかったからだ。
しかし人間を眠らせるという意外にも控えめな行動をアンジェリアが取ったことで、それについての不安は
ある程度解消された。彼女の狙いはクレアと万莉亜のみ。無作為に他人を手にかけるつもりは無いらしい。
しかし問題は、どうこの空間から抜け出るか。
カラクリは分かっていた。これは彼女の惑わしだ。クレアが他の生徒の目を騙しているのと全く同じ原理で、
彼女はクレアと万莉亜の目を盗んでいる。
叩き割ろうしても割れないガラス。弾を撃ち込んでも壊れない鍵。開いているはずなのに開かないドア。
全部気のせいだ。分かっている。出入り口は、いつも通り開いているし、出ることも入ることも可能だ。
だけどそれが出来ない。どういうわけが、どれもこれもが封鎖されている。その先入観のおかげで、
この目にはいつまでたっても真実が映らない。
だがその問題にも、一筋の光明が見えてきた。
「大丈夫? お水もっと飲む?」
心配そうにこちらを覗き込む万莉亜に、やっとのことで平静を取り戻した摩央がどうにか首を振る。
「平気……、それよりあたし……」
そう言ってせわしない目つきで下倉摩央が自身の両手や床に投げ出した足を確認する。
やがて擦り傷ひとつ無いことを知ると、大げさで長いため息を零した。
「良かった……すごい痛かったから骨折れたかと思って……」
「大丈夫だよ。怪我は無いみたい。血も出てないし」
摩央の背中に回った万莉亜が彼女の視線の届かない場所をくまなく確認しそう告げると、
摩央は再び安堵したように息を吐いた。しかしそれも束の間、即座に再び興奮し始め、
背後の万莉亜の両腕を掴む。その勢いに万莉亜の体が揺れた。
「あれ何っ!? 何なのっ?」
「ま、摩央、落ち着いて」
「あれ幽霊っ? 万莉亜も見てたよね!? やばいよこの学校! どこからも出られなくなっててっ……」
「わ、分かってる。私たちもそうなの」
私たち、というフレーズに反応した摩央が職員室の入り口に立っている金髪の青年に視線を投げた。
「そ、そうだ……! あの人、誰?」
「あの人はクレアさん。この学園の、理事長」
「理事長で、前二人で探したあの……。えっ……?」
万莉亜に向き直った摩央のその瞳に浮かぶたくさんの疑問。
その全てを汲み取りながら、万莉亜はしっかりと頷いた。確かに理事長にしては若すぎるし、それに外国人だし、
腑に落ちない点は多々あるだろう。しかし彼が理事長なのだ。
万莉亜の真剣な面持ちに、摩央は半信半疑ながらも頷いた。そしてもう一度、
二人からは少し離れた場所に居る彼に視線を向ける。遠目からでもはっきりと分かるほどの美男子だ。
状況が状況でなかったら、自分はさぞ舞い上がっていたことだろう。
「で、でも、何で万莉亜と理事長が……一緒にいるの?」
「それは……」
万莉亜があからさまに口ごもる。
どう言い繕ってこの場をしのごうか。そんな彼女の心境が、もろに表情に出ていて摩央は思わず苦笑した。
「まぁ、そんなに言いたくないなら……」
そこまで言いかけて、はっと気づく。それから随分興奮した口調でまくし立てた。
「ま、ままま、まさかアレ!?」
アレ、と呼称しながら右手の人差し指をクレアに向ける。もちろん、彼には気づかれないように。
「あ、あれって?」
「あんたが少し前に悩んでた男って、あの人っ?」
「なっ……」
顔を真っ赤にして固まる万莉亜のリアクションで確信を得た摩央が、「へぇー」と
心底意外そうにまじまじとクレアを眺めた。それから「でかした!」と小声でささやき万莉亜の背中を叩く。
「イケメンだし玉の輿だし! 言うことないじゃん!」
「ちょ、ちょっと摩央。シッ、聞こえちゃうよっ」
「だけど大丈夫? あんたあんな手強そうなの、ちゃんと飼い慣らせて、んぐっ!」
友達としての純粋な気配りだとしても、この会話がクレアに届いていたらたまったものではないと
万莉亜は必死の形相でブルブルと首を振り摩央の口をふさぐ。
「そんなんじゃ、そんなんじゃないの!」
否定する万莉亜に摩央は口をふさがれたまま首をかしげる。
「ただの知り合いなんだから、変なこと言わないで!」
「そうなの? じゃあこの間悩んでたのは別の人?」
やっと声を発せられることを許された摩央の口から出てきたのはまたもやこちらが返答に詰まってしまう類のもので、
万莉亜は否定も肯定も出来ずに視線を彷徨わせた。
「……どうなってんの。あんたの男事情……」
「…………」
がっくりとうな垂れる。そんなの、こっちが聞きたい。
「お嬢さん方、ちょっといいかな」
入り口をチラチラと気にしながらも早足で近寄ってきたクレアに万莉亜と摩央が振り返る。
手際よくこれからの行動を指示しようと考えていたクレアが、摩央の何かしら訴えかけるような
視線に気づいて「ああ」と小さく呟き、床に座り込んだ彼女の前に膝をついた。
「自己紹介がまだだったね。僕はクレア・ランスキー。君は……」
「あ、し、下倉摩央です」
「そう。よろしくね、摩央」
言いながら彼女の左手を取って、手の甲にキスを落とす。実際には触れず、唇を寄せただけではあったが、
摩央ならず万莉亜まで息を呑んだことは言うまでもない。
「こ、……こちら……こそ」
途切れ途切れに何とかそう返事をした摩央ににっこりと完璧な笑顔を向けてから、「さて」と仕切りなおした。
「早速だけど摩央、少し眠ってもらえるかな」
「え……あ……」
クレアの言葉の後、糸が途切れたようにぷつりと意識の途絶えた摩央の背中を片手で支えて、
ゆっくりと床に横にする。
「ま、摩央っ!」
それから慌てる万莉亜に向き直り、安心して、と告げた。
「ほんの少し眠ってもらう。それだけだよ」
「ど、どうして……っ」
「彼女は今僕らを苦しめている敵のマグナだ」
予期せぬクレアの台詞に万莉亜が言葉を失う。瞳は、驚愕に見開いていた。
「正しく言えば、その素質を持っている。万莉亜も見ただろ? この校内に居るものは
全員が意識を奪われていた。でも彼女は違う。惑わしが、通用しなかったんだ」
さらに正しく言えば、術者であるアンジェリアと摩央は同性なので、マグナにはなりえない。
しかしまぁ本質は変わらない。相性が悪いのだ。それは同性間でも十分ありえる。ただ、役に立たないだけで。
「……そんなっ」
頭が混乱して上手く考えがまとまらない。
摩央が敵のマグナ?
「どうして、どうし……」
「相性の問題だから、深く考えても意味は無い。たまたま、彼女がそうだっただけの話だ。
僕と君が無作為の偶然で相性が悪いのと同じだよ」
「そんな……じゃ、じゃあ、摩央も狙われてるの? マグナだから……」
「いや、その線は無いだろうね」
そろそろ、敵の正体はアンジェリアだということを彼女に伝えるべきだろうか。
もうこうやって半分姿を現しているわけだから、万莉亜が彼女の存在に気づいてもおかしくは無いだろう。
しかしその後の対応をどうする? 策があるから大丈夫、といたずらに安心させるのは危険だ。しかし策など何も無いと
投げやりになって彼女を絶望させるわけにもいかない。
こちらもそれなりの下準備が整っていることを悟られてはまずいのだ。鋭いアンジェリアに。そして、正直すぎるあまりに
思ったことが全て顔に出てしまうこの少女にも。残酷ではあるが、万莉亜のリアクションは、
今回の作戦において重要な意味を持つ。
「摩央は、完全に僕たちの巻き添えだ。彼女自身が狙われている可能性はほとんどゼロに近い」
「…………そう、ですか。良かった」
安心して胸をなでおろす。理由は分からなかったが、クレアが言い切るのだから、きっとそうなのだろう。
しかしふと先ほどの彼女の言葉が脳裏をよぎる。摩央は確かに言っていた。どこからも出られないと。
これは、彼女もしっかりと術中にはまっているということではないだろうか。
そう気づいた万莉亜が、素人ながらもおずおずと尋ねてみれば、「だいぶ染まってきたね」と少し可笑しそうに
微笑んで、それから首を横に振った。
「一概にこう、とは言えないんだ。例えば君と梨佳が同じマグナでありながら個体差があるように、
相性の度合いはそれぞれレベルがあって、摩央は意識を奪われたりしないほどではあるが、簡単なトリックには引っかかってしまう。
だけどそれも、意志の強さでどうにでもなる。素質があるんだから、僕たちよりはいくらも可能性があるさ」
「……と、言うと?」
だんだん頭が混乱してきた万莉亜の表情を見て、クレアが簡潔に述べる。
「つまり、摩央の努力しだいで、出口は開かれる」
「…………」
「外からの介入さえあれば、僕も君も目が覚める。多分ね」
「それ……摩央は、危険じゃないんですか」
何だかよく分からなかったが、とりあえず一番気にかかることを訊ねてみれば、一瞬クレアの表情が曇った。
それを見て、万莉亜の心も沈む。
「はっきり言って、危険だよ。彼女を矢面に立たせることになる」
「…………」
出入り口を開けさせるだけではない。摩央には時間も稼がせるつもりだった。
アンジェリアがどこから攻撃を仕掛けているのか分からない今、無鉄砲に旧校舎を飛び出し、
新校舎にたどり着く前に遭遇することは何としてでも避けたい。
自分は不死の身だが、万莉亜は違う。どこからともなく放たれた彼女の矢であっさり息絶えてしまう脆い体だ。
だから安全にあの中庭をつっきる時間。一分でいい。三十秒でもいい。その僅かな時間が、どうしても欲しい。
そのためには、無関係な第三者である人間が必要だ。
アンジェリアを恐怖に突き落とすことが出来て、さらにはその力の及ばない人間。
「出来ません……っ」
苦しそうに、万莉亜が呟く。
「摩央を、摩央だけを危険に晒すなんて……」
予想されていた返答だったが、正直なところ今は万莉亜の意見を尊重している場合ではない。
このまま逃げ回っていても、いずれは衰弱し、捕まってしまう。
「他に方法は無いんですか!?」
「あるよ。だけど、出来れば避けたい。時間がかかる上に確実に一人は犠牲者がでる」
「犠牲者……?」
結論から言えば、クレアが一人この閉鎖された空間から抜け出すことは可能だった。
小指一本程度でいい。それさえここから外へ出られたらそれいいのだ。
指を切り離し、どうにかして外へ捨て、あとは残った体を校内に居る生徒か教師に
綺麗に食い尽くしてもらう。そうして肉体の大部分を失えば、この呪われた体は
捨てられた小指から再び再生を始めようと躍起になるはずだ。
しかし問題は時間だった。
人が一人、人の体を食い尽くす時間。それから頭部に四肢胴体、体全てを再生する時間。
「そんな時間をかけてテレポートするだけの猶予はきっとくれないよ。それに、何の罪も無い人間を同類にしてしまう」
「……どう、るい? 同類って……」
「僕の肉を食えば、食ったやつはその場で人間とは別の生き物になる。……誰かから、聞かなかった?」
「…………」
「とにかく、あまり良策とは思えない」
彼の言葉などどこか遠く、万莉亜はちょっとした衝撃に打ちのめされていた。
思えば、今まで何となく受け入れていた彼らの生態を、こうやってクレアから突きつけられたのは初めてだ。
「誰のを……食べたんですか……」
考えを巡らせていると、不意に言葉が漏れた。
瞬間、クレアの表情が強張ったような気がして、万莉亜は咄嗟に自分の軽率な言動を責める。
「ご、ごめんなさい……っ、私……余計なことを……」
何を言っているのだろうか。
全く意図せずに自然と零れてしまったその言葉は、あまりにも不躾だった。
――……でも……
うすうす気づいてはいた。彼もまた、かつては人間であったことを。
心の底ではずっと知りたかった。そのルーツを。
「忘れちゃったな」
動揺を一瞬で消し去り、クレアが微笑む。
その優しい笑顔に二人の距離を感じ、万莉亜の胸は痛んだ。梨佳は知っているのだろうか。
クレアが上手に笑顔の仮面をかぶるようになった、そのルーツを。
「選べる方法なんて……無いんですね」
諦めたようにして肩を落とす。クレアは頷く事こそしなかったものの、
その瞳は肯定の色を浮かべていた。
「じゃあなんで、わざわざ私に説明なんて……」
摩央を盾にするだなんて、自分は絶対に認めない。それが分からないクレアではないはずなのに、
なぜわざわざ。そんな風にしてわずかに非難めいた視線を向ければ、彼は意識を失った摩央をチラリと横目で確認するふりをした。
彼にしては、随分下手な視線のそらし方である。
「彼女、摩央は普通の女の子だ。とても、あの恐怖の中平静を保っていられるとは思えない」
「……はい」
「そんな彼女に、君の命を預けるのはいささか不安だ」
「……?」
「彼女を操ろうと思う。意識を乗っ取って、確実に事をこなしてもらう」
「…………」
「それを無断でやれば、君はまた怒る。……つまり、ワンクッション欲しかっただけだよ」
今から君の友達に非道なことをするけれどよろしくね。つまりはそう断りを入れておきたかった。
「……そんな……」
そんなことに、なんの意味があるのだろう。
言いかけて、口をつぐんだ。どうも今日の万莉亜は、クレアに辛く当たりがちだ。彼だって
この窮地からどうにか抜け出そうと尽力しているだけなのに、分かっているのに。
――嫌われたら、どうしよう……
口では彼を非難して、心ではそう願う。
生まれてはじめて感じるどうしようもないジレンマ。万莉亜は閉ざした唇に力を込めて、
素直な言葉を発せられない己の声を封じた。けれどその表情には葛藤がありありと浮かんでいて、
それを感じ取ったクレアも、また無視を決め込んだ。
こんな風にいつまでも二人、足踏みしか出来ない関係。
もう引き返せないほどに、積み重ねてきてしまったものがある。
くだらない固執かもしれない。はたから見れば、そうなのかも知れない。
――「……私、あなたが好きです」
あの夜聞かされたあの言葉に、どれほどの崩壊感を味わってしまったか、この少女は生涯知ることは無いのだろう。
それを聴いた瞬間、自分を待ち受ける苦悩の日々が楽に脳裏をよぎった。
今がそれだ。そして、明日もそうだ。
――「君はそう簡単に言うけれど」
そんな風に責めたくなるほどの怒りすら感じた。なぜか? 答えは明白だ。けれど、易々と認めるわけにはいかない。
積み重ねてきたものは、重く、永く、そして痛々しい。今更引き返すことを、過去の自分は決して許さないだろう。
「クレアッ!」
突然緊迫した声で呼ばれ、緩んでいた緊張感が背筋に走り、クレアは声の方向へと振り返る。
職員室から見える窓ガラスの向こう、中庭の中央からこちらへ向かって銃口を向けるルイスの姿が
視界に飛び込んできた。
「ルイスさんっ……!」
驚いた万莉亜も続いて振り返り声を上げる。
地獄に仏とはこの事だ。ルイスは今まさに、「外側」から職員室の窓ガラスを打ち破ろうとしている。
「お二人とも、伏せてくださいっ!」
叫びながらルイスが銃口を引こうとトリガーにかけた人差し指に力を込める。
思わず息を呑んで上半身を床に伏せようと動いた万莉亜の横から、素早く駆け出すクレアの背中を見た。
「ルイスっ、やめっ……」
そう彼が叫び終わらないうちに、ドン、と強い衝撃音が鳴る。
それから、鈍い落下音。銃声にしては奇妙だと感じ恐る恐るまぶたを開いた万莉亜の視界から、
すでにルイスは消え去っていた。
「…………え……」
呆けた声を出しながら、窓の外の景色に目を凝らす。やはり、ルイスの姿が見当たらない。
「……クレアさん……?」
それから窓の前に立ち、ガラスに手のひらを押し当てている彼の横へ力の抜けた下半身を
引きずって近寄り、彼と同じようにして地面に視線を落としてみた。
「…………ッ!!」
衝撃に息を呑み、それから込み上げてきた胃の逆流物をこらえ、万莉亜は震える驚愕の瞳から
すぅっと涙を零した。胸は熱くないし喉も苦しくない。もしかすると彼女は、涙が流れていることにも気がついていないのかも知れない。
それほど機械的に、衝撃の涙が零れ落ちる。
「……ッルイスさんっ! ルイスさんっ!!」
それから、叩き割らんばかりの勢いで万莉亜が窓ガラスにしがみつき、その透明な薄い板一枚の向こうで
地面に倒れているルイスに叫びかける。
恐ろしい長さの黒い糸が、何千何万もの針となって隙間無くルイスの体を貫通し、万莉亜が見ている前で
その針は力ない糸へと姿を戻す。するとルイスの体から噴出し始めた赤い血が辺りの地面をどす黒く染めた。
「クレアさんっ、ルイスさんがッ、ルイスさんが死んじゃうっ……ッ!」
隣に立つ青年の体を万莉亜が揺さぶる。声は、自分でも分かるほど甲高く、そして動転していた。
「……ルイスは死なないよ」
そんな彼女とは対照的に、クレアはしっかりとした声色で呟く。
けれど視線は横たわるルイスへと注がれ、いくら万莉亜が揺さぶろうとも決して剥がされることは無い。
「ク、クレアさん……?」
「大丈夫。僕が死なない限り、ルイスが死ぬことは無い」
たとえ、何千何万の針に串刺しにされても。
――ルイス……
大人しく引っ込んでいれば、無駄な血を流さずにすんだ。
ルイスが旧校舎の周りをうろつき、今か今かとチャンスを伺っていたことには気づいていた。
そしてそれは、アンジェリアにも筒抜けであったはずだ。それでいて泳がせていたのだ。
命を分けて作り上げた息子に対し、雑魚はいつでも始末できると言わんばかりの態度を示したアンジェリア。
むかっ腹が立たないといえば嘘になる。いくら死なないとはいえ、体中に穴の開いたルイスの姿を誰が好んで見たいものか。
「クレアさん……っ」
隣でか細い声を震わせる少女に気づき、その肩に手を回してやろうとした瞬間、視界の隅に黒いものがよぎり、
クレアはそのまま万莉亜を抱きかかえて窓際から大きく後退する。
「な、なにっ……!?」
万莉亜の視界いっぱいに広がるのは、窓のありとあらゆる僅かな隙間を縫って外からこちらへ侵入を始めた黒い髪。
蠢く髪、髪、髪。まるでその一本一本が、意思を持って活動しているような錯覚にさえ陥る。いや、実際そうなのかも知れない。
だけどそんなことは、もうどうでもいい。恐怖で頭がどうにかなってしまいそうだ。
あっという間に窓ガラスは一面黒い髪で覆われ、もうルイスの姿も確認することが出来ない。
日はとっくに暮れていたが、僅かに差し込んでいた外の明かりさえも、完璧に遮断され、室内は一転暗闇と化した。
「クレアさん、クレアさんっ?」
途端に悪くなった視界に焦った万莉亜が声を上げれば、すぐ隣に居た彼が万莉亜の手を握る。
「大丈夫」
「……でも」
「もう時間が無いから、いいね?」
その台詞が何を意味しているか、僅かな間をおいて理解した万莉亜がぎゅっと彼の手を握り返せば、
隣のクレアはその場から二、三歩移動をして、おそらくは摩央が横たわっているであろう場所で屈む。それにつられて、万莉亜も
彼の横に膝をついた。
ぞぞぞ、と奇妙な立てるあの糸の集合体が、今どの辺りまで迫っているのか、暗闇に目が慣れていないせいで
距離感のつかめない万莉亜が、顔ごとクレアの肩にうずめて硬く目をつぶる。
――怖い、怖い、怖い……!
ボソボソと何かを摩央に語りかけているクレアの声が、彼の体ごしに振動として伝わる。
その声に集中し、必死になって恐怖を押しのけていると、やがて横たわっていた摩央が小さな衣擦れの音とともに
起き上がる気配がして万莉亜もそっとまぶたを持ち上げた。
「……ま、摩央……?」
暗闇に目が慣れたのか、ゆっくりと立ち上がった摩央の表情がぼんやりと見える。
見慣れた彼女の顔なのに、そのはずなのに、思わず万莉亜は息を呑んだ。
今の摩央は、まるで怨念の塊のように悪意に満ちた厳しい表情で視線を彷徨わせている。
「アン、ジェリア……」
地獄の底から響いてきたような低い声。女性の声帯では、およそ不可能なまでに
低く轟く声で摩央がその名を呼ぶ。
その声色の薄気味悪さにも驚いたが、何よりも万莉亜が驚愕したのがその名前だ。
――クレアさんの……奥さん……?
なぜ今この場で、摩央がその名前を。
「悪魔に、魂を……あの女は……悪魔に魂を……」
今にももげてしまいそうなほどグラグラと頭を揺らしながら、摩央が呟くその言葉は、呪いのようにして
辺りに響いた。
「殺せっ! 村のためだ! 殺せ! 殺せっ! 殺せッ!!」
突然激しく怒鳴りたてたその声に万莉亜は肩をびくつかせ、いまだ信じられない思いでクラスメイトの
挙動を目で追う。
「全員一致だ。あの女は、殺すべきだ。悪魔憑きに違いない。子々孫々まで呪われるぞ。殺せ。焼いてしまえ。
焼いてしまえ。髪の毛一本たりとも残すな。子も焼いてしまえ。悪魔の子だ。死ぬまで殺し尽くしてしまえっ!」
半狂乱になって摩央が叫べば、窓ガラス一面に張り付いていた黒い髪は、一瞬はじかれたような衝撃を受けた後、
やがてそのどれもが力を無くし、重力に逆らうことも無くバサバサと地面に落ちてゆく。
その隙を逃さず摩央が腕を伸ばし、何のためらいも無くそのガラス窓を開けて見せた。
「行こう」
即座にクレアに手を引かれ、万莉亜は慌てて走る。
「捕まって」
先に外の地面に降りたクレアに上半身を持ち上げられ、どうにか窓ガラスをまたいで地面に足を下ろせば、
何ともいえない虚脱感が万莉亜の全身から力を奪っていった。
その場所から、先ほどまで閉じ込められていた場所を見る。ほんの壁一枚。距離にして半歩。
それでも、今の万莉亜にとって、あちらとこちらでは全くの別世界に思える。
――……助かった、んだ……
やがて万莉亜に続いて外に出た摩央は相変わらず虚ろな表情で、声をかけていいものかどうか躊躇していると、
摩央の足元にある力を無くしたはずの黒い髪がぞぞ、と動き始めて万莉亜が小さな悲鳴を上げる。
しかし、大量の髪の毛を持ち上げるようにして中から現れたのは、串刺しになっていたはずのルイスだった。
「スーツが穴だらけです」
生き返った彼が、実に忌々しそうにそう産声を上げる。
あっけに取られている万莉亜にニコリと微笑み、それからささっと額にかかった前髪を払うと、彼はやっと
一息ついて辺りに広がる黒髪の海を確認した。
「とりあえず、落ち着いたみたいですね」
その言葉に、クレアも小さく頷く。
「ほんの一瞬だ。お前は摩央を寮まで送り届けろ」
「え……帰してしまうんですか?」
ルイスのその返事に、クレアは横目でチラリと万莉亜をさした後、諦めたようにして頷く。
それを見て何となく理解は出来たものの、しかし今ここでこれほどの強みを手放すのはどう考えても愚策だ。
せっかくアンジェリアに対抗できそうな少女を見つけたのに……
「摩央は返す。どの道、もうはったりは通用しないだろ。あっちが腹を括って摩央にまで牙を剥いたら困る」
「しかし……」
二人の男性の言い合いに万莉亜が割ってはいる。
「どういうことですかっ?」
そらみろ、と言わんばかりの視線でルイスを一瞥した後、クレアは万莉亜をなだめる様な口調で説明した。
「非道なルイスがこのまま摩央を利用しようとしたから、それを止めただけだよ」
「ク、クレア!」
確かにあながち間違いではないが、随分偏った物言いについ声を上げてしまう。
するとまずいことに、目の前で「ルイスさん……」と呟く悲しそうな少女の瞳と視線が交差してしまった。
「……分かりました、分かりましたよ」
降参して未だ意識が混濁している摩央をルイスがひょいと抱きかかえる。
もったいない、と呟きながら早足で寮の方向へと向かったルイスの背中をしばらく視線で追った後、
クレアは万莉亜の手を握りなおす。
「さぁ、僕たちも行こう」
「……新館へ?」
「そう。シリルとハンリエットが待ってる。まだ走れる?」
「は、はいっ……!」
思わず頷いて、最後の力を振り絞ろうと力んだ心のままに駆け出した。
頬に当たる夜風が冷たい。
――出られたんだ……本当に……
実感が湧かずにまだ萎縮していた心臓が、ほんの少し、冷えた風によって癒されていく。
――助かったんだ……!
しかし彼女の手を引くクレアの表情は、未だ硬いままだった。
これは前半戦に過ぎない。
それも、本来ならば避けられたはずの前半戦だ。
万莉亜に合わせたペースで駆けながら、ちらりと頭上の月を見上げる。
白い光を放つ満月は、煌々と学園の敷地を照らしている。
長い夜になりそうだ。
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