ヴァイオレット奇譚「Chapter37・"長い夜のためいき"」
一台のタクシーが、とあるコンビニエンスストアの前で停車する。
電話ボックスの前に佇む少女を見つけて車を後部座席のドアを開けてやると、運転手は一瞬
ぎょっとした顔をして、それからすぐに表情を取り繕った。
「えーと、名塚さん?」
少女が力なく頷き、それから無機質な動きでタクシーへと乗り込んだ。
バックミラーで彼がその様子をチラチラと確認する。
この辺りにある七尾女子学園の制服だ。それにしても、こんな時間に、女子高生が一人
雨の中傘もささずにタクシーを待つ。表情を虚ろにして。
――彼氏と喧嘩か……?
野暮だと分かっていても勘ぐらずにはいられないほど、少女の様子は異様だった。
頭からぐっしょり雨に濡れているというのに、それを気にしているそぶりも見せない。
なんだか幽霊みたいで、どうでもいい勘ぐりでもしていなければ、しょうがない妄想に取り付かれてしまいそうだ。
「で、どこへ?」
「……グリーンヒル・ホームズ」
「へ?」
「あの……」
素っ頓狂な声で振り返れば、少女は動揺した様子で運転手の表情を覗き込む。
――あ、普通の子だ……
いざ客と顔をつき合わせて、やっと安心する。
ずぶ濡れで疲れきってはいるが、幽霊ではない。普通の、可愛らしいお嬢さんだ。
「えーと、聞いたことないなぁ」
そう呟いた運転手が、彼女が持っている紙切れに気づき、「ちょっと失敬」と断りながら
それに目を通させてもらう。
「ああ、マンション名ね……ってこれ、隣の県だけど!」
「え……」
運転手に突っ込まれようやく知ったのか、彼女も驚いたようにして顔を上げる。
「だいぶ距離あるよ。いいの? お金持ってる?」
「……あ……お金なら……」
そう言って彼女が無造作にポケットから折りたたまれた万札を取り出して見せる。
それも一枚や二枚ではない。ざっと見ただけでも50万近くはありそうだ。
「大丈夫? ……まさか家出とかじゃないよね」
めんどくさい事にならなきゃいいなぁと心で呟きながらそう探りを入れてみれば、彼女は
静かに首を振って、それから「急いでください」と運転手をせっついた。
仕方がない。どんなに怪しくても客は客。しかも行き先は隣の県ときた。本来ならば喜ぶべき上客だ。
「分かりました。二時間ほどかかりますよ」
「……はい」
タクシーが発進すると、万莉亜は背もたれに体を預けて、あの瞬間瑛士に渡された紙切れに
もう一度視線を落とした。
「グリーンヒル・ホームズ 602号室」
そう走り書きされたメモと、それに包まれていた鍵。それと、お金。
――みんな何か……考えがあるんだよね……
そう考えるほかなかった。
あのクローゼットの中で、突然の炎にパニックを起こした万莉亜。
狭い空間の中で暴れまわっていると、突然開いた床板から現れた瑛士が、万莉亜にこれらを突きつけて、自分がやってきた
場所に彼女を押し込んだ。
――「走れ! 絶対に戻ってくるんじゃねーぞ! 計画がおじゃんだからな!」
床上からそう囁いた瑛士の声が確かに聞こえた。
「計画」と確かにそう言った。
わけも分からず、とりあえず狭いダクトのような空間を這って進み続け、上ったり下りたりを繰り返し、出たのは学園の敷地から少し離れた
学園来客用の駐車場、そこにある管理室の床下だった。
一心不乱に進み続けたから、時間にして15分程度だった気がする。
管理室に到着した彼女は、ここがどこなのかも分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。しかし次の瞬間、
突然の轟音と共に地響きが起きる。
あまりの衝撃に万莉亜はバランスを崩し床に手を着き、それから慌てて立ち上がると
窓ガラスに張り付いて今の音の正体を探る。
真っ先に見えた新校舎の最上階が、煙に包まれているのを知るや否や、管理室を飛び出し
校舎に向かって走り出していた。
しかしそこで、はたと瑛士の言葉を思い出す。
戻ってくるなと彼は言った。計画がおじゃんになるから。そう言っていた。
「……そんなっ……」
でも今の爆発で、クレアは? シリルたちは? そして瑛士は?
みんな無事なのだろうか。
そこまで考えて、彼女はやっと押し付けられたメモの存在を思い出した。
******
「ありがとうございましたー」
そう言って運転手が後部座席のドアを閉める。
交通量が少なかったせいか、丸々二時間かかることもなく、万莉亜は目的のマンションへと辿り着いた。
少し離れた場所からその建物を見上げる。大きくて随分立派なマンションだった。
――……ここ……?
確かに、名前は合っている。
それにしても、大きなマンションだ。まるで、芸能人でも住んでいるような豪華な佇まい。
恐る恐る敷地内へと踏み入れ、エントランスに入る。
「名塚様」
突然名前を呼ばれ、小さく悲鳴を上げながら振り返れば、彼女を待ち構えていたスーツ姿のコンシェルジュが
深く頭を下げて万莉亜を迎え入れた。
「あ、あの……」
「お帰りなさいませ。クレア様より言付かっております。どうぞこちらへ」
「……え」
「どうぞこちらへ」
万莉亜の動揺などお構いなしに男はすたすたとエレベーターへ彼女を案内する。
その後姿を慌てて追うと、万莉亜は彼のスーツの裾を掴んでまくし立てた。
「知ってるんですか!? クレアさんは無事なんですか? みんな、みんなは今どこに……!!」
「お帰りなさいませ。クレア様より言付かっております。どうぞこちらへ」
「教えてくださいっ、お願い……」
「お帰りなさいませ。クレア様より言付かっております。どうぞこちらへ」
「…………」
「どうぞこちらへ」
機械的に同じ言葉を繰り返す彼の瞳は焦点が定まっていなかった。
――ああ、そっか……
彼は、あらかじめクレアか誰かの手によって
インプットされた言葉を繰り返しているに過ぎない。いくら食って掛かっても無駄なのだ。
万莉亜は黙って言われたとおりのエレベーターに乗り込み、コンシェルジュは目的地のボタンを押すと
扉が閉まるまで深く頭を下げ続けていた。
――……クレアさん
彼は、初めから万莉亜をここへ逃がすつもりだったに違いない。
それが今日この出来事を予測してなのか、それとも常に不測の事態に備えていたからなのかは分からない。
とにかく、万莉亜をあのクローゼットに入れた瞬間から、彼は自分を逃がすつもりだった。
では、クレア自身はどうなったのだろう。
あの爆発から、無事逃げおおせることが出来たのだろうか。
いくら考えても答えは出ない。疲れきっているはずなのに、心臓は未だバクバクと音を立て、
タクシーの中でも万莉亜は一睡もすることなく彼らの安否を心配していた。
「あ、あれ……」
ポーンという小気味いい音と共に目的の階へ到着した万莉亜は、一瞬部屋の扉が一つしかないことに
驚いて辺りを見渡す。
――い、一階に一部屋……?
いくら何でもそんなバカなと思いながらよくよく辺りを見回してみると、何てことはない、
過剰にプライバシーを尊重するあまり、フロアの構造やエレベーターが住人とのすれ違いを避けた仕組みになっているだけだ。
――どうなってるんだろう……
しばらくジロジロと辺りを眺めながら、万莉亜は迷うこともなく、いや、迷いようもなく
602号室の前に立ち、そっと鍵を開ける。
「…………」
しばし言葉を失いながらぐるりと室内を見渡す。
まぁなんというか、雑誌で紹介されているような高級マンションの室内写真をそのまま切り取って
持ってきたような部屋で、驚くべきはその豪華さよりもモデルルームばりに皆無な生活感のなさだった。
「誰か……いますか」
そっと声を上げてみる。自分でも分かるほど震えた言葉が、広くて開放感のある室内に響いた。
「……クレアさん……シリル……」
「誰か、ルイスさん? ハンリエットさん、瑛士くん……」
言いながら、室内のありとあらゆる扉を開けてみる。
「誰も……いないの……?」
タクシーの中で、ずっと考えていたことがある。
もしかしたら先回りしていた誰かが、ここで待っていてくれるんじゃないかと。だから衝撃に
立ち止まることもなく、言われたとおりに急いでここまで来ることが出来た。
けれど実際は、誰一人万莉亜を待ってはいなかった。
急に込み上げてくる孤独感にいても立ってもいられずに、キョロキョロと周りを見渡す。
――電話……電話……
蛍だ。蛍に電話して、新校舎がどうなっているのか聞かないと。
ものすごい爆発だった。きっと大騒ぎに違いない。消防車や救急車が来て、
あの辺りは大騒ぎのはずだ。
けれど、探せども探せども電話は見つからなかった。こんな立派なマンションで、家具もテレビもばっちり設置してあるくせに、
肝心の電話がないなんて。
「どうして……」
冷たいフローリングにへたり込み、それから「あ」と声を上げた後バタバタとリビングにある大きな
テレビに向かう。
あれだけの大爆発だ。速報なんかで、ニュースでもやっているかもしれない。
しかしこれも意図ははずれ、どの局も平常時通りのんびりと用意してあった番組を流している。
コメディアンのワザとらしい馬鹿笑いが部屋に響いた。
――どうなってるの……
分からないままに立ち上がり、万莉亜は見晴らしのいいガラス張りの窓に全てカーテンを引いた。
それから窓という窓の施錠を確認して回り、やっとのことでリビングのソファに腰を下ろす。
流れる深夜のバラエティをぼうっと眺め、ふとテーブルにあるデジタル時計に視線をやる。
時刻は午後の11時半。
旧校舎で始まったあのわけの分からない騒動から、ちょうど5時間が経過していた。
――ここで待ってれば……絶対、みんなが来てくれる……
戻ってくるなと瑛士は言った。
状況の見えない今、それに逆らってあの学園に戻ることはどうしても得策とは思えない。
「大丈夫……絶対、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟くと、万莉亜は手近にあったクッションを抱きしめながら、
眉一つ微動だにせず硬い表情でテレビと睨めっこをし、ひたすらに時が過ぎるのを待った。
******
突然の爆音に驚いて目が覚める。
「……えっ……」
寝ぼけ眼で辺りを見回し、見慣れぬ部屋だと知ると万莉亜は驚いて立ち上がった。
――どこ……?
不安に押しつぶされそうになりながら、随分と広く、贅沢の極みのような家具を並べられたこの部屋が、
一体どこのどの部屋なのか、ゆっくりと蘇ってきた記憶に納得し、それから先ほどの爆発音がテレビから流れる映画によるものだと
知って、彼女はほっと息をついた後ゆっくりと座りなおす。
見ていたはずのバラエティはとっくに終了し、いつの間にか番組は効果音の大げさなホラー映画へと変わっていた。
万莉亜は慌ててリモコンを手に取ると、騒がしくもお気楽な番組を求めてせわしなくザッピングを繰り返す。
結局目ぼしいものは見当たらず、歌手のプロモーションビデオが延々垂れ流されるチャンネルに落ち着いて、
それからデジタル時計を確認した。
時刻は深夜1時。
先ほど時計を確認してから、まだ1時間半しか経っていない。その間に、居眠りまでしたのに。
――まだ、誰も来てないか……
がっかりしてため息を零した後、ふと思い立ってキッチンに移動する。
みんながここへ到着したとき、きっととても疲れているだろうから。そう考え、何か作り置きの出来るものを
と冷蔵庫を開く。が、中に詰められているのがミネラルウォーター数本と、数日分のインスタント食品しか
ないと知るや否や肩を落としてそっと冷蔵庫を閉めた。
万莉亜自身は全く空腹を感じていなかったため、作り置きが出来ないのならキッチンに立つ意味がない。
とぼとぼとリビングに戻ってきた彼女が再びデジタル時計に目をやる。時刻は1時3分。
「…………」
部屋自体は文句の付けようもなかったが、ここには暇つぶしの道具が一切なかった。
それなのに、気ばかりがどうにもせってしまって何かしていないと耐えられそうもない。
結局、ソファに座って、またしかめ面をしたままテレビと睨めっこを始める。
テレビに流れる歌手のプロモーションビデオが1曲につき約4分。2曲聴けば8分。
歌が一曲終わるごとに、万莉亜は指折り数える。時計を見ればすむ話なのに、どうしても
それが止められずに彼女はその番組が終わるまで曲を数え続けた。
深夜2時15分。
相変わらずソファの上で膝を折ったまま、冷蔵庫から持ってきたミネラルウォーターに
口をつけてテレビと向き合う。
もう、何十時間もここでこうしている気がするけれど、実際はそうでもない。
そして相変わらず、この部屋には誰一人来客が訪れない。
いっそ眠ってしまえば楽なのにと、もう何度思っただろう。それなのに、時間がたつごとに目は冴えていき、
心は落ち着きを失っていった。
延々とプロモーションビデオが流される番組もやっと終わり、いくつかのCMをはさんでそのうち
映画が始まった。コメディでありますようにと願う彼女をさらりと無視して始まったのは、なんだかよく分からないフランス映画だった。
「…………」
それでも、黙ってその映画に集中してみる。
映画の主人公は小さな少年。ルーマニア人の少年が演じるその主人公は、どうにも不思議な存在で、
どこから来たのか、どこへ行くのか、そもそも誰なのか、視聴者にはさっぱり伝わらないまま話が淡々と進んでいく。
――……可愛い子だなぁ……
ぼーっと、そんなことを考えた。
というよりは、他に見所がない。カメラはストーリーそっちのけで、映像美だけを貪欲に追求していた。
美しい港。綺麗な街角。緑の庭。あらゆる素敵な場所を、少年は通り過ぎる。時には立ち止まったり、誰かの優しさに触れてみたり、
人の無情さとすれ違ってみたり。少年は、ただにこにこしながら、あらゆる場所を通り過ぎて、やがてまたどこかへ行ってしまう。
つまり何だったのだろう、と首を捻ってしまったが、そんなことよりも、行ってしまった彼の背中が
寂しくて、目じりに涙が浮かんだ。
嬉しかったり悲しかったり、どんな時でも主人公の少年はただにこにこしているだけで、言葉にはしてくれなかったから、
彼が何を思っていたのか全く分からないまま映画は終わる。それが、どうしようもなく悲しい。
「……っ」
垂れてきた鼻水を拭おうとそこにあったティッシュケースから数枚引っこ抜いて思い切り鼻をかむ。
こんな風に泣くつもりはなかったのに。落ち着いて考えれば、そんなに悲しい話では無かったような気がするのに。
何となく陰鬱な気分で時計に目をやる。
時刻は深夜3時40分。
わずかに浮き足立ってカーテンの隙間から外の様子を覗いてみる。が、当然外はまだ真っ暗で、
がっくりとため息を零した。そして、映画を延々と見ている間も、結局誰一人ここへ来る者はいなかった事実に気づき、
また消沈してソファに戻る。
――このまま……朝まで誰も来なかったら……どうしたらいいんだろう
考えまい考えまいとしていた不安がとうとう姿を現して、万莉亜の胸を騒がせる。
クローゼットの中で聞いた、クレアの痛みにうめく声が脳裏によみがえった。歯を食いしばってその声を散らす。
そんなことを思い出したいわけじゃない。思い出したいのは、いつもの笑顔だ。
――「……君が好きだ」
そう言ってくれたクレア。
嬉しかった。あんな風に、あそこまで際限なく喜びが溢れ出した経験など生まれて初めてだった。
――……クレアさん……
会いたい。そして、大丈夫だよと笑って欲しい。
その瞬間が、一刻も早く来ればいい。
******
カーテン越しに、外が白み始めたのを知る。
憔悴しきった顔でもう見るのも嫌になったデジタル時計を確認する。
時刻は、朝の5時を回ったところだった。
――……寒い……
ソファの上で横になりながら、抱いていたクッションに力を込め、そこに顔を埋めた。
テレビでは朝のニュースが始まり、しかしどの局を確認しても、昨夜七尾学園で起きた
爆発については触れていなかった。
一睡もしていないくせに、昨晩のことは夢だったんじゃないだろうか。そんな風に感じてしまう。今学園に帰れば、
そこは何事もなく朝の静けさに包まれていて、新校舎の5階へ向かえば、いつもの面々が万莉亜を迎えてくれる。
実際そんな妄想に取り憑かれ、2度ほど玄関を出た。
しかしどうしても瑛士の言葉が気になって、結局は部屋に舞い戻ってしまう。
何が夢で何が現実だったのか、朦朧とした頭で考えても迷宮に陥るばかりだ。
「……よし」
力ない声で呟くと、重たい体を起こしてキッチンへ向かう。
それから冷凍食品の中からグラタンを取り出し、それを備え付けのレンジの中に放り込んだ。
お腹が空いていたわけではないけれど、いい加減何か食べないといけない時間だ。
それに、朝になったのだから、きっとそのうちみんながやってくる。元気に迎えるためにもへたり込んでいる場合じゃない。
温まったグラタンをリビングのガラステーブルに運び、ただ黙々と口に運ぶ。
熱いのかそうでないのか、美味しいのかそうでないのか、全く分からないうちに食べ終えると、それを片付けて
万莉亜はまた膝を抱えたままテレビと向き合った。
ニュースが、スポーツから芸能に変わり、それから社会、政治を経てまたスポーツへ戻る。
ただぼうっと繰り返される同じ内容を耳に通すだけ。今度はデジタル時計を気にしたりもしない。
画面上に映し出される時刻表示にどうしたって意識が集中してしまうからだ。
時刻は10時30分。
大体ニュースが終わり、各局各々の番組が開始される。
とうとう、七尾学園のことが報道されることはなかった。
――夢……だったのかな……
本格的に朦朧とし始めた頭で、そう考える。
――だったら……クレアさんが好きだって言ってくれたのも……夢だったのかな……
ソファの上で、万莉亜が静かに目を閉じた。
******
あまりの寒気と頭痛に耐え切れず目が覚める。
はっとして上半身を起こすと、うんざるするほどに見飽きた光景で、万莉亜はそのままため息をついた。
それから、もうとっくに日は昇っているはずなのに、妙に薄暗いカーテンの向こうを不思議に思ってデジタル時計を確認する。
時刻は、夕方の5時30分を回ったところだった。
万莉亜はしばらくその時計を見つめ続け、それから辺りを一周ぐるりと見回し、やはり誰もいないと知ると、
そのまま抱いていたクッションに顔を埋め、声を殺して泣いた。
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