ヴァイオレット奇譚2 Chapter0◆「まごころのすべて―【1】」 「なかなか、難しいものなんだよ」 そう言って、どこか疲れた印象を感じさせる中年の牧師が呟いた。 「例えばその昔、キリストの聖職者たちがロキやオーディン、トールなんかを悪魔だと 触れて回った。北欧の神々を、邪悪なものだとそこいらじゅうの民に言って聞かせたんだ。 それでも、ほとんどの人は耳を貸さなかった。キリストの教えがどんなに素晴らしくとも、それはそれ、 これはこれってな具合に皆その訴えを無視した。結局、その説は浸透しなかった。古くから根付く信仰は、 彼らが思っているよりもずっと深く、それこそ、骨の髄まで染み込んでいたんだ」 そんな風にして語る牧師を、隣で少年が見上げる。 困惑顔の少年に気付いた牧師は、くぼんだ目元を優しく細めて、その柔らかい金髪をそっと撫でてやった。 焦って理解する必要はないと、優しい手のひらが伝える。 「簡単なことだよ。それを信じない自分は、もう自分ではなくなってしまうんだ。 他人から見ればくだらない信念でも、ある人には譲れないアイデンティティになる。人間はとても弱い」 「……」 「だから、一度心を向けてしまったものへの断罪は、それは同時に、自己の崩壊でもある」 「……」 「それが許されなくとも、付け焼刃の理性が何かを訴えても、そうしない自分は、 もう自分ではなくなってしまう。心の訴えには、何人たりとも逆らえない」 心とは、なかなかに難しいものなんだよ。 そう呟いた司祭を見上げて、少年はやっぱり首を傾げた。今彼が語ってくれた内容が、 自分の質問の答えに適さないと思ったからだ。 教えて欲しかったのは、自分が摘んできた花の名前。それだけだったのに。 何か、聞き方を間違えたのかもしれない。 「さぁ。もう日が暮れる。帰りなさい」 そう言って牧師が少年の背中を押した。少年は小さくうなずいて、 やってきて方向へ走り出す。夕日に照らされ遠くなっていくその影を、目を細めながら牧師は見送った。 ****** ――17世紀。スウェーデン・バルト帝国。 デンマークを退け、ポーランドのリガ、さらにはロシアのカレリア、イングリアを手中に収め、 そして最後の宗教戦争と呼ばれた三十年戦争に参戦し、ドイツに領土を得る。 蛆虫のように地面をはいずって領土の膨張を続けるその様を見て、誰もが獅子の如き国王を英雄として称えた。 スウェーデン大国時代と呼ばれる、王国の絶頂期。 「お帰りなさい」 帰ってきた少年を、病弱でほぼ寝たきりの母が笑顔で迎えた。 「牧師様にお花は渡せたの?」 「うん」 頷きながら、受け取った銅貨数枚を母親に渡す。あの牧師に貰ったものだ。 彼は、少年が摘んできた花と引き換えにお金を支払う。 その花は、この小さな町の端にある森にしか生息していないと聞く。 多種多様な獣がうろついているため猟師でもなければ中々立ち入りたがらない、物騒な場所だ。 「ご苦労様」 銅貨を握り締めて、母親が微笑んだ。 それを見た少年の青い瞳も、喜びと誇らしさの色を放つ。 おかしな話ではあるが、国が膨張を続けるにつれ生活は厳しくなり、人々は殺伐とし、 町は生気をなくしていく。知り合いも、友達も、たくさん死んだ。 鼻息を荒くして、先頭を走っているのは誰だろう。 この国と、隣の国を分かつその線の位置が、もたらす結果とは何だろう。 父が先の戦争で亡くなったときは、さすがの少年もそんなことを考えた。考えて考えて考え抜いた末、分かったことは 自分がとんでもない無知だったということだけだった。 普段からぼんやりしているとよく注意されるが、ぼんやりとしている自分はそんな大人の小言をずっと聞き流して 生きてきたから、気にした試しもなかった。でも真理を見極めるためには、もっともっと考えなくてはならない。たくさん勉強して、 頭のいい人間になる必要がある。 花の名前を知ろうとしたのは、その第一歩のつもりだった。 別段興味もないだなんて、いつまでもそんなことを言っているから自分は無知なのだ。 これからはもっと、世界のあらゆることを知っていかなければならない。 父が亡くなった今、病弱の母と幼い妹二人を、どうにかして自分が守らなくてはならないから、 もうのほほんと、全てを受け流して生きていくわけにはいかない。 薄いパンと硬い肉を水で流し込み、ベッドに向かうと、 小さな妹たちがすやすやと穏やかな寝息を立てている姿が目に入り、触れようと腕を伸ばす。 その時、衣服に紛れ込んでいた花びらが袖からはらりと落ちて一番下の妹の頬をくすぐった。 起こさないように、慎重にすくい取ってそれをまじまじと眺める。 薄い桃色の、可愛らしいけれど、とても貧相な花。この花に、金を出してまで欲しいと 願う大人がいるのだ。とても信じがたい。 ――なんていう名前なんだろう…… その辺の雑草と何ら変わらないこの花の価値を理解できるような大人になれるだろうか。 いや、ならなくてはならない。そしていつかは正しいことを知りたい。強い人になりたい。 父がいなくても、不安なことなど何もないのだと、家族に胸を張って言えるような男になりたい。 貧相な花の、貧相な花びらを眺めて少年が小さな胸に決意の灯をしたためる。 ――明日こそは、名前を聞こう そして、どんな価値があるのかも聞いてみたい。 今の自分に理解できるかは分からないけれど、あの優しい牧師様なら、きっと教えてくれる。 だから明日は、質問の仕方を間違えないようにしよう。 この花の魅力は何ですかと、明日こそは必ず。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |